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豊中市:「正安寺」様の彼岸法要への出講

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(正安寺さま[すぐ隣に同派の『常楽寺』様が建つ])
 昨日、豊中市の刀根山にある浄土真宗本願寺派『正安寺』様にお招き頂き、『紙芝居法話』をさせて頂いてきた。
 こちらは、とても大きな敷地の寺院で、境内に同派のお寺が二つもある。
 それもそのはず存覚上人が建立し、その後、織田信長が反逆した武将『荒木村重』を討つために『刀根山城』をこの地に築いたからだそうだ。
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(存覚上人建立碑)
 その地で、紙芝居をさせて頂く緊張と感動を胸に、いつものお笑い法話をさせて頂いた。(笑)
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(難波の赤ひげ医『園井東庵』公の墓[分骨碑])
 この境内には、難波の赤ひげ医『園井東庵』の分骨墓があり、御住職にこの赤ひげ医のエピソードを聞かせていただくと、「これは是非、紙芝居化せねば!」と思った次第である。
 ・・なにわともあれ、ノリの良い正安寺の御門徒の皆様、御住職さま、坊守様、若院さま、その他大勢の皆様、大変お世話になり有難うございました。合掌

大阪市港区『唯称寺』様[定例法座]への出講

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 大型台風18号が、(反転して)急きょ日本列島を、南から北へ直撃する予測となった為、僕の予定も大いにくるうことになってしまった。(この日に向かうお寺への運転中も、何度もこの二・三日の予定変更連絡が入った)
 が、昨日はまだ小雨の為、唯称寺様の『定例法座』への出講には支障はなかった。
 がが、お聴聞の門徒様の人数は「台風の為、どうだろうかなぁ?」と心配した。
 ががが、本堂にはご門徒の皆さまが、例年の如くご参拝下さって居て、大変嬉しく思った。
 それで、いつもより張り切り過ぎて緊張し、反って舌が回らず、おたおたし、皆様には聞き取り難く御迷惑をお掛けしたのでは・・と、反省しきりだった。 すんませんでした・・、とほほほ。では、唯称寺の皆様、又来年。
 来年は頑張ります。合掌

石川南組『門信徒講座』

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 拙寺(観念寺)は、浄土真宗本願寺派『大阪教区 石川南組』に所属している。
 その石川南組で、毎年、まるまる一日を使って、門信徒さまにお念仏の素晴らしさ、有り難さを味わって頂こうと実施しているのが、『門信徒(もんしんと)講座』という。
 その講座が、今年は、河南町の大ケ塚[顕証寺]さまで実施された。
 そして今年は、私も(持ち回りの)主事(=行事進行係)の一人になったので、回って来たお役は、何でもやらせて頂こうと思っていたら、何と『講演者の一人(今年は全三人)をやって欲しい』と言われたので、力不足ではあるがご法話(紙芝居布教)をお引き受けさせていただいた。
 なんせ、人数が多い。約80名。
 緊張感の中、顔見知りの方が多い為、なんとかリラックスして、法話をお取次ぎさせて頂いた・・。まず、めでたしとしておこうか。(笑)
 石川南組門信徒の皆様、長時間のご聴聞、お疲れさまでした。そして有難うございました。合掌

藤井寺市:真宗連合『見真会』への出前

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(会場の[光乗寺]さま本堂)
 昨日、藤井寺市の《各派》の浄土真宗の寺院(真宗連合)によって構成されている『見真会』に御招き頂き、「紙芝居法話」をさせて頂いた。
 長時間の講演時間でもあり、終われば少し疲れてしまいました。
 まだまだ、体調は万全で無いなと感じた『お寺への出前』でした。 各派のご縁有難うございました。合掌
 

紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その7 最終回)

