・・が、これだけこじれた状況に、なったのですから、中々うまくはいきません、
やがて、自分を誘ってくれた友人[細川]氏も亡くなり、北の朝廷の中で、正儀は孤立してゆきました。
今、五十才をはるかに越えた正儀は、戦いに疲れ人間関係に疲れ、精神的にも疲れ果て、故郷恋しの気持ちを押さえる事ができなくなっておりました。
そしてその気持ちが高じて・・、
またもや正儀は、北の朝廷を裏切り、故郷の南の朝廷の元に帰ったのでした。
この帰って来た正儀を再び迎えてくれた故郷の環境、そして人々の想いはどんなだったでしょうか?
その様子は何一つ伝わっていません。
そして不思議な事に、帰還して間もなく、正儀の歴史の記録がここで消えてしまうのです。
一節には「正儀はこの後すぐ戦死した」とか、「自害した」とか言われていますが、はっきりとはわかりません。
それから、正儀が亡くなってまもなく、足利幕府の三代将軍[足利義満]により、北と南の朝廷は和睦して統一へと向かいました。南北朝時代の終結です。
皮肉な事に、正儀の死と共に平和な時代が来た事になりました。
正儀の死とは関係無く・・。
この南北朝時代の動乱の始まりから終わりまで、およそ60年の歳月が経っておりました。
楠木正成から始まり、その子正行、正儀まで、楠木一族の攻防の歴史は、これにて終わりを告げます。
後世の一部の人は言います。
「それにしても、父や兄とは違って、楠木正儀という武将はなんという優柔不断な男だったのだ・・」と。
・・が、本当のところはどうだったのでしょうか?
それは永遠にわかりません。
が、ヘッドハンティングや転職が当たり前の時代の21世紀の現代人なら、きっと理解されると思われます。
(金剛山 楠木正儀の墓か?)
おしまいつ
記事一覧
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紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その5最終回)
紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その4)
・・がしかし、その楠木正儀(南の朝廷)と細川(北の朝廷)との秘密の相談が、味方に露見してしまいました。
「楠木正儀が、北の朝廷と秘密理に連絡を取りあっているらしいぞ!・・あやつ、寝返るつもりか!?」と、噂が立ったのです。
それを聞いて正儀は「ちっ違う!誤解だ!私は皆が仲良く暮らせる方法を探っているのだ!」と賢明に味方に訴えました。
が、誰にも理解されず、益々彼は孤立していきました。
その内、正儀を信頼してくださっていた天皇も亡くなり、新たな天皇や楠木一族にも疑われるようになりました。
「そんなに孤立されているなら、いっそ、北の朝廷側に来ないか。そなたの器量なら北の朝廷は大事にするぞ」という細川からの誘いもあり、(これって今のヘッドハンティングやなぁ・・知らんけど) 正儀は結果的に、身近な家来だけを連れて北の朝廷側に駆け込んだのでした。
そう、正儀は味方を裏切ることになりました。
北の朝廷のリーダー細川氏は喜びました。
「正儀殿、よくぞおいでくださった。さぞやお辛いご決断でありましたでしょう。」と大変感謝して、正儀を北の軍の重要ポストにつけて、暖かく迎えてくれました。
正儀は裏切り者のレッテルを貼られながらも、ここでも南北の朝廷統一に向けて、賢明に働きました。つづく
(金剛山:千早城跡)
紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その3)
それからも、北と南の二つの朝廷の争いは続きました。
正儀は、武家のリーダーとして、戦さの場で懸命に働きました。
そして何度も勝つ、負けるを経て、ついに京の都を奪い返したのでした。
がしかし、念願の京の都に戻れた(正儀等の)南の公家たちは、浮かれて油断しました。
そのすきを見つけた北の朝廷の軍たちは、京の都へ襲い掛かり、その結果またまた、正儀たちは戦さに負けて、河内へと引きあげたのでした。
このようなことが、結果的に合計四度もありました。
疲れ果てた正儀は思いました。
「京の都を制圧しても、逃げた敵は又盛り返して帰って来る。・・そして又奪い返される。こんなことの繰り返しでいつまでも平和は来ない!
・・うーん、それよりも平和的に、北と南のそれぞれの天皇が一代ずつ交代しながら、この国を治めるという考えではどうなのだろうか⁉」と。
ちょうどその頃、北の朝廷内でも(正儀と)同じ考えを持つ[細川]氏という武将が居るという事を知った正儀は、すぐに秘密裏に手紙を書きました。
そして、やがてお互い意気投合した正儀と細川は、極秘に和平の道を模索し始めたのでした。つづく
(富田林:嶽山(だけやま)城跡[現在のかんぽの宿])
(河内の楠木正儀の城と云われている)
紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その2)
その楠木一家に大きな転機が訪れます。
それは、まず父楠木正成の[湊川合戦]での戦死。
そして月日は流れ、長男・次男の戦死する[四條畷合戦]です。
その四條畷合戦の前、長男正行(まさつら)は、正儀に言いました。
「正儀、お前は故郷河内(かわち)に残れ。
後の事はお前に任す。・・おそらく俺たちは父のように戦さで死ぬだろう。
お前は知恵者だ。その冷静な頭脳で楠木一族を守ってくれ。
頼んだそ!」
と言って戦場で次男と共に戦死しました。
こうして正儀は、わずか20歳の若さで楠木一族の頭領となったのでした。
正儀はお寺で亡き父や兄たちに呟きました。
「父上、兄上、どうしてあのような負けるとわかってる戦さで、命を落とさねばならなかったのですか?!
無駄死にでは無いのですか⁈
公家たちからの命令だったからですか?
