(津城跡)
5月5日、お天気にも恵まれた今年の『こどもの日』、三重県津市の『浄土真宗本願寺派(西)西光寺』様の〔子供の集い&永代経法要〕にお招き頂き、「紙芝居法話」をさせて頂いて来た。
(津観音寺)
ところで、津市は、僕の弟(図書館勤務)が住んでいるところ。
・・で、(車の混雑も考え)前日から津に行って泊まり、一年ぶりに弟とも会い、食事(うなぎ弁当)を共にすることが出来た。そして、写真の日本三大観音(寺)の一つである『津観音寺』や『津城跡』なども、弟は案内してくれた。(又、次の日にはお寺(西光寺様)まで車で案内してくれた。持つべきものは、やはり弟である。合掌)
(西光寺御住職と)
ところで、なぜこちらのお寺様に御縁を頂いたのかを、少し書かねばならない。
それは、こちらのお寺様の隣にお住まいの〔門徒推進委員(熱心なお念仏者であり、かつお寺の強力なサポーター)〕のAさんが、昨年、うちの寺へ団体参拝してくだったのがご縁で、今回の『御法要』への段取りを(ご住職を通じて)取りはかってくださったという訳なのだ。(この場をお借りして、Aさん、いろいろとご厚情を篤く賜り誠にありがとうございました。大合掌)
(子供の集いの模様)
さて、こちら御法要は(先ほども書いたが、)午前は『子供の集い』であり、子供ちゃん中心の紙芝居(『くもの糸』・『三尺三寸のお箸』など)をして、午後の部は『永代経法要』ということで、大人向きの紙芝居(R15)『アミダ仏物語』と『嫁脅しのお面』をさせて頂く。
又、僕の頼りのない話をしっかりと受けて、まとめの御法話をして下さったK先生にも、この場をお借りして、深く感謝を申さねばならない。大大合掌
さて、個人的な感想を最後に一言。
とても、お話し易かったです。ノリの良い、又熱心なご門徒の皆様、受けて下さって本当に有難うございました! 大大大合掌。
又、ご住職さまのご家族の皆様、(ここでは、そのひとつひとつを、とても書けないほど)たくさんお世話になりました。有難うございました。大・大・大・大合掌!(どんな合掌やねん?!〔大失笑〕)
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三重県津市「真宗(西)西光寺」さま〔子供の集い&永代経〕への出前
今、作り始めている紙芝居
今年の連休は、全日程、『お寺の仕事(ご法事など)』や遠方への『お寺の出前』などが入っていて、なかなか新作紙芝居が作れない。
今年は、上半期でようやく『中甚兵衛さん』と『重源さん』の二本の作品が完成したような次第である。
実は、今作り始めているというか、資料を集めているというか、取材に周っているというか、一度に三本の作品の製作に入っている。
その一本が、『金子みすゞと仏さま』という作品で、熱心な念仏信者であった〔金子みすゞ女史〕と仏教との関わりを中心にして、その生涯を描いた紙芝居だ。
この作品を完成させるに当たって、今年中に山口県の仙崎に取材に行って来ようと思っている。
僕は、金子女史の童謡(詩)の原点は、故郷長門市仙崎での『くじら法会』にあると思っている。
だから、くじらをおまつりしているお寺に一度行かねばと思っているのだ。
二本目が、『円空上人と小さな仏さま』と作品で、生涯12万体の仏を彫ったといわれている〔円空〕さまの生涯を、子供達とのエピソードを中心に描き始めている。
この作品も、三年前より、岐阜県への仕事の途中などに、円空様の史跡などに寄って、調べながら作っている。
そして三本目が、『捨聖 一遍上人』だ。
この作品は、昨年の『犬たちをおくる日』という紙芝居の取材の為に、愛媛県松山市に行った途中に、一遍さん所縁のお寺や神社に取材に廻り、資料を集めたりしている。
ところで、僕は興味が湧かないと、なかなか作品が描けない。
又、昔は、『文(シナリオ)』の完成から紙芝居の製作に入っていたのだが、この頃は、『絵』から入ることが多くなった。
『文』は最近、『絵』が完成した後で(なるべく短くまとめて)書けば良いと思い始めているからである。
だから、最近、画用紙ばかり文具店へ買いに行っているような次第である。(笑)
・・さて、今このプログを読んで下さっている方の中で、『いっぺんに、三本も紙芝居を作って頭の中がこんがらないの?』とおっしゃる方があるかも知れない。
しかし、それは無い。
一度に一本だけ、紙芝居を描いている方が(頭の中が)こんがらがってしまうのだ。 筆が進まなくなってしまうとスランプに陥るのである。
こんな時、違う作品に取り掛かると、スランプを脱出できる。
そして、前の(筆の止まった)作品の製作にうまく戻ることができるのだ。
・・そういうものなのです。・・僕の作品作りって。
東近江市「真照寺」さまの『花まつり』への出前

