住職のつぼやき[管理用]

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滋賀県東近江市:『真照寺』様の[親鸞聖人七百五十回御遠忌法要]への出前

5月28日、滋賀県東近江市の浄土真宗『真照寺』様の(コロナ禍で延期になっていたという[親鸞聖人七百五十回御遠忌法要]の記念法話にお招き頂いた。
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(真照寺様)
 遠方なので、ビジネスホテルで一泊した。結構お客様はいっぱいでした。
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(記念法話の様子)
 厳粛な雰囲気の満堂のご本堂で長いお勤めの後、いよいよ僕の出番です。
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(お釈迦様に変身)
 約一時間半の紙芝居法話をたっぷりお話しさせて頂きました。(このような時期だからこそ、楽しい話、元気の出る話をとご住職からのリクエストがあり、そのような紙芝居をチョイスしました。)
 真照寺のご家族の皆様、役員の皆様、御門徒に皆さま、本日は誠におめでとうございました。そして、ご法縁有難う御座いました。
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(近くの太郎坊宮)
 前日に寄った聖徳太子御縁の太郎坊宮。
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(近くの石塔寺内阿育王(あしゅくおう)塔)
そして、仏舎利(お釈迦様のお骨)がある石塔寺もお参りさせて頂きました。合掌

富田林:「光盛寺」様の永代経法要

本日、富田林の光盛寺さまの[永代経法要]に御法縁を賜り、紙芝居法話に行かせて頂いて来た。
 コロナ禍で、3年間法要はお休みされていたそうで、今日は晴天でもあり、沢山の御門徒さんで本堂は満堂であった。
 又、久しぶりにお顔を合わされたお方もあり、大変賑やかな法要でもあった。
 光盛寺の皆様、大変お世話になりました。有難うございました。合掌

観念寺永代経法要in2022

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昨日は観念寺の永代経法要の日。
 コロナ禍の影響もあり、例年なら一回だけの法要であるが、人数制限をして三回に分けて行った。
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 それと、今回は灯籠を阿弥陀仏に奉納するという新たな方式を取って、法話は止めて時間も短くして行った。
 遠くからもたくさんのご門徒さんが来てくださり、有難いと思った大きな法要であった。合掌

豊中市:法雲寺さまの永代経法要in2022

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 本日、豊中市:法雲寺様の永代経法要にお招き頂き、紙芝居法話に行かせて頂いた。
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 今日の演目は「阿弥陀経の話」や「共命鳥の話」、「聖覚法印さまの話」など三本の紙芝居。 
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(録画してくださいました。)
 緊張したが、結果的に楽しい実りある時間を御門徒の皆さまと過ごさせて頂いた。
 法雲寺のご住職、坊守さま、ご家族の皆様、御門徒の皆様、今年もお世話になりました。ありがとうございました。合掌

富田林『土間でおはなし 住職さんの紙芝居』in杉山家住宅

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(国指定重要文化財杉山家住宅)
 ゴールデンウィークの初日、雨の中、富田林市寺内町の『杉山家住宅』に、石上露子さんの紙芝居を演じに行かせて頂いた。
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(NHKドラマ『カムカムエブリバディ』の撮影地のなりました)
 こちらは、この春までNHK朝の連続ドラマ『カムカムエブリバディ』の撮影ロケ地になった所である。
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 こちらで、この住宅で生まれ育った[石上露子]さん、その他二本の紙芝居をさせて頂いた。
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 あいにくの雨でお客様は少なかったが、全力で、露子さんのお話しをさせて頂いたので僕は満足でした。
 杉山家のスタッフ様方、大変お世話になりました。ありがとうございました。合掌

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その5最終回)

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・・が、これだけこじれた状況に、なったのですから、中々うまくはいきません、
 やがて、自分を誘ってくれた友人[細川]氏も亡くなり、北の朝廷の中で、正儀は孤立してゆきました。
 今、五十才をはるかに越えた正儀は、戦いに疲れ人間関係に疲れ、精神的にも疲れ果て、故郷恋しの気持ちを押さえる事ができなくなっておりました。
 そしてその気持ちが高じて・・、
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 またもや正儀は、北の朝廷を裏切り、故郷の南の朝廷の元に帰ったのでした。
 この帰って来た正儀を再び迎えてくれた故郷の環境、そして人々の想いはどんなだったでしょうか?
 その様子は何一つ伝わっていません。
 そして不思議な事に、帰還して間もなく、正儀の歴史の記録がここで消えてしまうのです。
 一節には「正儀はこの後すぐ戦死した」とか、「自害した」とか言われていますが、はっきりとはわかりません。
 それから、正儀が亡くなってまもなく、足利幕府の三代将軍[足利義満]により、北と南の朝廷は和睦して統一へと向かいました。南北朝時代の終結です。
 皮肉な事に、正儀の死と共に平和な時代が来た事になりました。
 正儀の死とは関係無く・・。
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 この南北朝時代の動乱の始まりから終わりまで、およそ60年の歳月が経っておりました。
 楠木正成から始まり、その子正行、正儀まで、楠木一族の攻防の歴史は、これにて終わりを告げます。
 後世の一部の人は言います。
「それにしても、父や兄とは違って、楠木正儀という武将はなんという優柔不断な男だったのだ・・」と。
・・が、本当のところはどうだったのでしょうか?
 それは永遠にわかりません。
 が、ヘッドハンティングや転職が当たり前の時代の21世紀の現代人なら、きっと理解されると思われます。
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(金剛山 楠木正儀の墓か?)
おしまいつ

