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昨日の『寺カフェ』

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 昨日は、月一『寺カフェ』の日。
 ・・昨日もまだ準備の段階から、多くのお客さんが来て下さった。
 檀家のお客さんから、「娘さんのご結婚おめでとうございます。結婚式の写真を見せて下さい」とのお声があり、まだ[スナップ写真]も出来ていなかった為、急遽、写真をブリントして、皆さんに見て頂くことになった。
 「わぁっ、新郎さんの身長の何と高いこと!・・在家のお方でっしゃろ。・・何とっ、頭、剃りはってお坊さんに成りはったんですか?」と驚きの声があちこちから上がった。
 「はい、そうなんです。得度してくれました。有り難いご縁です。・・でも、お寺には入らずに、退職までサラリーマンを続けてもらう予定なのですよ。」と僕は言った。
 今日は、コーヒーどころではなく、娘たちの結婚式のご報告会になってしまった。
・・恐縮しっぱなしで、汗をかいて喋るの疲れてしまった。

西本願寺での娘の結婚式

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 本日、京都の西本願寺にて、娘が結婚式を挙げた。
 『第25代専如門主 伝統報告法要協賛行事』の記念行事の一環として、阿弥陀堂にて式を挙げさせて頂く事が出来たのだ。
 晴天にも恵まれて、無事に式を終え、本当に幸せな一日であった。南無阿弥陀仏。合掌

浄香さま、来院

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 本日、東大阪市:蓮浄寺さまの若美人住職[M・浄香]さんが、僕の紙芝居の見学にご来院下さった。
 素直でほんとにかわいらしいお嬢さんだ。
 僕とは、娘ぐらいの年の差だ。
 彼女も『紙芝居』を作って法話をされるのだ。
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 先日も彼女のお寺で、ご自分で制作された仏教オリジナル紙芝居を見せて頂いた。
 絵も綺麗で、さすが女性の作る紙芝居だ。
 面白かった!
 うっうっ、ライバルが現れた・・。負けずに頑張らねば!
 浄香さん、又、新作作ったら見せてね。
 又、おいでや!

紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その5:最終回)

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 時の天皇は、くろまろを呼び出して言いました。
「くろまろ、海の向こうの[新羅(しらぎ)]=(今の韓国)という国に行ってくれんか。
 彼の国の領土問題がこじれて、助けを求めておるんじゃ。
 行って、見て来てくれ。」
 と、くろまろを『遣新羅使(けんしらぎし)』として、派遣させました。
 一年後、無事、任務を終えて帰って来たくろまろに、又もや時の天皇は、
「くろまろ、今度は『唐』の国にいってくれ!」と、言われました。 
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 「はっはい・・、わかりました。向こうの国には、まだ、私の知り合いもおりましょう。・・ヤマトの国の為、力を尽くしますまろ、まろろろろっ・・。」
と、今度は『遣唐押(おう)使』という、最高責任者となって、国どうしの難問を解決する為に、旅立ったのです。
・・がしかし、もう、くろまろは高齢で、この時心身ともに過労のため、限界にきておりました。
 無事、唐の国に到着し、長安(ちょうあん)の都で、皇帝に会い、仕事を果たしたのですが、・・その地で倒れて、そのまま唐の国で亡くなってしまいました。
 その年、西暦654年。・・推定で、くろまろは65歳前後でなかったか?と伝わっております。
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 ・・考えてみますと、くろまろの一生は働き通しでした。
おそらく、10代の後半、留学生に選ばれて、たった一人で親元から離れ・・、
 そして海を越え、古代中国で、32年間に渡る勉強。
 帰国後は、その知識を生かして、日本の制度の改革に挑み・・、
 そして、日本の代表として、正々堂々と外国と渡り合い、平和を摸索し、交渉に命を注ぎました。
 正に、くろまろは、日本の夜明けの為に、生まれて来て仕事を果たしたと云って、間違いないでしょう。
 
 今、大阪は河内長野市の『高向(たこう)』という、くろまろの故郷に、その顕彰碑が建っています。 おしまい
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(河内長野市:高向『くろまろの郷』)
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(河内長野市:高向 河内長野市立『くろまろ館』)

 ※紙芝居制作にあたり、『くろまろ館』の館長様、学芸員さま、職員さま、マロン観光ガイドボランティアさま、いろいろとご指導とご鞭撻、資料提供、ご教授有難うございました。この場を借りまして、厚く御礼申し上げますマロ。合掌

紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その4)

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「蘇我入鹿(そがのいるか)ー!、覚悟せよ」と、中大兄皇子は剣を抜き、振り下ろしました。
「ぐわぁー、やられたー」と、入鹿は倒れました。
 世に云う[乙巳(いっし)の変]です。
 西暦645年 蘇我入鹿は亡くなりました。
 そしてその後、[蘇我の一族]は滅びました。

