今年で11回目となる全国公募『お墓参り写真展』。
お寺の檀家の石屋さんが、石屋産業青年会で立ち上げたプロジェクト、今年もやるらしい。
「院主さん、今年もポスターが出来たのでお寺で貼ったください!」と元気よく頼まれた。
「コロナ禍なので効果薄いと思うで〜」と言いながら、頑張っている青年店主に応援のつもりで、今年も院内に貼らせていただきます。
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お墓参り写真展
びじゅチューンEXPO!リターンズ展に行ってきました
世界情勢が不安定な時ではありますが、前売り券を買っていたので、梅田へ『びじゅチューンEXPO!リターンズ』展へ行ってきました。
知る人ぞ知る、NHK教育テレビの人気美術?番組のマニアック展です。
僕も紙芝居を描くので、このミニ番組が好きなのです。録画して見ています。
案外、展覧会は空いてました。
余談ですが、昔、僕の中学校に、そろばんで絵を描く有名な美術の先生がいました。僕は尊敬していました。が、教育者では無かった。・・それはこんな事があったからです。
誰が見てもヘタな絵というか?上手くない絵を描く友人がいました。
彼はその先生に、自分の絵を「先生、僕の絵うまいでしょう!通知表で4を(5が最高)付けてください!お願いします!」と誰が見ても才能が無いような絵に高得点を願い(相手がしつこいから、それに負けて)先生は付けてました。その事を実際、先生から「あいつはしつこいから面倒やねん」と聞いてしまったのです。絵に点数を付けるという方針もおかしいですが、僕はがっかりしました。
先生はアーティストであるが、教育者では無かった。
さて、僕も「お前は紙芝居ばかり描いていて、本当に宗教者なのか?」と聞かれたら自信はありませんが、「坊主が宗教的境地を少しでも絵でお話しで表したい為に紙芝居を描いている変な宗教者なのです」と答えたい。
決して力(権力、圧力)に妥協したくない。そんな事をいつも思っているのです。
楠木正儀(まさのり)の故郷を訪ねて~金剛山と正儀公の墓
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その7 最終回)
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その6)
時代はここでワープする。
・・正行(まさつら)公が亡くなって、五百と三十年が経ちました。
ここに、[正行]生き様感動し、行動起こした一人の男が現れた。
その名は[適塾(てきじゅく)]出身の『赤十字(せきじゅうじ)社』をこしらえた、[佐野(さの)の常民(つねおみ)]でありました。
明治の十年、佐賀県出身[常民]は、国内最後の戦争の[西南の役(鹿児島で起こった内乱)]の後を見る。
「戦争、なんと悲惨なものか!」と、涙流した常民は、
「敵と味方の区別なく、負傷者助ける病院を、あぁ作らせてくださいな!」
彼は政府に訴えた。
・・・そして[正行]公を思い出し、「今も負傷者泣いている。苦しい痛いと泣いている。敵と味方は違えども、彼を全て救いたい。昨日の敵は今日の友。あぁ川で溺れた敵兵を、救ったサムライ正行の、如くに我は助けたい!」
この熱意、政府の心は動いたぞ!
ニッポン赤十字社前身の、ここに「博愛(はくあい)社」出来ました。
この時、負傷者千四百、多くの命が救われた。
正行公の生き様は、ここでも確かに輝いた!
後世で、ピカッと輝いた。 つづく(次回最終回)
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その5)
「目指すは大将、首一つ!
我らの勝ち目はそれしかない!
皆の者、命を惜しむな、名を惜しめ!」
敵は五万の大軍に、こちらは一千わずかな兵。
ここは大阪、[四条の縄手(なわて)]。(※現在の四條畷市か?隣町:東大阪市か?東大阪にも同じような名前の場所があり、こちらにも[正行公]の首塚がある。京都や九州(落ち延び説)にもあるらしい。いったい首塚、楠公いや、何個(ナンコ)あんねん!以上余談)
楠木兄弟[正行・次男:正時]、ひたすらに敵陣めざして進みます。
されど、敵の矢雨あられ!嵐のように襲います。
さすがの楠木兄弟も、鎧全身矢を受けて、ついに最後を迎えます。
「・・我が弟、正時よ。残念ながらここまでじゃ。共にあの世で父に会おう。そこで父に報告じゃ!」
そして兄弟果てました。
この時、正行二十三。
・・若い最後でありました。あぁ合掌・・つづく
(正行公を祀る四條畷神社)
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その4)
「正行(まさつら)公よ、ようやった!・・ところで、わし等は明日にでも、京の都に帰れるか⁈」
