『念仏ロス』になった大阪の町人たちは、集まってお寺を作ろう!と話し合い始めました。
「わしらの力で、お念仏の道場を作るんや!御堂さんを作るんや!」
「‥でも、ほんまに出来るやろか?お金も掛かるでー。」
「やれる!『やってみなはれ!!』の精神や!皆で頑張ろう!」と決まったのでした。
こうしてお寺は最初、[楼(ろう)の岸]という天満の近くの場所に建立しました。
さらにその後、[生玉の津村南町]という、現在ある場所に移転しました。
これが大阪商人の町人の力で作り上げた[北御堂・津村別院]のはじまりです。
「やっぱりわし等は、御堂さんの鐘が聞こえる所で商売せなあかん!‥もうかりまっか?ぼちぼちでんなぁ」と。
大阪商人はお寺を大事にしました。
そしてお寺の回りで、多くのお店を開いて行きました。
こうして、北御堂は江戸時代の経済、文化と共に繁栄していったのです。つづく
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紙芝居『大阪 北御堂ものがたり』(その2)
紙芝居『大阪 北御堂ものがたり』(その1)
大阪メインのストリート。
銀杏並木の御堂筋(みどうすじ)。
そこに面したお寺こそ、その名の由来となりました、『津村別院、北御堂(きたみどう)。
[津村]とは、土地の名前の事。
『別院』とは、本願寺に準ずる地方直属のお寺の名称の事。
わかりやすく(会社組織で)例えれば、京都西本願寺が本社として‥、地方の大阪支社が『津村別院』ということになります。
ではなぜ、通称『北御堂』というのか?
それは、御堂筋の北側に位置する(西本願寺)のお寺なので、『北御堂』と呼ばれます。
ちなみに、南側に位置するお寺は、(東本願寺)の『南御堂』と呼ばれています。(‥少しややこしい)
それでは、今から『津村別院 北御堂』の壮大な歴史のお話を(簡単に)申しましょう。
はじまり、はじまりー。
昔むかしの戦国時代。
本願寺という巨大寺院は、大阪にありました。
がしかし、豊臣秀吉という天下人の時代になり、大阪でドーンと陣取る巨大教団が邪魔になって来ました。
秀吉は、そこで本願寺の京都お引越し計画を命じたのです。秀吉は、11代門主顕如(けんにょ)上人を呼び出し言いました。
「顕如さんよー、おみゃあさん等、大阪を離れて京都に行ってちょ。戦国時代が続いてなもー、京の都は焼け野原になっとるんだわー。宗教の力でよー、町を復興させてちょー。」と。
天下人の命令は絶対です。
「わかりました‥」とお上人は受けました。
こうして、大阪城の横の天満にあった『天満本願寺』は、引越すことになりました。
「さよなら!!門主さまー」
そして、お寺は無くなり、大阪でお念仏の声は聞こえなくなってしまいました。
いわば、大阪町人にとって『念仏ロス』が起こり始めたのでした。つづく
岡山県への『桃太郎伝説』の取材
以前、上田秋成の怪奇小説『雨月物語』の1つ「吉備津の釜」を調べていた時、岡山県の『吉備津神社』が、どうやらお伽話『桃太郎』に征伐された鬼の墓地と関係があるのでは、との情報を得て、どうしても行きたくなって行って来た。
今はのどかな吉備津神社です。
しかし、ここで桃太郎と鬼の大合戦があったのです。
(吉備津神社)
犬、雉、猿もちゃんとモデルがあり、鬼も本当は百済人であり、相当な知識人であったとこちらの資料に書いてありました。
桃太郎との合戦に負けて首を打たれますが。
(これが桃太郎のモデルになった吉備津彦命)
さて『吉備津の釜』は、この神社の中にあります。鬼の首を祀った所に。
この話は深いです。いずれ紙芝居にします。その内。‥ストーリーは頭の中で出来ました。
河南町介護者家族会ニュースレターに載りました
河南町介護者家族会のニュースレター『さくらんぼ』に、今年の新年会の模様が載りました。
僕は会長さんに「コロナを吹き飛ばすような楽しいお話をお願いします」と頼まれたので、『干支のお話』を中心に明るい紙芝居を二本させていただきました。
222作品まで、完成しました
紙芝居:『三人の尼僧さま』(その4 最終回)
この蘇我と物部の戦いが終わった後、善信尼たちは言いました。
「この機会に、私たち三人を是非、百済の国に行かせてください。彼の国で、私たちは正式に仏教を学びたいのです。」と。
こうして西暦588年、15才になった善信尼と二人の尼僧は、帰国する事になった百済人の船に乗せてもらい、朝鮮半島に旅立ちました。
今の留学生です。
そして百済の国で、1年半かけて修行して、仏教の戒律を学びました。
そして正式な尼僧になって、無事日本に帰って来たのです。