彼らはいつも命令するだけ・・。
戦って血を流すのはいつも武士だけ。
そしていつも万民は迷惑を被る。
あぁ、私は命令されるだけではなく、正しく自分で考えて和平の道を選びたい。
・・しかし私は武士の頭領。命令どおりに戦い続けるしか無いのでしょうか?」と呟いたのでした。
正儀の苦悩のはじまりでした。つづく
(富田林:正儀の母(久子さま)の住居跡[観音寺内])
(楠母神社:正儀等三人の子と母の像)
紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その1)
昔々の南北朝時代のお話。
これは[楠木正成(まさしげ)]の三男[楠木正儀(くすのきまさのり)のお話。
この正儀(まさのり)は、長男の熱血漢[楠木正行(まさつら)]とは違って、物静かで思慮深い三男坊でした。
だからと言って、決して彼は臆病者ではありません。
彼はやはり父親[正成]の血を受け継いで、優しさや勇気を十二分に備えておりました。
がしかし、その思慮深い性格が、彼を悲劇へと向わせます。
・・さてこのお話は、父・楠木正成の熱い血を受け継ぎながらも、平和主義ゆえに歴史に揉まれ、結果的に『裏切り者』『臆病者』と呼ばれた一人の武将の物語です。
はじまり、はじまり~
楠木正儀は、正成の長男や次男の兄弟とは違って、一人読書に夢中になる少年でした。
兄たちは「おのれー朝敵め!おれがいつかやっつけてやる!」と毎日剣術に汗を流していました。
が正儀は「私は平和というのは、チカラでねじ伏せて勝ち取るものではないと思う。お互いが話し合い、譲り合ってこそ平和は訪れるものだと思うんだ・・」と思っていました。つづく
(金剛山:楠木正儀の墓)
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その7 最終回)
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その6)
時代はここでワープする。
・・正行(まさつら)公が亡くなって、五百と三十年が経ちました。
ここに、[正行]生き様感動し、行動起こした一人の男が現れた。
その名は[適塾(てきじゅく)]出身の『赤十字(せきじゅうじ)社』をこしらえた、[佐野(さの)の常民(つねおみ)]でありました。
明治の十年、佐賀県出身[常民]は、国内最後の戦争の[西南の役(鹿児島で起こった内乱)]の後を見る。
「戦争、なんと悲惨なものか!」と、涙流した常民は、
「敵と味方の区別なく、負傷者助ける病院を、あぁ作らせてくださいな!」
彼は政府に訴えた。
・・・そして[正行]公を思い出し、「今も負傷者泣いている。苦しい痛いと泣いている。敵と味方は違えども、彼を全て救いたい。昨日の敵は今日の友。あぁ川で溺れた敵兵を、救ったサムライ正行の、如くに我は助けたい!」
この熱意、政府の心は動いたぞ!
ニッポン赤十字社前身の、ここに「博愛(はくあい)社」出来ました。
この時、負傷者千四百、多くの命が救われた。
正行公の生き様は、ここでも確かに輝いた!
後世で、ピカッと輝いた。 つづく(次回最終回)
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その5)
「目指すは大将、首一つ!
我らの勝ち目はそれしかない!
皆の者、命を惜しむな、名を惜しめ!」
敵は五万の大軍に、こちらは一千わずかな兵。
ここは大阪、[四条の縄手(なわて)]。(※現在の四條畷市か?隣町:東大阪市か?東大阪にも同じような名前の場所があり、こちらにも[正行公]の首塚がある。京都や九州(落ち延び説)にもあるらしい。いったい首塚、楠公いや、何個(ナンコ)あんねん!以上余談)
楠木兄弟[正行・次男:正時]、ひたすらに敵陣めざして進みます。
されど、敵の矢雨あられ!嵐のように襲います。
さすがの楠木兄弟も、鎧全身矢を受けて、ついに最後を迎えます。
「・・我が弟、正時よ。残念ながらここまでじゃ。共にあの世で父に会おう。そこで父に報告じゃ!」
そして兄弟果てました。
この時、正行二十三。
・・若い最後でありました。あぁ合掌・・つづく
(正行公を祀る四條畷神社)
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その4)
「正行(まさつら)公よ、ようやった!・・ところで、わし等は明日にでも、京の都に帰れるか⁈」
「お公家の皆さま、敵はまだ何十万も居るのです。そんな楽にはいきません。おそらく次は奇襲では、通じぬ軍で来るでしょう。我らはここで今一度、お山に籠って機会待ち、おびき寄せる戦法を・・、」
「何をたわけた事いうか!今を逃して何とする。ここが我らの絶好機会。正行、すぐに出陣し、敵をやっつけ帰還せよ。そして我等を都に戻せ!」
「・・それは無理でございます。」
「何を武士の分際で!‥わし等のいう事逆らうか!」
「・・・・・わかりました。」と正行は伏し目ながらに御所を去る。
「家来たちよ、聞いてくれ。おそらく我等は死ぬだろう。どうやら幕府は威信を掛けて、数万以上の大軍で、攻めてくること違いない。それに比べて、我らは数千。奇襲で勝てる訳がない。
帝(みかど)は『死ぬな』と云われたが、それは当然無理な事。今まだ生きている皆の名を、この過去帖に書いておく。これをお寺に奉納し、今生別れとするとした。」
その後正行、矢じり持ち、辞世を扉に彫りました。
そして出陣したのです。
その姿、そっと見つめる[弁内侍(べんないし)]=(正行の恋人か⁈)
正行慕った初恋なれど、叶わぬ恋と涙を拭いて、去り行く姿に分かれを告げる・・。 つづく
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その3)
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