住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その1)

ファイル 1090-1.jpg(大阪狭山市〔狭山池〕)
 大阪狭山市に〔狭山池(さやまいけ)〕という、古くは『日本書紀』や『古事記』に登場する日本最古のダム式の美しい『ため池』がある。
 ちなみにこの池は、僕のお寺から車で約15分ほどの所にあり、運動不足の僕はよく妻から「運動不足やねんから、狭山池の周りを歩いてらっしゃい!」と言われ、天気の良い日はよくウォーキングに通った。・・いや、現在も通っている。
 そう、現在「狭山池」の回りは(程よい)ウォーキングコースになっているのだ。 
ファイル 1090-2.jpg(大阪府立狭山池博物館)
 そして、「なんで(妻から)そんなに偉そうに言われなあかんねんな・・ブツブツ」と、つぶやきながら歩いていた僕は、いつのまにか、この池周辺の風景の美しさがすっかり気に入ってしまい、今では好んで歩くようになっている。
 さて、歩きながら僕は、この池の北側に建つ『大阪府立狭山池博物館』という近代的建物に(入館料無料というのもあって・・)よく立ち寄るようになっていった。 
ファイル 1090-3.jpg(展示されている石棺)
 そしてその度、いろんな展示物を見て回るようになったのだが、一つとても気になっている展示物があった。
 それはいびつな形の『石棺』であった。
 これはレプリカではなく、すべて本物と展示されているのだが、『なぜ?石の棺おけが、改造されたかのような形になって、この博物館で展示されているのだろう?』と、日に日に気になって気になってしかたがなくなっていった。 
ファイル 1090-4.jpg(博物館内の『重源』像)
 それで真剣に、そのなぞを調べようと思い、そのなぞを解く鍵は、館内にあるこの(写真)の『重源(ちょうげん)』という(頑固一徹のような顔の)お坊さんにあると解った。
 そして調べていく内に、『なんと、おもろい発想力を持つ坊さんなんだろう!』と感動してしまい、いつしかこの『お坊さん』と『狭山池の石棺』の事を紙芝居にしたいと思うようになり、こつこつとここ何年か、資料を集めるようになっていった。
 又、狭山池博物館のガイドボランティアさんたちのご協力も得て、解りにくかった部分もなんとか(自分なりに)納得でき、絵に描けるようになり、先日この『紙芝居』が完成した。
 
 随分と前置きが長くなってしまったが、それではその出来上がった『紙芝居』を(何回かに分けて掲載しますので)宜しかったらご覧になって下さい。
 それでは『狭山池の底の石棺 ~アイデア和尚重源さまの究極のリサイクル~』のはじまり、はじまり~・・
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 皆さんは、『重源(ちょうげん)』という名のお坊さんを知っていますか?
 この坊さんは、平安末期から鎌倉時代に掛けて、活躍されたスゴイお坊さんなのです。
 たとえば当時、戦乱によって焼け崩れた『奈良の東大寺・大仏さま』を修復したり、新しい道を作ったり、橋を架けたり、港を直したりして、世の為、人の為に働かれたお方なのです。
 しかも、そのほとんどが、60才を過ぎた頃から行われたというのですから驚きです。(シニアの鑑やね)
 いわば、鎌倉時代の『復興事業請負人』と言っても、過言ではないでしょう。
 この超人的和尚『重源』様、82才の時、又一つ大きな仕事が舞い込んで来ようとしておりました。 つづく

東大阪市:『清證寺』さまの〔永代経法要〕への出前

ファイル 1089-1.jpg(清證寺さま山門)
 昨日の〔昼〕と〔夜〕の法座、そして今日の〔昼〕の法座と、二日間に渡って(計三回)、東大阪市吉田(今米町)にある『浄土真宗(西)清證寺』さまの〔永代経&戦没者追悼法要〕にお招き頂き、「紙芝居法話」をさせて頂いて来た。
ファイル 1089-2.jpg(中甚兵衛屋敷跡)
 さて、こちらのお寺の周辺には、先日完成した紙芝居『中甚兵衛ものがたり』の舞台地である、中甚兵衛所縁の(生家跡や記念碑が)すぐ近くに建っている。
ファイル 1089-3.jpg(近くにある中甚兵衛記念碑)
 そして、お寺の近くに、甚兵衛さんの御子孫になるお家『川中家』がある。

