皆さんは『恩徳讃(おんどくさん)』という、親鸞聖人の詩を知っていますか?
『如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし‥』
お寺の法要などで、この詩は曲をつけてよく歌われます。
親鸞聖人はこの詩を『正像末(しょうぞうまつ)和讃』という、詩を集めたものの中で発表されました。
それでは、紙芝居で『恩徳讃』の内容をお話させて頂きましょう。はじまり、はじまりー
‥この詩集を作られるに当たって、このような逸話があったようです。
‥それは、昔むかしの鎌倉時代。
親鸞聖人ご高齢の85才の時‥。
この年、ご自分の跡継ぎと信頼していた善鸞(ぜんらん)という息子に教えを背かれた親鸞さま。
‥それで、悩んだ末に善鸞との親子の縁を切ります。
それで毎日孤独を噛み締め、苦しまれます。
そんな時、親鸞さまは不思議な夢を見られるのです。
夢の中で阿弥陀如来様が現れたのです。
阿弥陀さまは親鸞さまに言われました。
「親鸞よ、私は必ず皆を救うと誓ったな!私の言葉、南無阿弥陀仏を信じなさい。
私はその人々を必ず守り、悟りを開かせるぞ!」と。
この言葉を聞かれた親鸞さまほ、「おお、そうでございました。信じていた息子に裏切られ、この底なし沼に落ちたような私ですが‥、阿弥陀さまはこのような私にも、常に光を当てて救っていてくださっていた。
そのお心、この親鸞、改めて気づき頂きました。
そうじゃ、今のこの思いを、私は詩にして書かせて頂きます。」
このような事があり、親鸞聖人はご自分の内面にある悲しみや世の中への嘆きをテーマにして、筆を取られました。
又一方、そのような自分であるからこそ、阿弥陀さまに救われるという喜びも、わかりやすい詩にして書こうとされたのです。
これが、悲しみと喜びの二面性を持った、和讃『正像末(しょうぞうまつ)和讃』なのです。
ちなみに『正像末』とは、正法・像法という時代が終わり、末法という絶望的な時代が今来た。この時代が来たからには、阿弥陀如来にすがるしかないのだ!という意味です。
『恩徳讃』も、この和讃の中に書かれた詩の一つなのです。 つづく
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記事一覧
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紙芝居『恩徳讃(おんどくさん)のお話』(前編)
南郡組『仏教壮年会』への紙芝居法話
奈良教区『大安寺』様がバスで研修に来られました
観念寺永代経法要・2024
豊中市[法雲寺]様の永代経法要への出講
『絵解きの出前』太子街人(ガイド)の会メンバー来院
今日、大阪府太子町から「絵解きの出前します」と銘打った『太子街人(ガイド)の会のメンバーが、紙芝居の見学に来られた。
このほど、ボランティアであるガイドの会のメンバーの方々は、太子町の史跡や伝承を、昔ながらの絵解きで紹介する活動を始められたそうで、大きな掛け軸に、たくさんの絵を散りばめて紹介し、太子町をより知っていただこうとされているそうなのだ。
隣町に、このような活動団体がおられるとは、一匹狼の僕は夢にも知らなかった。
これからも、紙芝居制作に役立つ情報をください。よろしく!合掌
紙芝居『まは、さてあらん‥』(その3 最終回)
「そんな事もございましたねぇ‥」と恵信尼様は答えられた。
親鸞聖人は続いて、「恵信尼よ、あれから18年が経つ。わしの他力の信心も確固たるものになったと思っていた。
‥が、しかしじゃ、この風邪の高熱の苦しみの中、わしは夢の中で必死でお経を読んで仏様に救ってもらおうとしていた‥。
お経の文字が一文字一文字、光り輝きはっきり見えたのじゃ。
その時、わしは気がついた。
『ああ、又やってしもてる。』と。
あれだけ(18年前に)反省したのに、又同じような事をしている自分がいる。
‥なんと、まだ『仏様の功徳にすがろうとする』自分が残っている。
人間の煩悩、いやわしの煩悩とはなんと強いものか!と思い知った。
