中外日報に『北海道稲作の父を偲ぶ」と題した記事が載りました。
この前の太子町の「竹内街道灯路祭り」で中山久蔵さんの紙芝居をした時の模様の記事です。
大阪と北海道を結んだ楽しいイベントでした。合掌
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泉佐野市『光明寺』様の報恩講!今年は大型ブック型紙芝居
今年も泉佐野市の光明寺様にお招きいただき、報恩講の紙芝居法話に行って来ました。
今年は『弁円』さんの紙芝居や二年前から『作って欲しいと言われていた『衣通姫』の紙芝居を披露する。
そして今回の目玉は、大型ブック型紙芝居『怨みを捨てて』。これは戦争に対する平和になる方法をお釈迦様がお話された事を物語にした物。
大型だけに迫力があるが、持って行くのが大変だった。でも無事に披露できて良かったです。合掌
紙芝居:『華岡青洲物語』(その4 最終回)
がしかし、やがてこの嫁と姑に不幸が襲いかかります。
度重なる劇薬の服用によって、体力を失った母は亡くなり、妻は視力を失ってしまうのです。
こうした犠牲に支えられ、人に効く麻酔薬『通仙散(つうせんさん)』と名付けられた全身麻酔薬は、ついに完成したのでした。
それからしばらくすると、青洲の元に一人の老婆がやって来ました。彼女は重い乳がんでした。
老婆は「あなただけが頼りです。」と頼ってこられたのです。
青洲は「‥以前、妹を乳がんで亡くした。その時は手術が出来なかった。この機会、これは妹の弔い合戦かもしれん。」と思いました。
そして、青洲はここで麻酔薬を使っての乳がん手術を決意します。
かくして、1804年10月13日。ついに手術は始まりました。
この薬を飲んだ老婆は程なく眠りに落ち、青洲は彼女の患部にメスを入れ、一気に腫瘍を取り除きました。
こうして、世界で初めての全身麻酔手術は成功したのです。
この手術成功の知らせは、たちまち世間に知れ渡りました。
こうして彼の元には、治療を求める多くの患者と教えを請う日本中の医者達が押し寄せました。
そしてその後、青洲は全身麻酔薬を使った手術を成功させました。
やがて彼の元には、全国から一千人以上の弟子達が集まり、青洲の医院は日本の最先端医療の中心地となっていきました。
こうして青洲の功績は、和歌山のお殿様にも認められ、武士の資格と医者の最高位を頂くことにまでなります。
がしかし、彼は生涯、自分の住む紀の川の場所を離れませんでした。
そして診療の暇を見つけては、目の見えなくなった妻の側に行き、絵本などを読み聞かせたりして、夫婦で楽しむ時間を大切にしたそうです。
その後、青洲の妻は1832年、68才で亡くなり、青洲はそれから3年後、74才で亡くなりました。
現在、華岡青洲とその家族のお墓は彼が活躍した和歌山の紀の川市に建っています。
おしまい
(道の駅 青洲の里「華岡青洲顕彰記念公園」内)
紙芝居:『華岡青洲物語』(その3)
それから青洲は、仕事の合間を見つけては、(結婚した)[加恵(かえ)]と一緒に、麻酔薬の原料となる『マンダラケ(朝鮮朝顔)』という花を野山から摘みました。
そして、それを主成分として、さらに改良し[全身麻酔薬]をついに完成させたのでした。
その後、青洲はその麻酔薬を使って、犬や猫などで動物実験をして成功させました。
‥が、問題はそれが実際に人間に通用するか?どうかです。
この人命に関わる麻酔薬の効き目に青洲は悩みました。
そんな青洲の気持ちを察してか、「私たちにその薬を試してください。」と言い出したのが、母と妻でした。
その言葉にためらう青洲でしたが、母は言いました。
「青洲、私はおい先短い身です。まず私に試して下さい。」と、青洲を熱心に説得しました。
そしてまず、毒性の弱い薬を母は飲みました。
やがて母は元気になると、今度は妻の加恵が「私は医者の妻です。私も覚悟はできてます。」と、若い妻は強い麻酔薬を飲み試しました。
妻は死んだように眠り続け、つねっても叩いても目を覚ましませんでした。
麻酔薬の成功です。
そして二、三日後、無事に目を覚しました。
その後、二人は青洲が新しく薬を調合する度に、何度も何度も麻酔薬を、飲み続けました。
それはまるで、嫁と姑が競うかのように・・・。
まさに、一人の男をめぐる嫁と姑の愛の戦いのようでした。
‥少し余談になるが、僕が何故?この青洲さんの紙芝居を作ろうかと思ったその訳は、僕自身の体験が少し関係している。
僕は今年、心臓弁膜症の手術を受けた。
その手術前に[麻酔科]の先生の診察を受けた。麻酔科の先生の診察を受けないと手術できないのだそうだ。それは初めての経験だったが、その時、初めて「麻酔薬は有難いものだ」と思った。だってメスで切っても痛みを感じないのだから・・。
そして、麻酔薬って何か?誰がどのように開発したのか知りたくなった。これが青洲さんの紙芝居を作ろうとした動機である。