 それから間もなく、皇子の家臣[中臣鎌足(なかとみのかまたり)]が、くろまろの所にやって来て言いました。
「後味の悪い終わり方でした・・。
 が、これで新しい国作りが出来ます。『大化の改新』です。
 くろまろ先生、制度の改革、そしてこの国の舵取りを、よろしくお願い致します。」と頭を下げたのでした。
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 こうして、くろまろと、留学生の仲間の僧[旻(みん)]は、時の天皇より、『国博士(くにのはかせ)』という、日本国の最高顧問(スーパーアドバイザー)を任命され、日本政府組織の大改革に着手します。
 西暦649年 唐の国に習って『八省百官(はっしょう・ひゃっかん)』という、[省庁]の設置。
 又、農地の分け与え、税の在り方、兵役制度など、その後の日本の制度の基礎を作り出しました。
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 が、くろまろは国の改革だけに関わって、いられませんでした。
 それは、外交官としての仕事が待っていたからです。 
 次回、最終回、・・つづくマロ

紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その3)

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 やがていつしか、くろまろ達が、大陸に渡ってから[32年]が経とうとしていました。
 くろまろも、今や50才代。
 髭も髪も、白いものが増えておりました。
(余談だが、この留学年数の長さ、異常だと思いませんか?・・「あの~僕を忘れてませんか?・・いつまで、こっちにおらなあかんのですか?・・僕の青春を返せ!ぐれてやる、このまま蒸発してやる」と思わんかったんかなぁ?・・覚悟の上の留学やったと思うけど辛かったやろなぁ・・。)
 西暦540年 ついに、くろまろに帰国命令が来ました。
 「よーし、ついに来た!ついに来たまろ!ヤマトの国をより良い国にするまろぞ!」と、くろまろは夢を胸に、帰国船に乗り込みました。
・・しかし、その頃、ヤマトの国は大変な事になっていたのです。
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 日本では、くろまろ達を留学生に推薦した[聖徳太子]はすでに亡く・・、
 家臣であった[蘇我入鹿(そがのいるか)]という豪族が、ヤマトの国を、我が物顔で支配していたのです。
 その[蘇我入鹿]は、聖徳太子の一族を攻め滅ぼして、自分が権力のトップに立とうとしていました。
 日本に帰って来たくろまろは、これを見ても、どうする事もできませんでした。
 この[蘇我氏]に対して、反旗を挙げたのが[中大兄皇子(なかのおおえのみこ)=のちの天智天皇]と、家臣の[中臣鎌足(なかとみのかまたり)]でした。
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 「蘇我入鹿っ、覚悟せよ!」と、中大兄皇子は、剣を振り下ろしました。 つづくまろ
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(古代酒『玄理(くろまろ)』(ちょびちょび飲みながら、この紙芝居を描きました)と、くろまろくん人形(「僕くろまろ、とっても気が長いんだまろ。32年間の海外暮らし、まるで帰国後は浦島太郎だまろっ」と、対話して遊びながらこの紙芝居を描きました」)

紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その2)

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「うひゃ~、これが世界でも有数の大都市[隋]国か!僕等はここで、みっちり勉強するまろ。」と、くろまろ達一行は、隋国の門をくぐりました。
・・が、しかし、人は多い町でしたが、活気がありません。
 というのも、この国の皇帝は、わがままで残酷。人民の幸せを考えず、大土木工事やら戦争のやりたい放題し放題。
 民は泣いていたのです。
 そしてついに、堪忍袋の緒が切れて・・、
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 家臣(けらい)中から、反乱が起こりました。
 そして、あっという間に、『隋』国は滅亡し、『唐(とう)』という国が誕生したのです。
 建国に喜び民衆は唄いました。『隋、ずい~、ずっころばし~、唐が来てちょん。皇帝追われて、とっぴんしゃん。負けたーら、唐とこしょ~』と。(・・嘘です。又、しょうもない事、書いてもうたぁ[反省!])
 (話を戻して、)それは、くろまろ達がこちらに来て、10年近く経った時の大事変でした。
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 隋の国は滅びました。
 しかし、くろまろ達は日本へ帰国しませんでした。
 それは、この超大国の滅亡の原因と、新しい国の成り立ちの過程を、しっかり見ておけるチャンスだと思ったからです。
 くろまろは、新しい国の制度をしっかり学びました。
「うーん、何々・・。唐という国の仕組みは、『律令(りつりょう)制度』が基本になっているのかぁ。
『律』とは、人がしてはいけない事。
『令』とは、人が守らなくてはならない事。
 この制度が大事なんだ!
 これを、ちゃんと整備する為に、[役所]という所が必要なのだ。これを整備しないと、国は滅びてしまう。
 うーん、僕、いや私は、この制度を細かく勉強して、ヤマトの国に持って帰るぞ!」と、固く誓うのでした。 つづくマロ。
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(河内長野市立『くろまろ館』内、ゆるキャラ[くろまろくん])
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(河内長野市:高向(たこう)神社=高向氏一族の祖神を祀ったといわれている)

紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その1)

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 昔むかしの大昔、飛鳥の時代のお話です。
 名前を高向玄理(たかむこのくろまろ)という、一人の秀才少年が居りました。
 彼の故郷は、大阪は南河内の[高向(たこう)]という所でした。
 ご先祖様は、古代中国からの渡来人で、皆頭が良かったのですが、中でも[くろまろ(玄理)]はピカイチ!
 そんな噂を聞いて、時の大和(ヤマト)朝廷の代表である[聖徳太子]は、くろまろを呼び出しました。
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 聖徳太子は言いました。
「くろまろっ、そして他七名。
 そなた達は、今から留学生として、[中国の]隋(ずい)という国へ行ってもらう。
 ・・知っての通り、隋国は、世界でも有数の先進国じゃ。
 その国で、そなた達は、色んなことを勉強して来て欲しい。
 このヤマトの国は、まだ[黎明(れいめい)]期じゃ。
 黎明とは、新しい時代の前の時期のことじゃ。
 つまり、夜明け前のことなのじゃ。
 そなた達は、勉強して新しい文化をこの国に取り入れるのじゃ!
 行けっ!遣隋使の留学生たちよ。」と。
 「ラジャーッ!」と皆は興奮して答えました。
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 西暦608年。留学生と共に遣隋使一行は、日本を出航しました。
 「よーし、僕たちはヤマトの国の為に、外国の法律や制度、そして仏教の教えをしっかり学ぶマロ!」と、くろまろ達は意気揚々と、船の上で叫びました。・・つづくマロ
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(河内長野市高向(たこう):高向玄理顕彰碑)

くろまろ館、再び!

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 昨日、再び、河内長野市の[ふるさと歴史学習館]こと『くろまろ館』へ行って来た。
 今、作っている紙芝居の[時代考証]を、学芸員さんにご指導して頂くのが目的だ。
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 くろまろ館に入って驚いたのは、『河内長野観光ガイドボランティア』の日頃お世話になっている会員の方々が、すでに居られたことだ。
 どうやら、くろまろの紙芝居の試作品を観に来てくださったらしい。(情報、早っ!)・・お顔を拝見して懐かしい思いが、いっぱいよみがえった。
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 さて、くろまろ公の紙芝居の事。
 学芸員さん達にいろいろ御教授、ご指摘頂いて、一杯直した。
 なんせ、昔々の飛鳥時代の話であり、資料・史跡も少ないので、悪戦苦闘だった。
 「くろまろさんっ、あんたはいったい何者?、もう、わかりましぇーん」と、言いたい気分にもなった。
 でも、歴史的に解らないならわからない事を、かえって開き直り、今大阪で流行ってる女の子の口癖「・・知らんけど」というギャグを連発してみるのも良いなと思った。
 例えば、『僕、くろまろだマロ。南河内の高向という所に生まれたらしいんだマロ。・・知らんけど。
 あの聖徳太子に学才を認められたらしくて、遣隋使の留学生に選ばれたんだマロ‥知らんけど。』・・こんな風にしたらどうかなぁ。・・知らんけど。

『寺カフェ』の記事が[河南町老連会員広報誌]に載りました

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 観念寺で、月一回開店している『寺カフェ』の模様が、[河南町老連・会員広報誌]に載りました。
 この記事は、河南町老連の会長さんが、書いて下さったものです。・・ちょっとだけ、記事の中身を転載してみます。
 (タイトル)『老人クラブ・観念寺合同ふれあい喫茶開店』
『ふれあい喫茶の開催について、観念寺住職・檀家婦人会と数回会合を持ち、老人クラブと合同実施の形態を採らせて頂き、[寺カフェ]との名称で観念寺一階広間にて実施。
 ・・中略・・、観念寺の宗派(檀家)に関係なく、通りがかりの方に自由に入って頂くこととし、月一回の開店とした。
・・中略・・、当初、20名程度の席を用意し来客を待つことにしたが、本当にお客様が来るのか心配であった。
 しかし、心配をよそに事前の宣伝が効いたのか、わずか30~40分で満席(30名程度)となった。
 そして思い思いに、いろいろな話の輪ができ、本当に[ふれあい喫茶]の名にふさわしい雰囲気となり、住職ともども大満足の中、終えた。・・めでたし、めでたし(このめでたしは、勝ってに僕が付けた。[笑])』
 有難うございました。合掌