この天文学者の二人も、善兵衛さんの望遠鏡を見て、その精巧さに大変驚きました。
この一人、高橋至時さんの関東での弟子の一人が[伊能忠敬]だったのです。
そして、天文学者の間重富さんは、望遠鏡に触れたその感動から、『岩橋善兵衛さま、是非、その望遠鏡を我々にも作ってもらえないでしょうか?よろしくお願いします。』と手紙を書いてお願いしました。
善兵衛さんは快諾しました。
それから、江戸で仕事を始めた間重富さんと高橋至時さんは、「正確な日本地図を作るには、善兵衛さんの精密な望遠鏡が役に立つに違いない。」と地図の測量に旅に出る事になった[伊能忠敬]さんに、その望遠鏡を手渡したのでした。
伊能忠敬さんは「これは素晴らしい望遠鏡だ!」と、大変喜んだそうです。
こうして善兵衛さんの望遠鏡は、忠敬さんに渡り、正確な日本地図作成の大きな手助けになったという事なのです。
おしまい
※多少、作者の創作(フェクション)が入ってます。すみません。
[管理用]
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紙芝居:『岩橋善兵衛と伊能忠敬の望遠鏡』(後編)
紙芝居:『岩橋善兵衛と伊能忠敬の望遠鏡』(前編)
※(はじめに) このミニ作品は、196作『星に願いを〜岩崎善兵衛ものがたり』の番外編にあたる。
これは、貝塚市の教育委員会の方が「岩橋善兵衛」さんを主人公にしたこの作品を小冊子にして、貝塚市の地元の子供達に配布したいと私のお寺に来られて頼まれたもので・・、
その時に、このお話に出てくる[伊能忠敬]公と善兵衛さんとの関係を、もうちょっと紙面でプラスしてもらえないかと頼まれ、作った[番外]作品なのである。(その時、チラッと言われたが、貝塚市長さんが千葉県『伊能忠敬記念館』へ挨拶の為に持って行きたいらしいので・・と言われた。話が大きくなって来たがこれは実現するかはわからない。)
さて、この小冊子の話はもうすぐ実現するだろうが、その前にこの『番外編』を、私のホームページに一足先に載せたいと思う。
それでは、はじまり、はじまり〜
岩橋善兵衛さんが、精魂込めて作った天体望遠鏡。
そしてその望遠鏡を持って、日本地図を完成させた伊能忠敬(いのうただたか)さん。
お互い住む場所は、関西の[善兵衛]さんと関東の[忠敬]さんで離れてはいます。
では、二人を結び付けたのは、いったい何だったのでしょう。
それでは、始めは善兵衛さんのお話からスタートしましょう。
善兵衛さんは、自分の天体望遠鏡が完成して、とても嬉しかったのでしょう。
それを持って、あちこちの有名の知識人のお屋敷を回って見せておりました。
その一人が[木村蒹葭堂(きむらけんかどう]という町学者でした。
蒹葭堂さんは驚きました。・・だって、この望遠鏡という筒の小さな穴から空を覗けば、まるで星々が手に取るように見えるのですから。
蒹葭堂さんは言いました。
「善兵衛さん、その望遠鏡を一つ私にも分けて下さい。」
そして、その望遠鏡を持った蒹葭堂さん。今度は星々に興味を持つ自分の親友たちにこの話をしました。
その親友というのが、[間 重富(はざましげとみ)]さんと、[高橋至時(たかはしよしとき)]さんでした。
彼等は当時、江戸幕府から任命され、[天文方]という改暦作業(使用している暦法を改める事)を、行う仕事をしておりました。
後編に続く
紙芝居:『知識の巨人 木村蒹葭堂』(その4最終回)
・・が、しかし蒹葭堂の人生に最大の試練がやって来ます。
蒹葭堂55才の時、酒屋の実務を任せていた手代(支配人)が、過失を犯して店を幕府によって、取り潰されてしまうのです。
そして、蒹葭堂も謹慎処分を言い渡されます。
そして、蒹葭堂一家は三重県の伊勢に引っ越します。
・・が三年後、58才で再び大阪に帰って来て、今度は文具屋を開き繁盛させました。
そして相変わらず途切れる事なく、来客は次から次へとやって来たそうです。
のち蒹葭堂は67才で病いにかかり亡くなります。
彼の集めたコレクター品は、その後幕府が預かることになり、のちこれらは日本の宝となっていきました。
もの静かで欲が無く、コレクター品も「貸してくれ」と頼まれたら、喜んで貸したという、生涯一商人趣味の人で通した蒹葭堂。
