住職のつぼやき

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悩んだ200作目の紙芝居は聖医『笠原良策』

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 紙芝居の記念すべき[200作目]の題材は何にするべきか?本当に悩んだ。
 考えた末、このコロナ禍の時代にマッチした主人公に決めた。
 その人の名は[笠原良策(かさはらりょうさく)]。
 地味な名前で、蘭方医:緒方洪庵のようなメジャーではないので、知らない方も多いと思うのだが、この福井県の漢方医から蘭方医になったお医者さんは本当に凄い!
 たった一人で、当時の不治の病『天然痘』という感染症に[種痘(しゅとう)]というワクチンを命を掛けて普及させ、多くの人々を救った方なのである。又その一生は非常にドラマチックで、正に[聖医]とはこの人の事をいうのではないかと思ってしまう。・・このような人が実際江戸時代にいたのだ!と・・。僕はこのような人が好きなのです。
 記念すべき200作目は、本当は有名なお坊さん(例えば鑑真さんとか)を主人公にしようと思っていたが、こんなに『感染症』がすべての人の人生に影響を及ぼす事に鑑み、この一地方のお医者さんを選んだ。
 本当だったら、福井県に何度も取材に行って調べたいのだが、大阪は今『緊急事態宣言』が発令中なのでそれもままならない。
 こうなれは、ネットを使ってじっくりこの人物を調べていくことにする。
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(2020年1月に行った福井県の山中温泉、・・ここで主人公漢方医:笠原良策は運命的な西洋医との出会いをする。)

198作から200作までの紙芝居ラインナップ

 198作から200作までの紙芝居のラインナップが出来ました。
 昨年から作り始めていた大好きなお坊さま「白隠(はくいん)さま」の一生の紙芝居と、その続編のエピソード集。
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(198作目『白隠さま』)
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(199作目『続・白隠さま(エピソード集)』
 そして記念すべき200作目は、江戸後期に天然痘という伝染病に、牛痘というワクチンを、命を賭けて普及させた医師の物語「めっちゃ医者 笠原良策(かさはら・りょうさく)」。・・ちなみに(めっちゃ)というのは、あばた(小さなくぼみ=おでき)の事です。
 一つ一つ、発表してゆきますからお楽しみに!
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(200作『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策』)

紙芝居:『鬼となった元三(がんざん)大師』(その3 最終回)

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永観2年(984)、元三大師72才の時、疫病が大流行します。
そして、比叡山の元三大師の元にも、疫病の疫病神が現れます。
 疫病神は元三大師の枕元に現れて、襲いかかろうとしました。
 するとそれに気がついた大師は、「ここから身体の中に入れ!」と小指を差し出して、疫病神をご自分の体内に入れたのでした。
 そして・・.
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ご自分はデビルマン、いや鬼に変身して自分の体内で疫病神と戦いやっつけ、見事に追い出したのです。(元三ビームは熱光線!元三キックは悪くだく!仏のチカラ~、身に付けたー、比叡のヒーロー、元三マーン!)
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そして目が覚めた元三大師は、弟子たちに大きな鏡を持って来させて、その前で座りました。
そして、こう言われます。
「良いか、今から鏡に写す姿は、わしが疫病神と戦い追い払った時の鬼の姿じゃ! お前たちはこの鬼の姿を、半紙に写してそれをたくさん印刷し、世間で、疫病を恐れる人の家の玄関に、貼るように命じなさい。きっと疫病の疫病神はそれを見て、わしじゃと思って退散するに違いないから!」と言われました。
 そして、その一年後、正月(元旦)の三日に亡くなられました。
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これが今も残る有名な[元三大師のお札]です。
 今コロナ禍な中、様々な疫病退散のお札が注目されていますが、その中の一つ、この元三大師のお札は、庶民を疫病から守ろうとした一人のお坊さんの願いが込められた物なのです。
 このお札、玄関に貼ってあるのを見られた方も多いはず。
 このようなエピソードがある立派なお坊さんの一生のお話でした。おしまい
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(四天王寺 元三大師堂)

紙芝居:『鬼となった元三(がんざん)大師』(その2)

