住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居『葛飾北斎と脳卒中の話』(その4 最終回)

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その薬と筆を動かすリハビリが、いつしか北斎を元に戻して行きました。
その後、メキメキと回復し、北斎は復活しました。
まぁ、甘いものも少し控えるようにもなりました‥。
そして、倒れた翌年には新しい作品を描き始め、出版もできるまでになりました。
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その後、北斎は一人旅が出来るまで歩行能力も回復します。
 日本のあちこちを歩いて、有名な『富嶽(ふがく)三十六景』などを描き、大傑作を残します。
又、新しい千円札のおさつで有名なった「神奈川沖浪裏」、いわゆるビッグウェーブの絵も北斎が脳卒中を起こした後の作品である事を、あまり現代人は知りません。恐るべし!北斎!努力人北斎!
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北斎は当時として長生きでした。
彼の辞世の句とは別に、有名な最後の言葉が残っています。
『天が後、五年俺を生かせてくれれば、必ず誠の絵師になってみせたのになぁ。』であったそうです。
 死に際まで、絵の上達を願った天才絵師のは生涯でした。
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 最後に、脳卒中に気づく現代のチェック方法を少し書きます。
 FAST(ファスト)と言います。
Fは、顔の麻痺。
Aは、腕の麻痺。
Sは、スピーチ。言葉の障害。
Tは、タイム。発症時間です。
これらに気づいたら、すぐ救急車を呼びましょう。僕もこれに救われました。
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(山梨県から見た富士山)
余談ですが、北斎ファンの僕は富嶽三十六景の富士山をどうしても見たくて、紙芝居完成直前に取材に行って来ました。やっぱり、富士山はどこから見ても良いですねぇ。
おしまい

紙芝居『葛飾北斎と脳卒中の話』(その3)

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その後、意識を取り戻した北斎は、娘につぶやきました。
「おっお栄、腕が上がらねぇ‥。筆も上手く持てねぇ‥。力が入らないんだ。あぁ、俺はこのまま絵が描けなくなるのか!?ちくしょう!死んでも死にきれねえぜ!」
と苦しみ悩みました。
それは脳卒中の後遺症なのでした。
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そんなある日、『葛飾北斎、脳卒中!』の噂を聞いた古い友人が訪ねて来ました。(一説では、それは滝沢馬琴ではなかろうか?と言われています。知らんけど)
「おい、北斎。中風に効くという薬の作り方を聞いたので、紙に書いて持って来てやったぜ。これを調合して飲んでみろ。‥いいかよく聞け。
①まず、果物のゆずを用意しろ。それを細かく木のヘラで刻む。
②次に、それと酒一合を混ぜてよく煮詰める。その時大事なことは、鉄鍋で煮てはダメってことだ。必ず土鍋で煮る事。鉄分が入っちゃダメなんだ。
③それと煮たゆずと白湯を混ぜて飲む。
それを毎日飲む事。効くらしいぞ。やってみろ。」と友人は言いました。
 「それは本当か、効かなかったらただじゃおかねえぞ。」
と北斎は言って、その薬を毎日飲み始めました。
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毎日毎日、北斎はその薬(?)を使って飲みました。
現代の医療では、それはヘスペリジンという柑橘系に多く含まれる栄養素で、それは高血圧を下げたり、末梢血管を強化する効果があると言われています。
まさに、北斎の病気には良く効いたのでした。(これも、知らんけど)
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※余談ですが、脳卒中(脳出血)で、北斎と同じ症状になった私も、この実験をやってみました。‥効いたのかなぁ‥。馬琴に感謝!それこそ知らんけど。 つづく

紙芝居『葛飾北斎と脳卒中の話』(その2)

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「頭が痛えっ‥。どうも最近、よく頭が痛くなるんだ‥。」
「親父どの、働き過ぎなんだよ。私が代わりに描いとくからさぁ‥。休んどきなって‥。』
と、跡取り娘のお栄が言った次の瞬間、
「あぁっ‥、めまいがするぜ、お栄‥」
と言って、そのまま北斎は倒れたのでした。
「親父どの!しっかりおしよ。今、医者を呼んでくるからな!」
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北斎の病気は中風(ちゅうふう)、今でいう脳卒中でした。
医者は娘のお栄に言いました。
「これは中風です。命に別状は今の所ありませんが、意識は戻っても、手足が動きにくくなるかもしれません。‥今は安静にして下さい。」
「親父どのっ!大変な事になっちまったな。もう絵は描けなくなるかもしれないよ。』
 つづく

紙芝居『葛飾北斎と脳卒中の話』(その1)