(大阪市天王寺区「大応寺」様)
日本の文化に大きな発展と功績を陰ながら残した蒹葭堂。
知識の巨人、木村蒹葭堂のお墓は現在、大阪市天王寺区の「大応寺」様に立っています。
そして彼の邸宅跡には、現在、巨大な図書館が建ち、知識の巨人の想いを彷彿させています。おしまい
紙芝居:『知識の巨人 木村蒹葭堂』(その3)
「知識の巨人」・「なにわの大コレクター」いや「日の本のコレクター」の噂を聞いて、各分野の著名人や学者、又教養ある大名まで、蒹葭堂の屋敷に訪ねてやって来ます。
「わからない事があれば、蒹葭堂の屋敷に行けば何でも解るぞ!彼は謙虚な欲の無い教養人だ。彼に聞け!又、珍しい物がたくさんあって面白いぞ!」と言って、日本中の評判となり、人が集まって来ました。
彼が書き残した日記には、述べ9万人の来客者の名前が記録されています。
それは今でいう[文化サロン]でした。
その客人の名前を少し上げて見ましょう。
医者の杉田玄白。作家の上田秋成。絵師の池大雅、伊藤若冲。学者の頼山陽、本居宣長・・、当時、超一流の文化人ばかりです。
「日の本を代表する文化人たちが、一町人の家に毎日やって来る!こんな嬉しい事があろうか!」と彼は充実した毎日を送った事でしょう。
そんな蒹葭堂の気持ちを歌にしましょう。
『ああ、嬉しいなぁ。一曲歌いたくなってきたぞ!
「♪知識人になったら、趣味人生になったら、友達100人出来るかな♪100人で呑みたいな〜、煎茶に売り物日本酒も、ごっくん、ごっくん、ごっくんと〜♪」』
そう、この当時で蒹葭堂のようにジャンルを問わず友達の多かった人はいないでしょう。
「さぁ、皆で叫ぼう!『友達できたー!』と。つづく
(大阪市天王寺区「大応寺」様)
(「木村蒹葭堂墓」※墓石が崩れやすいのか?プラスチックカバーがしてありました)
紙芝居:『知識の巨人 木村蒹葭堂』(その2)
木村蒹葭堂は身体が弱かったので、[薬草学]という、クスリの知識や医学の知識も身に付けていきました。
そこから、オランダ語や朝鮮語なども興味を持ち、外国語の読み書きもできるようになりました。
正に彼は天才でした。
・・が、あくまでもそれは、仕事で活かすものではなく、趣味の範囲でした。
その後、彼の父が亡くなり、15才で造り酒屋の後継ぎとなります。
造り酒屋の店主となった蒹葭堂。
彼はお店で使う豊富な水を得る為に、家の庭のあちこちを掘って井戸の水源を探します。
そしてある日、井戸の穴の中から、一本の萎びた葦(水草)を発見するのです。
「おお、これは古書物に載っていた[難波の葦(蒹葭)]だ!うちの庭からこれが出るとは何という幸運!よし、これからうちの庭を[蒹葭堂]と名付けよう!」と興奮して叫びました。
こののち、このエピソードから彼自身も通称『蒹葭堂(けんかどう』と呼ばれるようになるのでした。
が、やはり商売は苦手だと悟った蒹葭堂。
お店の経営は、手代(主人から委任された使用人)に任せて、自分は興味のある事に没頭していきます。
いわゆる町人学者で、あらゆる興味のあるものを買い求め集め始めるのです。
古書物、茶道具、骨董品、いろんな分野の研究雑誌、絵画から動植物の標本まで・・、まるで自分の家が博物館と図書館になったようでした。 つづく
(蒹葭堂宅跡に建つ中央図書館。こちらで蒹葭堂の古雑誌を見せて貰いました。)
紙芝居:『知識の巨人 木村蒹葭堂(けんか)堂』(その1)
面長な顔、大きな鼻、温厚そうな眉、・・・これが今も残っている[木村蒹葭堂(きむらけんかどう)]の似顔絵です。
蒹葭堂の[蒹葭(けんか)]とは、西洋のパスカルの言葉、『人間とは考える葦(あし)である。』の植物の葦のこと。(決して暴れん坊の喧嘩好きの意味ではありません)
これは、彼が自宅の庭で井戸を掘っていたら、偶然、(葦(あし)=けんか)が出て来た為に喜び、庭の名前を[蒹葭堂(けんかどう)]と名付け、それが結局、彼のペンネームみたいな呼び名になり、後世までこのように呼ばれるようになったそうなのです。(何故?葦が出て来て喜んだかというと、古歌に[難波に名高い葦がかつて何処かに生えていた]と覚えていたからである。)
・・それでは、いったい彼は何をしたのでしょうか?
