
母を亡くし、一人ぼっちとなった円空さんは、やがて近くのお寺に預けられることになりました。
そして、小坊主として修行に励むことになったのです。
しかし、いつしか円空さんは、別れた母を思い出し、木切れを拾って来て、仏さまを彫り始めたのでした。
やがて、大人になった円空さんは、お寺を出て旅に出ます。
美濃の国を離れ、関東、信越、東北を経て、北海道まで渡ります。
そして、その土地土地で、仏像を彫り、お寺や神社、又は仏さまを求める人々に、どんどん寄進してゆきます。
又、宿賃の変わりに仏像を彫って手渡したことも、多々あったそうです。
・・おそらく、仏像彫刻は、初めは母の供養の為であったのでしょう。
しかし、いつしか円空さんの仏像製作は、貧しく、悩み苦しむ人々の為の〔心の安らぎ〕を目的としたものへと、変わっていったのでした。 つづく
[管理用]
記事一覧
※画像をクリックすると拡大されます。
紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その2)
紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その1)
(・・まじめに、いや、はじめに)
僕は、『円空(えんくう)』上人が好きだ。
円空さまは、自由に生きた。
旅に生きて、一夜の宿を願って、その時にお金が無ければ、木で仏さまを彫って、宿賃の代わりにしたらしい。(そのような仏様が、全国各地のお寺・神社、そして普通の民家に、今もたくさん残っている。
円空さまは、生涯12万体の仏を彫ったらしい。
もう一度いう。12万体だ。
「僕も真似たい!」、もちろん、仏さまを彫るのではなく、紙芝居を作って真似たい。
そして、お招き下さる所へ自由に行き、紙芝居を演じたい。
円空さまのような、12万作は、とても無理だが、願わくば、煩悩の倍数「216作」は作りたい。一作が平均12枚程度なので、全部で2592枚になる。
現在、130本。・・お浄土に還るまで、はたして出来るだろうか? そんなことは、解らん。
が、一作一作、紙芝居を作るたびに、このお話の主人公『円空』さまを意識している。
つまり、円空さまは、僕の目標であり、夢であり、師匠なのである。
それでは、紙芝居のはじまり、はじまり。 
皆さんは、『円空』という名前のお坊さんをご存知ですか?
円空さんは、江戸時代中頃のお坊さんです。
この方は、美濃の国(今の岐阜県)に生まれ、大人になってからは、日本中を旅して廻り、その旅の途中、12万体の仏像を彫られました。
それでは、なぜ?円空さんが、仏像を彫ろうとされたのか?
その旅の途中のエピソードを交えて、お話したいと思います。
幼い頃から、円空さんはお母さんとずっと二人ぐらしでした。父親の名は伝わっていません。(きっと何か訳があったのでしょう。ダースベーダーと一緒やな・・。いや、今の日本にも同じような・・、それはさておき)
円空さん、六才の時、生まれ故郷で、長雨の為に大洪水が起りました。
そして、円空さん親子は、濁流に巻き込まれてしまったのです。
しかし、母は、溺れる息子の円空さんを、何とか助け出し、自分は水の底に消えていったのでした。 つづく
本願寺新報への投稿、ありがとうございました!
七月一日号の『本願寺新報』に、先日行かせて頂いた、三重県津市「西光寺」の門徒推進委員の阿曽行三さまが、出前法話の様子を投稿してくださいました。
小題は、「ノリノリで楽しみました♪」(笑)です。
それでは、中身を書かせて頂きたいと思います。
『西光寺で第13回「こどものつどい」を催しました。
毎年、春の永代経法要で門徒推進委員、仏教婦人会が協力してキッズサンガわ開いています。
今年は「お寺の出前」で有名な大阪府川南町(=これは間違い、河南町です)観念寺の宮本直樹住職を招き、紙芝居法話をしていただきました。
大きな絵にいろいろな細工がある楽しい紙芝居で「三尺三寸のお箸」「共命鳥の話」「くもの糸」を聞かせていただきました。
子供たちもおお喜び。
「仕合わせ体操(=これは、幸せ体操です)」も教わり、みんなノリノリで楽しみました。 (三重県津市 西光寺門徒推進委員・阿曽行三)』以上。
阿曽さん、そしてご住職さん、西光寺のご門徒のみなさん、ありがとうございました。 宮本はノリノリで喜んでおります。合掌
京都教区下西組仏教婦人会、来院

本日、「(株)平安観光」さんの団体バスで、京都教区下西組『仏教婦人会』の皆さんが、総勢54人で、お参り下さった。(お寺が満員御礼でした!)
お天気が心配されたのだが、なんとか持ちこたえてくれて、本当に良かった。(今日のコースは、南河内一帯を回るコースなので、(印象が悪くなるのではないかと)たいへん気になっていたのです。・・添乗員のK野さん、なんか(うちの寺の)初めてのプレゼンみたいでしたですね。)
そして本日は、うちのお寺をメインにして、研修して下さるというので、(大サービスで?、四本の紙芝居を観てもらいました。・・お腹一杯になったんとちゃうやろか??)
