この大合戦の結果、桃太郎は都から褒美として、吉備の国の国守(今の知事のようなものか)を与えられた。
‥がしかし、桃太郎を悩ませたものが一つあった。
それはウラの首を埋めた地面から、夜な夜な聞こえる怨みの泣き声であった。
その声は、土の中から聞こえるような、妻たちが毎晩隠れて泣いているような、「おぉ〜ん、おぉ〜ん」と桃太郎の回りから聞こえて来た。
‥その声は13年間続き、桃太郎を苦しめた。
そんなある晩‥.
桃太郎の夢に、ウラが現れた。
「桃太郎、オレの悲しみは果てる事が無い。この気持ちを癒すには、首を埋めた所をきちんと祀って、オレの女房に墓守をさせてくれ。そうすれば、オレは癒されるであろう‥。
もしそうしてくれたら、その礼として、そこでお釜にお米と水を入れ沸かせて、そこでシューシューと音を鳴らしてくれ。
その音の大小で、その年の稲作の吉凶を教えやろう。お釜の音が大きくなれば、その年は豊作。小さく鳴れば、凶作じゃ。」と言った。
桃太郎はその通りにした。
すると不思議な事に泣き声は止んだという。
又、その吉凶は不思議に当たった。そしてそこから色々な事の占いが始まったという。
桃太郎はその後、長生きして281歳まで生きたということじゃ。(長生きし過ぎや!)
※又余談だが、このウラの首を埋めた場所を吉備津神社内で今日も祀り、(今も⁇)ウラの妻の子孫たち?(今もウラの関係者が巫女をされているかどうかはわからない。)が巫女としてお祀りをされ、神社の神主さんが祝詞を上げ、共に様々な吉凶を占って下さる神事が続いているという事である。つづく
(吉備津神社)
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紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その5)
紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その4)
しかし、ウラたちは逃げも隠れもしなかった。
又、降参もせず、一通の手紙を桃太郎の元によこした。‥中身はこう書いてあった。
『わし等は、何も悪いことはしておらん。
なぜ、出て行かねばならん。
なぜ、降伏せねばならん。
むちゃを言うなら、わし等は戦うぞ!
かかって来いやー。侵略者ども!』と。
桃太郎はこれを読み、「我々を侵略者呼ばわりする気か!バカな!皆の者、ウラたちへ攻めかかれー!』と、ブチ切れた。
戦争は始まった。
この戦い、砦に籠るウラ達は予想外に強く、決着は中々つかなかった。
そこで桃太郎は、得意の弓矢を2本放った。
その一本はウラに真っ二つに切られたが、残りの一本がウラの片目に命中した。
「ぐわぁー!」とウラは倒れた。するとたちまちウラ軍は総崩れになった。
こうして、ウラ兵は次から次へと倒れていった。
やがてウラ達は力尽き、みんな捕らわれ、首を刎ねられ、晒された。
その後、後に残った砦から、ウラたちと結婚していた妻達が助け出された。
‥が妻たちは、桃太郎に感謝せず、反対に夫を殺した侵略者として、恨み言を言った。
「ウラは賢く優しかった。勇敢であった‥。我々に、便利な畑仕事の道具をたくさん作ってくれて楽をさせてくれた。‥お前たちはなんと殺した上に、首を晒すとは恨めしい!鬼とはお前たちのことだ!」と泣き叫んだ。
この言葉に桃太郎たちは呆然とした。
‥が、これでショックなことは終わりではなかった。つづく
(吉備津神社)
紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その3)
「鬼と呼ばれた[ウラ]達は、こちらに住み続け、最初はおとなしくしておりました。
‥がその内、我々と仲良くしたいと言い出して、自分たちの便利な道具を分けてくれるようになり、そこから交流が始まりました。
やがて、わし等の娘たちと仲良くなる者もあらわれ、結婚する者も出て来ました。
それで、わし等はだんだんと疑わしくなって、「あやつ等、わしらの土地をすべて奪うつもりかもしれん⁈」と、帝(ミカド)に訴え出たのでございます。」と村長は言った。
桃太郎は「うーん、奴らは鬼では無かったのか!‥しかし、都から『鬼退治』と大軍勢を連れて来た手前、どうしたものか?」とつぶやいた。