「お公家の皆さま、敵はまだ何十万も居るのです。そんな楽にはいきません。おそらく次は奇襲では、通じぬ軍で来るでしょう。我らはここで今一度、お山に籠って機会待ち、おびき寄せる戦法を・・、」
「何をたわけた事いうか!今を逃して何とする。ここが我らの絶好機会。正行、すぐに出陣し、敵をやっつけ帰還せよ。そして我等を都に戻せ!」
「・・それは無理でございます。」
「何を武士の分際で!‥わし等のいう事逆らうか!」
「・・・・・わかりました。」と正行は伏し目ながらに御所を去る。
「家来たちよ、聞いてくれ。おそらく我等は死ぬだろう。どうやら幕府は威信を掛けて、数万以上の大軍で、攻めてくること違いない。それに比べて、我らは数千。奇襲で勝てる訳がない。
帝(みかど)は『死ぬな』と云われたが、それは当然無理な事。今まだ生きている皆の名を、この過去帖に書いておく。これをお寺に奉納し、今生別れとするとした。」
その後正行、矢じり持ち、辞世を扉に彫りました。
そして出陣したのです。
その姿、そっと見つめる[弁内侍(べんないし)]=(正行の恋人か⁈)
正行慕った初恋なれど、叶わぬ恋と涙を拭いて、去り行く姿に分かれを告げる・・。 つづく
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その3)
紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その2)
・・それから10年経ちました。
今では正行(まさつら)立派な武将。
奈良の吉野の帝(みかど)のもとへ、今日もご機嫌伺に、馬を走らせ向かいます。
後醍醐帝はすでに亡く、新・天皇でありました。
後村上(ごむらかみ)新天皇は言われます。
「正行よ、北の朝廷・幕府軍、この度大軍引き連れて、我等を攻めに来るようじゃ。何とかなるか、正行よ。」
「帝(みかど)、我らは少人数。されどわが父[正成(まさしげ)]の奇襲戦法取り入れば、恐れることはありません。足利(あしかが)軍勢、楠木の飛んで火にいる夏の虫!。帝、しかとごらんあれ!」
「頼むぞ楠木、出陣じゃ!」
(正行の故郷、千早赤阪村[建水分神社])
「やあ、やあ!我こそは楠木正成の嫡男、楠木正行なるぞー!腕に覚えあるものは、我にその腕みせてみよー!正成の子、楠木正行もここにありー!」
正行雄叫び響きます。
その声聞いた敵方は「やややぁ、あそこに居るは大将ぞ!一騎でおるぞ、皆の者!」。
我や先にと正行を、見つけて大軍追って来た。
「しめたっ!罠にかかったぞ。鬼さんこちら、手のなる方へ!」
正行、仕掛けのある場所へ、逃げて逃げて、逃げまくるー。
足利幕府の精鋭部隊、細川・山名の連合軍。
罠とも知らず大軍が、入れぬ道に突っ込んだ。誘い込まれて突っ込んだ。
「げっげっげっっ、しまった罠わなじゃ!林の中から敵が出た。楠木軍に囲まれた!今度は我らが逃げる番。命あっての物種じゃ、京の都へ逃げるのじゃー!」
形勢逆転、大勝利。
逃げるは足利幕府軍。
「追え追え、逃がしてなるものか!京の都にゃ、帰しゃせぬ。」
正行軍は懸命に、敵を追いかけ駆けました。
(正行激戦地、羽曳野市誉田林古戦場跡)
つづく
紙芝居:『楠木正行(まさつら)もここにあり!』(その1)
昔々の室町時代・・。
足利尊氏(あしかがたかうじ)、天下を納め、武士の幕府を開いてみたが、平和はまだまだ遠かった。
それは天下に二人の帝(みかど)。
朝廷二つの南北朝。
お互い『私がホントの天皇だ!みんな私の配下におなり。』
こんな言い合い続けたら、武士や公家ほか庶民まで、これでは日ノ本真っ二つ。
その時、若武者現れた。「私は何があろうとも、敵が百万居ようとも、後醍醐天皇守ります。南の朝廷守ります。これは父親[正成(まさしげ)]の遺言ですから守ります。」
そう誓ったは我らが河内(かわち)、楠木党(くすのきとう)の跡取り息子、楠木正行(まさつら)でありました。
さあてさて、このお話は[小楠公(しょうなんこう)]こと、正行公の意地と忠義と優しさがあふれた武士道ものがたりです。それでは、はじまりはじまりー。
話は少しさかのぼり・・。
湊川(みなとがわ)での戦が終わり、悲しいしらせが舞いこんだ。
ここは南の河内の屋敷。
楠木正成(まさしげ)、妻と子は悲しみこらえておりました。
それは父親正成(まさしげ)の首と戦死の知らせとが、届いたからでありました。
涙と共に正行は「父上、ご無念お察しします。私も一緒に参ります。」
短刀抜いて、切腹しようと思ったその瞬間。
母親それを止めました。
「正行よ、ここで死んではいけません。朝廷守る事こそが、お前の父から引き継いだ、大事な大事な約束じゃ。そなたがここで死んだなら、父との約束どうします⁉」
母は涙を流しつつ、正行公に言いました。
「・・私が愚かでありました。切腹などはもうしません。
私はこれから学問し、剣術励んでまいります。父に劣らぬサムライに、私はきっとなりまする。」
若き棟梁正行の新たな誓いでありました。 つづく
(正行公を祀る四条畷神社内の母と子の銅像)