住職のつぼやき

記事一覧

※画像をクリックすると拡大されます。

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その6)

ファイル 2291-1.jpg
 時代はここでワープする。
・・正行(まさつら)公が亡くなって、五百と三十年が経ちました。
 ここに、[正行]生き様感動し、行動起こした一人の男が現れた。
 その名は[適塾(てきじゅく)]出身の『赤十字(せきじゅうじ)社』をこしらえた、[佐野(さの)の常民(つねおみ)]でありました。
 明治の十年、佐賀県出身[常民]は、国内最後の戦争の[西南の役(鹿児島で起こった内乱)]の後を見る。
「戦争、なんと悲惨なものか!」と、涙流した常民は、
「敵と味方の区別なく、負傷者助ける病院を、あぁ作らせてくださいな!」
彼は政府に訴えた。
・・・そして[正行]公を思い出し、「今も負傷者泣いている。苦しい痛いと泣いている。敵と味方は違えども、彼を全て救いたい。昨日の敵は今日の友。あぁ川で溺れた敵兵を、救ったサムライ正行の、如くに我は助けたい!」
この熱意、政府の心は動いたぞ!
 ニッポン赤十字社前身の、ここに「博愛(はくあい)社」出来ました。
この時、負傷者千四百、多くの命が救われた。
 正行公の生き様は、ここでも確かに輝いた!
 後世で、ピカッと輝いた。 つづく(次回最終回)
 

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その5)

ファイル 2290-1.jpg
 「目指すは大将、首一つ!
 我らの勝ち目はそれしかない!
 皆の者、命を惜しむな、名を惜しめ!」
 敵は五万の大軍に、こちらは一千わずかな兵。
 ここは大阪、[四条の縄手(なわて)]。(※現在の四條畷市か?隣町:東大阪市か?東大阪にも同じような名前の場所があり、こちらにも[正行公]の首塚がある。京都や九州(落ち延び説)にもあるらしい。いったい首塚、楠公いや、何個(ナンコ)あんねん!以上余談)
 楠木兄弟[正行・次男:正時]、ひたすらに敵陣めざして進みます。
 されど、敵の矢雨あられ!嵐のように襲います。
ファイル 2290-2.jpg
 さすがの楠木兄弟も、鎧全身矢を受けて、ついに最後を迎えます。
「・・我が弟、正時よ。残念ながらここまでじゃ。共にあの世で父に会おう。そこで父に報告じゃ!」
 そして兄弟果てました。
 この時、正行二十三。
・・若い最後でありました。あぁ合掌・・つづく
ファイル 2290-3.jpg
(正行公を祀る四條畷神社)

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その4)

ファイル 2289-1.jpg
「正行(まさつら)公よ、ようやった!・・ところで、わし等は明日にでも、京の都に帰れるか⁈」
「お公家の皆さま、敵はまだ何十万も居るのです。そんな楽にはいきません。おそらく次は奇襲では、通じぬ軍で来るでしょう。我らはここで今一度、お山に籠って機会待ち、おびき寄せる戦法を・・、」
「何をたわけた事いうか!今を逃して何とする。ここが我らの絶好機会。正行、すぐに出陣し、敵をやっつけ帰還せよ。そして我等を都に戻せ!」
「・・それは無理でございます。」
「何を武士の分際で!‥わし等のいう事逆らうか!」
「・・・・・わかりました。」と正行は伏し目ながらに御所を去る。
ファイル 2289-2.jpg
「家来たちよ、聞いてくれ。おそらく我等は死ぬだろう。どうやら幕府は威信を掛けて、数万以上の大軍で、攻めてくること違いない。それに比べて、我らは数千。奇襲で勝てる訳がない。
 帝(みかど)は『死ぬな』と云われたが、それは当然無理な事。今まだ生きている皆の名を、この過去帖に書いておく。これをお寺に奉納し、今生別れとするとした。」
 その後正行、矢じり持ち、辞世を扉に彫りました。
 そして出陣したのです。
 その姿、そっと見つめる[弁内侍(べんないし)]=(正行の恋人か⁈)
 正行慕った初恋なれど、叶わぬ恋と涙を拭いて、去り行く姿に分かれを告げる・・。 つづく

