住職のつぼやき

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今年もコロナ禍での【報恩講法要】

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(講師の善林寺・石田先生)
今年もコロナ禍での報恩講法要をさせて頂いた。
 秋のお彼岸法要に引き続いて・・、今回もご講師の先生に二階本堂からテレビ中継で、一階にお集まりのご門徒さんにご法話をして頂いたのだ。
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 「人の顔が見れないご法話は難しいですねぇー。」と何度もおっしゃっておられた。
 石田先生、ご無理を申しましてすみませんでした。合掌

紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その6・最終回)

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 新しくなった[寺ヶ池]完成後、與次兵衛さんはご領主から呼び出されました。
「與次兵衛、ようやった!あっぱれじゃ!褒美としてそなたに、今の家とは別に土地をやろう。そして、そなたをそこの代官にしよう。これからも励むよう!」
「ありがとうございます。」
こうして、河内郷代官となった與次兵衛さんはさらに励みました。
 そして、いつしかその新田開発により、昔の100倍のお米が取れるようになったそうです。
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 その後、與次兵衛さんは子供達に仕事を任せ、自分は父と同じように頭を丸めてお坊さんになりお寺に入ります。
「極楽にいる親父さま、いやご住職、私は万人の幸せの為に働く事ができました。住職が言われたように、人の幸せを願って働くことは、自分自身をも幸せにすることでした。皆は私に感謝し、私は私で今幸せを感じています。私は大事な事を学びました。これからはその心で、この水路(井路)を通って流れ来る清らかな水のように、悩める人の心にそっと寄り添いながら、仏様の教えを伝え生きてゆきたいと思います。」
お坊さんになった與次兵衛さんは寺ヶ池の前でそう思いました。
 與次兵衛さんは『祐和(ゆうわ)』というお坊さんの名前になり、晩年を過ごされました。
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 今も人々の為に豊富な水を満たしてくれている、河内長野市にある寺ヶ池。
 恩恵を受けた多くの人により、與次兵衛さんの活躍を讃えて、今も池の北に「祐和」の碑という石碑が建っています。
おしまい
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(中村與次兵衛さんのお墓)

紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その5)

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こうして総年数16年、延べ約4万人が関わった大工事は、慶安2年(1649)ついに終わりました。
 その周囲2200メートル、深さ29メートルの大きさでした。
 石川上流から流れ来る大量の水を見て、大きくなった寺ヶ池が、水で埋め尽くされたのを見た與次兵衛さん達村人は、言葉にもできぬ程の感動があったでしょう。
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 こうして完成した寺ヶ池の周囲は2197メートル、南北650メートル、東西約108メートル、貯水量は60万トン。
 そして池より、南西の水源地の底までの水路(井路)は、約3.8キロメートル以上ありました。
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(写真右下が現在の水路(井路)。いまも現役なのです。)
つづく

紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その4)

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 與次兵衛さんは、水が流れ来る道(井路)を考えねばなりませんでした。
 ここ(寺ヶ池)から、上流の大きな川(石川)まで繋がるコースを決めました。
 そして水がきちんと流れて来るように、土地の高い、低いを見極めるに、夜に提灯を並べて、その明るさを頼りに調べました。
 皆で交代しながら、その高い低いの印に従って、井路(水路)を掘って行きました。
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 その井路を掘り進めるのは大変でした。
 途中、硬い岩盤にぶち当たる事もあったからです。
 その場合は、皆でトンネルを掘って井路を作りました。
 そうこうしながら、與次兵衛さん達は井路を完成させたのでした。
 その長さは、結果的に約13.8キロという、途方もない長さになったのでした。
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 一方、池も大きなため池に広げなければなりません。
 そこでまず、池の西側と東側に元々あった、なだらかに続く丘を利用して広げました。
 そして北側と南側には堤防を作り、ダム式のため池を考えたのでした。
 これは、現代のように機械が無く、すべては人の手で作業をしなければならない為、大変な工事でした。つづく

紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その3)

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そして與次兵衛さんは、水をどこから引いて来るかなど考えて、ご領主に工事の許しをもらいに行きました。
「與次兵衛、その方の考えは大変素晴らしい。完成すれば、米も多く取れ、藩も潤い、民衆も生活が楽になる。・・がしかし、難しい工事になるぞ。出来るか與次兵衛!?」
「はい、たとえ自分の全財産を使い果たしても、皆の生活を考えやってみようと思います。」
「あっぱれな心掛けじゃ!お前をこの工事の責任者に任命する。又、我が藩からも出来るだけ応援するぞ。」
「ありがとうございます。」
こうして、次はこの工事に関わる農民達の協力要請や説得に行きました。
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「與次兵衛さん、あんたの考えはよう分かった。要は水の多い石川の上流から長い水路(井路)を作って、大きく広げた寺ヶ池まで流すっちゅう事やな。確かにそれが出来たら、仰山水田が出来て潤うやろ。しかし、わし等の土地はどうなるんや。池に広げられたら無くなってしまうやないか?!」
「心配せんでもエエ。米が多く取れるように村から、土地は分けてもらうように話しはつけた。」
「水路になる村は土地が緩んで、水が溢れたりせえへんか心配や?」
「それも慎重に水路になる所を選んで、安全安心に工事するから大丈夫や。」
「その何処かで聞いたような、[安全安心]という言葉は心配やなぁ。」
こうして與次兵衛さんは、反対意見を熱心に聞き、それを説得して話をまとめてゆきました。
 そして各村からの協力を得て、いよいよ工事は始まりました。
つづく

紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その2)

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江戸時代の初め。
 庄屋の中村與次兵衛(よじべえ)さんは、小さな[寺ヶ池(てらがいけ)]の周りを歩きながら、つぶやきました。
 「あぁ、この池がもっと大きく水が豊富やったら、まわりに水田を仰山作って、お米がいっぱい取れるのになぁ・・。
 このままやと、この村はいつまでも貧乏のままや。なんかエエ方法はないもんか?
 あっそうや、極楽寺のおやじに相談してみよう。」
 與次兵衛さんの父親は、[佑算]という名前に変えて、今近くのお寺のお坊さまになっていました。
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 「親父さま、いやご住職さま、あの池を何とか大きく改築できんもんですかのう・・。」
 「與次兵衛、その方法はたった一つ。あの池にどっかから水路を作って水を仰山運び入れるんや!
 もちろん、今のままやったら池が小さすぎるから、池も広げなあかんわなぁ・・。
 これは大工事になるやろ。お金も人もいる。ご領主さまにも相談せなあかん。大変なこっちゃ・・。
 でもな、仏さまは『一人は何万人が幸せになることを常に願って働かなあかん』と言うてはる。これが自分も幸せになる方法やと・・。又なぁ、反対に何万人はたった一人の幸せの為に力を合わせとも言うてはるんや。
 この考えをしっかりもっとったら、この大工事は絶対成功する!
 これをやれるか?與次兵衛・・。」
「はい、親父様、いやご住職。その心でやってみます!ありがとうございました。」
 與次兵衛は一大決心をしました。 つづく

紙芝居:『中村與次兵衛(よじべえ)と寺ヶ池(てらがいけ)』(その1)

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 昔々の大阪にこんな歌がありました。
 『一に寺池(=寺ヶ池)、二に狭山池、三に和泉の久米田池』。
 これは南大阪で、たいへん大きく、深く、そして枯れる事のない、人工池の順位を唄ったものです。
 この一番に出てくるのは、現在の大阪府河内長野市にある[寺ヶ池]。‥この池、初めは小さな池でした。
 それを今からお話するこの物語の主人公、[中村與次兵衛]という一人の庄屋さんが開発し、大きい池に築造したのです。
 そのおかげで、今でもこの地域は水不足に悩まず、皆が安心して暮らしていけるようになりました。
 それでは、その與次兵衛さんのお話をさせて頂きましょう。
 はじまり、はじまりー。 
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(大阪府河内長野市/寺ヶ池)
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 つづく

続・紙芝居『ワカタケルとワカクサカ』の取材

今、古代紙芝居『ワカタケルとワカクサカ』を作る為の取材を行っている。
 先日もワカタケル(雄略天皇)の妃、ワカクサカ(若日下部王)の故郷、東大阪市へ行って来た。
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(ワカクサカ妃のお墓か?)
 はっきりとは解ってないのだが、おそらくココではないかと言われている日下神社に行ってお参りさせて頂いた。
 大阪とは思えないほどの長閑な自然が残る所であった。
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([日下之直越道(クサカのただごえみち)])
 そして、こちらに奈良から生駒山を超えて、プロポーズ目的にやって来たワカタケル大王の行路も少しだけ歩いてみた。
 この風景を実際に見たら、少し絵が描けるような気がする。
 もう少し、取材を続けたい。
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(行基菩薩火葬の場?)
 最後は、この近くの行基さまの火葬場をお参りさせて頂いて取材を終えた。

秋の『彼岸法要』は二階からのテレビ中継!

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コロナ禍の中、今年の秋季彼岸法要は一階のホールで行い、ご法話は二階からテレビ中継で聴聞させて頂いた。
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 ご講師の先生は、イベント坊主こと!豊中[法雲寺]の辻本純昭先生。
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 お話は、先生からの一方通行放送で(色々とご不便をおかけし、先生には会場の雰囲気を味わって頂けなかったのだが、)皆さんたいへん感動して喜んで頂けました。
 辻本先生、ご無理をお願いしてすみませんでした。そして、ありがとうございました。合掌

今日は「室戸台風襲来の日」

今日は「室戸台風襲来の日」。
 昭和9年9月21日に、その大型台風は大阪に来た。
 四天王寺の塔が倒れ、電車がひっくり返り、大阪市内が水浸しになった。
 中でも、その当時木造建築だった小学校が校舎ごと崩れて、生徒や先生の多くが犠牲になった。
 その当時の様子を紙芝居にしたのが、(紙芝居メニュー117)『室戸台風襲来の日』である。
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 木造校舎が倒れて、生徒を守りながら下敷きになって亡くなったのが、当時20代の若き女性教師であった[吉岡先生]と[横山先生]。(作品では枚数の都合上、一人に絞って描いている。)
 彼女達は自分を犠牲にして、子供達を命を守った。
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 先週、この台風被害の舞台となった「豊津第一小学校」の校長先生から電話があり、「この紙芝居をうちの小学校で、子供達の前で是非やって欲しい。台風被害の写真を使って話をするのは生々し過ぎるので・・。」と頼まれた。・・が、やはりそれはコロナ禍の影響で来年以降の延期となったのだが。
 この忘れてはいけない台風被害の犠牲者の方達のお話も、紙芝居を作った責任上、やらなければいけないと感じたご依頼であった。
 

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