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平和が続いた江戸時代後期。
浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)は、江戸の下町に生まれました。
彼は持って生まれた絵の才能と努力で、当時一流の絵師になっていました。
 そんな北斎、お酒は飲めませんが、甘い物が大好きで不規則な生活、食事もたたり、今でいう高血圧でしょうか?‥それがやがて脳卒中(のうそっちゅう)という病気を引き起こす原因を作り出してゆきました。
さて、このお話は67才で脳卒中で倒れた北斎が、やがてその病いを、リハビリと独自の薬で乗り越えて、やがて後世に名を残すような絵師になってゆくまでを描いた物語です。
それでは、はじまり、はじまりー
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北斎の大好物は大福餅でした。
この日も散らかった部屋の中で、娘のお栄(えい)と共に、餅を食べながらお客からの注文の絵を描いておりました。
「あっ、痛たたた‥、」
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(東京・すみだ北斎美術館)
 つづく

紙芝居『一休さんvs蓮如上人』(その4 最終回)

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一休さんは、蓮如上人からの手紙を開けました。
そこには、
『極楽は十万億土と説くなれど、近道すれば[南無(ナム)]の一声(ひとこえ)』と書かれていました。
これを見て一休さんは声を出して笑いました。
「はっはっはっ、さすが蓮如上人。
極楽は遠すぎるというが、『南無(阿弥陀仏)』という念仏一つで、すぐに行ける。
そうじゃ、いかに極楽は遠くても、念仏一つでハイ、一っ飛び!じゃ‥とお経に書いてある。知らんけど。
蓮如上人はお経の意味がよーくわかっておられる。
この一休、蓮如上人に完敗じゃ。今からすぐにお酒を持って詫びに行くぞ!」
と、その足で蓮如上人のお寺に向かいました。
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こうして二人は、生涯渡って大親友となりました。
宗派の違いこそあれ、このお二人、そんな事はまるで関係無し。
 お釈迦さまの教えが結んだご立派な名僧たちでした。めでたし、めでたし。おしまい

紙芝居『一休さんvs蓮如上人』(その3)

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「よしっ、蓮如!
それではもう一つ、わしの問いに答えてみよ!」
と、一休さんはもう一通手紙を出しました。

「何っ!又一休さんから手紙が来たと。今度は何と書いて来たか?」と、蓮如上人が封を切ってみるとそこには‥.
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『阿弥陀経』の[極楽浄土(ごくらくじょうど)]について、述べられていました。
『極楽は、十万億土(じゅうまんおくど)と説くなれば、足腰立たぬ婆(ババ)は行けまじ』と。

『ふむふむ、極楽浄土は(十万億土と)ものすごく遠すぎて、足腰の弱いご老人には、とても行けないぞ。さぁ、どうする?』と聞いてきたか。
 あのトンチ老人め!よし、これがわしの答えじゃ!』と、蓮如上人はすぐに返事を書きました。
つづく

紙芝居『一休さんvs蓮如上人』(その2)

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‥再び一休さん。
「おっ、蓮如さんから返事が来たぞ!
どれどれ、何と書いて来た。」と一休さんは封を切りました。
‥そこには一首の詩のみが書かれてありました。
『阿弥陀には、隔(へだ)てる心なけれども、蓋(フタ)ある水に月はやどらじ。』と。
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一休さんは思いました。
「つまり、輝く月の光は、この世のどのような容器の水にも、その影を写(うつ)す。
だが、蓋(フタ)をしてしまった容器には‥、
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水は映(うつ)らない。
それは月が悪いのではない。
我々の方が、月の光を受け入れないのだ。
つまり、阿弥陀さまの慈悲を疑って受け入れないのだ。
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その蓋(フタ)を開ける、すると月影は映る。
‥つまり、『自力(じりき)』を思いを捨てると、『他力(たりき)』の阿弥陀さまは、たちまち救いとってくださるという事か。
はっはっはっ、蓮如上人見事な返答!そう来たか!」と一休さんは言いました。つづく

紙芝居『一休さんvs蓮如上人』(その1)

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昔むかしのお話。
とんちで有名な一休さん。
わかりやすくお念仏の教えを説かれた蓮如上人。
この二人、歳は20才程[一休さんの方が年上]離れていましたが、大変仲が良く熱い友情で結ばれていました。
‥でも最初はそうでもなく、激しい手紙のやり取り‥つまりバトルが繰り広げられていたようなのです。‥知らんけど。(いやいやそうらしいのです⁉︎)
それでは、その対決の模様を見てみる事にいたしましょう。はじまり、はじまりー。
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ある日、一休さんは思いました。
「‥最近、都でメキメキと人気が出てきた蓮如という坊主。
この京の都で一番人気はこの一休じゃ!‥このままではわしは二番になってしまうわい。二番はダメなんですっ!嫉妬するわい!
いつも阿弥陀さま、南無阿弥陀仏と称えておる蓮如とやらめ!一度、阿弥陀如来の教えを皮肉ってやろう。」と、一休さんは手紙を書きました。
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さてこちらは蓮如さま。
「何っ!あの一休さんから手紙が届いた。何であろうか?」
と、早速その手紙の封を切ってみると、そこには短い詩が一首書かれておりました。
『阿弥陀(アミダ)には、誠(まこと)の慈悲(じひ)は無かりけり。頼む衆生(しゅじょう)のみぞ助ける。』と。
「うーん、これは手厳しい詩じゃ。『阿弥陀様は慈悲深い仏様と言われるが、『南無阿弥陀仏』とお念仏を称える人だけ助けて、称えない人には知らんぷり、‥本当は無慈悲な仏様ではないのか⁈知らんけど。これはいったいどういう事かのう。』と皮肉っている。フーン、さてどう答えるか。どう返事を出すか。どうする、どうする‥」と蓮如さまは筆を持ち考えられました。つづく