 その僕の紙芝居が完成した事を(御住職からお聞きになった)『川中』様もお寺にお参り下さり、(緊張感ある)そして賑やかな法座となった。(元々、『川中』様はこちらのお寺の檀家さんなのです)
 そして、地元の青年団や『川中』家の皆様、そして総代・婦人会の檀家様の前で、『中甚兵衛ものがたり』を観て頂いた。(緊張したわぁ・・。だってここの地元の偉人の話やもん)
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 でも、若者達も「自分たちの家の近くに、昔こんな偉い人が居たなんて知らんかったっす、スゴイっす」と、素直に感動してくれて、僕も嬉しかったっす。
 そして紙芝居が終ってから、『川中』家の皆さんも、「たいへん良かったです。是非今度は、うちの家でのイベントで、紙芝居をお願いします」と頼まれ、嬉しくそしてホッとした次第です。
 『清證寺』の皆さま、たいへんお世話になり有難うございました。合掌

 追伸:清證寺のご住職様、『金子みすず』さんの貴重な写真集をお貸しくださり有難うございます。『みすず』さんの紙芝居が無事完成したら、お返しに上がります。

「大阪府立狭山池博物館」からのお客様

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 昨日、隣々町にある「大阪府立狭山池博物館」から、(学芸員、事務局職員の方やボランティアさん達)総勢八名のお客さまたちが、お寺に来られた。
 目的は、先日完成した『狭山池の底の石棺』という紙芝居を観てくださることにあった。
 僕は、この『紙芝居』をほとんど想像の世界を膨らませて描いたものなので、実際の『博物館』でお仕事をされてる皆さんに観ていただくのは、とても恥ずかしい事であった。
 まぁ、しかし、「見るだけ観て頂き、おかしな箇所は(なんぼでも)修正してもらったらエエわ」と開き直って、演じさせて頂いた。
 そして観て戴いた後、いろんなご指摘やご意見・感想などをお聞きすることができ、僕もたいへん勉強になった。
 ほんま有難うございました。
 さて、この「紙芝居」、その内コピーされ(修正され)て、いつか『博物館』来館者の皆さんにお披露目することになるのであろうが、それは又、別のお話。
 その時を楽しみにしております。・・ああ、それと『狭山池博物館飴ちゃん岡持ち』の製作も楽しみにしてまっせ。 合掌

元勝寺さまの〔永代経法要〕へ出前

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 昨日、羽曳野市にある『元勝寺』様の〔永代経法要〕へ、「紙芝居法話」に行かせて頂いた。
 こちらは、昨年の秋の「報恩講法要」に引き続き、二回目の出講となる。
 こちらの住職がおっしゃるに、前回、紙芝居を観て下さったご門徒さまからの(再びの)リクエストで、また又、お招きいただくことになったらしい。(どちらの御方か存じませんが、有難うございました!)
 さて今回は「永代経法要」という事なので、《命》と《慈愛》について、お昼、そして夜の法座で、お話させて頂いた。
 御聴聞いただきましたご門徒様、度々のご法縁を有難うございました。
 又偶然、雑談の中で、こちらの坊守さまが、僕の母親の(名古屋の)母校と同じ卒業生であるという事が解り、ご縁の不思議さに、改めて驚いた次第でございます。
 遠く離れていても、どこかで何かがつながっているのですね。合掌

紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その7:最終回)