昨日、滋賀県東近江市にある「真宗(東)真照寺」様の『花まつり法要』にお招き頂き、〔紙芝居法話〕に行かせて頂いて来た。
この日は、ゴールデンウィークの中日であり、又良いお天気でもあったので、名神高速が混雑するだろうと予想し、朝六時には出発した。(それで、混雑には遭わなかった・・です。講演時間に間に合わんかったらシャレにならんもんなぁ。) 
広大な平地が続くの〔近江平野〕の真ん中に、目的地『真照寺』さまは創建されている。(カーナビのおかげで、方向音痴のぼくでも迷わずに着けてよかったっす)
そして法要後に、今日は1時間半の長時間の講演となる。(紙芝居もたくさん演じた・・、声も嗄れた)
その後、お昼からお寺を離れて、近くある(山の中腹の)岩壁に存在する『太郎坊宮』を拝観。(長い石の階段がきつかった)
が、お寺の上から見る近江平野の眺めは格別であった。
この『太郎坊』とは、天狗の名前だそうで、京都の鞍馬山の『次郎坊』の兄なのだそうだ。遠く離れて兄弟の寺が存在するんやねぇ。
今日は、東近江の地をゆっくり散策させて頂く機会まで頂き、真照寺御一同さま、誠に有難うございました。合掌
第2回観念寺「写経会」
昨日、第2回観念寺「写経会」を開いた。
夜の7時半開始にもかかわらず、15名の門徒さんのご参加でした。
読経し、塗香で身を清め、クローブの実を噛みしめ、皆さんと共に、静かな、静かな1時間を過すことが出来ました。
ありがとうございました。合掌
真宗大谷派「圓受寺」様ご一行の団参

本日、尼崎から、真宗大谷派の「圓受寺」さまご一行が、(団体参拝)バスでいらっしゃった。
こちらのお寺様は、本日、難波別院(南御堂)にて、『親鸞聖人750回大遠忌法要』にご参拝され、その帰りにうちに寄ってくださったという事で、こちらに着かれた時、すでに少々お疲れ気味だと感じた。
・・で、(眠気を覚ましてもらおうと)テンションを上げてお話させて頂いたのだが、その結果、紙芝居のセリフをあちこちで噛んでしまいました。(すんませんです、はい)
ところで、この上の(写真)は、こちらの御住職さま所有の『仏旗』で、一緒に歩いている時、風にあおられ(又、応援団みたいで)とてもカッコよかったので、ちょっとポーズをつけて写真に写ってもらったものです。(ええ、写真やわ!)
さて、本日の紙芝居は、『三尺三寸のお箸』と『アミダ仏ものがたり』の他に、〔仏の三十二相〕という新作話も、させて頂いた。
なんか、僕はこんなん作るの、又、お話するの、ものスゴイ好きやわ。・・楽しかった。
そして、最後は記念撮影。 長い一日、お疲れ様でした。合掌
紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その6 最終回)

こうして、泥沼になっていた『狭山池』は見事に甦りました。
池の水は、多くの下流地域へと流れ出て、今、豊かに農作物を育み、実らせていこうとしていました。
(農夫)「良かったのぉ、おっかぁ。今年は豊作や!これで飢え死にせずに済むなぁ。有り難いこっちゃ。」
(農婦)「ほんま、これも皆、重源さまのおかげやわぁ。・・あぁ、それと、あの古墳の石棺の仏さんのおかげも忘れたらあかんねぇ。」
(農夫)「そやなぁ。ところで、重源様はその後、どないしてはんねんやろ?・・何か、『あ~っ忙し、あ~っ忙し』っちゅうて、堤が出来たらすぐに帰ってしまいはったもんなぁ。」
(農婦)「へぇ、何か風の噂によると、新しいお寺を建てる仕事を任されたっちゅう事で、めっちゃくちゃ忙しいらしいですよぉ。」
(農夫)「へぇー、あのお坊さんは、確か82才やったなぁ。いったいいくつまで仕事しはんねやろ?」
(農婦)「ほんま、ひょっとして、不死身とちゃいますやろか?」
(農夫)「そんな、あほな。」
(農夫婦)「はっはっはっはっ!」

