住職のつぼやき[管理用]

記事一覧

※画像をクリックすると拡大されます。

少しずつ、回復してます

ファイル 2385-1.jpeg

心臓手術の後、(お医者さんの許可を得て)、少しずつ運動をしてます。
昨日は近くの低名山の[二上山]に登りました。
ゆっくりゆっくり時間を掛けて登り、頂上に到着しました。
ありがたい事に、心臓の鼓動の変化はありませんでした。

紙芝居:『上田秋成ものがたり』(その4・最終回)

ファイル 2384-1.jpg
 秋成54歳。
 歳を取ったと感じた秋成は、医者を辞めて隠遁生活に入ります。
 そして妻と共に、その後のんびり旅をしたり、古典の研究や友人との交流を深めたりしました。
 が、57歳で彼は白内障を患い、左目を失明。
 京都に住まいを代えて生活しますが、61歳の時、頼みの妻も亡くします。
 そして62歳で右目も失明し、全盲となります。・・が、友人の眼医者のお陰で、左目だけ回復しました。
ファイル 2384-2.jpg
 頑固で偏屈な秋成を生涯助けて、苦労を掛けた妻を亡くし、片方の視力を無くし、生きる気力を無くした彼でしたが・・、
 そんな秋成を招いて慰めてくれたのが、妻の知り合いでもあった、河内の日下(くさか)村=(現在の東大阪)に暮らす[唯心尼]というお寺の尼さんでした。
 秋成は唯心尼や村人達と、お茶を飲んだり詩を作ったりしながら、癒され生きる気力を徐々に取り戻していったのでした。
ファイル 2384-3.jpg
その後、秋成は京都で再び小説を書いたり、歌の本を出版したりします。
 が、76歳で病いに倒れ亡くなりました。
 気難しく繊細な芸術家であった秋成。
 指と視力が不自由ながら、そのコンプレックスを自虐的ペンネームとして著して、日本を代表するような幻想小説を書いた孤高の人、秋成。
 そのお墓は、京都市左京区の西福寺の境内に立っています。
 このお墓、石の台も彼のペンネームのように、カニのような形をしています。
ファイル 2384-4.jpg
(京都・西福寺)
 おしまい

紙芝居:『上田秋成ものがたり』(その3)

ファイル 2383-1.jpg
やがて養父が亡くなり、お店の後継ぎとしても、又作家としても、頑張ろうと思っていた時に、秋成にとって大変大きな事件が起きます。
 それは大火事です。
 大阪の堂島で起こった火事は、秋成の店も財産も全て焼き尽くしました。
 全てを無くして、途方に暮れていた秋成一家に、手を差し伸べてくれたのは、例のお稲荷さんの加島神社でした。
 ここの神主さんが、境内の一画を貸して下さり、秋成一家に住まわせてくれたのです。
 ここから秋成の第二の人生が始まります。
ファイル 2383-2.jpg
秋成は境内の一画で(数少ない)親友の一人の例の木村蒹葭(けんか)堂に、医薬品の書物を借りて、医者を目指し猛勉強を開始します。
 そして40歳で秋成は、町医者になり医院開業をするのでした。
ファイル 2383-3.jpg
 その後、秋成は医術で生活しました。
と、同時に(数少ない)親友の木村蒹葭堂の[煎茶(せんちゃ)]サロンにも参加して、そこで再び作家や俳人達と交流を深めて行くのでした。(蒹葭堂さまさまやねぇ・・)
余談ではありますが、この頃です。
 秋成と国学者の本居宣長との間に、天照大御神の解釈をめぐって、『日の神論争』が起こり、この二人は生涯の論敵となります。
 この頃、秋成は一塊の(町医者)兼町学者、一方、本居宣長は天下の国学者。
 しかし、秋成は自説を曲げず、最後まで戦い抜いたそうです。(やはり、偏屈やなぁ)
つづく
 

紙芝居:『上田秋成ものがたり』(その2)

ファイル 2382-1.jpg
秋成は一人前の商人になるべく、懸命に勉強をしました。
 がしかし、だんだんと商売よりも,悪所で遊んだり、俳諧や小説を書くことに夢中になっていきます。
 やがて秋成は、『カニのような変わり者の男』(剪枝畸人)という意味のペンネームを自分で付けて、幻想怪奇小説を執筆します。
 これが、大ヒットとなった『雨月(うげつ)物語』でした。