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 このような大きな仕事を成し得た、中甚兵衛ですが、新大和川完成の次の年、67才で、突然、大阪は浄土真宗本願寺派『北御堂』(どうでもよい余談ですが、僕が今月の「花まつり」に紙芝居をしたお寺です。・・仮面ライダーも一緒でしたちなみに、昨年はアンパンマンも一緒でした。・・書かなかったら良かったか?)で、剃髪してしまいます。
 そして〔庄屋〕の仕事はすべて息子に任せ、自分が亡くなる92才まで自宅に引き籠ってしまいます。
 おそらくそれは「自分のするべき仕事はすべて終った。」と思ったからかもしれません。
 ・・が、あるいは、今も〔肖像画〕に残る頭にある傷跡に、その秘密があるのか?・・それは誰も解りません。(けっこう(新川筋の人たちに)怨まれてたような感じもするからなぁ・・)
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 さて、新大和川の生みの親、中甚兵衛が亡くなって約300年。
 今も、南大阪を東西に横切り、流れ続ける(全長68キロメートルの)大河〔大和川〕。
 その川を、『中甚兵衛』像が、柏原市役所前の公園から、今もじっと見つめ続けています。 
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おしまい

参考文献: 中九兵衛氏著『甚兵衛と大和川 北から西へ改流・300年』、『ジュニア版 甚兵衛と大和川』、他

紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その6)

・・そろそろ、この『紙芝居』も終りに近づいている。
 ここで少し、余談を述べたい。
 大阪の人間に「大和川って知ってる?」と聞くと、たいていの人は「ああっ知ってるよ。あの汚くて有名な川やろ」と答える。
 しかし、甚兵衛達が作ったときは、周りが田畑でたいへんキレイな川だったそうだ。
 これはそんな昔の話ではないようだ。なぜなら、うちの檀家のあるお爺ちゃんに聞くと「昔、あの川で泳いでいたよ。魚も一杯おったしなぁ」と答えてくれたからだ。
 これは、下水道を作らずに川の近くにたくさんの人が住むようになった為、生活排水がそのまま流れ込み、急激に汚れたからなのだそうだ。
ファイル 1085-2.jpg(現在の大和川)
 ・・残念な話ではあるが、しかし、現在「大和川クリーンキャンペーン」が市民の間で盛んに行われ、大和川はキレイに成ってきている。最近、魚が増えたとの新聞記事も目にした。
 せっかく、甚兵衛たちが苦労して作った川なので、我々は、川を汚さず、未来に向けて大切に守ってゆきたい。・・でないと、先人たちに申し訳ない。
ファイル 1085-3.jpg(大和川:浅香山(堺港近く)付近)
 もう一つ、余談。
 先日、知り合いの方からこのようなお話を伺った。
 「私がある堺地区の(大和川の新川筋になった場所)昔から住む方に、『中甚兵衛さんって知ってる?』と聞くと、その人は『あんな悪い奴はおらんで』と答えられました。」と、そのお方から聞いた。
・・甚兵衛さん達が行った『大和川の付け替え』で、先祖代々住む土地から立ち退かざるを得なくなり、大変迷惑を被った人たちの御子孫が、現在も居られる事を、我々は忘れてはいけないと思う。・・が、立ち退きに合った人は、その同じ分だけの別の土地を、幕府からもらったそうなのだが。新天地でゼロから暮らした人の苦労は計り知れないものがあったのだろう。
 以上、余談おわり。
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 七ヶ月半に渡る『大和川』付け替え工事は無事に終り、新しい大和川はついに完成しました。
 そう、大和川は生まれ変わったのです。
 これによって、河内平野の様子は大きく変わりました。
 元の川筋の人達は、もう洪水の恐怖から解放され、お米や作物を安定して収穫できるようになったのです。
 又、新しい川のお蔭で、潰された古い川の上は平地となり、『新田』が開発され、そこで、綿の木などが栽培され、これがのちに『河内木綿(かわちもめん)』へと発展し、大阪経済発展の基礎を作ってゆくことになるのです。
 つづく(次回、最終回)

紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その5)

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 中甚兵衛は、突然、奉行所から呼び出されました。
 なんと、そこには、時の堤奉行(一度聞いたら忘れられない名前)『万年長十郎(まんねんちょうじゅうろう)』が、甚兵衛を真剣な面持ちで、待って居たのでした。
 (万年さん)「甚兵衛よ、ようやくお上は、河内平野の洪水被害を無くす方法はただ一つ、『大和川の付け替え』しかないという事に気がつかれたまんねん。
・・甚兵衛、お前の考えた案は正しかったのだ!今度こそ、幕府はどんな地元の反対意見が起こっても、断固として、大和川の付け替えを行うでおまんねん。
 ・・さて、甚兵衛。お前ほど大和川の付け替え策に詳しい者は居ない。これからワシと一緒に付け替え工事の陣頭指揮を一緒にしてくれないかまんねん?」と、言われました。
 それは、あまりに寝耳に水の話だったので、甚兵衛はその場で、感激の余り、泣き崩れてしまったのでおまんねん。
 (甚兵衛)『ああっ、これで長年の苦労が報われる・・』と、甚兵衛は心の中でつぶやきましたでおまんねん。(もうエエか。)
 甚兵衛が、初めて江戸に訴え出たのが、19才の時。
 そして今が、65才。幕府に認められるまで46年間も掛かったのでした。(ほぼ半世紀やおまんねん・・まだ言うか)
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 時に元禄17年〔西暦1704年〕、(余談ながら、我寺『観念寺』が出来たのは、元禄16年と伝わっておます。ちなみに赤穂浪士の討ち入りは元禄15年でっせ。)大和川の付け替え工事はついに始まりました。
 幕府の命令により、幕府が直接受け持つ工事区域の他、姫路藩、岸和田藩、三田藩、明石藩が選ばれ、工事を受け持つことになりました。
 これらの藩は、お互いが意識し合い、その工事スピードを競った為、その結果、付け替え工事はなんと〔七ヶ月半〕で完成したのでした。(早っ!)
 この時、甚兵衛は大きくなった息子(遅くに出来た子供(男の子)だったらしい)を従えて、工事現場を検分しながら指揮して回ったという事です。(万感の思いやったやろなぁ・・)
 結果として、この工事はのぺ245万人を動員し、およそ71500両(今でいうと、およそ143億円)が費やされました。
 つづく
 

紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その4)

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 やがて、中甚兵衛が初めて江戸に訴え出てから、40年を越す年月が流れようとしていました。
 今や、甚兵衛は65才です。
 かつての仲間も、極わずかになっておりました。
 ・・がしかし、甚兵衛は、まだ諦めてはおりませんでした。(・・僕は思う。ある意味、お百姓さん達からの訴えを聞くことが『庄屋』の仕事だったので、甚兵衛は『川の付け替え願い』から、逃げられんかったんやろなぁ・・と。)

 (甚兵衛)「・・毎年続く、洪水被害。これやったら、米も作物も何も収穫でけへん。川の付け替え工事が、結局出来へんねんやったら、何か他の方法(改善策)を考えなあかんなぁ。」と、甚兵衛はずっと思案していたのです。
 そんな或る日、突然、甚兵衛は奉行所から呼び出されたのでした。 ・・どうなる甚兵衛、運命やいかに! つづく

紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その3)

