住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居『一休さんの遺言』(その3 最終回)

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そこにはたった一言だけ、
『心配するな、何とかなる。 一休』
と書かれてありました。
『シーーン』と静まる部屋。
皆、目をパチクリ、パチクリ。
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その内、皆は大笑い。
『さすがは和尚さま!‥これぞ、素晴らしいお智慧!』
「そうじゃのう、心配し過ぎてもどうにもならん。又それで喧嘩は持ってのほかじゃ!」
「何とかなるか!?‥その境地が大事じゃ!」
『正にその通り。和尚さまらしいお言葉、遺言じゃ!あっはっはっはっ‥』
「これこそ、一休和尚の最高の最後の教え!」
『皆の衆、喧嘩などしておってはいかん。難しい顔をせず、笑顔で話し合って次の住職を決めおうではないか。はっはっはっ』
『そうじゃ、そうじゃ』
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こうして次の住職は、笑顔のうちに無事に決まったそうです。
めでたし、めでたし。
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それでは皆さまも、困った時には、この一休さんの『遺言?』の言葉を称えてみましょう。
『心配するな、何とかなる』
ほらほら、いろんな心配事が消えてゆく‥ような気がしますね。知らんけど。 おしまい

紙芝居『一休さんの遺言』(その2)

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その様子を見ていたと隣りのお寺の和尚さん。
「これこれ、見苦しいぞ!こういう時こそ、一休和尚の遺言状(遺書)ではないか!
これこそ、一休寺の一大事。きっと、遺言状にはこのような時は、どうすれば良いかを詳しく書いてくださっているに違いない。
‥又、お寺の大事な跡取りの事も書かれてあるかもしれん。
さぁ、皆で読経してから有り難くこの書を開こうではないか。」と言いました。
「そうじゃ、そうじゃ!和尚さまの遺言状じゃ。きっと素晴らしいお智慧が書かれてあるに違いない!」と皆は声を上げました。
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そして皆でお経をあげてから、恭しく一休さんの遺言状を頂き、隣の和尚様が代表してこの書を開いてみると‥、
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隣の和尚さま、この書を見て、ずるっとずっこけてしまいました。
皆はびっくりして、『どうされましたか?‥なっ何と書かれてあったのですか?』と聞くと、隣の和尚さまは、その書を皆に開いて見せました。
‥そこには。 つづく

紙芝居『一休さんの遺言』(その1)

※はじめに〜このお話はおそらく、いや絶対!フィクションでしょう。‥知らんけど。が、なぜか「さもありなん。」と思ってしまう?信憑性がある。
‥だから、紙芝居にする価値はあると思って、(一休ファンの僕は)思わず作ってしまったおちゃらかな作品です。
おそらく、このお話は一休さんの『有漏路(うろじ=この世)より 無漏路(むろじ=あの世)へ帰る一休み 雨ふらばふれ 風ふかば吹け』という有名な歌をヒントに、一休さんならおそらくこう書くだろうと、どなたかが作られたのでは?と僕は思っているのだが、それこそ、知らんけどや。
それでは、楽しんで見て下さい。はじまり、はじまり〜
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昔むかしのお話。
ここは、有名か無名かは知らんけど、一休寺(いっきゅうじ)。
とんちで名を馳せたお坊様、一休(いっきゅう)さんも.いつしか88才のご高齢になっておりました。
そしていよいよ、このお寺で臨終を迎えようとしておりました。
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一休さん、布団の周りに集まったお弟子たちに言いました。
「良いか、弟子たちよ。わしが死んだら困った事がいろいろと起こるかもしれん‥。知らんけど。こればっかりじゃ。
そこでじゃ、わしはここに『遺言状(遺書)』みたいな物を書いておいた。この「遺言状」には、どのような難題が起ころうとも、解決できる秘策を書いておいたんじゃ。
‥良いか、もうどうしようも無くなったら、(浦島太郎の玉手箱みたいに)皆でこの遺言状を開いて読むのじゃ。わかったな‥。」と言って一休さんは亡くなりました。
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そして、一休さんのお葬式は弟子たちによって、厳かに行われました。
その後、初七日も終わり、四十九日の満中陰法要も無事終わりました。
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そしていよいよ、お勤めの後、一休寺の次の住職を決める会議の時が来たのです。
まず、一番弟子の二休(にっきゅう)さんが.口を開きました。
「この一休寺の、次の住職は年齢の順番からいうと、このわしであると思うのだが、皆はどう思うか?」と言いました。
すると、その前に座っていた三休(さんきゅう)さんが、
「いやいや、兄弟子。お言葉ですが、年は若いですが、この三休は以前より、お師匠さまの一休さまより、『三休、後は頼んだぞ』と言われておりました。
このお寺を継ぐのは、やはり私ではないでしょうか。」と言い、中々決まりません。
そして、ついに大喧嘩になってしまいました。 つづく

紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その6最終回)

