(作成中)
現在、記念の220作目の紙芝居を作っている。
題名は『大阪・北御堂ものがたり(仮題)』と名付けた。
ストーリーは‥、大阪の天満にあった本願寺が、豊臣秀吉の命令によって京都への強制引越し。‥後に残った場所に大阪商人達の力によって『北御堂(津村別院)』が建てられ、繁栄と火災、空襲などを経て、現代に至るまでを描いた作品(133作『石山合戦始末記』の続編)にしようと思っている。
大作になると思っているので、少々完成までお時間を頂きます。合掌
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記念の220作目紙芝居は『大阪・北御堂ものがたり』
本日、宗教新聞『中外日報」に掲載されました。
本日、宗教新聞『中外日報』に、先日の[郷土の人々紙芝居公演会]の模様が掲載されました。
‥ちょっと文面を読んで見ますね。
「‥今年2月に心臓弁膜症の手術を受けた宮本住職だが、紙芝居歴25年間で培った聴衆の心をつかむユーモラスな語り口は健全で、多くの来場者を楽しませた。
紙芝居の公演は旧河澄家の当主と親交のあった上田秋成関連史料の展示会(9月24日まで)に合わせて行われたもので、住職は秋成の生涯や『雨月物語』の一遍「夢応の鯉魚」などを題材とした紙芝居を披露。時折、漫才コンビ・ミルクボーイのネタをパロディ化したセリフを織り交ぜたり、紙芝居に関連した曲を流したりするなど聴衆を飽きさせない工夫をちりばめ、会場からは拍手や笑いが起こっていた。‥」
こんな感じで、写真付きでいっぱい公演模様を掲載してくださいました。
ありがとうございました。合掌
東大阪市:旧河澄家『郷土の人々 紙芝居公演会』〜上田秋成と木村蒹葭堂
今年も東大阪市の『旧河澄家企画イベント』として、[郷土の人々 紙芝居公演会]を開いて頂いた。
(旧河澄家)
今年のテーマは『上田秋成と木村蒹葭堂』。
江戸時代後期の文化偉人たちである。
この河澄家と上田秋成は深い縁があって、こちらで、秋成は煎茶などを楽しんだ。
その秋成自作の煎茶道具などの品々の展示もして下さっている。
いわば豪華な展覧会だ。
その歴史の舞台で、僕は紙芝居をさせて頂いた。
『何という光栄な事であろう!』と秋成ファンの僕は心から喜んで紙芝居をお集まりの観客の皆さんの前で披露した。
ああ、江戸時代のゲゲゲの水木しげる先生、いやホントに性格から何から何まで秋成さんと、作風がよく似ている‥と思っている。
このような機会を頂けて、旧河澄家スタッフの皆さま、本当にありがとうございました。合掌
西徳寺さま『盂蘭盆法要』への紙芝居法話
専念寺様の『お盆法要』への出講
昨日の夜の座、富田林市板持の『専念寺』様のお盆法要にお招き頂き、紙芝居法話に出講させて頂いた。
コロナ禍から、4年ぶりの出講である。
子供さんも含めて、本堂は満座であった。
紙芝居は『お盆の話』で始まり、コロナで4年ほど出来なかった地元の紙芝居『浪花千栄子物語』。
そして、僕の手術の話から麻酔の話に入り、これもある意味地元の『華岡青洲物語』の初披露。
最後は、『聖人一流の章の話』の紙芝居で終わった。
最後まで、ご鑑賞頂き専念寺の御門徒の皆様、そしていつもご親切に接してくださる寺院ご家族の皆様、本当にお世話になりありがとうございました。合掌
月光寺様『最後の寺子屋』への出講
『飛び出す、極楽浄土!』ミニ紙芝居が完成しました
雨樋掃除と新ネットの取り付け
今、雨樋掃除とネットの取り付けを、業者の方に来てもらいミニ工事している。
原因はムクドリの巣である。
お寺の雨樋の中に巣を作り、雨水が流れなくなった為だ。
このままでは、お寺の木の壁が雨水で跳ね返り腐ってしまう。
結構、大掛かりだが事は急がねば。
工事は巣立ちが終わった今しかないのだ。
令和五年『郷土の人々 紙芝居公演会』 今年は上田秋成展
紙芝居:『二人の衣通姫(そとおりひめ)』(その4最終回)
『古事記』(後編)
そして四国の愛媛にて、衣通姫は軽王子と無事再会します。
ここで、ようやく二人は世間の目を気にせず、これからひっそりと暮らしていけると思いました。
・・、がしかし、
都では、
『流罪となった軽王子が復讐の為、四国の軍隊を率いて、都に攻め登って来る!』との噂が流れておりました。
それを恐れた弟の安穂の王子は、都の軍隊を引き連れて、四国へ向かって攻める準備をしていました。
この噂を聞いた軽王子は自決を決意しました。
「私がこの地で生きている限り、戦争が起こり、多くの人たちに迷惑が掛かるだろう。
だから私は自決する事にする。その方が良いのじゃ・・。衣通姫、そなたはどうする?」と言うと、
「私は貴方がいなければ、生きてゆけません。私もお供いたします。」と言いました。
そして二人は自殺しました。
これが、日本史上最初の心中事件といわれています。
こうして、禁断の愛に生きた衣通姫と軽王子は、悲劇的な終わりを告げました。
現在、愛媛県松山市の『軽の神社』には、二人のお墓と思われる石碑が二つ仲良く並んで祀られています。
・・がこれが、王子と姫のものかは、はっきりとはわかっていません。
さて、この『二人の衣通姫』ですが、どちらの姫も絶世の美女で、どちらも悲劇的で、又どちらも不道徳な雰囲気を醸し出しているように感じます。
ひょっとすると、衣通姫というのほ、世の中が社会的モラルを打破したい願望の代名詞として、世間が名付けた名前であったのではないのでしょうか?・・・知らんけど。 おしまい
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