(紙芝居『夫婦善哉』の宣伝チラシ)
今年の11月6日(日)、富田林市[旧杉山家住宅]で、織田作之助原作の紙芝居『夫婦善哉』を披露する。
(道頓堀)
そこで、原作の舞台地の大阪難波、道頓堀へ取材に(再び)行って来た。
(法善寺・水掛不動)
取材先は二箇所。甘党のお店『夫婦善哉』と西洋レストラン『自由軒』である。
まずは法善寺・水掛不動さんでお参り。
(夫婦善哉)
そしてその真横にある『夫婦善哉』店で、そのまんま名物「夫婦善哉」を頂く。
(自由軒:ライスカレー)
そして、西洋レストラン『自由軒』で名物「ライスカレー」を頂いた。
織田作原作のそのまんまに、今も同じ味が味わえるのです。
今年の紙芝居公演も、これで気持ちが入ります!
記事一覧
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紙芝居『夫婦善哉』取材、再び!
滋賀県東近江市:『真照寺』様の[親鸞聖人七百五十回御遠忌法要]への出前
5月28日、滋賀県東近江市の浄土真宗『真照寺』様の(コロナ禍で延期になっていたという[親鸞聖人七百五十回御遠忌法要]の記念法話にお招き頂いた。
(真照寺様)
遠方なので、ビジネスホテルで一泊した。結構お客様はいっぱいでした。
(記念法話の様子)
厳粛な雰囲気の満堂のご本堂で長いお勤めの後、いよいよ僕の出番です。
(お釈迦様に変身)
約一時間半の紙芝居法話をたっぷりお話しさせて頂きました。(このような時期だからこそ、楽しい話、元気の出る話をとご住職からのリクエストがあり、そのような紙芝居をチョイスしました。)
真照寺のご家族の皆様、役員の皆様、御門徒に皆さま、本日は誠におめでとうございました。そして、ご法縁有難う御座いました。
(近くの太郎坊宮)
前日に寄った聖徳太子御縁の太郎坊宮。
(近くの石塔寺内阿育王(あしゅくおう)塔)
そして、仏舎利(お釈迦様のお骨)がある石塔寺もお参りさせて頂きました。合掌
富田林:「光盛寺」様の永代経法要
本日、富田林の光盛寺さまの[永代経法要]に御法縁を賜り、紙芝居法話に行かせて頂いて来た。
コロナ禍で、3年間法要はお休みされていたそうで、今日は晴天でもあり、沢山の御門徒さんで本堂は満堂であった。
又、久しぶりにお顔を合わされたお方もあり、大変賑やかな法要でもあった。
光盛寺の皆様、大変お世話になりました。有難うございました。合掌
観念寺永代経法要in2022
豊中市:法雲寺さまの永代経法要in2022
富田林『土間でおはなし 住職さんの紙芝居』in杉山家住宅
紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その5最終回)
・・が、これだけこじれた状況に、なったのですから、中々うまくはいきません、
やがて、自分を誘ってくれた友人[細川]氏も亡くなり、北の朝廷の中で、正儀は孤立してゆきました。
今、五十才をはるかに越えた正儀は、戦いに疲れ人間関係に疲れ、精神的にも疲れ果て、故郷恋しの気持ちを押さえる事ができなくなっておりました。
そしてその気持ちが高じて・・、
またもや正儀は、北の朝廷を裏切り、故郷の南の朝廷の元に帰ったのでした。
この帰って来た正儀を再び迎えてくれた故郷の環境、そして人々の想いはどんなだったでしょうか?
その様子は何一つ伝わっていません。
そして不思議な事に、帰還して間もなく、正儀の歴史の記録がここで消えてしまうのです。
一節には「正儀はこの後すぐ戦死した」とか、「自害した」とか言われていますが、はっきりとはわかりません。
それから、正儀が亡くなってまもなく、足利幕府の三代将軍[足利義満]により、北と南の朝廷は和睦して統一へと向かいました。南北朝時代の終結です。
皮肉な事に、正儀の死と共に平和な時代が来た事になりました。
正儀の死とは関係無く・・。
この南北朝時代の動乱の始まりから終わりまで、およそ60年の歳月が経っておりました。
楠木正成から始まり、その子正行、正儀まで、楠木一族の攻防の歴史は、これにて終わりを告げます。
後世の一部の人は言います。
「それにしても、父や兄とは違って、楠木正儀という武将はなんという優柔不断な男だったのだ・・」と。
・・が、本当のところはどうだったのでしょうか?
それは永遠にわかりません。
が、ヘッドハンティングや転職が当たり前の時代の21世紀の現代人なら、きっと理解されると思われます。
(金剛山 楠木正儀の墓か?)
おしまいつ
紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その4)
・・がしかし、その楠木正儀(南の朝廷)と細川(北の朝廷)との秘密の相談が、味方に露見してしまいました。
「楠木正儀が、北の朝廷と秘密理に連絡を取りあっているらしいぞ!・・あやつ、寝返るつもりか!?」と、噂が立ったのです。
それを聞いて正儀は「ちっ違う!誤解だ!私は皆が仲良く暮らせる方法を探っているのだ!」と賢明に味方に訴えました。
が、誰にも理解されず、益々彼は孤立していきました。
その内、正儀を信頼してくださっていた天皇も亡くなり、新たな天皇や楠木一族にも疑われるようになりました。
「そんなに孤立されているなら、いっそ、北の朝廷側に来ないか。そなたの器量なら北の朝廷は大事にするぞ」という細川からの誘いもあり、(これって今のヘッドハンティングやなぁ・・知らんけど) 正儀は結果的に、身近な家来だけを連れて北の朝廷側に駆け込んだのでした。
そう、正儀は味方を裏切ることになりました。
北の朝廷のリーダー細川氏は喜びました。
「正儀殿、よくぞおいでくださった。さぞやお辛いご決断でありましたでしょう。」と大変感謝して、正儀を北の軍の重要ポストにつけて、暖かく迎えてくれました。
正儀は裏切り者のレッテルを貼られながらも、ここでも南北の朝廷統一に向けて、賢明に働きました。つづく
(金剛山:千早城跡)
紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その3)
それからも、北と南の二つの朝廷の争いは続きました。
正儀は、武家のリーダーとして、戦さの場で懸命に働きました。
そして何度も勝つ、負けるを経て、ついに京の都を奪い返したのでした。
がしかし、念願の京の都に戻れた(正儀等の)南の公家たちは、浮かれて油断しました。
そのすきを見つけた北の朝廷の軍たちは、京の都へ襲い掛かり、その結果またまた、正儀たちは戦さに負けて、河内へと引きあげたのでした。
このようなことが、結果的に合計四度もありました。
疲れ果てた正儀は思いました。
「京の都を制圧しても、逃げた敵は又盛り返して帰って来る。・・そして又奪い返される。こんなことの繰り返しでいつまでも平和は来ない!
・・うーん、それよりも平和的に、北と南のそれぞれの天皇が一代ずつ交代しながら、この国を治めるという考えではどうなのだろうか⁉」と。
ちょうどその頃、北の朝廷内でも(正儀と)同じ考えを持つ[細川]氏という武将が居るという事を知った正儀は、すぐに秘密裏に手紙を書きました。
そして、やがてお互い意気投合した正儀と細川は、極秘に和平の道を模索し始めたのでした。つづく
(富田林:嶽山(だけやま)城跡[現在のかんぽの宿])
(河内の楠木正儀の城と云われている)
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