どうして、歴史に名が残ったのでしょう。
ある人は彼を「偉大な薬草学者だ」と言い、又ある人は「彼は一流の芸術家だ」と言い、又又ある人は「彼は友達の多かった商売人だ」と言いました。
・・人が良く、頭が良く、お金持ちで何でも興味あるものは買い求めた収集家の蒹葭堂。
それでは今から、この偉大な知識の巨人の生涯を紙芝居でみて見ましょう。
はじまり、はじまりー。
木村蒹葭堂、・・通称、木村吉右衛門は江戸時代中期、大阪は北堀江の大きな造り酒屋の長男に生まれました。
幼少より身体が弱かった為、父は「この子にはこの大きな店を継がせるのは体力的に無理だ。・・絵や歌などを好きに習わせて活かせてやろう。」と、一流の先生につかせて習わせました。
幼い頃から、絵や歌、詩を学んだ蒹葭堂。
元々、あらゆる事に興味を持ち、好奇心旺盛だった為、メキメキと習う事全てに才能の花が咲きました。
「もうあなたには教える事はない!この道の師匠になりなさい。」と、あらゆる先生に言われますが、彼には地位や名誉などの欲は無く、
「いえいえ、私にはこれらの事は趣味でしかありませんので。」と丁寧に断ったそうです。つづく
(大阪市西区の木村蒹葭堂の屋敷跡の碑。現在、中央図書館横に立っている。屋敷跡に図書館は彼にピッタリだ! やはり、ここは蒹葭の生える地だったのだな。)
紙芝居:『上田秋成ものがたり』(その4・最終回)
秋成54歳。
歳を取ったと感じた秋成は、医者を辞めて隠遁生活に入ります。
そして妻と共に、その後のんびり旅をしたり、古典の研究や友人との交流を深めたりしました。
が、57歳で彼は白内障を患い、左目を失明。
京都に住まいを代えて生活しますが、61歳の時、頼みの妻も亡くします。
そして62歳で右目も失明し、全盲となります。・・が、友人の眼医者のお陰で、左目だけ回復しました。
頑固で偏屈な秋成を生涯助けて、苦労を掛けた妻を亡くし、片方の視力を無くし、生きる気力を無くした彼でしたが・・、
そんな秋成を招いて慰めてくれたのが、妻の知り合いでもあった、河内の日下(くさか)村=(現在の東大阪)に暮らす[唯心尼]というお寺の尼さんでした。
秋成は唯心尼や村人達と、お茶を飲んだり詩を作ったりしながら、癒され生きる気力を徐々に取り戻していったのでした。
その後、秋成は京都で再び小説を書いたり、歌の本を出版したりします。
が、76歳で病いに倒れ亡くなりました。
気難しく繊細な芸術家であった秋成。
指と視力が不自由ながら、そのコンプレックスを自虐的ペンネームとして著して、日本を代表するような幻想小説を書いた孤高の人、秋成。
そのお墓は、京都市左京区の西福寺の境内に立っています。
このお墓、石の台も彼のペンネームのように、カニのような形をしています。
(京都・西福寺)
おしまい
紙芝居:『上田秋成ものがたり』(その3)
やがて養父が亡くなり、お店の後継ぎとしても、又作家としても、頑張ろうと思っていた時に、秋成にとって大変大きな事件が起きます。
それは大火事です。
大阪の堂島で起こった火事は、秋成の店も財産も全て焼き尽くしました。
全てを無くして、途方に暮れていた秋成一家に、手を差し伸べてくれたのは、例のお稲荷さんの加島神社でした。
ここの神主さんが、境内の一画を貸して下さり、秋成一家に住まわせてくれたのです。
ここから秋成の第二の人生が始まります。
秋成は境内の一画で(数少ない)親友の一人の例の木村蒹葭(けんか)堂に、医薬品の書物を借りて、医者を目指し猛勉強を開始します。
そして40歳で秋成は、町医者になり医院開業をするのでした。
その後、秋成は医術で生活しました。
と、同時に(数少ない)親友の木村蒹葭堂の[煎茶(せんちゃ)]サロンにも参加して、そこで再び作家や俳人達と交流を深めて行くのでした。(蒹葭堂さまさまやねぇ・・)