それでわしは『まは、さてあらん』=(また、やってしまった。でもこれからは、絶対止めなあかんな)とつぶやいた訳なのじゃ。
「このような強い煩悩があっても、阿弥陀仏という仏様は必ず我々を救ってくださる。
煩悩あるがままに、救いとって下さる阿弥陀仏さま、我々は喜ばねばのう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
そして親鸞聖人は、それからしばらくして風邪の症状も改善され、お元気になられたそうです。
そしてこのお話は、妻の恵信尼様が、お手紙として娘さまに書かれて、後世に『親鸞聖人の寛喜の内省』と呼ばれて大事に残されております。
(稲田御坊西念寺 茨城県)
※『まは、さてあらん』という言葉は、いろいろな解釈があります。
浄土真宗聖典註釈板などには、「やはり、そうであったか」と現代語に訳されていたり、又、「これからはそうしよう」と現代語解釈されていたりもします。あまりに短い文なので、解釈が難しいそうです。ちなみに、ぼくは、拙我流で、『ああ、またやってしもた。これからはやめとかなあかんなぁ』としました。変な解釈訳ですんません。合掌
終わり
紙芝居『まは、さてあらん‥』(その2)
親鸞聖人は昔話を思い出され、語り始めました。
「恵信尼や、お前も覚えていよう。‥あれは旅の途中であった。
わしらは越後(新潟県)から、関東(今の茨城県辺り)に入った時。そう、今の上野の国(今の群馬県辺りか)じゃったかのう‥。
そこは大変な飢饉で苦しむ村じゃった。
食べる物も無く、餓死した人の山ができて、泣く子供が大勢居た。
村人たちは、旅の途中のわしらに物乞いしてきたが、元より何もないわしらは何もやれんかった。
そこで‥、
わしは思いついた。
『この人達のために『浄土三部経』を、一千巻読んで仏様にすがろう!と。
それしかわしは何も出来ないのだから‥、と。』
そしてわしはお経を一心に読み始めた。
それから4、5日経った頃、わしは気がついたんじゃ。
『わしは間違っておった!』と。
わしは功徳を頂こうとして、仏様にお経をあげておった。
しかし、すでに仏様は我々を救う為にお念仏という功徳を下さっていた。
この上、何を頂こうというのか!
わしのすべきは、仏様の有り難さと感謝を説く事。それだけだ。
ああ、わしは間違えておった。まだわしの信心はぐらついておる。‥反省をせねばと経典を、読むのをやめた。
‥昔、このような事があった。
それを今、鮮明に思い出したのじゃ。 つづく
紙芝居『まは、さてあらん‥』(その1)
『まは、さてあらん‥(あかん、またやってしもた、これからはやめとかな‥)』〜寛喜3年 親鸞聖人59才のつぶやき〜
『まは、さてあらん(あかん、又やってしもた、これからはやめとかな‥)』と突然、親鸞聖人は布団の中でつぶやかれました。
寛喜3年(1231年)4月、これは親鸞聖人が風邪をひかれて、何日も寝込んでおられた時のお話です。(『恵信尼消息(内容は恵信尼様から娘への手紙の一つです)』より)
寝床でつぶやかれたお聖人のこの一言、妻の恵信尼様は聞き漏らしませんでした。
「あなた、どうされましたか?夢ですか?‥寝言ですか?」と尋ねると、親鸞様は「いやいや、寝言では無い。(お漏らしでもない‥こんな事は言ってない、筆者失礼) 恵信尼や、夢を見てな。それで昔あったある事を、思い出していたんじゃよ。‥そう、それはこんな事じゃった。」とお聖人は昔話を語り始めました。
「‥そう、あれは今から18年前の事。
わしが40才を過ぎた頃じゃった。」 つづく
羽曳野市『西向寺様』永代経法要への出講
本日、初めて羽曳野市の西向寺様へ行かせていただき紙芝居法話をさせて頂いた。
小雨の中、たくさんのご門徒様がお越しになり、緊張しました。
さて、今日の失敗談だが、新しい紙芝居『一休さんの遺言』の練習不足で、枚数を何枚か間違えて読んでしまった。‥で、途中で話がつまり、何遍も読み違え大変恥ずかしい思いをしてしまった。これは、今後気をつけねば‥。反省!
又今年の報恩講法要でも、お招き頂けることになったので、次回は万全の用意で臨みたいと思う。合掌