住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居『讃仏偈(さんぶつげ)のお話』(後編)

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「私は悟りを開き、ガンジス河の砂のように多くある仏の国にも、私の持つ光で照らして見せます。
そして、多くの国の人々を「こんにちはー!皆を救いまーす!」と、(漫才師『錦鯉』のように)ド派手に私の光で照らしてみたいと思います。
このように、私の志は固く決して挫折は致しません。」
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そして、いろんな世界から、私の所にやって来た人たちを、清らかな心で幸せにしたいと思います。」
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「あゝ、世自在王仏さま。貴方様が私のこの誓いの証人になって下さい。
私はこの立てた誓いを目標に努力します。
そして十方世界の仏様たち、私の心と行いを見ていて下さい。
我師、世自在王仏さま、仏様たち、私は苦しみを乗り越えて、修行致します。
どうか見ていて下さい!必ず、仏となります!」
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このような形で、お聖教『讃仏偈』の法蔵菩薩の「私は仏なる!決意宣言」は終わります。
‥その後、法蔵菩薩は『五劫』という、長い修行期間に入りこのお話は、法蔵が阿弥陀仏に変わり終わるのですが‥、そのお話は別のお聖教『重誓偈(じゅうせいげ)』での話。
以上、『讃仏偈』のお話でした。おしまい

紙芝居『讃仏偈(さんぶつげ)』のお話(前編)

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このお話は、お聖教『讃仏偈』を元にした紙芝居です。
昔むかし、大昔‥。
ある国に立派な王様がおりました。
‥がしかし、その王様は国を捨て、出家し、修行僧になり、[世自在王仏(せじざいおうぶつ)]というお坊さんの弟子になりました。
そして、彼は[法蔵(ほうぞう)]菩薩(ぼさつ)という名前をもらい、猛烈に修行を始めました。
ある日、法蔵は師匠[世自在王仏]のお徳の素晴らしさを改めて悟り‥、「ああ、それにしても我が師匠は何と素晴らしい仏なのだ!私は猛烈に感動している!」と師匠の前で、そのお徳を熱く、熱く、熱く!語り始めたのでした。
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法蔵菩薩は語ります。
「ああ、私が尊敬するお師匠[世自在王仏]さま!
貴方のお姿は、そびえ立つ山のようにご立派です!太陽や月、又美しい宝石でさえ、お師匠さまの前では影を潜めます。
又、お師匠さまの悟られたそのお声は、世界の至る所に響き渡るでしょう。
仏教のきまりを守られ、お智慧を持たれるお師匠のお徳に並ぶものなどありません。
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あゝ、世自在王仏さま!貴方様はまるで海のように広大なお方です。
そこには、欲望や怒りの心など、微塵もありません。そのようにお師匠さまのお徳は計り知れないのです。
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そこで‥、願わくば、私もお師匠さまのような仏になって、悩み苦しむ人々を救いたいのです。
私も、悟りの境地を目指したいのです。
私は誓います!実践します!
そして、すべての苦しむ人々に、大きな安らぎを与えると、ここに誓います! (後編に続きます!)

阿弥陀仏とゼログラビティ!(紙芝居もどき)

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 浄土真宗の阿弥陀如来像は、[立ち姿]です。
そして、少し[前傾姿勢]をとっておられます。
‥それは一歩でも前に進み、苦しむ人々に向かって歩み寄ろうとする表現から、この姿勢になられたそうです。
それを今から、この絵を通して再現したいと思うのですが、‥おや?阿弥陀様の後ろにどなたか居られますね?
あなたは誰ですか?
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「アゥー、私はマイケルジャクソンです。アゥー!
私も尊い阿弥陀様の真似がしたいのです。フゥー!!』
‥そうですか。それはご奇特な‥。そういえば、貴方はムーンウォークとか、(反重力傾斜パフォーマンス)ゼログラビティが得意でしたねぇ。
‥それでは、阿弥陀様とご一緒に反重力傾斜パフォーマンスで、我々凡夫を(歌や踊りで)いつまでも楽しませに来て下さいね!アゥーー!合掌

お芝居『華岡青洲の妻』を観て来ました

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昨日、京都南座へ『華岡青洲の妻』というお芝居を観に行って来ました。
会場は、超満員。ご高齢の女性が多かったような‥,
青洲の妻役は大竹しのぶさん。青洲役は田中哲司さんでした。
以前、僕は和歌山で取材してから(218)『医聖華岡青洲』という紙芝居を作ったので、ぜひ一度観たかったのです。
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この日はたまたま祇園祭の日。しかも天候は大雨。河原町から蒸し暑く混む人混みの中を、南座まで行きました。お芝居に成りやすそうなそんなお話でした。‥役者さんは役になりきるから凄いですねぇ。面白かったです。
‥僕は以前した手術と、作った紙芝居を鮮明に思い出しました。

