‥が又もや、北御堂に、いや大阪全体に大変な事が起きます。
それは昭和20年3月の大阪大空襲です。
太平洋戦争末期、アメリカ軍のこの大空襲で、北御堂も全て焼き尽くされてしまったのです。
大阪発展の歴史と共に、約420年のドラマ築いて来た北御堂・津村別院。
戦後、不死鳥の如く、多くの門信徒さんや市民の支援を受け、鉄筋コンクリートで御堂は再建されます。
大阪の経済、文化に係り、大阪商人と共に歩み発展して来た北御堂。
現在、その歴史の歩みの分かる『北御堂ミュージアム』が御堂の中に作られ、又、納骨堂も完備されました。
そして、読経や法話会、文化活動など幅広く実施され、新たな寺院活動を展開しています。おしまい
(現在の北御堂)
[管理用]
記事一覧
※画像をクリックすると拡大されます。
紙芝居『大阪 北御堂ものがたり』(その4最終回)
紙芝居『大阪 北御堂ものがたり』(その3)
が、順風満帆な北御堂ではありませんでした。
江戸時代中期、享保9年(1792)、大火事が起こります。
これで本堂などは全て焼失。
‥されど、これも大阪商人たちの懇志(寄付)によって、10年を掛けて再建。凄いぞ、なにわ魂!
やがて、江戸時代が終わる時が来ます。
王政復古がなされ、徳川幕府は無くなります。
そして、明治時代の到来と共に、一時期、北御堂は明治天皇の仮御所にもなりました。
又その後、一時期、大病院にもなりました。
北御堂の門前道路は、御堂筋。
これは、江戸時代からそう呼ばれてきました。
それが昭和の時代になって、さらに拡張され、『ここに飛行場滑走路でも作る気か!?』と言われるほど、ここに巨大な道路が作られ、大阪市民をあっ!と驚かせました。
又、地下鉄も御堂筋の地下に走るようになったのです。
時代の発展は物凄いものでした。‥がしかし、
つづく 次回、最終回
紙芝居『大阪 北御堂ものがたり』(その2)
『念仏ロス』になった大阪の町人たちは、集まってお寺を作ろう!と話し合い始めました。
「わしらの力で、お念仏の道場を作るんや!御堂さんを作るんや!」
「‥でも、ほんまに出来るやろか?お金も掛かるでー。」
「やれる!『やってみなはれ!!』の精神や!皆で頑張ろう!」と決まったのでした。
こうしてお寺は最初、[楼(ろう)の岸]という天満の近くの場所に建立しました。
さらにその後、[生玉の津村南町]という、現在ある場所に移転しました。
これが大阪商人の町人の力で作り上げた[北御堂・津村別院]のはじまりです。
「やっぱりわし等は、御堂さんの鐘が聞こえる所で商売せなあかん!‥もうかりまっか?ぼちぼちでんなぁ」と。
大阪商人はお寺を大事にしました。
そしてお寺の回りで、多くのお店を開いて行きました。
こうして、北御堂は江戸時代の経済、文化と共に繁栄していったのです。つづく
紙芝居『大阪 北御堂ものがたり』(その1)
大阪メインのストリート。
銀杏並木の御堂筋(みどうすじ)。
そこに面したお寺こそ、その名の由来となりました、『津村別院、北御堂(きたみどう)。
[津村]とは、土地の名前の事。
『別院』とは、本願寺に準ずる地方直属のお寺の名称の事。
わかりやすく(会社組織で)例えれば、京都西本願寺が本社として‥、地方の大阪支社が『津村別院』ということになります。
ではなぜ、通称『北御堂』というのか?