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康保三年(966)、元三大師は若くして(55才で)[第18代天台座主]に就任。お山のトップに立ちます。
 そして荒廃したお寺を立て直し、改革してゆくのです。
 がしかし、就任三か月後・・・、 
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 比叡山から山火事が発生。
 根本中堂・横川中堂など、主なお寺の大伽藍がすべて焼けてしまいます。
 が、元三大師はたぐいまれな手腕を発揮して、お寺の造営・再興に成功させます。
 これによって、元三大師は比叡山の[中興の祖(復興の偉大な統治者)]と呼ばれるようになります。
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 がその後、またまた問題発生!
 お寺の中での風紀は乱れ始め、山法師たちは暴れ、僧侶たちの対立騒動が激しくなっていきます。
 そこで悩んだ末、トップとして、すべてにおいて決断せねばならぬ元三大師は・・、
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 中国の古い学術書を研究して、そこから、仏様に祈り物事の良し悪しを占いで決める『おみくじ』法を編み出しました。
 これは一番から百番まで、観音様のみ教えを、小さな紙に小分けして書きます。
 そして仏さまにお祈りした後、くじを引き、出たくじの番号によって、そこに書かれてある仏さまの教えを吟味して、物事の良し悪しを占うというものでした。
 これは今の『おみくじ』の元祖です。(※これは伝説であって、フィクションであるとも云われてもいます。・・が、今でも比叡山ではこのおみくじ占い法というものがあり、お坊さんが一般の方を占ってくださいます。(要予約)これは安易なものではなく、カウンセリングのようであり、真剣な心構えが必要でもあります。以上余談)
 どうしても自分で決める事が難しい、と思われることをこれによって仏様のお告げと受け取り、決めたのですね。
 つづく
 

紙芝居:『鬼となった元三(がんざん)大師』(その1)

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昔むかし、今からおよそ1100年前のお話。
 これは京都は『比叡山延暦寺』のひとりの(元祖おみくじ発明者ともいわれている)偉いお坊様のお話です。
 このお坊様はお正月(元旦)の三日に亡くなられたというので、『元三(がんざん)大師』とも呼ばれています。(本当は[慈恵大師・良源]さまと言います)
 そして、又この方は当時流行した[疫病(えきびょう)]から人々を守る為に、身体を(デビルマン、いや違います・・)鬼の姿に変身させたという伝説もあるのです。
 それでは平安時代の僧、元三大師の(伝説からなる)お話をさせて頂きましょう。デビッーール!(昔、僕はデビルマン大好きでした)
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 元三大師こと、良源(りょうげん)さまは『平安時代(延喜12年[912]』に近江の国浅井郡(今の滋賀県長浜)に生まれたと伝わっています。
 信心のあつい母親の勧めもあり、12才で得度しお坊さんになられました。
 そして[良源]という名前をもらわれます。
 が、この紙芝居では『元三大師』という名前でお話を進めます。
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 元三さまは修行場所を『比叡山延暦寺』に移し、さらに厳しい修行に打ち込んでいかれます。
 もとより頭も良く、お話も上手であったという元三大師。
 厳しい修行にも耐えて、どんどんお寺の中で出世していきます。
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(四天王寺・元三大師堂)
 つづく

堺市『極楽寺』さまの永代経法要in2021

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本日、堺市の『極楽寺』さまの[永代経法要]にお招き頂き、今年も紙芝居法話の出講をさせて頂いて来た。
 コロナ禍が再び拡大して来た中、ご門徒さんのご参拝状況はいかがなものだろうか?と心配していたが、お寺の中がコロナ対策をきちっと取っておられた事もあって、約20名ほどの門徒さんがお集まりになってくださっていた。
 お一人お一人がマスクをして、静かにお念仏をして法要に厳粛にご参加されているお姿は素晴らしく感動させて頂いた。
 毎年ご法縁を頂き、本当にありがたいことでした。合掌

納骨の儀式

今日、九十五才でお亡くなりになった檀家さんの満中陰(四十九日)法要があり、お勤めさせていただいて来た。
そしてお勤めが終わってから、近くのお墓にご一緒にお参りして、納骨させて頂いた。
 その時、息子の喪主さまが「先に亡くなった母の遺言で『私が先に亡くなったら、お骨は仏壇に置いておいて、主人が亡くなりその納骨の時に一緒に、混ぜてお墓に納めて欲しい』と言っておりまして、今日はそのようにさせて頂きます。」とおっしゃって夫婦二人のお骨を混ぜてお墓に納めた。
僕は「仲が良かったのですね。」と言うと、「そうでもないのですよ。晩年は良く喧嘩してましたから。夫婦ですからいろいろありましたしねぇ・・何考えてたのかねぇ。はっはっはっ」と笑って言われた。
 最近は夫婦で一緒にお墓に入りたくないと言われる方が多い中、良い話だなぁと、満開の桜の下で僕は思った。合掌