※それではここで、この『雨月物語』をちょっとお遊びで漫才風に説明させて頂きましょう。
ファイル 2382-2.jpg
 ある日、上田秋成の家に、数少ない親友の一人の[木村けんか堂]が訪ねて来ました。
木村「なぁ上田君、僕の友達で、君の書いた小説の題名を忘れてしもた奴がおるんやけど、一緒に思い出してやってくれへん?」

上田「そんなん、お安い御用や。・・それでどんな小説って言ってた?」

木村「なんか、幽霊が仰山出て来る短編小説集らしいんやて・・。」

上田「ほぉー、それやったら『雨月物語』やろ。・・僕の短編小説集で幽霊が仰山出てくる話は『雨月物語』か、あとはパッとせえへんかった『春雨物語』ぐらいしかないんよ。」

木村「僕も『雨月物語』と思てんけどな、その話はただの幽霊話と違って、人間の欲望や女性の悲しみを描いた人間愛憎作品やっていうんや。」

上田「ほぉー、それは絶対に『雨月物語』や。この作品は中国の古典などから、ワシが真似っこして、日本風に味付けした味わい深い内容作品なんよー。」

木村「僕も『雨月物語』と思たんやけどな、友達が言うのに本が完成したのに、なかなか出版せえへんかった自信のない作品やって言うんよ。」

木村「じゃあ『雨月物語』と違うか・・。この小説は考えに考えて時間を掛けた作品で、一発屋狙いと違うんよ。・・で他になんか言うて無かった?」

上田「その友達の本居宣長君が、あんな偏屈の秋成がほんまに書いたかわからんぞと、言うんよ。」

木村「やっぱり、そいつは本居宣長か!あいつめ!今度あいつの家に怒鳴り込んだんぞ!」

上田「もうええわ。」
※上田秋成と本居宣長の仲の悪さは有名でした。(余談)
続く。

紙芝居:『上田秋成ものがたり』(その1)

ファイル 2381-1.jpg
今からおよそ290年ほど前の江戸時代のおはなし。
 美しくも悲しい『雨月物語』という怪奇小説を書いた[上田秋成]は、大阪は賑やかな曽根崎新地で生まれました。
 彼は作家であり、国学者であり、医者でもありました。
 それでは、多芸多彩で波乱に飛んだ上田秋成のお話をさせて頂きましょう。
 はじまり、はじまりー。
ファイル 2381-2.jpg
 上田秋成は、幼少[仙之助(せんのすけ)]と言いました。
 仙之助こと[秋成]の実の両親については、はっきりとは分かっていません。
 彼は4歳の時、[上田家]という紙油の商家にもらわれて養子になりました。
 上田家は裕福な家で、秋成はそこの両親の跡取り息子として大事に育てられたのです。
・・が、秋成は5歳の時に【天然痘】という疫病に掛かってしまいます。
 信心の篤かった養父は、秋成が回復するように、『加島稲荷=[現・香具波志神社]』で懸命に祈ります。
 その甲斐あって、指に後遺症は残りますが一命は取り留めることは出来ました。
 のち、秋成は一生この神社を大切にして、お参りを欠かせませんでした。
ファイル 2381-4.jpg
(香具波志神社・大阪市淀川区)
ファイル 2381-5.jpg 
(神社のすぐ横にある秋成の墓?※見つけにくい場所でした)
つづく
 

貝塚市教育委員会からのお客様

昨日、お寺に『貝塚市教育委員会』の課長さんが来られた。
以前、描いた紙芝居(196番)『星に願いを〜岩橋善兵衛ものがたり』の小冊子化(副読本みたいなものか?)にする打ち合わせで来られたのだ。
『岩橋善兵衛』さんといえば、貝塚市が生んだ天体望遠鏡発明の偉人である。
この人物を、貝塚市はクローズアップして『子供達に夢を与える人物にしよう!』とお考えになっておられるらしい。・・・ただ、善兵衛さんはそんなに全国的にメジャーな人物ではない。で、本化にあたっては、善兵衛さんの望遠鏡を持って日本地図を作った伊能忠敬さんとの関係も、もう少しプラスして欲しいとのご要望もお聞きした。
今、作り掛けている紙芝居が2本ある。・・が、伊能忠敬と岩橋善兵衛との関係性の紙芝居(番外編)を先に作るとしよう。