それは、御堂筋の北側に位置する(西本願寺)のお寺なので、『北御堂』と呼ばれます。
ちなみに、南側に位置するお寺は、(東本願寺)の『南御堂』と呼ばれています。(‥少しややこしい)
それでは、今から『津村別院 北御堂』の壮大な歴史のお話を(簡単に)申しましょう。
はじまり、はじまりー。
昔むかしの戦国時代。
本願寺という巨大寺院は、大阪にありました。
がしかし、豊臣秀吉という天下人の時代になり、大阪でドーンと陣取る巨大教団が邪魔になって来ました。
秀吉は、そこで本願寺の京都お引越し計画を命じたのです。秀吉は、11代門主顕如(けんにょ)上人を呼び出し言いました。
「顕如さんよー、おみゃあさん等、大阪を離れて京都に行ってちょ。戦国時代が続いてなもー、京の都は焼け野原になっとるんだわー。宗教の力でよー、町を復興させてちょー。」と。
天下人の命令は絶対です。
「わかりました‥」とお上人は受けました。
こうして、大阪城の横の天満にあった『天満本願寺』は、引越すことになりました。
「さよなら!!門主さまー」
そして、お寺は無くなり、大阪でお念仏の声は聞こえなくなってしまいました。
いわば、大阪町人にとって『念仏ロス』が起こり始めたのでした。つづく
紙芝居:『三人の尼僧さま』(その4 最終回)
この蘇我と物部の戦いが終わった後、善信尼たちは言いました。
「この機会に、私たち三人を是非、百済の国に行かせてください。彼の国で、私たちは正式に仏教を学びたいのです。」と。
こうして西暦588年、15才になった善信尼と二人の尼僧は、帰国する事になった百済人の船に乗せてもらい、朝鮮半島に旅立ちました。
今の留学生です。
そして百済の国で、1年半かけて修行して、仏教の戒律を学びました。
そして正式な尼僧になって、無事日本に帰って来たのです。
その後、善信尼達は帰国後、以前、焼かれてしまったお寺を再び再建築しました。
このお寺は[桜井寺]と呼ばれました。
現在の『豊浦寺跡』(今の寺名は『向原寺』)です。
そこで、善信尼達は仏教の指導者として、11人の尼僧を育て上げ、さらに我が国最初の男性僧侶「徳斎法師」を誕生させました。彼は善信尼の兄弟です。
こうして、仏教興隆の原点となる施設は全てこの地に揃いました。
三人の少女の勇気から始まった日本仏教は、ここに大きく実を結んだのです。
そして現在、大阪府南河内郡太子町の西方院というお寺の裏の墓地に、一際大きく三人の尼僧さまのお墓が祀られています。
(奈良県・豊浦寺跡(現・向原寺)
(大阪府太子町[善信尼]の墓)
おしまい
紙芝居:『三人の尼僧さま』(その3)
‥それからまもなくして、蘇我氏の主人[蘇我馬子]が病気になりました。
「やはり、仏教という外国の教えなど取り入れるから、このような事が起こるのじゃ!」と仏教反対派の物部氏は『それ見たことか!』と天皇の許可を得て、お寺に火を掛けました。
そして、三人の尼さん達を捕らえて引き立てたのです。
そして、尼さん達は法衣を剥ぎ取られ、海柘榴市(つばいち)という人の多く集まる場所で、ムチ打たれ辱しめを受けたのでした。
それを知った病床の蘇我馬子は、天皇に泣きつき、何とか無事に尼さん達を助け出すことが出来ました。
物部氏を恨み、復讐を誓う蘇我馬子。
そしてついに、蘇我氏VS物部氏の戦争は起こりました。
結果、仏教反対派の物部氏は負けて滅びました。
こうして、兎にも角にも、仏教賛成派の時代は来たのです。つづく
(奈良県桜井市[海柘榴市(つぼいち)])
(この辺りで、尼僧達は罰を受けたらしい)
紙芝居:『三人の尼僧さま』(その2)
‥それから何年かが経ちました。
「やはり仏教は、我が国に必要だ!」と、仏教賛成派の蘇我(そが)氏は、
「今度は、我が国に仏像を祀る専門家[日本僧侶]を育ててみようではないか!‥そうだ、その僧侶には女性が良い。古くからこの国を支えたのは女性、巫女(みこ)たちだ!仏教も女性の僧侶にすれば、きっとうまくゆくはずだ!」と思いました。
こうして、仏教賛成派の豪族の娘たちが選ばれる事になったのです。
その選ばれた僧侶の代表は『嶋(しま』と言い、まだ11歳の少女でした。
少女『嶋』の父は、ある日、彼女に言いました。
「嶋や、お前に頼みがある。尼さんになって仏様におつかえしてくれんか。今、国中に広がっている疫病を抑え、この国が栄えるようにお祈りしてもらいたいのじゃ。」と言ったのです。
嶋は「はい、わかりました、お父様。私は仏様にお仕えさせていただきとうございます。」
「おお、そうか!ありがたい。これからお前は[善信尼(ぜんしんに)]という名に改めよう。そして、一人だけでは心許ない。後二人、共に出家してもらおう。」と決まりました。
こうして、ここに三人の若い尼さん達が誕生したのです。
そして蘇我氏の敷地内にお寺を作り、仏像を祀り、そこで尼さん達は暮らし始めました。
これが、日本仏教のはじまりと言われています。
が、しかし‥。つづく
(三人の尼僧さんの墓)by大阪府太子町
紙芝居:「三人の尼僧さま〜日本仏教のはじまり」(その1)
昔むかし、大昔のお話。
皆さんは、日本で初めてお坊さんになった人たちを知っていますか?