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その3)

ファイル 2288-1.jpg
細川・山名連合軍、こうとなってはどこまでも、逃げてゆくしかありません。
 が、がしかし、途中ナニワ(大阪市内)の大橋で、大軍一度に渡ろうと、橋に乗ったが大失敗。
 渡辺(わたなべ)橋は中ほどで、底が抜け落ち崩れます!
 この時季節は冬でした。
ファイル 2288-2.jpg
 溺れ震えて泣く武士ら。
 こんな場面を見たならば、敵も味方もありません。
 正行(まさつら)、武士の心意気。父の教えの思いやり。
 正行、戦さをそこで止め、溺れる敵兵助けます。
 そして薬や食べ物を、手渡し静かに送ります。
 幕府の敵兵涙ため、皆手を合わせて帰ります。
 武士の情けに感謝して・・。
 この美談、さらにラストへ橋渡し。ちょこっと、おまけで続きます。 つづく

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その2)

ファイル 2287-1.jpg
・・それから10年経ちました。
 今では正行(まさつら)立派な武将。
 奈良の吉野の帝(みかど)のもとへ、今日もご機嫌伺に、馬を走らせ向かいます。
 後醍醐帝はすでに亡く、新・天皇でありました。
 後村上(ごむらかみ)新天皇は言われます。
「正行よ、北の朝廷・幕府軍、この度大軍引き連れて、我等を攻めに来るようじゃ。何とかなるか、正行よ。」
「帝(みかど)、我らは少人数。されどわが父[正成(まさしげ)]の奇襲戦法取り入れば、恐れることはありません。足利(あしかが)軍勢、楠木の飛んで火にいる夏の虫!。帝、しかとごらんあれ!」
「頼むぞ楠木、出陣じゃ!」 
ファイル 2287-4.jpg
(正行の故郷、千早赤阪村[建水分神社])
ファイル 2287-2.jpg
「やあ、やあ!我こそは楠木正成の嫡男、楠木正行なるぞー!腕に覚えあるものは、我にその腕みせてみよー!正成の子、楠木正行もここにありー!」
 正行雄叫び響きます。
 その声聞いた敵方は「やややぁ、あそこに居るは大将ぞ!一騎でおるぞ、皆の者!」。 
 我や先にと正行を、見つけて大軍追って来た。
「しめたっ!罠にかかったぞ。鬼さんこちら、手のなる方へ!」
 正行、仕掛けのある場所へ、逃げて逃げて、逃げまくるー。
 足利幕府の精鋭部隊、細川・山名の連合軍。
 罠とも知らず大軍が、入れぬ道に突っ込んだ。誘い込まれて突っ込んだ。
ファイル 2287-3.jpg
 「げっげっげっっ、しまった罠わなじゃ!林の中から敵が出た。楠木軍に囲まれた!今度は我らが逃げる番。命あっての物種じゃ、京の都へ逃げるのじゃー!」
 形勢逆転、大勝利。
 逃げるは足利幕府軍。
「追え追え、逃がしてなるものか!京の都にゃ、帰しゃせぬ。」
 正行軍は懸命に、敵を追いかけ駆けました。
ファイル 2287-5.jpeg
(正行激戦地、羽曳野市誉田林古戦場跡)
 つづく

紙芝居:『楠木正行(まさつら)もここにあり!』(その1)