又、去年、富田林市のお寺でお話する機会があり、そこで偶然、(中野町の)華岡家のご先祖さんのお話を聞く機会があり、青洲さんとの不思議なご縁を感じ、紙芝居を制作しようと思いたったのである。
つづく
紙芝居:『華岡青洲物語』(その2)
華岡青洲の少年時代(雲平[うんぺい]と言います)のエピソードを一つ紹介します。
ある日、雲平は田んぼの畦道で大金の入ったサイフを拾います。
雲平は『きっと落とし主が探しにやって来るだろう』と、その場で夕方まで待っています。
やがて、その落とし主が必死の形相で現れたので、「おじさん、どうしたの?」と、雲平はまず聞いて、訳を聞くと、まずサイフの形や中身の金額を聞き、間違いないと思ったのでその場でサイフを渡し、何も言わず帰ったそうです。
「帰りが遅い!」と心配していた父は、息子にその訳を聞き、『こいつは立派な者になるに違いない!」と大層喜んだそうです。
が、それを後で聞いた村の人達は「馬鹿正直な奴」と影で噂したそうです。
やがて大きくなった青洲は、「医学修行の為に京都に行きたい!」と言い出します。
が、貧乏な華岡家はお金がありません。
そこで金策の為、母や妹達は織り物をしてお金を作り学費にします。
青洲はそんな家族に手を合わせて涙して感謝し、医学修行を励みます。
こうして彼は家族の期待を背負い、西洋医学(主に外科)を懸命に学ぶのでした。
やがて京都で三年の医学修行を終えて、青洲は評判の良い医者になり、和歌山に帰って来ます。
が、そこで待っていたのは悲しい現実でした。
兄の為と織り物をし、懸命に働いた妹の一人が乳がんになって倒れてしまうのです。
「兄さん、外科の手術で私を助けて!」と妹は頼みますが、まだ手術の為の麻酔薬がありません。
麻酔薬が無ければあまりの痛さの為に手術はできません。
そして妹は手術ができずに亡くなってしまいました。
青洲は泣きながら、「悪い所は切り取れば治る。が、その為には麻酔薬がいる。‥私は何としても麻酔薬を開発する!」と固く誓うのでした。
(自宅内は記念館になっている)
(記念館内の機織り機)
つづく
紙芝居:『華岡青洲(はなおかせいしゅう)物語』(その1)
昔むかしのお話。
江戸時代の紀州、和歌山。
このお話はこの地で、世界で初めて麻酔薬を使って手術をして、多くの患者の命を救ったお医者さん『華岡青洲』とその家族のお話です。
さて、まずは『華岡家』のご先祖様(ルーツ)のお話から・・。
華岡家は、ずうっと昔から和歌山で暮らしていたのではありません。
その昔、華岡家の先祖は大阪は『富田林』は(中野村)という所で暮らしていました。
この家は、河内の国、楠木正成という武将の一族だったのです。
・・がしかし、戦さで楠木家も滅び、一族で和歌山へと引っ越したのです。
そこで、この先祖はお医者さんを始めました。
この物語の主人公、華岡青洲はその子孫なのでした。
和歌山の(平山、今の紀州市)で、医院を開業した華岡家でしたが、田舎の医院でもあり、華岡家は家族も多く大変貧乏でした。
医者の父と母、そして長男の青洲(子供の頃は雲平と呼ばれていました).、そして妹たちや弟などの大家族でした。
(和歌山県・華岡青洲宅・春林軒)
つづく
親鸞聖人ゆかりの地、茨城県に行って来ました
親鸞聖人ゆかりの地、茨城県に行って来ました。
新幹線で東京へ、そこから特急列車で水戸駅へ。
大洗ホテルで一泊しました。
目的は、親鸞聖人が油の乗りきった40代から60代まで居られた茨城県の笠間市(稲田御坊)です。
立派で風情のある稲田御坊。お寺の方にお庭の銀杏をお土産に頂きました。
そしてタクシーを飛ばして、コロナで断念していたもう一つの目的地、山伏(弁円)のゆかり寺『大覚寺』へ。
(弁円像*ご住職の許可をもらって写真を撮りました)
山伏弁円(べんねん)は、念仏布教をやめさせようと親鸞聖人の命を狙いますが、逆にお聖人に感化され弟子になり、こちらを浄土真宗のお寺にします。
僕は3年ほど前に、現地取材もせずに「弁円」の紙芝居(182作目)を描いたので、悔いが残っていました。今回ようやく悲願が達成しました。弁円さんの木像にお参りさせて頂きました。
ご住職さま、貴重な像や資料を見せて頂き有難うございました。合掌
第15回『竹内街道灯路祭り』in光福寺様・中山久蔵翁をしのぶ集い
(ライトアップされた光福寺様)
大阪府太子町で、10月21日の夕方から夜にかけて、『竹内街道灯路祭り』が行われた。
その中のイベントの一つとして、浄土真宗光福寺様で、「寒冷稲作の祖・中山久蔵をしのぶ集い」があり、僕はその『中山久蔵さんの生涯』と『聖徳太子』の紙芝居をさせて頂いた。
(中山久蔵さんの紙芝居)
(聖徳太子の紙芝居)
(赤毛米の試食会)
イベントは、光福寺の津田住職のご挨拶から始まり、太子町教育委員会の方の解説、そして僕は最後、紙芝居の披露で内容は進んだ。
そして、最後は北海道・赤毛米の試食があり、盛り沢山の内容であった。
楽しいイベントでした。光福寺さま、関係各位の皆様、お世話になりました。ありがとうございました。合掌