お彼岸最後の日は大雨であった。
そんな日に、寺の近くの老人施設内のある[古墳跡]記念碑にお参りを頼まれて行って来た。
これは毎年の行事なのである。
河南町は古墳が多い。
一般の住まいの近辺にも古墳はある。
雨の中でのお参りは大変だったが、何故か[古墳]の古代主のお方も喜んで下さったような気がした。
記事一覧
※画像をクリックすると拡大されます。
河南町「老人施設内[古墳跡]」へのお参り
規模を縮小しての[秋季彼岸法要]
コロナ禍でも彼岸はやって来る。
観念寺でも明日の夜、秋季彼岸法要を行う。
・・がしかし、このような時節である。
極端に規模を縮小して行う。
ソーシャルディスタンスを守る為、二階本堂は使わない。
一階のホールを、間隔をあけて席を作り檀家さんのお参り会場にして、二階の御本尊の前で僕だけがお参りをして、それをテレビ中継して一階ホールに流す。
読経も短くし、お焼香も済んだ方からご帰宅願う。
・・どうなるかわからないが、コロナ対策での法要は、これしか思い付かなかった。
もちろん、ご法話も無し、皆とワイワイとよばれるおやつタイムもない。・・お茶は持ち帰りの紙パックにした。
寂しい法要になるが、さて檀家さんは来てくださるだろうか?
紙芝居:『悲劇のゼンメルワイス医師「それでも手を洗え!』(その5 最終回)
そしてゼンメルワイスは、44歳の頃から精神のバランスを崩して、躁鬱病を発症。
やがて、おかしな行動を取るようになり、ついに彼は認知症を発症、精神病院に入院します。
が、入院してから僅か2週間で院内で暴れ出し(脱走を試みたという説あり)、職員が彼を取り抑えようとして暴行。
そしてその時の傷が元で、僅か47歳で亡くなりました。
イグナーツ・ゼンメルワイスは、[手洗い消毒法]を考え出した偉大な医学者でした。
がしかし、医療者達がゼンメルワイスが言ったように、こまめに手を洗うようになったのは、彼の死後2年が経ってからでした。
又、手洗い消毒法が、健康管理の一環となったのは、それから100年も待たねばなりませんでした。
今では、『感染制御の父』又は『母親達の救い主』と呼ばれるゼンメルワイスですが、その生涯は短く悲劇的なものでした。
おしまい
紙芝居:『悲劇のゼンメルワイス医師「それでも手を洗え!」』(その4)
ゼンメルワイスの独断専行の性格も悪くとられた事もあったでしょう。
[消毒手洗い法]という大発見をしたにも関わらず、彼は大学病院の反逆者として、大学者のお偉い方から、大学病院を辞めさされる事になるのです。
その後・・、
彼は故郷ハンガリーに帰り、街の病院や地元の大学などで働き、『手洗いの必要性』を書いた論文を発表します。
がしかし、彼の説は医学界に広く受け入れられる事はありませんでした。
医学者達が、それを無視したからです。
それはやはり医者が、今まで多くの患者を殺してしまった事を認める事にあったからです。
・・が、それに対してゼンメルワイスは猛反発して反論しました。
その結果、彼は医師の資格をはく奪され、医学界から追放されます。
つづく 次回、最終話
紙芝居:『悲劇のゼンメルワイス医師「それでも手を洗え!」』(その3)
ゼンメルワイスは考えました。
「これは空気中の悪い空気が原因ではない。
・・私は[第一産科]の医師達と、[第二産科]の助産婦達をじっくり観察した。
そして、その決定的な違いを発見した!