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‥という事で、現代も吉備津神社内で、ウラの言った『鳴釜神事(なるかましんじ)』は続いている。
余談ながら、どうやら江戸時代の怪奇小説家[上田秋成]もこの神事を知り、『吉備津の釜』という物語を書いている。‥有名になっていったのですね。桃太郎の昔話よりは度合いが小さいけど‥。
(※余談ながら、私もこの[鳴釜神事]を実際、三度程見た事がある。‥ほんとに不思議な事に、タネも仕掛けも無いお釜の蒸気の音がその場で、大小変化するのである。ホンマびっくりポンである!)
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(吉備津神社)
それでは、この紙芝居の最後は、有名な『桃太郎』の歌(桃太郎さん、桃太郎さん、という歌)‥で終わるとしようかのう。
‥ただし、あまり知られていない、4番と5番だけに‥。
4番『‥そりゃ進め、そりゃ進め、一度に攻めて 攻め破り 潰してしまえ 鬼が島』
5番『面白い おもしろい、残らず鬼を攻め伏せて、分捕りものを えんやらやー』
‥正義って、いったい何なのでしょうね。
平和の世が早く来ますように。合掌
おしまい

紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その5)

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この大合戦の結果、桃太郎は都から褒美として、吉備の国の国守(今の知事のようなものか)を与えられた。
‥がしかし、桃太郎を悩ませたものが一つあった。
それはウラの首を埋めた地面から、夜な夜な聞こえる怨みの泣き声であった。
その声は、土の中から聞こえるような、妻たちが毎晩隠れて泣いているような、「おぉ〜ん、おぉ〜ん」と桃太郎の回りから聞こえて来た。
‥その声は13年間続き、桃太郎を苦しめた。
そんなある晩‥.
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桃太郎の夢に、ウラが現れた。
「桃太郎、オレの悲しみは果てる事が無い。この気持ちを癒すには、首を埋めた所をきちんと祀って、オレの女房に墓守をさせてくれ。そうすれば、オレは癒されるであろう‥。
もしそうしてくれたら、その礼として、そこでお釜にお米と水を入れ沸かせて、そこでシューシューと音を鳴らしてくれ。
その音の大小で、その年の稲作の吉凶を教えやろう。お釜の音が大きくなれば、その年は豊作。小さく鳴れば、凶作じゃ。」と言った。
桃太郎はその通りにした。
すると不思議な事に泣き声は止んだという。
又、その吉凶は不思議に当たった。そしてそこから色々な事の占いが始まったという。
桃太郎はその後、長生きして281歳まで生きたということじゃ。(長生きし過ぎや!)
※又余談だが、このウラの首を埋めた場所を吉備津神社内で今日も祀り、(今も⁇)ウラの妻の子孫たち?(今もウラの関係者が巫女をされているかどうかはわからない。)が巫女としてお祀りをされ、神社の神主さんが祝詞を上げ、共に様々な吉凶を占って下さる神事が続いているという事である。つづく
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(吉備津神社)

紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その4)

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しかし、ウラたちは逃げも隠れもしなかった。
又、降参もせず、一通の手紙を桃太郎の元によこした。‥中身はこう書いてあった。
『わし等は、何も悪いことはしておらん。
なぜ、出て行かねばならん。
なぜ、降伏せねばならん。
むちゃを言うなら、わし等は戦うぞ!
かかって来いやー。侵略者ども!』と。
桃太郎はこれを読み、「我々を侵略者呼ばわりする気か!バカな!皆の者、ウラたちへ攻めかかれー!』と、ブチ切れた。
戦争は始まった。
この戦い、砦に籠るウラ達は予想外に強く、決着は中々つかなかった。
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そこで桃太郎は、得意の弓矢を2本放った。
その一本はウラに真っ二つに切られたが、残りの一本がウラの片目に命中した。
「ぐわぁー!」とウラは倒れた。するとたちまちウラ軍は総崩れになった。
こうして、ウラ兵は次から次へと倒れていった。
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やがてウラ達は力尽き、みんな捕らわれ、首を刎ねられ、晒された。
その後、後に残った砦から、ウラたちと結婚していた妻達が助け出された。
‥が妻たちは、桃太郎に感謝せず、反対に夫を殺した侵略者として、恨み言を言った。
「ウラは賢く優しかった。勇敢であった‥。我々に、便利な畑仕事の道具をたくさん作ってくれて楽をさせてくれた。‥お前たちはなんと殺した上に、首を晒すとは恨めしい!鬼とはお前たちのことだ!」と泣き叫んだ。
この言葉に桃太郎たちは呆然とした。
‥が、これでショックなことは終わりではなかった。つづく
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(吉備津神社)

紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その3)