観念寺御門徒総永代経法要in2025

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今日は、観念寺の御門徒総永代経法要の日。
午前10時一座、午後4時一座の全2回の法要でした。
午前は20名、午後15名の御門徒さんがお参りにおいで下さいました。
欠席された方の中には「今日の朝、蜂に刺され病院に行く為に行けなくなりました。」とか、「親戚に不幸があって行けなくなりました。」などのお電話を頂いた御門徒さんもおられました。
‥今日はとても暑い中でしたが、皆様ようこそのお参りでした。ありがとうございました。合掌

愛知岡崎市『玉泉寺』様[七日講]への出講

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(愛知県岡崎市『玉泉寺』様)
令和7年7月7日のスリーセブンの日、愛知県岡崎市の『玉泉寺』様[七日講]に、紙芝居法話の出講で寄せていただいた。
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立派なお寺!立派なご住職様に坊守様、寺職員様達、そして勉強熱心な檀家様達。参りました。
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(ご住職が出版された「大友皇子の伝説」)
こちらの寺院は、大友皇子(そう、あの壬申の乱で敗死されたという伝説のあの皇子)が建てられたお寺なのですって!‥実は皇子は敗死せず、ここ愛知県に逃げて来られてお寺を作られた‥という伝説があったのだ。こちらのご住職がその伝説の裏付けを絵本にされ、[シン大友皇子]の名誉の為、真実の姿の為に、ここに世間に向けて発信されたのです。)
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(伝説の「大友皇子」の墓)
紙芝居法話が終わってから、お車でお寺近くの皇子のお墓まで案内してくださいました。(私の大好物のお話でした!)
‥目の前にシン大友皇子が浮かびました。
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(岡崎城)
大友皇子、 徳川家康軍団、そして豊田グループの技術畑の人々への歴史の大河の流れが見えて来るようでした。合掌

紙芝居『続・「正信偈」六首引の巻』(ダイジェスト後編)

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(三重)
五つ目の和讃は、『清浄光明ならびなし〜(省略)』のところじゃ。
これは『阿弥陀様の清らかな光に並ぶものは無い。この光に出会えば、迷いや悪い行いも全てその力は失われる。究極の拠り所であるこの仏様に手を合わせましょう。』と、おっしゃっておられる。なんと、ありがたい仏様じゃろうのう。
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さぁ、六つ目、六首引き最後の和讃じゃ。
『仏光照曜最第一〜(省略)』のところじゃ。
この意味はな、『阿弥陀様の光の輝きは、最も優れているので、[光炎王仏]と言われている。
その光は、地獄、餓鬼、畜生といった迷いの闇世界を打ち破る力を持っておられる。
正にあらゆる供養を受けるに相応しい仏様だ。をこの仏様に手を合わせましょう。』と言っておられるのだ。
‥これで正信偈六首引きの説明は終わりじゃ。
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(回向)
‥そうそう、最後は『回向句』であったのう。
この『願以此功徳〜(省略)』は、
『願わくば、此の仏の功徳をば、平等に一切衆生に分かちて、共々に求道心を発して、仏の国に往生しょう。』と締めくくるのじゃ。
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さぁ、どうであったかな。
『正信偈六首引き』には、阿弥陀様の光の働きが多く出てきたのう。
おそらく、この詩を作られた親鸞聖人は、阿弥陀様を心から慕い、手を合わせおられたのじゃろうのう。
 さて、この『六首引き』和讃は、これで終わるのではなく、実は全ての[和讃]を毎日、繰り読みして、西本願寺や各別院などでお勤めされておられるのじゃよ。
皆さまも、一度ご聴聞されてはいかがかな。
それでは、この辺で‥合掌 南無阿弥陀仏。おしまい

紙芝居『続・「正信偈」六首引の巻』(ダイジェスト前編)

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「皆さま、こんにちは。私は浄土真宗第八世の蓮如(れんにょ)と申します。
私は、皆さまよくご存知の聖典『正信偈(しょうしんげ)』に、「お念仏」と「親鸞聖人の仏様を褒めたたえた詩」を加えて用いるように致しました。
これを『六首引き』と申します。
それでは、正信偈の六首(つまり、六つの詩)をダイジェストにして、今からお話し致しましょう。はじまり、はじまり〜
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親鸞さまが、76才の時に書かれた全118首の『浄土和讃』という聖典。‥和讃とは、詩(うた)という意味じゃ。
この六つの詩が、お念仏を称えた後に、はじまるのじゃ。
第一番目、(初重[しょじゅう])から、いこうか。
『弥陀成仏のこのかたは〜‥(省略)』。これは『阿弥陀さまが仏様に成られてから、十劫(じゅうごう)という、とてつのない長い年月が経ちました。‥が、清らかな仏さまの放たれる光は、今でも迷いの中にいる私たちを、間違えなく照らしてくださっているのです。』という意味じゃ。‥ありがたいのう。
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二つ目は、『智慧の光明はかりなし〜(省略)』。この詩はな‥、
『阿弥陀様の智慧の光には限りがない。つまり、その光に照らされないものは無い。だから、皆も真実の智慧の光に手を合わせましょう。』という意味じゃ。
阿弥陀様の光とは、もの凄っごいものじゃのう。
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(ニ重)
三つ目は『解脱の光輪きわもなし〜(省略)』。
 これは『煩悩を断ち切った光りを持つ阿弥陀様。その光を受けたものは、皆間違った判断から離れる事ができる。全てのとらわれを離れさせるこの仏様に手を合わせましょう。』という意味なのじゃ。
この光を我々は受けて、お念仏させていただいておるのじゃ。
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四つ目は、『光雲無碍如虚空‥(省略)』。
この詩はな、『輝く雲のように、広がる阿弥陀様の光はまるで大空のようだ。そこには煩悩に妨げられる事は何も無い。そして、すべてその光の働きを受けられる。‥そう、その計り知れない仏様に手を合わせましょう。』とうたっておられるのじゃ。 後編へ、つづくじゃ。