それは三人の少女達なのです。
名前を『善信尼(ぜんしんに)』、『恵善尼(えぜんに)』、『禅蔵尼(ぜんぞうに)』と言います。
彼女たちは、数々の試練を乗り越えて、日本仏教発展の為に尽くされました。
それでは、波乱に満ちた三人の尼さん達の生涯を紙芝居で見てみましょう。
はじまり、はじまり〜
その尼さんたちが生まれる数十年前。
朝鮮半島『百済(くだら)』という国から、初めて『仏教』という教えが日本にやって来ます。
その時、百済の人は日本人に、「我々はこの仏教という教えを信じています。そして仏像を皆で拝んで幸せに暮らしています。」と言いました。
「へぇー、それは凄い!我が国でも是非、その仏教という教えを取り入れましょう!」と、(新しもん好きの)蘇我(そが)氏という豪族が、天皇に向かって声を上げました。
‥がしかし。物部(もののべ)氏という一族は大反対!「そのような外国の教えなど取り入れたら、日本の神様の怒りを買うでしょう!」と、言い争いになってしまいました。
そこで天皇は、仏教賛成派に一度.[仏像]を祀るお寺を作らせて、様子を見る事にしました。
‥がしかし、この時すぐに疫病が流行し、『それ見た事か!』と仏教反対派によって、お寺は燃やされ、仏像は井戸に捨てられてしまいました。あ〜ぁ。つづく
(奈良県:仏像が投げ込まれたという難波池)
紙芝居:『華岡青洲物語』(その4 最終回)
がしかし、やがてこの嫁と姑に不幸が襲いかかります。
度重なる劇薬の服用によって、体力を失った母は亡くなり、妻は視力を失ってしまうのです。
こうした犠牲に支えられ、人に効く麻酔薬『通仙散(つうせんさん)』と名付けられた全身麻酔薬は、ついに完成したのでした。
それからしばらくすると、青洲の元に一人の老婆がやって来ました。彼女は重い乳がんでした。
老婆は「あなただけが頼りです。」と頼ってこられたのです。
青洲は「‥以前、妹を乳がんで亡くした。その時は手術が出来なかった。この機会、これは妹の弔い合戦かもしれん。」と思いました。
そして、青洲はここで麻酔薬を使っての乳がん手術を決意します。
かくして、1804年10月13日。ついに手術は始まりました。
この薬を飲んだ老婆は程なく眠りに落ち、青洲は彼女の患部にメスを入れ、一気に腫瘍を取り除きました。
こうして、世界で初めての全身麻酔手術は成功したのです。
この手術成功の知らせは、たちまち世間に知れ渡りました。
こうして彼の元には、治療を求める多くの患者と教えを請う日本中の医者達が押し寄せました。
そしてその後、青洲は全身麻酔薬を使った手術を成功させました。
やがて彼の元には、全国から一千人以上の弟子達が集まり、青洲の医院は日本の最先端医療の中心地となっていきました。
こうして青洲の功績は、和歌山のお殿様にも認められ、武士の資格と医者の最高位を頂くことにまでなります。
がしかし、彼は生涯、自分の住む紀の川の場所を離れませんでした。
そして診療の暇を見つけては、目の見えなくなった妻の側に行き、絵本などを読み聞かせたりして、夫婦で楽しむ時間を大切にしたそうです。
その後、青洲の妻は1832年、68才で亡くなり、青洲はそれから3年後、74才で亡くなりました。
現在、華岡青洲とその家族のお墓は彼が活躍した和歌山の紀の川市に建っています。
おしまい
(道の駅 青洲の里「華岡青洲顕彰記念公園」内)
紙芝居:『華岡青洲物語』(その3)
それから青洲は、仕事の合間を見つけては、(結婚した)[加恵(かえ)]と一緒に、麻酔薬の原料となる『マンダラケ(朝鮮朝顔)』という花を野山から摘みました。
そして、それを主成分として、さらに改良し[全身麻酔薬]をついに完成させたのでした。
その後、青洲はその麻酔薬を使って、犬や猫などで動物実験をして成功させました。
‥が、問題はそれが実際に人間に通用するか?どうかです。
この人命に関わる麻酔薬の効き目に青洲は悩みました。
そんな青洲の気持ちを察してか、「私たちにその薬を試してください。」と言い出したのが、母と妻でした。
その言葉にためらう青洲でしたが、母は言いました。
「青洲、私はおい先短い身です。まず私に試して下さい。」と、青洲を熱心に説得しました。
そしてまず、毒性の弱い薬を母は飲みました。
やがて母は元気になると、今度は妻の加恵が「私は医者の妻です。私も覚悟はできてます。」と、若い妻は強い麻酔薬を飲み試しました。
妻は死んだように眠り続け、つねっても叩いても目を覚ましませんでした。
麻酔薬の成功です。
そして二、三日後、無事に目を覚しました。
その後、二人は青洲が新しく薬を調合する度に、何度も何度も麻酔薬を、飲み続けました。
それはまるで、嫁と姑が競うかのように・・・。
まさに、一人の男をめぐる嫁と姑の愛の戦いのようでした。
‥少し余談になるが、僕が何故?この青洲さんの紙芝居を作ろうかと思ったその訳は、僕自身の体験が少し関係している。
僕は今年、心臓弁膜症の手術を受けた。
その手術前に[麻酔科]の先生の診察を受けた。麻酔科の先生の診察を受けないと手術できないのだそうだ。それは初めての経験だったが、その時、初めて「麻酔薬は有難いものだ」と思った。だってメスで切っても痛みを感じないのだから・・。
そして、麻酔薬って何か?誰がどのように開発したのか知りたくなった。これが青洲さんの紙芝居を作ろうとした動機である。
又、去年、富田林市のお寺でお話する機会があり、そこで偶然、(中野町の)華岡家のご先祖さんのお話を聞く機会があり、青洲さんとの不思議なご縁を感じ、紙芝居を制作しようと思いたったのである。
つづく
ページ移動
- 前のページ
- 次のページ