昨日の夜の座、富田林市板持の『専念寺』様のお盆法要にお招き頂き、紙芝居法話に出講させて頂いた。
コロナ禍から、4年ぶりの出講である。
子供さんも含めて、本堂は満座であった。
紙芝居は『お盆の話』で始まり、コロナで4年ほど出来なかった地元の紙芝居『浪花千栄子物語』。
そして、僕の手術の話から麻酔の話に入り、これもある意味地元の『華岡青洲物語』の初披露。
最後は、『聖人一流の章の話』の紙芝居で終わった。
最後まで、ご鑑賞頂き専念寺の御門徒の皆様、そしていつもご親切に接してくださる寺院ご家族の皆様、本当にお世話になりありがとうございました。合掌
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記事一覧
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専念寺様の『お盆法要』への出講
月光寺様『最後の寺子屋』への出講
『飛び出す、極楽浄土!』ミニ紙芝居が完成しました
雨樋掃除と新ネットの取り付け
今、雨樋掃除とネットの取り付けを、業者の方に来てもらいミニ工事している。
原因はムクドリの巣である。
お寺の雨樋の中に巣を作り、雨水が流れなくなった為だ。
このままでは、お寺の木の壁が雨水で跳ね返り腐ってしまう。
結構、大掛かりだが事は急がねば。
工事は巣立ちが終わった今しかないのだ。
令和五年『郷土の人々 紙芝居公演会』 今年は上田秋成展
紙芝居:『二人の衣通姫(そとおりひめ)』(その4最終回)
『古事記』(後編)
そして四国の愛媛にて、衣通姫は軽王子と無事再会します。
ここで、ようやく二人は世間の目を気にせず、これからひっそりと暮らしていけると思いました。
・・、がしかし、
都では、
『流罪となった軽王子が復讐の為、四国の軍隊を率いて、都に攻め登って来る!』との噂が流れておりました。
それを恐れた弟の安穂の王子は、都の軍隊を引き連れて、四国へ向かって攻める準備をしていました。
この噂を聞いた軽王子は自決を決意しました。
「私がこの地で生きている限り、戦争が起こり、多くの人たちに迷惑が掛かるだろう。
だから私は自決する事にする。その方が良いのじゃ・・。衣通姫、そなたはどうする?」と言うと、
「私は貴方がいなければ、生きてゆけません。私もお供いたします。」と言いました。
そして二人は自殺しました。
これが、日本史上最初の心中事件といわれています。
こうして、禁断の愛に生きた衣通姫と軽王子は、悲劇的な終わりを告げました。
現在、愛媛県松山市の『軽の神社』には、二人のお墓と思われる石碑が二つ仲良く並んで祀られています。
・・がこれが、王子と姫のものかは、はっきりとはわかっていません。
さて、この『二人の衣通姫』ですが、どちらの姫も絶世の美女で、どちらも悲劇的で、又どちらも不道徳な雰囲気を醸し出しているように感じます。
ひょっとすると、衣通姫というのほ、世の中が社会的モラルを打破したい願望の代名詞として、世間が名付けた名前であったのではないのでしょうか?・・・知らんけど。 おしまい
紙芝居:『二人の衣通姫(そとおりひめ)』(その3)
『古事記』(前編)
さて、こちらのお話も允恭(いんぎょう)天皇と皇后が登場します。
・・がしかし、衣通姫は皇后の妹ではなく、皇后の娘として登場するのです。
こちらの衣通姫も絶世の美女、いや美少女なのですが・・、
実の兄を愛してしまうのです。
いわゆる、禁断の恋でした。
こちらの衣通姫には二人の兄さんがおりました。
長男は皇太子『軽王子(かるのみこ)』。
次男は『安穂王子(あなほのみこ)』と言いました。
妹の衣通姫は、長男の軽王子と恋に落ちるのです。
しかし、実の兄と妹との結婚は許されません。
やがて、この事が発覚して、父の天皇の怒りをかいました。
そして軽王子は、皇太子の資格を剥奪され、四国の愛媛県へ流罪となりました。
その後、妹の衣通姫は泣いて暮らします。
その時の姫の歌が残っています。
『君がゆき、日(け)長くなりぬ造木(やまたず)の 迎えを行かむ 待つには待たじ。』
(意味)
「あなたが旅立たれて随分日が経ちました。私はあなたをお迎えに参りましょう。もう待てません。」という意味です。
そして、今の天皇が亡くなった時、衣通姫は命を掛けて四国まで旅立つのです。つづく
紙芝居:『二人の衣通姫(そとおりひめ)』(その2)
「日本書紀」(後編)
しかし、その秘密はやがて、皇后の知るところとなりました。
「ちょっと狩りに行って来る。」と言って、允恭天皇はこの日も出掛けようとすると、皇后が、
「・・動物にも、姉と妹があるでしょうに・・、かわいそうな事。」と言いました。
『ばっばっばれている・・』と、真っ青になった天皇は、
「そうだのう。・・これから動物の殺生は止める事にする・・」と言って、出掛けるのをやめました。
「その方が良いでしょうねぇ」と、皇后はキッパリと言い返しました。
一方、衣通姫は・・、
「今日も、オオキミ(大王)は来ない!」と、茅渟の宮でずっと待ち続けていました。
・・がしかし、天皇が姿を現わすことはもうありませんでした。
そこで、衣通姫は歌を読んで、天皇の元に届けようと思いました。
『とこしえに、君もあへやも いさな取り、海の浜藻(はまも)の 寄る時々を』
(意味)
「海の浜藻が、岸辺に漂うように、たまにしかあなたは私に会ってくれません。寂しいですわ。」という意味でしょう。
しかしこの歌は、天皇の元には届いたのですが、皇后に知られたらいけないという配慮から、『見なかった事にしょう』とされたようです。
そしてこの歌は、現在、泉佐野市上之郷『茅渟の宮跡』とされる、伝承地の石碑に彫られ祀られています。
そして、毎年春に宮跡を守る地域の人々によって、姫をしのぶまつりが行なわれているという事です。
これが『日本書紀』に登場した[衣通姫]の伝説です。
では、次に『古事記』の衣通姫のお話しをしましょう。つづく
紙芝居:『二人の衣通姫(そとおりひめ)』(その1)
古代日本の国で、絶世の美女と言われた「衣通姫(そとおりひめ)」。
実はこの女性、『日本書紀』と『古事記』という二つの書物では、違った描かれ方がされているのです。
それでは、この紙芝居では『日本書紀』と『古事記』に分けて、二つの衣通姫のお話しをいたしましょう。はじまり、はじまり〜
『日本書紀』(前編)
昔むかしの大昔。・・五世紀の前半の頃。
第19代允恭(いんぎょう)天皇が、日本を治めていた頃。
允恭天皇の奥様。つまり皇后様には、一人の美しい妹がおりました。
あまりにお美しいので、『衣(ころも)を通して光輝くようだ!』と、衣通姫と呼ばれておりました。
ある日、允恭天皇は皇后が留守の時、妹の衣通姫を館に招き入れました。
そして、そのあまりの美しさに目がくらみ、姫と結ばれてしまいました。
それからというもの、允恭天皇は皇后にわからぬように、茅渟(ちぬ)の里(今の泉佐野市上之郷あたり)に別邸の宮を建てて、
「ちょっと狩りに行って来る・・」と言っては、衣通姫に元に通ったのでした。つづく
(現在の泉佐野市上之郷・茅渟の宮跡)