それからのち、時代を経て、幾度もこの『狭山池』の堤は改修されることになります。
この重源和尚の伏せた『石棺』は、江戸時代初期、再び『取水塔』の石積みとして、再々利用されることになります。(「モッタイナクな~~い!」・・と偉いさんが云いそう)
そして現在。
平成の大改修をきっかけに、再び〔池の底〕から姿を現したこの『石棺』は、今ようやく、そのお役目を終えたかのように、堤の直ぐ北に建つ『狭山池博物館』で、静かに展示されています。
おしまい
紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その5)

(重源)「よっしゃ!皆の衆、石棺を堤の底へ、縦列に並べて伏せるんや!」と、重源和尚は声を掛けました。
こうして〔石棺〕は、堤の〔取水部〕と〔放水部〕に、〔木の樋管〕を挟んで並べられました。(全部、石棺を並べるには、とても数が足りんかったんやね。・・だから、水の勢いが激しく壊れやすい〔入り口〕と〔出口〕の部分に頑丈な《石棺》を並べたんやね。)
そして、やがて土が盛られ、石棺は堤の中に隠れました。
そして、次に重源和尚は、
(重源)「よしっ、次は《取水塔》を作るぞ!
《取水塔》さえあれば、池の水を抜いて流したり、止めたりすることが自由にできるからな。・・いわば《木の栓》や。あちゃら語でいうと、スイッチや。石棺の口の開閉装置やな。」と言って、皆で《取水塔》を築きました。
この工事は、建仁二年(1202年)の二月七日より始まり、同年四月二十四日に終了しました。
つまり、約三ヶ月間の工事でした。(早っ)
工事を終えた民衆は、塞き止めておいた川の水を一気に、狭山池全体に流し込みました。
「おぉーっ!」という歓声が沸き起こり、狭山池は水で満ち溢れてゆきました。
そして次に重源和尚は、
(重源)「よし、一度、石棺を使って水を堤の向こうまで流してみよか。」と言い、取水塔の栓を上げる合図を出しました。
すると、池の水は石棺を通って、堤の向こう側へ、勢いよく流れ出ました。
「おぉーっ」という又もやスゴイ歓声が巻き起こりました。
(重源)「よし、これでエエ、これでエエ。
石棺の仏さんも、これできっと喜んでくれよう・・。」と、民衆の大歓声の中、重源和尚はひとり呟いたのでした。 つづく(次回、最終回)
紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その4)

重源和尚の提案に、村人たちは皆、困惑してしまい、集会が開かれることになりました。
(村の長老)「・・たたりがある!きっとたたりがあるでぇ!墓など荒らしたらあかん!石棺を使うなんてとんでも無いこっちゃ。わし等は反対や!!」と、村の長老は叫びました。
その時です。
子供を抱いた一人の母親が、突然立ち上がり、
(母親)「わては賛成や!
狭山池の水が溜まらんかったら、今年の夏は、必ず田んぼの水が干上がってまう。そしたら、この子供たちは、食べる物がなくて、間違いなく飢え死にや!
・・そんなん、母親として見てられん。
古墳の石棺に眠っとる人って、きっと人の上に立っとった偉いさんやろ!?
きっと、生きてるわて等の気持ちを理解してくれるに違いないよ。・・わてはそう思う。」と、言ったのです。
それを聞いて、みんなは「そうや!」、「そうや!」、「そらそうや」と賛同し、多数決で『石棺』を引っ張り出すことに決まったのでした。(・・母は強し)
(村の民)「よいしょ、よいしょ、引っ張れ、引っ張れ!南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」と、こうして、民衆によって二十個近い『石棺』が古墳より引っ張り出されました。
念仏を称えながら、男も女も皆協力し、力を合わせて石棺が運び出されたのです。
それを見つめながら、重源和尚は手を合わせながら、つぶやきました。
(重源)「古墳の主よ。すまんが、生きとるわし等の為に寝床を譲ってくれ。貴殿たちの石棺は、必ず生きとる人間の役に立つんやから・・。」と。
そして、運び出された『石棺』は、今度は職人たちによって、丁寧に〔上の部分〕と〔下の部分〕の一部が削り取られ、水の通る道《水路=樋》へと変わっていったのでした。
そして、この完成した石の管《石樋=水路》は、又皆で、改修途中の堤へと、曳かれて行くことになったのでした。
(ここで余談ながら、一つの疑問にぶつかる。石棺は引っ張り出され加工された。・・それでは中に眠っていた豪族達のご遺体は、いったいどうなったのか?・・先日、うちのお寺に来て下さった『狭山池博物館』の学芸員さんにその事をお尋ねしてみたのだが、「調査しても解らない」という答えだった。・・が、僕は思う。すべてにおいて抜かりの無い重源和尚のことだ。民衆の事を考えて、どこか別の場所にきっと手厚く埋葬したに違い・・と。) つづく
紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その3)