でも、お帰り際に、皆さんそれぞれに、いろんな楽しい感想をお話して下さり、僕自身、とても嬉しく、かつ楽しかったです。
・・それと最後に、今日お話しなかったのか?皆さんの大きな疑問、そして話題になっていた事を、この場をお借りして、(そんな大層なもんと違うのですが、)言わせて頂きたいと思います。
・・僕、(頼りなくて、若く見られるのですが)年齢53才です。どうでしょう。・・納得していただけましたでしょうか?!合掌
ちなみに、こちらは『平安観光 かわら版』のHPです。
http://heiankanko.co.jp/
デイサービス「弥生(やよい)」への半年振りの出前
(デイサービス弥生)
昨日、半年振りに、富田林市にある「デイサービス弥生(やよい)」へ、紙芝居法話に行かせてもらって来た。
前回、行かせて頂いた帰りに、今回の予約日をお受けしていたのだが、半年経つと、「さて、場所はどちらだったか?」と少し悩んだ。(施設のネーミングは、皆さんよく似ているのです。)
それで、前回の記録を確認しながら、場所や今回の紙芝居の演目なども決めた。
施設に入ったら、すぐに前回のことを思い出して、いつもの調子でお話することが出来て、(僕は)気持ち良かった。
そして今回は、質問コーナーに時間を費やして、前回よりは充実した時間を過ごせたような気がする。(やはり、行く回数が大事だな・・)
帰り際に、また又、次回(来年度)の予約を受け付け、機嫌良く帰って来たのであった。
カレンダーの標語
檀家さんへ年の初めにお渡ししている『標語カレンダー』。
今月(七月)の標語は「生きているって 廻りに 迷惑をかけているんだなぁ」であった。
昨日、お参りに行かせて頂いたお家で、この標語のことが話題に挙がった。
(奥さん)「院主さん、うちの主人が、今朝、この標語を見て、しみじみと言いますねん。・・わし、迷惑ばっかり掛けて生きてるよなぁ・・。あぁ気が滅入るわ」と。
そこの家のご主人は、持病を持っておられて、毎日病院へ通院しなければならない。それで奥さんや息子さん夫婦に、迷惑を掛けて申し訳ない、と言っておられるのだ。
(奥さん)「・・それで私、『今日、院主さんがお参りに来てくださるから、この標語の意味を聞いておくわ』って言いましてん。これ、どういう意味なんでしょうかねぇ?」
僕は、「おそらく、ご主人も心の奥では解っておられると思うのですが・・、」と前置きして、「この標語は、私たちみんなのことを言っているのだと思いますよ。元気な者も含めて、迷惑をかけずに生きていける者は誰一人いない。・・だからこそ、謙虚に感謝を忘れずに生きていきましょうねって、いう意味だと僕は思うのですが。」と言った。
奥さんは「やっぱり、そういう意味ですよね。そこに隠れて聞いている主人に、そう言うときますわ。はははっ」と云われた。
『わしは、この年まで誰にも迷惑を掛けずに生きてきた!』と、よく言われる人がいるが、少し視点を変えて物事を考えてみるだけで、『謙虚』や『感謝』の二文字が頭の中に甦ってくるような感じがする。
そんな事を改めて考えさせられた、昨日のお参りであった。
第3回 観念寺写経会
昨日、第3回 観念寺写経会を行いました。
全員で9名のご参加でした。
皆さん、熱心に約50分間の写経の時間を過されました。
シーンと静まった静寂なお寺の中。
張り詰めた時間の中で、仏さまの息吹き(呼吸)を感じたような錯覚に陥りました。
合掌
紙芝居:「妙好人 讃岐の庄松さん」(その7 最終回)

このような数々の逸話を残した庄松さんでしたが、明治四年の春、七十三歳で病の床についてしまいます。
病名は胃がんでした。
さて、これは庄松さんの臨終間際のエピソードです。
「あぁっ苦しい、あぁ苦しい」とばかり言う庄松さんを見て、一人の友人が見るに見かねて言いました。
(友人)「庄松、お前はこの場におよんで、一度も念仏を称えんのぉ?」と。
すると、庄松さんはぎょろりと目をむいて、「苦しゅうて、称えられるかっ!」と、答えたそうです。
又その後、家族の居ない庄松さんを心配して、
(友人)「庄松、心配すんな。お前が死んだら、皆でお墓を建ててやるからな。」と友人が言うと、
(庄松)「おらぁ、死んでも石の下にはおらんぞ!」と、言い切ったそうです。
確かに、庄松さんは、死んで石の下に居るような人ではありませんでした。
きっと、阿弥陀様に包まれて、間違いなくお浄土に還ったに違いありません。
明治四年三月四日、庄松さん往生。法名『釈 正真』。
おわり