新年度(四月)の法話会・講演会の予定

 コロナ禍ではありますが、新年度(四月)の法話会と講演会の予定が入っています。
 四月七日に、堺市の浄土真宗極楽寺さまの「永代経法要」記念法話会。
 こちらには、毎年ご縁を頂戴しお招き頂いております。
 今年は、疫病についての宗教的な紙芝居を中心に、ご法話させていただこうと考えております。
 そして四月二十日は、「河南町食生活改善推進協議会・設立30周年記念式典」の記念講演を頼まれております。
 「大きな記念大会ではありますがコロナ禍なので、短い時間でインパクトのある(食事にまつわる)良い話を!又そんな紙芝居があればやって欲しい」と、(・・難しいお話ですよね)頼まれましたので、エエ話(笑)を今考えております。(よろず屋紙芝居演者です。なんでもお引き受けしております[笑])
四月二十三日は、「河南町介護者家族[さくらんぼ]の会・総会」の記念講演を頼まれた。こちらも会長様から「今このコロナ禍の社会状況を鑑み、家庭内の介護者家族達が、為になり、又元気が湧いてくるようなお話を頼みます!又そんな紙芝居があればやって欲しい」とお願いされましたので(無茶でっせ。笑)、今お話を模索中です・・。
 一生懸命考えたら何とかなるやろ!?の精神で、相手様の気持ちを良く良く考えてと今悩んでいます・・。でも、どないなるやろか?不安もあるわ。

紙芝居:『星に願いを〜岩橋善兵衛ものがたり』(その4 最終回)

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今や大人気となった善兵衛さんの望遠鏡。
京都・大阪・江戸の大名屋敷の武士や、又海運業の大商人からも「是非とも善兵衛殿の望遠鏡が欲しい!」と言われ、一つ一つ作っては納めました。
 又その精度の良さから、日本地図を初めて作った[伊能忠敬(いのうただたか)]公も、善兵衛さんの望遠鏡を持って、日本中を歩き測量したそうです。
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 もちろん当時、日本で望遠鏡を作ったのは善兵衛さんだけではありません。
が、自らレンズを磨き、望遠鏡作りを専門としたのは、日本においては善兵衛さんだけでした。 
 その為、性能では他を圧倒していたのです。
 がしかし、望遠鏡販売によって得たお金を、より精密な望遠鏡の研究費用に当てた為に、善兵衛さん家は常に貧しかったそうです。
 夜空の光輝く星々に興味を持ち、もっと知りたいという夢を持ち、勉強し努力を続けた善兵衛さん。
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 文化八年(1811)、行年56歳で亡くなりました。
 法名は[釈 義天]。辞世句「今死ぬる 既に燃火(もえび)の消え失せて 無量寿仏(=阿弥陀仏)と なるぞ嬉しき」
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現在、善兵衛さんの故郷であった貝塚市では、その偉大な功績を讃えて[善兵衛ランド]を開館しています。
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 ここは、ドーム式天体観測室のある大阪府下最大の天文台施設です。
 又もちろん、善兵衛さんに関する資料の展示や実際の望遠鏡も見ることが出来ます。
 星が好きで、星に夢を持った善兵衛さん。
 皆さんも一度、こちらの施設で、善兵衛さんと同じ夢を味わってみては如何でしょうか。おしまい

紙芝居:『星に願いを~岩橋善兵衛ものがたり』(その3)

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いつしか善兵衛さんは37才になっていました。
 今や一人前の科学技術者となった善兵衛さん。
 大阪貝塚の自宅に帰り、本格的な[望遠鏡]作りを開始しました。
 そして寛政五年(1793)、ついに新たな高性能の[望遠鏡]が完成したのでした。
 善兵衛さんは、それを『窺天鏡(きてんきょう)』と名付けました。
 そしてその年の七月・・・、
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 京都伏見の恩師の元(=『黄華堂(こうかどう)』)に、窺天鏡(望遠鏡)を持って行き、そこで当時の文化人たちと共に、日本初の『天体観望会』を開いたのです。
 その観望会に出席した文化人の一人の先生がこう記録しています。
(以下、現代語私訳)「・・この望遠鏡は普通の物より10倍は長い。・・木星を観ると本当に円形をしており、まるで満月のようである。・・これを作った大阪貝塚の善兵衛という男、世にまれなたくみ職人である。」と。
 この成功に自信を得た善兵衛さんは、この後さらに工夫を重ね、新たな望遠鏡を作り出していきました。
 又、模倣品の防止の為か、自分のオリジナルシンボルマーク(車の形)をあみ出して、望遠鏡に塗装しました。
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(貝塚市:善兵衛ランド)
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(善兵衛さんの窺天鏡(望遠鏡))
つづく

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