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やがて甚兵衛は、頼りにしていた父親が亡くなり、若干19才ながら、村の代表の一人となり、江戸の勘定奉行所にお願い(嘆願)へと向かったのでした。
 しかしながら・・、
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 一度や二度のお願いぐらいでは、幕府は簡単に意見を聞いてくれません。(これは、今も一緒やなぁ・・)
 そこで甚兵衛は、江戸に留まり、何かしらの仕事をしながら(・・これが何の仕事(バイト)やったのかは、調べても解りましぇんでした)、訴えを続けることにしました。(想像やけど、お金もあったんやろなぁ。)
 やがて三年目に、幕府はようやく、第一回目の大阪『水害調査』&『川の付け替え調査』を行ってくれました。
 ・・が、しかし、調査をされた(新・川筋予定の)土地の住民から猛反対を受け、この計画はすぐに中止になってしまいました。 
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 その後、何度もこの『川の付け替え調査』は行われました。
 が、しかし(こればっかり)、その度に反対運動に遭い、調査は中止。
 こうして甚兵衛は、いつしか35才になっておりました。
 そこで一度、大阪の今米村に帰り、庄屋の仕事に戻り、結婚もして家庭を持ち、地元の仲間たちと一緒に、この訴え運動を続けることにしたのでした。
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 が、そうしている内に、またもや何十年に一度の大洪水が大阪を襲いました。
 世に云う『寅年大洪水』です。
 この時、大和川や池の回りの堤防が皆崩れ、誰もが経験した事の無いような、大阪の町中が水浸しになるという、大被害を出したのでした。
 この事態を重く見た幕府は、四度目の『川の付け替え調査』を行います。
 が、やはりこの時も、強い反対運動が起こり、計画は中止になったのでした。
 その後、幕府は、何度も小さな川の改修工事を行うのですが、すべて根本的な解決策にはなりませんでした。

(余談ながら、僕の実家は大阪の城東区中浜という所にあった。・・いや今もある。子供の頃、家の近くの『どぶ川』が大雨の時、何度も氾濫して、僕の家の中まで流れ込んできたことがあった。その恐ろしい記憶は、今もはっきりと覚えている。・・だから洪水被害と聞くと、今でも身体がビクッと反応するのです。・・その後、この川は埋められ、今では自動車道路になっているが、少し、甚兵衛たちの気持ちが解るような気がするのです。)つづく

紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その2)

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中甚兵衛が子供の頃、大阪に大雨が降り続き、近くの川が氾濫し大きな洪水被害を出しました。
 お百姓さんたちは、「これやったら、何べん田んぼで作物こしらえても、大雨が降ったら、又あかんようになってまう・・」と嘆き、そこで、みんなの代表である〔庄屋〕さんへ相談に行く事にしたのでした。
 さて、それではここで、当時(江戸時代初期)の『大和川』の流れの地図を見てもらいまひょか。(あかん、ナレーションも大阪弁になっている〔笑い〕)
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 当時の大和川は、奈良から南大阪(現在の柏原市)に出て、(南から来る)石川と合流し、そこから北西に向かって、何本も流れを増やし、河内平野(現在の大阪市内)を通過し、大阪湾へと流れ出ていました。
 その余りの川の多さゆえ、大雨が降ると、たちまち川が氾濫してしまうのでした。
 その洪水被害を無くす根本的解決法は唯一つ。
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 ・・それは『大和川』の流れを変えてしまうことだったのです。
 そう、柏原の合流地点から〔北西〕への流れを止め、その流れを〔真西〕へと変えてしまうことでした。
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 庄屋A「・・そやなぁ、やっぱし、この川の流れを変えるしかないなぁ・・。」
 庄屋B「しかしやで、川の流れを変えてしまうなんて、そんな事、ほんまに出来るんかいな。」
 庄屋C「それは、どえらいこっちゃで、しかし・・。そんな大仕事は、やっぱし、キイ坊(西川きよしの事。説明入らんかったでしかし。)・・いやいや、幕府の偉いさんに頼まな出来んで、しかし。」
 と、お百姓さんから相談を受けた村々の〔庄屋〕さんたちは、何度も集まり相談したんやで、しかし。
 そして、(庄屋全員)「よっしゃ、それやったら、いっぺん皆の代表を決めて、江戸の幕府のお役人様まで、頼みに行ってみよやないかいっ!」ということに決まったのでした。 つづく

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