そこで皆は一度、会議をする事にした。
「さて、皆の者。この鬼達‥いや、ウラたちをどうしたものか?それぞれの意見を述べよ。」と桃太郎は言った。
お猿のような家来がまず口を開いた。
「大将、奴らは頭の良い民族です。このまま放っておくと、きっといつか大軍勢になって、我々を攻めて来るでしょう。今の内なら攻め滅ぼせます!ウッキキー!」と言った。
それに対して、犬のような家来が、
「いやいや、それでは多くの血が流れますだワン。穏便に話し合い、われわれの家来になってもらいましょう!‥話せば分かるワン!」と言った。(余談ながら、この家来の犬飼が、のち五一五事件で亡くなる犬養毅首相の先祖です。)
そして雉のような家来は、
「我々のこの大軍を見れば、きっと奴らは、怖がって逃げ去るでしょう。大丈夫ですよ。キッキッキッキー」と言った。つづく
(吉備津神社)
紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その2)
桃太郎の軍隊は、岡山に着いた。
そして(今の吉備津(きびつ)神社の辺りに)その陣を張ったんじゃ。
(吉備津神社)
そこに地元の部族の長達がやって来た。
まず、猿のような知恵者、楽楽森彦(ささもりひこ)と、
忠義に熱い犬のような犬飼健(いぬかいたける)が来た。
さらに雉のように機敏な働きをする留玉臣(とめたまおみ)もやって来た。
三人は声を揃えて「桃太郎さま、我らを家来にしてください!」と言った。
桃太郎は喜んで、こちらの地元の名物[吉備団子]を出して歓迎した。「よし、皆で鬼退治に行こうぞ!」と桃太郎は叫んだのじゃ。
出陣する前に桃太郎は、手紙をくれた村長に鬼について尋ねた。
「村長、その鬼とはどのような奴らなのですか?」と尋ねると、村長は答えた。
「桃太郎さま、あやつは本当の鬼ではありません。人ですのじゃ。
あやつ等は、海の向こうの百済(くだら)という国から逃げてきた部族で、ここに隠れ住んだのですだ。
その大将は『温羅(ウラ)』という名で、背は高く髪は赤茶色、頭は良くて我々の言葉もすぐ覚えました。
それで村人は気味悪くなり、『鬼』と呼ぶようになったのですだ。」 つづく
(桃太郎のモデル吉備津彦の命)
紙芝居『新・桃太郎の伝説』(その1)
(岡山駅前・桃太郎の像)
昔むかし、日本の国がまだ『倭(わ)』の国と呼ばれ、この国を治める帝(ミカド)がおった頃のお話じゃ。
帝には立派な「吉備津彦(きびつひこ)の命(みこと)という息子がおって、彼は一度に2本の弓矢の矢を放ち、見事に桃の実を2つ共射抜いたという名人だったじゃ。
まさに日本のロビンフッドじゃな。知らんけど‥。
それでこの皇子は、通称『桃太郎』と呼ばれておった。
うん、このお話では、吉備津彦と言わずに『桃太郎』と呼ばせてもらおうかのう‥。
ある日、この帝の元に、吉備(今の岡山)の長から、一通の手紙が届いた。
手紙には『いま、吉備の国に悪い鬼達が海の彼方よりやって来て、国中でやりたい放題で困っております。鬼達は、吉備の国を自分達の物にしようと企んでいるのでしょう。どうか、鬼達を成敗して下さい。』と書いてあった。
「これは困った事になった。」と帝はつぶやいた。
その時、桃太郎が「私が鬼を懲らしめてやりましょう!」と叫んだ。
「おお、行ってくれるか皇子よ、頼んだぞ!」という事で、桃太郎は鬼の征伐に向かったのでした。
つづく
ヴォーリズ建築が好き(近江八幡)
僕は京都の大学だったので、昔からヴォーリズ建築を見る事が多く、大変好きであった。
遠い昔になったが、大学を卒業してからも、(大阪はもちろん信州軽井沢など)ヴォーリズ建築をあっちこっち見て歩いた。
ヴォーリズや彼の妻の生涯を描いた小説なども何冊も読んだ。(いつか紙芝居化しようと思っていたのだ。)
それで今日、二度目となるがヴォーリズの第二の故郷と言っても良い滋賀県の近江八幡市に行って来た。
そう、子供の頃に火傷でお世話になった『メンソレータム(現在はメンターム)』社を作ったのも、ヴォーリズだったのだ。
資料はある程度揃えたのだが、今、ヴォーリズの紙芝居を作る時間的余裕がない。
おそらく、製作開始は来年になると思うのだが、今のところ、わからない‥。
まぁとにかく、僕はヴォーリズが大好きなのだ!