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 そして、「これ以上、お山を混乱させないようにしなければ・・。」と高野山を下りられるのです。
 そして、紀州(和歌山県)の『根来(ねごろ)』という所に、移住されます。
 ・・が、ここでも、様々な争いは止みませんでした。
 「大日如来様のような仏様みたいに、私は成りたい!」と思われた覚鑁上人は、果たして、この状況をどんな目で見られたのでしょうか?
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 そして根来の地で、覚鑁上人は、風邪をこじらせ、やがて49歳の若さでお亡くなりになります。
 おそらく、肉体も精神も、ボロボロの状態になっていたのではないでしょうか⁉・・たとえ、悟りを開かれていたとしても。
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(根来寺)
 宗教界の風雲児、空海の再来、とまで言われた『興教大師 覚鑁』上人。
 そのお墓は、現在も『根来寺』にあります。
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おしまい
 
余話として~
 当時、覚鑁上人の熱烈なファンであった《鳥羽天皇》が、覚鑁さまに『高野山に帰れー!お前は高野山に必要なんだぞー!・・かくばーん、カムバッーク!』と叫ぶのですが、
 覚鑁さまは『夢の中は、夢もうつつも夢なれば、覚めなば夢も うつつとしれ。』という歌を一首だけ、お返しになり、高野山には戻りませんでした。
 この歌の意味は、いろんな説があるのですが、私はこのように味わいました。・・間違っていたらすみません。

『悟りを開いたのちも、現実でやっちゃった事の、果報は受けねばならないのだ。・・私は今、その果報を受けている。これは、しかたがないのだ。』

紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その6)

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「何という事だ!お山にとって善いと思ってした事が、かえって高野山を二つに割ってしまった・・。仏様、お大師様、申し訳ありません・・。」と、覚鑁上人は反省を繰り返し、今度は『密厳院』というお堂に籠られ、千日間の[無言の行]に入られました。
 そして、その行の最後に有名な『密厳院(みつごんいん)発露懺悔文(ほつろさんげもん)』を書かれるのです。
 少しだけ中身を述べますと・・、
『我々は懺悔します。・・多くの罪を作っています。・・行動と、言葉と、心の働きは数えきれない程、良くない行いを犯しました。・・私はすべての人々に代わって、ことごとく懺悔します。』というような文が続きます。(お坊さんは一読有りです)
 清らかな心の悟りを開き、高野山のトップに立ち、長年の夢であった、弘法大師のような最高指導者になったものの、良き指導者になることが出来なかった悲しさと、そして上人の心の純粋さが文面からにじみ出ています。
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(根来寺 覚鑁上人の墓) つづく

『真宗木辺派 仏教婦人連合会』の団参

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浄土真宗には、《真宗教団連合》があり、[10]派がある。
 その一つが、滋賀県:野洲にある[錦織寺]様を本山とする木辺(きべ)派である。
 本日、その[木辺派]の、[仏教婦人連合会]主催の団体研修バス旅行があり、うちのお寺にお出でくださった。
 総勢63名、中型バス2台。・・うちの寺のキャパでは一杯いっぱいだ。(椅子が足らん、トイレも足らん・・(笑)ご迷惑をお掛けしました)
 まぁ、それでも、ご参拝下さり有り難いことだった。
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(僕の隣が、御門主さま・・です)
 しかも、木辺派の《御門主様=一番偉い方》もお出で下さり、(知らんかった・・サインもろたら良かった!)焦りました。(到着されてからお聞きした。・・事前に聞いてれば、トイレをもう一つ作ったのに・・うそ。出来ましぇん)
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 それでも、まぁ、僕はエエかっこ出来ないので、いつものように、何も変わらん紙芝居法話をさせて頂きました。

 ・・でも、御門主様の前で、皆で「坊主が、屏風に、坊主の絵を描いた!」と大合唱したのは、まずかったかなぁ・・。(笑い)すんませんでした。合掌

紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その5)

