住職のつぼやき

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河内長野の偉人[中村與次兵衛(よじべえ)]と寺ヶ池(てらがいけ)

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(河内長野の寺ヶ池)
中村與次兵衛さんは地元.河内長野の偉人である。
江戸時代初期の生まれで庄屋であった。
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(寺ヶ池の石碑)
地元の水不足の田畑を見て志を立てて、小さな池[寺ヶ池]の改築を提案した。
そしてハキロ先から膨大な水路を作り、水を流し込み大きな池に再築造し成功させる。
のちその業績から[代官]に任じられ、その後何故か出家してお坊さんになり生涯を終えた。
庄屋から代官へ、そして僧侶になった與次兵衛さん。その動機は何であったか?
偉大だが、変わった人には違いない彼の心に寄り添って、その生涯を紙芝居で追いかけたい。
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(水路の一部)
僕は201作目の紙芝居にこの人を選んだ。
地元河内長野観光ガイドボランティア活動の有志の方々と共に実際今、調査して作りたいと思っている。こうご期待を!
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(與次兵衛さんのお墓)
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(與次兵衛さんの出家したお寺[極楽寺]さま)

『郷土の人々 紙芝居原画展』、東大阪市・旧河澄家にて開催します!

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 東大阪市日下(くさか)町にある[東大阪市指定文化財]『旧河澄(かわずみ)家』にて、
【郷土の人々 紙芝居原画展】が、令和3年8月27日(金)~9月26日(日)までの一か月間、開催されます。
 東大阪の地元のヒーロー・ヒロインたち、大和川を開いた[中甚兵衛]さん、御母様のご実家がこちらの河澄家である歌人[石上露子]さん、東大坂でも活躍され、ただ人の為に生きた[行基]様、そして一時はこちらの地域で修業された[慈雲尊者]等の御一生・・。
 まだまだたくさんの郷土偉人がおられますが、今回はこの方たちに絞って、拙僧の紙芝居の原画展を[東大阪市指定文化財]河澄家で展示して下さいます。
 コロナ禍が少し収まって来たこの頃、よろしければどうぞ[旧河澄家]へいらしてください。
 又その期間中、こちらで『郷土の人々 紙芝居公演会』も開かせて頂きます。 日時は、8月29日(日)13:00-15:00です。 
 定員20名、参加費無料です。
 お申込みは、8月4日(水)9:30より、旧河澄家にて電話かHPで開始です。
 電話・フアックス 072-984-1640
 HP http://www.kyu-kawazumike.jp
 場所 東大阪市日下町7-6-39 休館日月曜日
 
 
 

コロナ禍の影響か?!

これもコロナの影響なのか?・・年忌法要が連日続いて忙しい。
これは昨年、コロナ禍が起こり「感染が怖いので年忌法要を一年遅らせて欲しい」と言われその通り遅らせていたが、コロナがまだ今になっても収まらない。
 で、今年はやはり法事をやって欲しいと言われ、今になってどっとニ年分の法要が押し寄せたのだ。
 たいてい法要は土日が多いのだが、忙しいので平日に変更してやらせてもらい、読経を続けている。
 という事で、毎日ヘトヘトです。

東大阪:教蓮寺さま仏婦会への紙芝居法話

本日、東大阪市教蓮寺さまの仏教婦人会総会へお招きいただき、紙芝居法話を実演させて頂いた。
 コロナ禍にも関わらず、仏教婦人会の会員様が20名ほどお集まりになり、万全なコロナ対策の中、仏教紙芝居を三本させて頂いたのだ。
 教蓮寺の皆様、大変お世話になりありがとうございました。合掌

紙芝居法話25年!