現在、企画&制作中の紙芝居
今日は現在、企画&制作中の紙芝居を発表します。
226作目は『悲しき英雄ヤマトタケル』。
この作品は、ヤマトタケルの古墳のある羽曳野市に、最近仕事でよく行く機会があって、一度作ってみようと思い制作を開始しました。
日本最初の英雄でありながら、実の父親との折り合いが悪く悲劇的な最後をとげたヤマトタケルの一生を紙芝居で今、制作中。これはもうすぐ完成します。
そして、227作からその後の企画作品は
‥いつも何故、山の頂上に天皇の皇子のお墓があるのだろうか?と、お山に登るたびに思っていた作品で、題名は『大津皇子と二上山』という作品名にしようと思ってます。これも今制作開始をしています。
さらに続いて、これだけは作っておこうと思っていた『葛飾北斎と脳卒中』という作品や、
そして、これも絶対の作っておこう思っていた『アショーカ王物語』などが今企画中です。
まだ、元気でおらねば‥と思っています。
紙芝居『恩徳讃(おんどくさん)のお話』(後編)
『恩徳讃』を書かれながら、親鸞聖人は思われました。
「阿弥陀如来さまは『我に任せよ!必ず救う!』とおっしゃられた。
この御恩は身体を粉にしても、返すことはできないほど、ありがたい事なのだ!」
そして、
「その事をお伝えくださったお釈迦さまや、偉いお坊さま方に対して、私達はたとえ自分の骨を砕いても、返せない程ありがたいものなのだ!‥それを私たちは忘れてはならない。」
「私たちは、その御恩に大きな感謝の気持ちを持ち、決して忘れてはならないのだ!
それが一番大事〜!」
と、親鸞聖人は心から思い、合掌をされました。
これが『正像末和讃』の中の『恩徳讃』の意味です。
そしてやがて、この『恩徳讃』は仏教讃歌として、曲が付けられ、常に仏様への感謝の気持ちを持ちましょうと、今日では、お寺の法要、法座の最後や宗門学校の式典でも歌われるようになったという事です。 おしまい
紙芝居『恩徳讃(おんどくさん)のお話』(前編)
皆さんは『恩徳讃(おんどくさん)』という、親鸞聖人の詩を知っていますか?
『如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし‥』
お寺の法要などで、この詩は曲をつけてよく歌われます。
親鸞聖人はこの詩を『正像末(しょうぞうまつ)和讃』という、詩を集めたものの中で発表されました。
それでは、紙芝居で『恩徳讃』の内容をお話させて頂きましょう。はじまり、はじまりー
‥この詩集を作られるに当たって、このような逸話があったようです。
‥それは、昔むかしの鎌倉時代。
親鸞聖人ご高齢の85才の時‥。
この年、ご自分の跡継ぎと信頼していた善鸞(ぜんらん)という息子に教えを背かれた親鸞さま。
‥それで、悩んだ末に善鸞との親子の縁を切ります。
それで毎日孤独を噛み締め、苦しまれます。
そんな時、親鸞さまは不思議な夢を見られるのです。
夢の中で阿弥陀如来様が現れたのです。
阿弥陀さまは親鸞さまに言われました。
「親鸞よ、私は必ず皆を救うと誓ったな!私の言葉、南無阿弥陀仏を信じなさい。
私はその人々を必ず守り、悟りを開かせるぞ!」と。
この言葉を聞かれた親鸞さまほ、「おお、そうでございました。信じていた息子に裏切られ、この底なし沼に落ちたような私ですが‥、阿弥陀さまはこのような私にも、常に光を当てて救っていてくださっていた。
そのお心、この親鸞、改めて気づき頂きました。
そうじゃ、今のこの思いを、私は詩にして書かせて頂きます。」
このような事があり、親鸞聖人はご自分の内面にある悲しみや世の中への嘆きをテーマにして、筆を取られました。
又一方、そのような自分であるからこそ、阿弥陀さまに救われるという喜びも、わかりやすい詩にして書こうとされたのです。
これが、悲しみと喜びの二面性を持った、和讃『正像末(しょうぞうまつ)和讃』なのです。
ちなみに『正像末』とは、正法・像法という時代が終わり、末法という絶望的な時代が今来た。この時代が来たからには、阿弥陀如来にすがるしかないのだ!という意味です。
『恩徳讃』も、この和讃の中に書かれた詩の一つなのです。 つづく