住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その3)

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やがて甚兵衛は、頼りにしていた父親が亡くなり、若干19才ながら、村の代表の一人となり、江戸の勘定奉行所にお願い(嘆願)へと向かったのでした。
 しかしながら・・、
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 一度や二度のお願いぐらいでは、幕府は簡単に意見を聞いてくれません。(これは、今も一緒やなぁ・・)
 そこで甚兵衛は、江戸に留まり、何かしらの仕事をしながら(・・これが何の仕事(バイト)やったのかは、調べても解りましぇんでした)、訴えを続けることにしました。(想像やけど、お金もあったんやろなぁ。)
 やがて三年目に、幕府はようやく、第一回目の大阪『水害調査』&『川の付け替え調査』を行ってくれました。
 ・・が、しかし、調査をされた(新・川筋予定の)土地の住民から猛反対を受け、この計画はすぐに中止になってしまいました。 
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 その後、何度もこの『川の付け替え調査』は行われました。
 が、しかし(こればっかり)、その度に反対運動に遭い、調査は中止。
 こうして甚兵衛は、いつしか35才になっておりました。
 そこで一度、大阪の今米村に帰り、庄屋の仕事に戻り、結婚もして家庭を持ち、地元の仲間たちと一緒に、この訴え運動を続けることにしたのでした。
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 が、そうしている内に、またもや何十年に一度の大洪水が大阪を襲いました。
 世に云う『寅年大洪水』です。
 この時、大和川や池の回りの堤防が皆崩れ、誰もが経験した事の無いような、大阪の町中が水浸しになるという、大被害を出したのでした。
 この事態を重く見た幕府は、四度目の『川の付け替え調査』を行います。
 が、やはりこの時も、強い反対運動が起こり、計画は中止になったのでした。
 その後、幕府は、何度も小さな川の改修工事を行うのですが、すべて根本的な解決策にはなりませんでした。

(余談ながら、僕の実家は大阪の城東区中浜という所にあった。・・いや今もある。子供の頃、家の近くの『どぶ川』が大雨の時、何度も氾濫して、僕の家の中まで流れ込んできたことがあった。その恐ろしい記憶は、今もはっきりと覚えている。・・だから洪水被害と聞くと、今でも身体がビクッと反応するのです。・・その後、この川は埋められ、今では自動車道路になっているが、少し、甚兵衛たちの気持ちが解るような気がするのです。)つづく

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