ファイル 2286-1.jpg
 昔々の室町時代・・。
 足利尊氏(あしかがたかうじ)、天下を納め、武士の幕府を開いてみたが、平和はまだまだ遠かった。
 それは天下に二人の帝(みかど)。
 朝廷二つの南北朝。
 お互い『私がホントの天皇だ!みんな私の配下におなり。』
 こんな言い合い続けたら、武士や公家ほか庶民まで、これでは日ノ本真っ二つ。
 その時、若武者現れた。「私は何があろうとも、敵が百万居ようとも、後醍醐天皇守ります。南の朝廷守ります。これは父親[正成(まさしげ)]の遺言ですから守ります。」
 そう誓ったは我らが河内(かわち)、楠木党(くすのきとう)の跡取り息子、楠木正行(まさつら)でありました。
 さあてさて、このお話は[小楠公(しょうなんこう)]こと、正行公の意地と忠義と優しさがあふれた武士道ものがたりです。それでは、はじまりはじまりー。
ファイル 2286-2.jpg
 話は少しさかのぼり・・。
 湊川(みなとがわ)での戦が終わり、悲しいしらせが舞いこんだ。
 ここは南の河内の屋敷。
 楠木正成(まさしげ)、妻と子は悲しみこらえておりました。
 それは父親正成(まさしげ)の首と戦死の知らせとが、届いたからでありました。
 涙と共に正行は「父上、ご無念お察しします。私も一緒に参ります。」
 短刀抜いて、切腹しようと思ったその瞬間。
 母親それを止めました。
ファイル 2286-3.jpg
 「正行よ、ここで死んではいけません。朝廷守る事こそが、お前の父から引き継いだ、大事な大事な約束じゃ。そなたがここで死んだなら、父との約束どうします⁉」
 母は涙を流しつつ、正行公に言いました。
 「・・私が愚かでありました。切腹などはもうしません。
 私はこれから学問し、剣術励んでまいります。父に劣らぬサムライに、私はきっとなりまする。」
 若き棟梁正行の新たな誓いでありました。 つづく
ファイル 2286-4.jpg
(正行公を祀る四条畷神社内の母と子の銅像)

ヘッドハンティング正儀(まさのり)

今年の正月休みに息子夫婦が遊びに来た。
その時にサラリーマンをしている息子が、僕に話してくれた話。以下、息子の話。
「サラリーマンの世界は転職っていうか、他社からのヘッドハンティングが多いんやで。僕の友達も会社に不満を持っていて、技術を持ってるそいつはヘッドハンティングされて辞めていった。・・が、転職先の大会社の中も、同僚の足の引っ張り合いばかりで仕事が捗らず、不満は溜まり結局同じやったそうや。
・・で、そんな噂を聞いた僕(息子)は、そいつを又説得して、元の会社に戻ってもうたんや。」
「それから、その友達は元の会社で上手くやってんのか?」と僕は聞くと、「技術を持ってるから給料も元のままや・・。本人は割り切って働いてる。上司も何もいわん。・・けど、出世は出来んやろなぁ。」と息子は言った。
 その話を聞いた時、僕は「それって、南北朝時代の楠木正儀(まさのり)と一緒やん。」と思って、楠木正儀の紙芝居を作ろうと思ったのだ。
 長くなったが、この転職の話は、楠木正儀そのものである。
 細かくは省くが、南朝側の正儀は若きリーダーながら味方に不満を持っていた。その時、北朝からヘッドハンティングの話が来た。正儀はその話に乗り味方を裏切った。
 が、北朝も同じで足の引っ張り合いだったので、又、見切りをつけて、南朝に戻る事にした。さて正儀の、運命やいかに!?
 この昔話は、現代社会の話だ。今、楠木正儀の紙芝居を描いていて、本当にそう思う。