紙芝居『悲劇の英雄ヤマトタケル』(その4 最終回)

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そして伊勢神宮の叔母の元に寄り、草薙の剣を無事に返しました。
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(草薙の剣を祀る熱田神宮)
しかし、この神の剣を早々に返してしまった事が、ヤマトタケルの油断になりました。
タケルの命を狙う者がまだ居たのです。
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それはヤマトタケル達が、滋賀県の伊吹山まで帰って来た時、タケルを怨む山賊達が突然襲って来たのです。
もう戦さは無いと油断していたタケルは、この戦さで大怪我をしてしまいます。
一説には、この敵をうまく誘導しタケル達を襲わせたの、タケルが無事帰って来る事を知った父や弟の仕業ではなかったか?と言われています。
結局、ヤマトタケルは家族からあまり好かれていなかったのでしょうね。‥と思います。知らんけど。
この大怪我が元でヤマトタケルは(三重県亀山市の)[のぼの]という所で死んでしまいます。
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伝説によると、ヤマトタケルが亡くなった時、白鳥に生まれ変わり、奈良の都へ飛び立ち、そして河内の古市(大阪府羽曳野市)で一度舞い降り休まれたと言われています。今も羽曳野市にはヤマトタケルの墓があります。現代の大阪の『羽曳野(はびきの)市』とは、「白鳥になったタケルが羽を曳(ひ)くようだった」と(まるで見て来たかのように?)言われる伝説が残り、今も『羽曳野市』という町の名前になっています。
又、白鳥が休んだ場所は実はもう一つあり、奈良にもタケルの墓があるのです。‥ヤマトタケルは奈良の都までどうにか生き延びて帰って来たのかも知れない‥と思いました。
それでは、悲劇の英雄ヤマトタケルが亡くなる時に、故郷奈良の大和を慕って歌ったと言われている詩を紹介して紙芝居を終わるとしましょう。
『ヤマトは国のまほろば、たたなづく青垣、山ごもれるヤマトしうるわし』(意味)「奈良のヤマトの国は素晴らしく良い国だ。重なりあう青い垣(かきね)山々に囲まれたヤマトの国よ、なんと美しい国なのか!」 おしまい

紙芝居『悲劇の英雄ヤマトタケル』(その3)

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その草薙(くさなぎ)の剣が、ヤマトタケルを助ける時が来ます。
それは相模の国(今の神奈川、静岡県辺り)に入った時、山賊達が罠を仕掛けてタケル達を草原に追い込み、火を掛けたのです。
「もうダメか!」と思った時、草薙の剣がビカリと光って炎を敵に向かって追いやったのです。
山賊達は驚き逃げて行きました。
それからこの場所は、『焼けた所』という意味の『焼津(やいず)』と呼ぶようになったそうです。
余談ながら、日本各地にヤマトタケルが足を運んだ場所がその土地の名前となっていることが多くあります。
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ヤマトタケルには多くの妻がおりました。
その一人『弟橘姫(おとたちばなひめ)』は、タケルの旅について来ておりました。
関東から東北へと、一行が船を使って上総の国(今の千葉県)に向かっていた時、大嵐にあってしまいます。
その時、弟橘姫が「私が海の神様の怒りを鎮めて参ります。」と言って、突然一人海へと飛び込んだのです。
タケルは驚き涙流しますが、不思議とそれから海は収まり、皆は無事に陸地に着く事が出来ます。
妻を亡くし、その悲しみのあまり、上総の国に着いたタケルは、しばらくその地を離れませんでした。それで、この地は『この地は君の為に去らずにいた』という意味の『木更津(きさらず)]と名付けられたそうです。
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やがて一行は、東北地方に到着しこの遠征は、無事に終わります。
長い旅はようやく終わったのです。
「さあみんな、都へ帰るぞ!今度こそ父上は私を誉めてくれるだろう。」とタケル達は帰還することになりました。つづく

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