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「鬼と呼ばれた[ウラ]達は、こちらに住み続け、最初はおとなしくしておりました。
‥がその内、我々と仲良くしたいと言い出して、自分たちの便利な道具を分けてくれるようになり、そこから交流が始まりました。
やがて、わし等の娘たちと仲良くなる者もあらわれ、結婚する者も出て来ました。
それで、わし等はだんだんと疑わしくなって、「あやつ等、わしらの土地をすべて奪うつもりかもしれん⁈」と、帝(ミカド)に訴え出たのでございます。」と村長は言った。
桃太郎は「うーん、奴らは鬼では無かったのか!‥しかし、都から『鬼退治』と大軍勢を連れて来た手前、どうしたものか?」とつぶやいた。
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そこで皆は一度、会議をする事にした。
「さて、皆の者。この鬼達‥いや、ウラたちをどうしたものか?それぞれの意見を述べよ。」と桃太郎は言った。
お猿のような家来がまず口を開いた。
「大将、奴らは頭の良い民族です。このまま放っておくと、きっといつか大軍勢になって、我々を攻めて来るでしょう。今の内なら攻め滅ぼせます!ウッキキー!」と言った。
それに対して、犬のような家来が、
「いやいや、それでは多くの血が流れますだワン。穏便に話し合い、われわれの家来になってもらいましょう!‥話せば分かるワン!」と言った。(余談ながら、この家来の犬飼が、のち五一五事件で亡くなる犬養毅首相の先祖です。)
そして雉のような家来は、
「我々のこの大軍を見れば、きっと奴らは、怖がって逃げ去るでしょう。大丈夫ですよ。キッキッキッキー」と言った。つづく
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(吉備津神社)

紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その2)

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桃太郎の軍隊は、岡山に着いた。
そして(今の吉備津(きびつ)神社の辺りに)その陣を張ったんじゃ。
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(吉備津神社)
そこに地元の部族の長達がやって来た。
まず、猿のような知恵者、楽楽森彦(ささもりひこ)と、
忠義に熱い犬のような犬飼健(いぬかいたける)が来た。
さらに雉のように機敏な働きをする留玉臣(とめたまおみ)もやって来た。
三人は声を揃えて「桃太郎さま、我らを家来にしてください!」と言った。
桃太郎は喜んで、こちらの地元の名物[吉備団子]を出して歓迎した。「よし、皆で鬼退治に行こうぞ!」と桃太郎は叫んだのじゃ。
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出陣する前に桃太郎は、手紙をくれた村長に鬼について尋ねた。
「村長、その鬼とはどのような奴らなのですか?」と尋ねると、村長は答えた。
「桃太郎さま、あやつは本当の鬼ではありません。人ですのじゃ。
あやつ等は、海の向こうの百済(くだら)という国から逃げてきた部族で、ここに隠れ住んだのですだ。
その大将は『温羅(ウラ)』という名で、背は高く髪は赤茶色、頭は良くて我々の言葉もすぐ覚えました。
それで村人は気味悪くなり、『鬼』と呼ぶようになったのですだ。」 つづく
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(桃太郎のモデル吉備津彦の命)
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紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その1)

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(岡山駅前・桃太郎の像)
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昔むかし、日本の国がまだ『倭(わ)』の国と呼ばれ、この国を治める帝(ミカド)がおった頃のお話じゃ。
帝には立派な「吉備津彦(きびつひこ)の命(みこと)という息子がおって、彼は一度に2本の弓矢の矢を放ち、見事に桃の実を2つ共射抜いたという名人だったじゃ。
まさに日本のロビンフッドじゃな。知らんけど‥。
それでこの皇子は、通称『桃太郎』と呼ばれておった。
うん、このお話では、吉備津彦と言わずに『桃太郎』と呼ばせてもらおうかのう‥。
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ある日、この帝の元に、吉備(今の岡山)の長から、一通の手紙が届いた。
手紙には『いま、吉備の国に悪い鬼達が海の彼方よりやって来て、国中でやりたい放題で困っております。鬼達は、吉備の国を自分達の物にしようと企んでいるのでしょう。どうか、鬼達を成敗して下さい。』と書いてあった。
「これは困った事になった。」と帝はつぶやいた。
その時、桃太郎が「私が鬼を懲らしめてやりましょう!」と叫んだ。
「おお、行ってくれるか皇子よ、頼んだぞ!」という事で、桃太郎は鬼の征伐に向かったのでした。
つづく

紙芝居『恩徳讃(おんどくさん)のお話』(後編)

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『恩徳讃』を書かれながら、親鸞聖人は思われました。
「阿弥陀如来さまは『我に任せよ!必ず救う!』とおっしゃられた。
この御恩は身体を粉にしても、返すことはできないほど、ありがたい事なのだ!」
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そして、
「その事をお伝えくださったお釈迦さまや、偉いお坊さま方に対して、私達はたとえ自分の骨を砕いても、返せない程ありがたいものなのだ!‥それを私たちは忘れてはならない。」
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「私たちは、その御恩に大きな感謝の気持ちを持ち、決して忘れてはならないのだ!
それが一番大事〜!」
と、親鸞聖人は心から思い、合掌をされました。
これが『正像末和讃』の中の『恩徳讃』の意味です。
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そしてやがて、この『恩徳讃』は仏教讃歌として、曲が付けられ、常に仏様への感謝の気持ちを持ちましょうと、今日では、お寺の法要、法座の最後や宗門学校の式典でも歌われるようになったという事です。 おしまい

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