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 その結果、覚鑁上人は、わずか二か月間で、両方の座主の座を辞任してしまわれます。
 そして、お不動様のお堂に籠ってしまいます。
 この時、反対勢力と戦う方法もあったと思われますが・・、あえて御山(高野山)での戦さを避けられるのです。
 そして、もう一度(なぜ、こうなったのか?と)しっかり、自分自身を見つめ直す道を選ばれたのでした。
・・がしかし、覚鑁暗殺団の僧兵たちは、武装してお堂の中に乗り込んで来ました。
「覚鑁はどこじゃ!見つけ次第、殺してしまえっ!」と。
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 僧兵たちは、槍や刀を持って、お不動様のお堂に入って来ました。
 「おかしいなぁ・・。先ほど、覚鑁らしき坊主の姿が見えたのに、どこにもおらんぞ⁉ 
 あっあれを見ろ!不動明王が二つある!・・覚鑁め、不思議な術を使いおって、お不動さまの仏像に姿を変えたに違いない! おい、槍で突いてみろ!・・血が出た方がきっと覚鑁じゃ!」と、僧兵たちはお不動さまを、槍で突き刺しました。
 すると、不思議なことに、両方のお不動様から血が飛び散りました。
 「やっやっ、これはいかんっ!不動明王の罰をくらうぞ!皆の者、引けい引けいっ!」と(吉本新喜劇みたいに)逃げ出しました。
 こうして、覚鑁上人は命拾いしました。
 これは有名な、覚鑁上人身代わり不動尊(きりもみ不動)の伝説です。つづく
 

紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その4)

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 覚鑁は、高野山で厳しい修行に打ち込み、様々な行を成就してゆきます。
 そして、わずか40歳で《金剛峯寺座主》、新たに建立した《大伝法院座主》に就任し、『弘法大師の再来』と呼ばれ、最高権力の座に登り詰めました。
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 そしてさらに、当時もっとも流行していた[浄土信仰]も、真言宗密教に取り入れるのです。
 覚鑁上人は言います。
「浄土に居られる阿弥陀如来様は、真言宗の大日如来様を中心としたマンダラの中に居られる。だから南無阿弥陀仏の教えも、突き詰めれば、真言密教の教えの一つなのだ。つまり同じものなのである。我々も念仏者と一緒に庶民の中に入り、人助けの為の活動をしようではないか。」と。
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 が、しかし、彼のあまりにも急いだ大きな高野山改革に、御山の僧侶たちは大反発、「覚鑁はとんでもないことを言いよる坊主じゃ!」と、覚鑁上人の命を狙い、排除しようとするのでした。つづく
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(高野山)

紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その3)

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 弥千歳麿は、お兄さんにその事(=父ちゃんカッコ悪いー!って事)を話してみました。
 お兄さんは言いました。
「そりゃ、父上は肥前の国では強くて権力を持っておられる。・・しかし、都のお役人の方が、父より偉いんだよ」と。
 それを聞いて「じゃあ、都の役人が世の中で一番強いんだね?」と言うと、
 兄さんは「違うよ。お役人よりもっと偉いのが天皇さまだよ」と言いました。
 弥千歳麿は「じゃあ、天皇様が一番偉いんだね」と言うと、兄さんは「それも違う。・・天皇様より偉いのが、うーん⁉お寺の仏様っ、うちの宗派だと[大日如来]様が一番偉いのさ。」と言いました。
 すると弥千歳麿は、「兄さんっ、僕は大日如来さまのようになりたい!」と叫んだのでした。 
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 やがて父が亡くなり、弥千歳麿は、出家することになりました。
 『僕は大日如来さまのように、きっとなってみせる!』と、彼は猛勉強し、京都の仁和寺で出家得度したのでした。
 彼のお坊さまとしての名前は《覚鑁(かくばん)》でした。
 やがて、覚鑁は修行する中で、悟りを開かれた(ある意味、大日如来のようになられた)《弘法大師空海》にあこがれ、20歳で高野山に上がり、さらに熱心に修行に励むのでした。 つづく