それは[第一産科]の医師達だけが、お産の前に死亡した患者の解剖研究をしていた事が関係する。
死亡した患者の体を触る事によって、『死体粒子』とでも言おうか、細菌が医者達の手に付着し、その手で妊婦を診察した為、産道に悪い菌が付き病気を起こしたのだ。
・・助産婦はそれをしない。
つまり原因は、我々医師に原因があったのだ!」と。
そして彼は思いました。
「・・ならば、この悪い菌を取り除くには、・・徹底的に手を洗えば良いのだ!」と。
そこでゼンメルワイスは、上の先生の許可も得ず、産婦人科の部屋の前で、
『解剖室から出て来た医者は、入り口の前の洗面器で徹底的に手を洗う事!』
と書いた紙を貼り、病室の前で医師達を監視続けました。
他の医師達は「何故、オレ達は手洗いなんてしなくちゃいけないのだ!」とブツブツ・・。
しかしゼンメルワイスは「それでも手を洗え!」と、もの凄い形相と気迫で迫るものですから、皆はしぶしぶ従いました。
その結果・・、
この塩化カルシウム液を使った手洗いの効果は絶大でした。
第一産科の産褥熱発症率は激減。
入院患者の死亡率は劇的に少なくなったのです。
こうしてゼンメルワイスは、のち『母親達の救い主』と呼ばれる事になるのですが、それはずっと後の事で・・、
「患者の死亡は、手洗いをしなかった医療者たちに原因があった」と言われた医師達は、皆ゼンメルワイスに敵意を向けたのです。 つづく
紙芝居:『悲劇のゼンメルワイス医師「それでも手を洗え!」』(その2)
ゼンメルワイスは、赤ん坊を産んで亡くなってゆく母親達を見て、何とかこの『産褥熱』の原因を突き止めようと研究しました。
しかし、なかなか原因は分かりません。
他の医師達は「これは[瘴気]という空中に漂う悪い空気が原因ではないだろうか?」というのですが、ゼンメルワイスは納得がいきません。
ある日ゼンメルワイスは、近代医学をマスターした医師達がお産の手伝いをする「第一産科」が、
助産婦達だけでお産の手伝いをする「第二産科」よりも、死亡率が高い事を発見します。
彼は「なぜ、医学知識を豊富に持った医師達の「産科」の方が、お産後、母親達が大勢亡くなってしまうのか?」と、考え続けました。
そして、ある結論に達したのでした。
つづく
紙芝居:『悲劇のゼンメルワイス医師「それでも手を洗え!」』(その1)
新型コロナウイルス感染症を防ぐ為に大切な事。
マスクの着用、ソーシャルディスタンスの確保、そして、手指の消毒。・・そう、手洗い。
これは、その手洗いの重要性を世界で初めて説いた医師の物語です。
はじまり、はじまり〜
19世紀、ここはオーストリア・ウイーン総合病院。
「そうだ!手洗い、手洗いだ。感染症対策には『手を洗い消毒する事』が大事なのだ!」と一人の医師が叫んだ。
彼の名は(瀬戸わんや)ではなくて、[ゼンメルワイス]!。
まだ当時、手洗い『消毒法』というものが発見されていませんでした。これは一人の産科医師の悲劇的な一大発見のお話です。
(不謹慎な余談) ・・ピッピ、ピヨコちゃんじゃ、アヒルじゃガーガー・・。昔このギャグで一世風靡した「てんやわんや」の漫才が僕は大好きでした。この紙芝居の主人公と、故[わんや]師匠のあまりにもお顔が似ていたので、(そして、すぐ向きになる真っ直ぐな性格も似てましたので・・)ずっとピッピピヨコちゃんと呟きながら、この紙芝居を描きました。全く不謹慎です。すみません。反省
1846年、ここはウイーン大学総合病院。
ハンガリー人、イグナーツ・ゼンメルワイスは一人前の(漫才師、いや間違えた)、医者になるべく、医学部に入学し、懸命に学問に励んでいました。
そして、やがて彼はこの大学病院の産婦人科の助手になり、勤務を始めたのでした。
その頃、産科病棟では、『産褥熱(さんじょくねつ)』という、お産の際に[細菌]が入り込み、発熱を起こして死に至る病気が流行っていました。
つづく
秋の『彼岸法要』は二階本堂から一階ホールへ、リモートします
コロナ禍の中、今年の観念寺の秋季彼岸法要は、感染拡大防止を踏まえ規模を縮小し、二階本堂からテレビ中継で、一階のホールにてリモート法要にします。
うちの寺は、どうしても二階本堂の席が狭いので、ソーシャルディスタンスを守るには、これが苦肉の策なのです。
又、恒例の布教法話も無しです。仕方がないですね。
後は、本番がうまくいけば良いが…?
夏の終わりに・・
コロナ禍の夏が終わろうとしている・・。
例年に比べて、紙芝居講演がほとんど休止の夏だったが、(いつになく)忙しかった。
それは、お葬式が多かったからだ。
毎週一回の連絡が入り、お盆参りを挟んで、連続でお葬式を執り行なった。
お葬式が終われば、その後毎週一度、四十九日(満中陰)まで、そのお家でお参りが入り益々忙しくなる。又、暑さも応えた。
こうして、今年の夏が終わろうとしているが、頭にある事は、カレンダーに書かれた9月のお参りの日程調節と、これからのコロナ対策の彼岸法要の事。
嗚呼、今年もスケジュール一杯で夏が終わった。