負荷を掛ける

先日、病院で診察して下さった主治医の先生が、「・・そろそろ、体に負荷を掛けていきましょうか」と、おっしゃってくださった。
で、『「負荷」って何?』と、しばらく考えてみた。
 「怠けとらんと、体を動かしてみよ!」なのか。
 「今が元に戻る第一歩!勇気を出して働け!」なのか。
今、絶えず僕の中で『負荷』という言葉が動いている。

リハビリの日々

ファイル 2378-1.jpeg

心臓手術の後、家でリハビリの日々を送っている。
病院を退院すれば、いっぺんに元気になって動き回れると思っていたが、その考えは大間違いだった。
朝起きても、まだ痰が絡み声が掠れて出ない。お医者さんは「その内声は出るようになりますよ。」と言われたが、中々・・・。ご飯もしっかりと食べれない。
又、ようやく傷痕の痛みは治ってきたが、節々の痛みはまだ消えない。
毎日、頑張って歩いているが、・・回復はまだまだ先のようだ。
心臓音を確認する為に、Amazonで聴診器を買った。
ドクッドクッという、心臓音を毎日聞いて、ああ僕は今日も生きてるぞ!と改めて思う。

紙芝居:『万能の天才レオナルドダビンチ』(その5最終回)

ファイル 2377-1.jpg
幅広い分野でその才能を発揮して、のち『万能の天才』と呼ばれたレオナルドダビンチ。
彼はルネサンスの激動の時期を生き抜き、波乱の生涯を終えました。
絵画だけではなく、建築、科学などの分野でも天才と呼ばれた世界的偉人レオナルドダビンチ。
この万能の天才の名にあやかって、今、日本医学界にも[万能医療ロボット『ダビンチ』]と名付けられた「内視鏡手術支援ロボット」が出来上がり、治療の難しい現代の手術を幅広く活躍させています。
この紙芝居を描いた私も、この「ダビンチロボット」に助けられた一人として、病室で、感謝の心を持ってこのお話を描かせてもらいました。
ファイル 2377-2.jpg
さてそれでは最後に、ダビンチの残した言葉を少し書かせていただいて紙芝居を終わらせて頂きます。
『芸術に決して完成ということはない。途中で見切りをつけたものがあるだけだ』
おしまい

紙芝居:『万能の天才レオナルドダビンチ』(その4)

ファイル 2376-1.jpg
そしてレオナルドは(イタリアの)ベネチアや若い頃に修行したフィレンツェ、そしてウルビーノなどへ旅をします。
ウルビーノでは彼は軍事技師、建築技師として雇われ、軍隊に同行します。
が、戦いを各地で目の当たりして、レオナルドは戦争に嫌気がさし、戦場をある日突然去ります。
そして再びフィレンツェに向かいました。
そのフィレンツェで、レオナルドは生涯のライバルに出会うことになります。
その名は[ミケランジェロ]でした。
ファイル 2376-2.jpg
ミケランジェロはレオナルドより年下でしたが、彼に闘争心をむき出しにする天才彫刻家でした。
フィレンツェの役人達は、この二人を競わせようと、教会の向かい壁に、フィレンツェ戦闘場面絵画をお互いに描くように依頼します。
がしかし、この世紀の芸術対決はレオナルドの技法の失敗、そしてミケランジェロのローマからの召喚により不成立に終わってしまいました。(ああ残念)
ファイル 2376-3.jpg
やがて、年老いたレオナルドは病気(脳卒中か?)もあって、絵画.芸術への情熱も薄らいで来ました。
そんな時、フランス国王から「是非、我が国においで下さい。大歓迎します」と手紙が来ます。
ぼやき老人になっていたレオナルドはこれを受けます。
そして、フランスの宮廷画家として迎えられ、高額な年金をもらいながら、穏やかにフランスで晩年を過ごし、67才でその生涯を終えました。(次回最終回)つづく

上に戻る