(重源)「ほぉ~、これが狭山池か。
しかしひどいのぉ・・。堤がみな壊れとる。これじゃ、水は溜まらんわい。しかも、堤の底の樋管(ひかん)も腐ってる。・・これでは、水路が塞がり、堤の向こうまで水が流れんわい。
堤は土を盛れば直せるが、水の〔取水口〕と〔放水口〕には、頑丈な〔石の管〕が必要じゃのう・・。
しかし、今から岩石を切り出し、加工し、水路を作るのは、あまりにも日数が掛かる。
何か良い考えはないものか・・・?
おおっそうじゃ!」。
重源和尚は、何か閃いたようです。
そして民衆を集めて、重源和尚は叫びました。
(重源)「皆の衆、ただちにこの『河内の国』に多く在るという〔古墳〕から、『石棺』をたくさん引っ張り出して来い!
それを使って〔石の管〕を作るんじゃ!
その〔石の管〕こそが、狭山池を生き返らせるに必要な物なんじゃ。」と。
しかし、それを聞いて民衆は『ゲッ!』と、びっくりしました。
(村の長老)「・・しかし、重源さま、石棺ちゅうたら、昔の豪族、つまり王様の眠る棺おけでっしゃろ?!
そんな事したら、罰が当たるんとちゃいますやろか?」と、村の長老が代表して言いました。
すると重源和尚は、
(重源)「大丈夫!仏さんの『入れ物』がもう一遍、生きてるわし等の役に立つんや。仏さんもきっと喜ぶに違いない!」と言いました。
(民衆)「ゲッゲッ!・・それで、いつやるんですか?」
(重源)「今でしょ!」
(民衆)「ゲッゲッゲッ!のジェジェジェ!」 つづく
紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その2)

それは、河内の国(今の大阪府東南部)に位置する『狭山池(さやまいけ)』という大きなため池の修復工事の依頼でした。
この池の歴史は古く、遥か飛鳥時代には、すでに日本最初のダム式人工池として誕生していました。
この池の豊富な水のおかげで、近隣の国々まで作物が豊かに実り、人々は餓えずに済んだのでした。
・・しかし、長年の風雪や自然災害によって堤(つつみ)は壊れ、今、『狭山池』は泥沼に変わってしまっていたのでした。
《以下、(独断と偏見にて)オール河内弁で・・》
(農夫)「あっちゃー、こりゃあかんわ!食い物にならんっ。やっぱし、狭山池の水が無かったら作物は育たんわぃ・・。しかし、このままやったらワシ等はみんな、来年あたり飢え死にしてしまうなぁ・・。早う、何とかせんとなぁ・・。」
(農婦)「でもあんた、わて等には、どうする事もできまへんで。とてもあの崩れた堤は直せまへんよ・・・。あっ、そやぁ!確か、奈良のお寺に〔重源(ちょうげん)〕っちゅう、どえらいお坊さんが居って、この方は壊れた橋や港など、何でも直して下さるって聞いたことありまっせ。
一遍みんなで、お願いに伺ったらどないでっしゃろか!?」。
こうして村の代表が決まり、〔重源和尚〕のお寺に向かうことになりました。
(村の代表)「ほんま、お願いしますわ。重源さま!どうか、わて等の願いを聞いてください。
泥沼になった『狭山池』をどうか、生き返らして下さい!
あの〔ため池〕が無かったら、わし等は来年には皆、飢え死にしてしまうんですわ。」
(重源)「・・ふむふむ、解った。
お前達の真剣な願い、この重源、確かに聞かせてもろたで。・・しかし、一遍、その〔ため池〕を見に行かな、どんな状態になってるのか解らんなぁ・・。
よしっ、行こう!狭山池に!!」と言って、重源和尚はお供をつれて、河内の国へと向かうことにしたのでした。 つづく