紙芝居『富山・魚津の母たちと米騒動』(その3 最終回)

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この騒動の結果、『米騒動武力鎮圧』や『新聞報道の規制、実施』の責任を取り、[寺内正毅総理内閣]は総辞職。(ビリケン似首相‥だったらしい)
そしてこの後、原敬(平民総理)が誕生という、歴史的な事態をうむ事になります。
‥そう、母親たちの「お米生活難」の苦しみから始まった『米騒動』は、結果的に日本の政治情勢も変える事になったのです。
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これは余談になりますが、この新聞が書いた『越中女一揆騒動』は、やがて日本中の新たな[女性運動]に力(パワー)を与える事になります。
作家[平塚らいちょう]は、『元史、女性は太陽であった!』と宣言し、[新婦人協会]を設立して、女性政治活動や女性高等教育の拡充運動を広げてゆきます。正に女性パワーの文明開花のはじまりでした。
 さて、昭和63年魚津市の市民グループ有志は、魚津にこの『米騒動』の歴史を後世に残そうと、『米騒動発祥の地』の標柱を立てます。
さらに平成10年、当時の騒動の生き証人ともいえるこのお話の舞台の[(お米)倉庫]は建て直され、『民主主義の市民社会の基礎を築いた場所』として、後世に残されています。
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以上が‥、約100年前の『米騒動』のお話でした。
が、形は違えども、現代も「令和の米騒動」とやらが起こっています。(現在進行形ですね‥結末はどうなるのでしょうか?)
さて我々は今一度、この問題を通して、『米騒動』の背景に広がる社会の不平等や矛盾点を考えてみるべきではないでしょうか?
‥昔むかしの戦国時代、(百姓が武士を倒した)北陸地方は浄土真宗を基盤とする民衆(平等)の国『百姓が持ちたる国』と呼ばれた一時期がありました。
 ひょっとすると、この『米騒動』は、北陸・魚津の母たちが知らず知らずのうちに、良き社会変革を求める我々の代表になってくれたのかも‥⁈ それも、知らんけど‥。おしまい

紙芝居『富山・魚津の母たちと米騒動』(その2)

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大正7年7月23日の朝‥。
漁師町、魚津の母たちは60人程集まり、「お米を旅に出さんといてくれ!」と、港で積まれて行く米俵に必死に取りすがり、積み出しを阻止しました。
がしかし、そこに警察官が来て、母達の抗議は失敗。‥母達は解散させられました。
が、この騒ぎは地元の新聞社が富山県全体に記事にして載せた為、‥のち、これが大騒動になってゆきます。
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さて、一旦解散させられた母達でしたが、
「やはり、このままでいかんちゃ!わしらの子どもが飢え死にしてしまう!」と一人が言うと、別の母が‥、
「そうじゃ!わしらは何もタダで米をくれとは言うとらん。元の値段で売ってくれと言うとるんじゃ!よしっ!今度は役場か、米倉庫、米問屋に行って頼んでみようっちゃ!」
と、米の価格の引き下げを要求しに行きました。
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「米を安う売ってくれー!頼みますっちゃ!」と、母たちは声を上げました。
‥ところが、この騒動はやがて富山全土に広がってゆきます。おそらく地元新聞紙の影響が大きかったのでしょう。
‥最初の騒ぎから一ヶ月もすると、約一千人の大騒動になっていきました。
(おそらくこの騒ぎの大きさに一番驚いたのは、母親達ではなかったでしょうか。‥知らんけど)
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そして富山内で、やがて米問屋への投石などが起こり、店が壊れ、その結果約30人が警察に逮捕されたりします。
 町の議会はこの状況を重く受け、お米で困った人達に限り、米の価格の引き下げを決定。
 この騒動は次第に治ってゆきました。(良かった良かった!)

‥がしかしです。
その後、全国の新聞紙が『‥女房連の一揆!米高にたまり兼ね、『餓死する!』と口々に騒ぎたて、300名米屋へ押しかく!』と報道。‥この報道が徐々に全国各地の民衆へ飛び火し、各地で一揆打ち壊しのような大暴動騒ぎになってしまいました。
 その結果、政府は軍隊を出動させ暴動を鎮圧。
検挙された人は、全国で二万五千人を越したと記録されています。 つづく
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(舞台地・魚津。今は平和な『魚津埋没林博物館』)

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