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その4)

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・・がしかし、その楠木正儀(南の朝廷)と細川(北の朝廷)との秘密の相談が、味方に露見してしまいました。
「楠木正儀が、北の朝廷と秘密理に連絡を取りあっているらしいぞ!・・あやつ、寝返るつもりか!?」と、噂が立ったのです。
 それを聞いて正儀は「ちっ違う!誤解だ!私は皆が仲良く暮らせる方法を探っているのだ!」と賢明に味方に訴えました。
が、誰にも理解されず、益々彼は孤立していきました。
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 その内、正儀を信頼してくださっていた天皇も亡くなり、新たな天皇や楠木一族にも疑われるようになりました。
 「そんなに孤立されているなら、いっそ、北の朝廷側に来ないか。そなたの器量なら北の朝廷は大事にするぞ」という細川からの誘いもあり、(これって今のヘッドハンティングやなぁ・・知らんけど) 正儀は結果的に、身近な家来だけを連れて北の朝廷側に駆け込んだのでした。
 そう、正儀は味方を裏切ることになりました。
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 北の朝廷のリーダー細川氏は喜びました。
「正儀殿、よくぞおいでくださった。さぞやお辛いご決断でありましたでしょう。」と大変感謝して、正儀を北の軍の重要ポストにつけて、暖かく迎えてくれました。
 正儀は裏切り者のレッテルを貼られながらも、ここでも南北の朝廷統一に向けて、賢明に働きました。つづく
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(金剛山:千早城跡)

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その3)

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 それからも、北と南の二つの朝廷の争いは続きました。
 正儀は、武家のリーダーとして、戦さの場で懸命に働きました。
 そして何度も勝つ、負けるを経て、ついに京の都を奪い返したのでした。
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 がしかし、念願の京の都に戻れた(正儀等の)南の公家たちは、浮かれて油断しました。
 そのすきを見つけた北の朝廷の軍たちは、京の都へ襲い掛かり、その結果またまた、正儀たちは戦さに負けて、河内へと引きあげたのでした。
 このようなことが、結果的に合計四度もありました。
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 疲れ果てた正儀は思いました。
「京の都を制圧しても、逃げた敵は又盛り返して帰って来る。・・そして又奪い返される。こんなことの繰り返しでいつまでも平和は来ない!
・・うーん、それよりも平和的に、北と南のそれぞれの天皇が一代ずつ交代しながら、この国を治めるという考えではどうなのだろうか⁉」と。
 ちょうどその頃、北の朝廷内でも(正儀と)同じ考えを持つ[細川]氏という武将が居るという事を知った正儀は、すぐに秘密裏に手紙を書きました。
 そして、やがてお互い意気投合した正儀と細川は、極秘に和平の道を模索し始めたのでした。つづく
 
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(富田林:嶽山(だけやま)城跡[現在のかんぽの宿])
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(河内の楠木正儀の城と云われている)

八尾の魅力セミナーへの出前

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今日は、八尾市の[アリオ八尾]という巨大ショッピングセンター内にあるイベント用舞台へ、紙芝居の出前に行って来た。
 テーマは[八尾の魅力セミナー]、つまり八尾にご縁のある偉人の紙芝居お話会である。
 演目は「中甚兵衛」、「大石順教尼」、「妙好人おしも」の三本。
 奇しくも、今日は4月21日,大石順教尼さんのご命日。
 不思議なご縁で頂いた、紙芝居会でありました。 
 八尾市観光ボランティアガイドの皆様、そしてご協力頂いたFMチャオさま、ありがとうございました。

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その2)

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 その楠木一家に大きな転機が訪れます。
 それは、まず父楠木正成の[湊川合戦]での戦死。
 そして月日は流れ、長男・次男の戦死する[四條畷合戦]です。
 その四條畷合戦の前、長男正行(まさつら)は、正儀に言いました。
「正儀、お前は故郷河内(かわち)に残れ。
 後の事はお前に任す。・・おそらく俺たちは父のように戦さで死ぬだろう。
 お前は知恵者だ。その冷静な頭脳で楠木一族を守ってくれ。
 頼んだそ!」
と言って戦場で次男と共に戦死しました。
 こうして正儀は、わずか20歳の若さで楠木一族の頭領となったのでした。
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 正儀はお寺で亡き父や兄たちに呟きました。
「父上、兄上、どうしてあのような負けるとわかってる戦さで、命を落とさねばならなかったのですか?!
 無駄死にでは無いのですか⁈
 公家たちからの命令だったからですか?
 彼らはいつも命令するだけ・・。
 戦って血を流すのはいつも武士だけ。
 そしていつも万民は迷惑を被る。
 あぁ、私は命令されるだけではなく、正しく自分で考えて和平の道を選びたい。
・・しかし私は武士の頭領。命令どおりに戦い続けるしか無いのでしょうか?」と呟いたのでした。
 正儀の苦悩のはじまりでした。つづく
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(富田林:正儀の母(久子さま)の住居跡[観音寺内])
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(楠母神社:正儀等三人の子と母の像)

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