(小砂(こざれ)の庄松さんの墓)
今も、庄松さんの自宅跡といわれている〔小砂〕の地に、庄松さんの立派なお墓が建っています。
(庄松さん自宅跡に建つ説教所)
では最後に、一曲。・・庄松の~お墓の前で~、泣かないでくださいー。ここに庄松はいません~、眠ってなんか居ません~・・・。合掌
紙芝居:「妙好人 讃岐の庄松さん」(その6)

又、或る日のこと。
庄松さんは、お寺の境内で、幼い子供たちの子守をしておりました。
その日は、本堂で庄松さんの大好きなお説教があったのですが、〔子守〕は、庄松さんの大事な仕事でしたので、聴聞することができず、悔しい思いをしておりました。
又、この日に限って、子供達はなかなか泣きやみませんでした。
ホトホト困った庄松さんは、そこで思い切って、「えいっ」と、逆立ちして足をバタバタしてあやしました。
すると、ようやく子供達は面白がって泣きやんだのです。
そこへ、お説教が終ったのか、本堂からどやどやと幾人かの大人たちが出て来て、庄松さんのその姿を見て、「あれれ、庄松、そりゃいったい何の真似じゃ。はっはっはっ」と笑いました。
それを聞いて、すかさず庄松さんは、「これは、お前達が地獄へ落ちてゆく姿の真似じゃ。よく覚えておけ!」と言い放ちました。
きっと、自分だけお参りできないのが悔しかったのでしょうが、「どんなにお寺参りをしても、信心一つが無けりゃ、皆地獄行きじゃ、用心せよ!」と、言いたかったのかもしれません。
又、ある時。
『庄松は信心が篤い』という噂を聞いて、一人の住職が尋ねて来ました。そして、
(住職)「庄松さんよ、お念仏申せば、阿弥陀様はどのような人も救ってくださるというが、あれはいったい、どういう事じゃろうのう?」と尋ねました。
すると突然、庄松さんは両手を広げて立ち上がり、「それはこういう事じゃ!」と、住職に掴みかかろうとしました。
びっくりした住職は、あまりに難しい質問をしたので、庄松はおかしくなったと思い、逃げ出しました。
しかし、庄松さんは、両手を広げてどこまでも追いかけて来ます。
住職は、いよいよ気味悪くなって、必死で家の中を逃げ回りました。
・・が、とうとう追い詰められ、「庄松に羽交い絞めにされる!もはやこれまでか!」と思った時、突然、庄松さんは、
(庄松)「これが、どこに逃げても、必ずもらさず救い取ってくださるという、阿弥陀様の救いじゃ!」と叫びました。
それを聞いて、ハッとした住職は、庄松に深ぶかと頭を下げたという事です。
つづく(次回、最終回)
紙芝居:「妙好人 讃岐の庄松さん」(その5)

又、このような逸話も残っています。
或る日、かっぷくの良い〔代官〕が、お供をつれて庄屋さんの所へ泊まりにやって来ました。
その日の晩、代官はお風呂に入りました。
(代官)「おーい、誰ぞ、わしの背中をこすれ」と、叫ぶと、
「へーい」と、この日の風呂焚きに来ていた庄松さんが、風呂場に入って来ました。
そして、代官の背中をこすり始めました。
・・・が、突然、その手を止めたかと思うと、何を思ったか、
(庄松)「お代官、盗み食いしてよう肥えとるのぉ!」と言って、背中をバシッ!と叩いて出て行ったのでした。
言われなき事を云われたお代官。おそらく、度肝を抜かれたのか、その場では何も言いませんでした。
しかし、風呂から上がった代官は、「おい庄屋!すぐに、先ほどわしの背中をこすった者を呼べ!」と言ったのでした。
さぁ、大変です。
庄屋さんは青くなって代官の所へ飛んでゆき、「おっおっお代官さま!どうかお許しください。あいつは、自分の名前も忘れてしまうような馬鹿なんです。どうか、お手討ちだけは、ご勘弁を!」と、平謝りです。
しかし代官は、「いや、ダメだ。すぐに呼んで来い!」と、命じられ、皆は「だめだ。・・これはお手討ちは免れまい。」と諦め、庄松さんを呼びに行きました。
やがて庄松さんは、ケロッとした顔で部屋の中に入って来ました。
(代官)「お前はなぜ、わしを盗人呼ばわりしたのか?!」と、問いただすと、
(庄松)「わしは、いくら働いても、いつも食うか食わずの生活をしとる。しかし、お代官様は、わし等が汗水働いて作った米をゴッソリ取り上げて食い、よう肥えてふんぞりかえっておられる。・・何か背中を見とったら、『わし等の恩を忘れんで欲しい』と思い、気がついたら叩いておった。すまんことしました。」と、胸を張って堂々と云いました。
それを聞いて、代官は「うーん、お前は正直者じゃな。許してやる」と言って、その場は丸く納まったという事です。 つづく