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(2011年『よーいドン!「隣の人間国宝さん」より』)
 振り返れば、『お寺の出前』も今年の六月で25年になる。
 およそ四半世紀に渡って『紙芝居』を作り演じている。
 又、今月で1144回の講演になる。‥ホンマよう続くわ(笑)
 そこで今回は、この25年にマスコミに出演した写真を少し載せます。
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(タレントの円広志さんと)
 まずは『よーいドン!』という番組で円広志さんがお寺に来られた写真を。
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(2011年 NHK『ニューステラス関西』より)
 次にNHKの夕方に放送された『ニューステラス関西』より一枚。この番組はのち『おはよう日本』にもそのまま使われたらしい。‥後で聞きました。とても長い取材でしたわ。
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(2013年NHK『ええトコ』「お寺工夫してまっせ」眞鍋かをり・酒井敏也レポーターより)
 有名タレントさんが『お寺の出前』に取材に来られました。
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(2019年『ナニコレ珍百景』より)
 これは最近の取材かな。『ナニコレ珍百景』という番組が来られて、地元の不思議を解明するというテーマで来られた。
 その他にも、写真は残っていないがちょこちょこっといろんな番組に顔を出しています。
 そんな25年の思い出話でした。

紙芝居が200本になりました!

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今から10年前の2011年・・。
 民法テレビの『キラキラテレビ』というミニ番組が取材に来られた。
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 題名は『出前をするお坊さん』でした。
 全国放送だったので、放送終了後知らない人たちから電話のラッシュがありました。
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 撮影期間は短かったですが、当時100本あった紙芝居をお寺まで来られてしっかり映して頂いた。
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 その放映最後にデレクターから「宮本さんのこれからの夢は何ですか?・・それを最後に流しますので。」と言われた。
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 僕は「後、100本は紙芝居を作りたいですね。ハハハハハッ。紙芝居200本!」と言ったら、それがそのままラストに、
『紙芝居200本に挑戦!』とテレビでは流された。
 その時は心の中で「200本なんて無理無理・・。」と思っていたが・・・それが現実となりました。
この10年間で100本作ったことになる。
 さて、これからの挑戦はどうしましょうか?
 ゆっくり考えましょう。合掌

紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その6 最終回)

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そして嘉永4年(1851)、福井藩は公立の[種痘所]=(ワクチン接種無料の『除痘館』)を作った。
ここの責任者となった良策の悲願はついに達成されたのである。
「もうこれで沢山の大八車に乗せられた遺体の行列を見なくて済む・・。わしは果たした。」と良策は呟いた。
 この良策の仕事は、この2年先の嘉永6年(1853)までに、6595人の庶民にワクチンを接種することができたという事である。
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 そしてやがて江戸時代は終わり、近代国家・明治時代に移り・・。
 良策は、福井で「種痘事業」が完全に根を下ろした事を見届け、その後、東京へと移住する。
 そして明治13年(1880)、病いに倒れ亡くなった。
 享年72才。
 その死顔はワクチン事業を成し遂げた満足気な表情であったそうである・・。

 それでは、この紙芝居は笠原良策の残した一つの歌で終わるとしましょう。
『たとえ我、命死ぬとも 死なましき、人は死なさぬ 道開きせん』=(たとえ自分は死んでも、死ななくても良い人は絶対死なせない。そういう道を私は開きたい。)
お墓は、福井県の大安禅寺にあります。
 おしまい

紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その5)

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「この牛痘さえすれば、一生[疱瘡(天然痘)]にならんでええんじゃぞ!」
 と、良策は福井の町中を回って宣伝し続けた。
がしかし・・.
「牛の膿(うみ)を身体に擦り込んだら、わし等の子供も牛のようにツノがはえて、牛になって死んでしまうべ!」
「あの医者はとんでもない嘘つきだべ!偽医者だ!めっちゃ医者だ!」
と、悪い噂はあっと言う間に広まり、町の人々は良策の姿を見ると石や雪などを投げて追い払った。
 又、役人の武士たちも、それを見て見ぬフリをした。
 そう、福井藩では、良策のワクチン接種運動は完全に空回りしたのであった。
 それに、本来味方であるべき漢方の医者たちも「良策の言うことを信じてはいかんぞ!」と言いふらしたのである。
 良策は自分の全財産を使って、これまで無料でこの(ワクチン)接種をしようと頑張ってきた。
 が、誰もが彼を無視し、今や良策は身も心もずたずたになろうとしていたのである。
(余談になるが、大阪の緒方洪庵は『牛痘法』を嫌がる庶民に対して、お米やお菓子を手渡す事で、ワクチン接種を広めたらしい。さすがナニワのお医者様!(笑)・・商品券や宝くじなどを渡してコロナワクチンを広めようとするどっかの国とよく似ているな‥(苦笑))
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 がしかし、それから半年ほど経ったある日、事態が急変した。
 藩のお役人から呼び出されたのである。
 役人は、「笠原良策、牛痘法はすばらしい天然痘の治療法である事が他藩からのしらせで解った。これから我藩でも、この治療法を全力をあげて推進していきたいと思う。良策、お前は福井藩の先頭に立って励むよう。‥又、理解の無い町医者たちには我々が厳しく処罰するでな。わかったか良策!頼むぞ。」と、申し渡されたのであった。
 良策は泣いた。
 心の中では『理解が無かったのはあなたたちも同じではないか!』と叫びたかったが、皆の命を救うためと怒りをぐっと我慢した。
 そして『これで天然痘から福井藩を救えるぞ!』と涙を流し続けたのであった。 つづく 次回 最終回

紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その4)

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良策は思った。
「先日も、緒方洪庵という医師が大坂からやって来て[牛痘]を持ち帰った。彼なら大坂の町の予防接種は大丈夫だろう。・・もうこれで、京・大坂の町は大丈夫だ。・・いよいよ次は我が故郷[福井]だ!」と。
 そう、彼はまだ地元・福井の町で牛痘予防接種をしていなかったのである。
 風の便りによると、どうやら福井の町でも天然痘の患者が増えているらしい・・。
「が、今は真冬だ!どうする良策!?京から福井へ行くには大雪の峠を種痘しながら、子供達を連れて行かねばならない。予防接種は大人ではなく子供達でないとダメなのだ。そんな事が果たして出来るか?・・こう考えている内にも福井に犠牲者が出ている。」と、良策は自答自問を繰り返していた。
 そして、彼はやがて決断した。
「よし!子供達を連れて種痘をしながら、福井に行くぞ!」と。
 嘉永2年(1850)11月19日、4人の子供と8人のその親、そして良策を合わせた総勢13人は、京都を出発した。
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 それは子どもの腕に種痘(ワクチン)をして出発して、途中、次の子供に植え継ぎしながら進むという7日間予定の旅だった。
 旅の途中、[栃の木峠]という難所で大雪になった。
 一向は雪の横なぐりに合い、子供は泣き叫び、2メートル以上の雪の中に埋まってしまった。
「もうダメか!・・」と思ったその時、
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「あっあれは!」
 奇跡のような二つの松明が見えた。
 それは、良策達の旅の話を聞いて、身を案じた先の村の住民達が、迎えに出て来てくれていたのであった。
「助かった・・!ありがとうございました。」と良策達は手を合わせて感謝した。
 こうして無事、福井の町に着いた。
「これで福井の人々を天然痘の恐怖から救う事が出来るぞ!」と、良策は喜んだ。
 が、彼は甘かった。
 もっと大きな試練が、次に待っていたのであった。
つづく
 

紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その3)

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 良策35才。
 一度京都から福井に帰った彼だったが、さらに研鑽を積むべく、再び京都に出て西洋医学を学び初めていた。
 そんなある日、師匠からビックリするような話を聞いた。
「良策、天然痘に罹らなくて済む方法が見つかったぞ!ヨーロッパのジェンナーという医者が発見したんだ!」と。
 ・・それは[種痘(しゅとう)=[牛痘接種]という方法だった。
 これは、天然痘に一度罹った牛の膿(うみ)を、人間の腕にメスで少しだけ傷つけて植え付けるという方法だった。これをすれば、死ぬまで人間は天然痘に罹らないで済む・・という方法だった。
 この方法はすでに実証済みで、天然痘へのワクチンの大発見だった。
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嘉永二年(1849)、40才になった良策は、数々の困難を乗り越え、師匠と共に努力して、牛痘の苗(ワクチン)を外国から(長崎経由で)手に入れた。
そして子供達へのワクチン接種に成功したのだった。
 当時、この接種の難しさは、子どもの腕にメスで牛痘を植え付け、膿が吹き出るまで待ち、それを取って、別の子どもに植え継ぎしなければ効果が出ない事なのだった。・・これが少しでも遅れれば、ワクチン効果がなくなってしまう。
 つまり駅伝タスキのようなスピード感が必要なのだった。
 が、良策達はこれに成功した。
 そして京都で150人以上の種痘を済ませ、命を救ったのである。
 つづく

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