紙芝居『楠木正行・正儀公』の取材

ファイル 2284-1.jpg
(富田林市『観音寺』)
 紙芝居『楠木正成(まさしげ)親子(三部作)』を完成させる為に、近畿圏の取材にあちこち行っている。
 まず、正行(まさつら)・正儀(まさのり)公の御母堂さまと言ったら[久子(ひさこ)]さまで、夫正成公が戦死されてから出家され、棲されたお寺が富田林市の『観音寺』内に綺麗に復元されている。そして、お墓もあるのでお参りさせて頂いた。
ファイル 2284-2.jpg
(久子夫人のお墓)
ファイル 2284-3.jpg
 そして、その近くにある三男正儀(まさのり)公が立て籠もって戦った[嶽山城跡]。今は簡保の宿のテニスコート場の奥にひっそりあって探しました。
 又、諸説はあるが金剛山の途中の正儀公のお墓も何度も行って来た。
ファイル 2284-4.jpg
(四條畷市『四條畷神社』)
 又、長男正行(まさつら)公の戦死された場所でこちらで祀られている四条畷神社付近。首塚も近くにある。
ファイル 2284-5.jpg
(境内に楠木母堂と子の銅像がある)
 こちらも諸説があって、四条畷市では無くて、東大阪市の『四條の縄手』という所で激戦の上、戦死されたのだとも云われてもいる。
 こちらの近くには[往生院六万寺]という御寺があり、そちらに正行公の胴墓がある。(首塚も又近くの別の場所にある。)
 山の上の景色の良い立派なお寺であった。大阪市内の絶景がこちらから見える。(撮影は禁止という事なのでお寺の写真は載せられない。)
 まだ取材が足りてはいないが、ここらへんで見切り発車して紙芝居を完成させてアップしようと思う。

『楠木正成親子』の紙芝居・三部作、制作中

ファイル 2283-1.jpg
(紙芝居(152)『楠木正成(まさしげ)ここにあり!』)
 今、南河内の武将、楠木正成親子の紙芝居を作っている。
 父親・正成は既に完成している。
ファイル 2283-2.jpg
(紙芝居『楠木正行(まさつら)もここにあり!』)
 長男・正行も完成しているので、もうすぐこのブログでアップします。
ファイル 2283-3.jpg
(紙芝居『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』)
 そして、三男・正儀の紙芝居を今作っています。
 この三人、個性的で面白いです。乞うご期待下さい!

紙芝居:『神武東征記』(その6 最終回)

ファイル 2282-1.jpg
(奈良県『橿原神宮』)
 そしてイワレビコの命(みこと)は、大和の国『橿原(かしはら)の宮』で、初代天皇『のちの神武(じんむ)天皇』として即位の儀式をされました。
 これが[建国の始まり](紀元前660年?)と云われています。
ファイル 2282-2.jpg
 その時、神武天皇は「大きな都を開き、すべての国を一つの家のようにしようではないか!」と宣言されたそうです。
 こののち、神武天皇は(126才・あるいは127才)まで長生きされたそうです。
ファイル 2282-3.jpg
 波乱の生涯を送られた伝説の初代のミコト『神武天皇』。
 今もその御一代記は『古事記』や『日本書紀』に語り継がれています。おしまい
ファイル 2282-4.jpg
(おまけ[大阪府河南町・寛弘寺古墳])
 ・・少しだけ余談のおまけ話。
 神武天皇の跡継ぎ(二代目天皇)は、次男の[綏靖(すいぜい)]天皇が継がれたといわれています。
 そして長男の[神八井耳命(かむやいみみのみこと)]は、弟の天皇の(なぜか?)サポートに回られました。
 その舌を噛みそうな[神八井耳(かむやいみみ)のミコト]にはたくさんのお子様が居られたそうで、そのお一人のご子孫が[紺口県主(こんく(かんく)あがたぬし)]と云われています。(寛弘寺古墳の主ではないか?とも言われています)
 そう!その[紺口(こんく)県主]が、私のお寺のある地名である河南町[寛弘寺(かんこうじ)]の名前の由来になっているそうです。
 [こんく]、・・[こんくう]・・[かんくう]・・[かんこう]、[かんこうじ]‥・『寛弘寺』、寛弘山観念寺!バンザーイ、バンザーイ! ・・知らんけど。(笑)

上に戻る