その後、善信尼達は帰国後、以前、焼かれてしまったお寺を再び再建築しました。
このお寺は[桜井寺]と呼ばれました。
現在の『豊浦寺跡』(今の寺名は『向原寺』)です。
そこで、善信尼達は仏教の指導者として、11人の尼僧を育て上げ、さらに我が国最初の男性僧侶「徳斎法師」を誕生させました。彼は善信尼の兄弟です。
こうして、仏教興隆の原点となる施設は全てこの地に揃いました。
三人の少女の勇気から始まった日本仏教は、ここに大きく実を結んだのです。
そして現在、大阪府南河内郡太子町の西方院というお寺の裏の墓地に、一際大きく三人の尼僧さまのお墓が祀られています。
(奈良県・豊浦寺跡(現・向原寺)
(大阪府太子町[善信尼]の墓)
おしまい
紙芝居:『三人の尼僧さま』(その3)
‥それからまもなくして、蘇我氏の主人[蘇我馬子]が病気になりました。
「やはり、仏教という外国の教えなど取り入れるから、このような事が起こるのじゃ!」と仏教反対派の物部氏は『それ見たことか!』と天皇の許可を得て、お寺に火を掛けました。
そして、三人の尼さん達を捕らえて引き立てたのです。
そして、尼さん達は法衣を剥ぎ取られ、海柘榴市(つばいち)という人の多く集まる場所で、ムチ打たれ辱しめを受けたのでした。
それを知った病床の蘇我馬子は、天皇に泣きつき、何とか無事に尼さん達を助け出すことが出来ました。
物部氏を恨み、復讐を誓う蘇我馬子。
そしてついに、蘇我氏VS物部氏の戦争は起こりました。
結果、仏教反対派の物部氏は負けて滅びました。
こうして、兎にも角にも、仏教賛成派の時代は来たのです。つづく
(奈良県桜井市[海柘榴市(つぼいち)])
(この辺りで、尼僧達は罰を受けたらしい)
紙芝居:『三人の尼僧さま』(その2)
‥それから何年かが経ちました。
「やはり仏教は、我が国に必要だ!」と、仏教賛成派の蘇我(そが)氏は、
「今度は、我が国に仏像を祀る専門家[日本僧侶]を育ててみようではないか!‥そうだ、その僧侶には女性が良い。古くからこの国を支えたのは女性、巫女(みこ)たちだ!仏教も女性の僧侶にすれば、きっとうまくゆくはずだ!」と思いました。
こうして、仏教賛成派の豪族の娘たちが選ばれる事になったのです。
その選ばれた僧侶の代表は『嶋(しま』と言い、まだ11歳の少女でした。
少女『嶋』の父は、ある日、彼女に言いました。
「嶋や、お前に頼みがある。尼さんになって仏様におつかえしてくれんか。今、国中に広がっている疫病を抑え、この国が栄えるようにお祈りしてもらいたいのじゃ。」と言ったのです。
嶋は「はい、わかりました、お父様。私は仏様にお仕えさせていただきとうございます。」
「おお、そうか!ありがたい。これからお前は[善信尼(ぜんしんに)]という名に改めよう。そして、一人だけでは心許ない。後二人、共に出家してもらおう。」と決まりました。
こうして、ここに三人の若い尼さん達が誕生したのです。
そして蘇我氏の敷地内にお寺を作り、仏像を祀り、そこで尼さん達は暮らし始めました。
これが、日本仏教のはじまりと言われています。
が、しかし‥。つづく
(三人の尼僧さんの墓)by大阪府太子町
紙芝居:「三人の尼僧さま〜日本仏教のはじまり」(その1)
昔むかし、大昔のお話。
皆さんは、日本で初めてお坊さんになった人たちを知っていますか?
それは三人の少女達なのです。
名前を『善信尼(ぜんしんに)』、『恵善尼(えぜんに)』、『禅蔵尼(ぜんぞうに)』と言います。
彼女たちは、数々の試練を乗り越えて、日本仏教発展の為に尽くされました。
それでは、波乱に満ちた三人の尼さん達の生涯を紙芝居で見てみましょう。
はじまり、はじまり〜
その尼さんたちが生まれる数十年前。
朝鮮半島『百済(くだら)』という国から、初めて『仏教』という教えが日本にやって来ます。
その時、百済の人は日本人に、「我々はこの仏教という教えを信じています。そして仏像を皆で拝んで幸せに暮らしています。」と言いました。
「へぇー、それは凄い!我が国でも是非、その仏教という教えを取り入れましょう!」と、(新しもん好きの)蘇我(そが)氏という豪族が、天皇に向かって声を上げました。
‥がしかし。物部(もののべ)氏という一族は大反対!「そのような外国の教えなど取り入れたら、日本の神様の怒りを買うでしょう!」と、言い争いになってしまいました。
そこで天皇は、仏教賛成派に一度.[仏像]を祀るお寺を作らせて、様子を見る事にしました。
‥がしかし、この時すぐに疫病が流行し、『それ見た事か!』と仏教反対派によって、お寺は燃やされ、仏像は井戸に捨てられてしまいました。あ〜ぁ。つづく
(奈良県:仏像が投げ込まれたという難波池)