余談ではありますが、この頃です。
秋成と国学者の本居宣長との間に、天照大御神の解釈をめぐって、『日の神論争』が起こり、この二人は生涯の論敵となります。
この頃、秋成は一塊の(町医者)兼町学者、一方、本居宣長は天下の国学者。
しかし、秋成は自説を曲げず、最後まで戦い抜いたそうです。(やはり、偏屈やなぁ)
つづく
紙芝居:『上田秋成ものがたり』(その2)
秋成は一人前の商人になるべく、懸命に勉強をしました。
がしかし、だんだんと商売よりも,悪所で遊んだり、俳諧や小説を書くことに夢中になっていきます。
やがて秋成は、『カニのような変わり者の男』(剪枝畸人)という意味のペンネームを自分で付けて、幻想怪奇小説を執筆します。
これが、大ヒットとなった『雨月(うげつ)物語』でした。
※それではここで、この『雨月物語』をちょっとお遊びで漫才風に説明させて頂きましょう。
ある日、上田秋成の家に、数少ない親友の一人の[木村けんか堂]が訪ねて来ました。
木村「なぁ上田君、僕の友達で、君の書いた小説の題名を忘れてしもた奴がおるんやけど、一緒に思い出してやってくれへん?」
上田「そんなん、お安い御用や。・・それでどんな小説って言ってた?」
木村「なんか、幽霊が仰山出て来る短編小説集らしいんやて・・。」
上田「ほぉー、それやったら『雨月物語』やろ。・・僕の短編小説集で幽霊が仰山出てくる話は『雨月物語』か、あとはパッとせえへんかった『春雨物語』ぐらいしかないんよ。」
木村「僕も『雨月物語』と思てんけどな、その話はただの幽霊話と違って、人間の欲望や女性の悲しみを描いた人間愛憎作品やっていうんや。」
上田「ほぉー、それは絶対に『雨月物語』や。この作品は中国の古典などから、ワシが真似っこして、日本風に味付けした味わい深い内容作品なんよー。」
木村「僕も『雨月物語』と思たんやけどな、友達が言うのに本が完成したのに、なかなか出版せえへんかった自信のない作品やって言うんよ。」
木村「じゃあ『雨月物語』と違うか・・。この小説は考えに考えて時間を掛けた作品で、一発屋狙いと違うんよ。・・で他になんか言うて無かった?」
上田「その友達の本居宣長君が、あんな偏屈の秋成がほんまに書いたかわからんぞと、言うんよ。」
木村「やっぱり、そいつは本居宣長か!あいつめ!今度あいつの家に怒鳴り込んだんぞ!」
上田「もうええわ。」
※上田秋成と本居宣長の仲の悪さは有名でした。(余談)
続く。
紙芝居:『上田秋成ものがたり』(その1)
今からおよそ290年ほど前の江戸時代のおはなし。
美しくも悲しい『雨月物語』という怪奇小説を書いた[上田秋成]は、大阪は賑やかな曽根崎新地で生まれました。
彼は作家であり、国学者であり、医者でもありました。
それでは、多芸多彩で波乱に飛んだ上田秋成のお話をさせて頂きましょう。
はじまり、はじまりー。
上田秋成は、幼少[仙之助(せんのすけ)]と言いました。
仙之助こと[秋成]の実の両親については、はっきりとは分かっていません。
彼は4歳の時、[上田家]という紙油の商家にもらわれて養子になりました。
上田家は裕福な家で、秋成はそこの両親の跡取り息子として大事に育てられたのです。
・・が、秋成は5歳の時に【天然痘】という疫病に掛かってしまいます。
信心の篤かった養父は、秋成が回復するように、『加島稲荷=[現・香具波志神社]』で懸命に祈ります。
その甲斐あって、指に後遺症は残りますが一命は取り留めることは出来ました。
のち、秋成は一生この神社を大切にして、お参りを欠かせませんでした。
(香具波志神社・大阪市淀川区)
(神社のすぐ横にある秋成の墓?※見つけにくい場所でした)
つづく
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