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河南町介護者家族の会会報[さくらんぼ]に載りました

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 河南町介護者家族の会『さくらんぼ』の、会報に載りました。
 この前の[新年交流会]の模様です。
 この時は、さくらんぼの会長さんから「日頃、家族の介護で疲れている会員の為に、楽しい、そして元気が出る紙芝居と話をして欲しい」と頼まれたもので、そんな『紙芝居』を探し出し、倉庫から引っ張り出してさせて頂きました。
 会員の皆さんの、楽しげに『紙芝居ワールド』に浸って下さったお顔が、今でも忘れられません。
 有難うございました。合掌

観念寺:春季彼岸法要・紙芝居法話

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 昨日は、自坊[観念寺]の春季彼岸法要の日。
 例年、春には自坊で僕が、新作初披露と称して[紙芝居法話]をさせて頂いている。
 昨日は、『行基』さんの紙芝居やら、おまけとして、地元のヒーロー『楠木正成』の紙芝居をさせて頂いた。
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 そして、僧侶としての[法衣姿]の娘夫婦の初出勤も、披露させて頂き、御門徒の皆様にご挨拶させて頂いた。
 ・・いつもより、僕自身が緊張して、舌が回らんかった。

ボツにした『紙芝居』

 僕の作る紙芝居に(構想したが、)『ボツにした幻の紙芝居』という物がある。
 それは、昔、隣町で実際起った事件『河内十人斬り』をモデルにした紙芝居だ。
 これは明治時代に起こった、痴情と怨恨が絡む残虐な事件を題材にした話だ。(今では多々ありそうな話ではあるが?・・)
 僕は、人情ものの心温まる話も好むが、人間が起こす悪業の話(何でそんな事するねんなぁ、しゃあない奴ちゃなぁという話)も好むのだ。

 この、当時の大事件。世間は(デリケートなところがあるにも関わらず)タブーにせず、『河内音頭』の元(歌詞)にもして、何度も(この殺人者たちを)芝居小屋など劇場でお芝居の主人公にしている。(今ならテレビワイドショーが黙ってない話題なのだ)
 なぜだ!・・残虐な事件なのに、不思議すぎる? 
 これは人間のどうしようもない(仏教でいう)[業]が絡む何かがある。 そんな匂いがする。

 この二人の極悪な殺人者たちは、地元ではなぜか?「・・あれは悪いあほな奴やっちゃ、どうしようもないバカ者や。・・けど、どこか気の弱いあほやったそうやで。・・わしのお爺さんから聞いた話やけどな。」と、なぜか?好意的ともとれる部分をぼやかしてお話される。
 僕がインタビューした人のほとんどが、そうであった。
 けど、この話、今からそう遠くはない明治時代の話でもあり、事件の被害者の方々の子孫も居られるのだ。
 この事件をフィクションにして、脚色し紙芝居にして、人間の(やってはいけない)[業]をテーマにした作品を作ろうと思っていたのだが、・・やっぱり止めた。
 この紙芝居の構想を、或る檀家さんに話していたら、「住職さん、その紙芝居は作るのを止めた方がええで。その話を聞かれて嫌な思いをする人も居るかもしれん。又、住職さんの紙芝居は『人を助ける』・『人の気持ちを救うもの』やとわしは思うから、その話は住職さんが作るものと違うとも思うねんで。」と言われたからだ。 
 そうこう、いろいろ考えた上で、この紙芝居はボツにしたのである。
 

昨日の『寺カフェ』

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 昨日は、月一『寺カフェ』の日。
 ・・昨日もまだ準備の段階から、多くのお客さんが来て下さった。
 檀家のお客さんから、「娘さんのご結婚おめでとうございます。結婚式の写真を見せて下さい」とのお声があり、まだ[スナップ写真]も出来ていなかった為、急遽、写真をブリントして、皆さんに見て頂くことになった。
 「わぁっ、新郎さんの身長の何と高いこと!・・在家のお方でっしゃろ。・・何とっ、頭、剃りはってお坊さんに成りはったんですか?」と驚きの声があちこちから上がった。
 「はい、そうなんです。得度してくれました。有り難いご縁です。・・でも、お寺には入らずに、退職までサラリーマンを続けてもらう予定なのですよ。」と僕は言った。
 今日は、コーヒーどころではなく、娘たちの結婚式のご報告会になってしまった。
・・恐縮しっぱなしで、汗をかいて喋るの疲れてしまった。

西本願寺での娘の結婚式

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 本日、京都の西本願寺にて、娘が結婚式を挙げた。
 『第25代専如門主 伝統報告法要協賛行事』の記念行事の一環として、阿弥陀堂にて式を挙げさせて頂く事が出来たのだ。
 晴天にも恵まれて、無事に式を終え、本当に幸せな一日であった。南無阿弥陀仏。合掌

浄香さま、来院

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 本日、東大阪市:蓮浄寺さまの若美人住職[M・浄香]さんが、僕の紙芝居の見学にご来院下さった。
 素直でほんとにかわいらしいお嬢さんだ。
 僕とは、娘ぐらいの年の差だ。
 彼女も『紙芝居』を作って法話をされるのだ。
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 先日も彼女のお寺で、ご自分で制作された仏教オリジナル紙芝居を見せて頂いた。
 絵も綺麗で、さすが女性の作る紙芝居だ。
 面白かった!
 うっうっ、ライバルが現れた・・。負けずに頑張らねば!
 浄香さん、又、新作作ったら見せてね。
 又、おいでや!

紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その5:最終回)

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 時の天皇は、くろまろを呼び出して言いました。
「くろまろ、海の向こうの[新羅(しらぎ)]=(今の韓国)という国に行ってくれんか。
 彼の国の領土問題がこじれて、助けを求めておるんじゃ。
 行って、見て来てくれ。」
 と、くろまろを『遣新羅使(けんしらぎし)』として、派遣させました。
 一年後、無事、任務を終えて帰って来たくろまろに、又もや時の天皇は、
「くろまろ、今度は『唐』の国にいってくれ!」と、言われました。 
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 「はっはい・・、わかりました。向こうの国には、まだ、私の知り合いもおりましょう。・・ヤマトの国の為、力を尽くしますまろ、まろろろろっ・・。」
と、今度は『遣唐押(おう)使』という、最高責任者となって、国どうしの難問を解決する為に、旅立ったのです。
・・がしかし、もう、くろまろは高齢で、この時心身ともに過労のため、限界にきておりました。
 無事、唐の国に到着し、長安(ちょうあん)の都で、皇帝に会い、仕事を果たしたのですが、・・その地で倒れて、そのまま唐の国で亡くなってしまいました。
 その年、西暦654年。・・推定で、くろまろは65歳前後でなかったか?と伝わっております。
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 ・・考えてみますと、くろまろの一生は働き通しでした。
おそらく、10代の後半、留学生に選ばれて、たった一人で親元から離れ・・、
 そして海を越え、古代中国で、32年間に渡る勉強。
 帰国後は、その知識を生かして、日本の制度の改革に挑み・・、
 そして、日本の代表として、正々堂々と外国と渡り合い、平和を摸索し、交渉に命を注ぎました。
 正に、くろまろは、日本の夜明けの為に、生まれて来て仕事を果たしたと云って、間違いないでしょう。
 
 今、大阪は河内長野市の『高向(たこう)』という、くろまろの故郷に、その顕彰碑が建っています。 おしまい
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(河内長野市:高向『くろまろの郷』)
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(河内長野市:高向 河内長野市立『くろまろ館』)

 ※紙芝居制作にあたり、『くろまろ館』の館長様、学芸員さま、職員さま、マロン観光ガイドボランティアさま、いろいろとご指導とご鞭撻、資料提供、ご教授有難うございました。この場を借りまして、厚く御礼申し上げますマロ。合掌

紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その4)

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「蘇我入鹿(そがのいるか)ー!、覚悟せよ」と、中大兄皇子は剣を抜き、振り下ろしました。
「ぐわぁー、やられたー」と、入鹿は倒れました。
 世に云う[乙巳(いっし)の変]です。
 西暦645年 蘇我入鹿は亡くなりました。
 そしてその後、[蘇我の一族]は滅びました。

 それから間もなく、皇子の家臣[中臣鎌足(なかとみのかまたり)]が、くろまろの所にやって来て言いました。
「後味の悪い終わり方でした・・。
 が、これで新しい国作りが出来ます。『大化の改新』です。
 くろまろ先生、制度の改革、そしてこの国の舵取りを、よろしくお願い致します。」と頭を下げたのでした。
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 こうして、くろまろと、留学生の仲間の僧[旻(みん)]は、時の天皇より、『国博士(くにのはかせ)』という、日本国の最高顧問(スーパーアドバイザー)を任命され、日本政府組織の大改革に着手します。
 西暦649年 唐の国に習って『八省百官(はっしょう・ひゃっかん)』という、[省庁]の設置。
 又、農地の分け与え、税の在り方、兵役制度など、その後の日本の制度の基礎を作り出しました。
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 が、くろまろは国の改革だけに関わって、いられませんでした。
 それは、外交官としての仕事が待っていたからです。 
 次回、最終回、・・つづくマロ

紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その3)

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 やがていつしか、くろまろ達が、大陸に渡ってから[32年]が経とうとしていました。
 くろまろも、今や50才代。
 髭も髪も、白いものが増えておりました。
(余談だが、この留学年数の長さ、異常だと思いませんか?・・「あの~僕を忘れてませんか?・・いつまで、こっちにおらなあかんのですか?・・僕の青春を返せ!ぐれてやる、このまま蒸発してやる」と思わんかったんかなぁ?・・覚悟の上の留学やったと思うけど辛かったやろなぁ・・。)
 西暦540年 ついに、くろまろに帰国命令が来ました。
 「よーし、ついに来た!ついに来たまろ!ヤマトの国をより良い国にするまろぞ!」と、くろまろは夢を胸に、帰国船に乗り込みました。
・・しかし、その頃、ヤマトの国は大変な事になっていたのです。
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 日本では、くろまろ達を留学生に推薦した[聖徳太子]はすでに亡く・・、
 家臣であった[蘇我入鹿(そがのいるか)]という豪族が、ヤマトの国を、我が物顔で支配していたのです。
 その[蘇我入鹿]は、聖徳太子の一族を攻め滅ぼして、自分が権力のトップに立とうとしていました。
 日本に帰って来たくろまろは、これを見ても、どうする事もできませんでした。
 この[蘇我氏]に対して、反旗を挙げたのが[中大兄皇子(なかのおおえのみこ)=のちの天智天皇]と、家臣の[中臣鎌足(なかとみのかまたり)]でした。
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 「蘇我入鹿っ、覚悟せよ!」と、中大兄皇子は、剣を振り下ろしました。 つづくまろ
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(古代酒『玄理(くろまろ)』(ちょびちょび飲みながら、この紙芝居を描きました)と、くろまろくん人形(「僕くろまろ、とっても気が長いんだまろ。32年間の海外暮らし、まるで帰国後は浦島太郎だまろっ」と、対話して遊びながらこの紙芝居を描きました」)

紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その2)

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「うひゃ~、これが世界でも有数の大都市[隋]国か!僕等はここで、みっちり勉強するまろ。」と、くろまろ達一行は、隋国の門をくぐりました。
・・が、しかし、人は多い町でしたが、活気がありません。
 というのも、この国の皇帝は、わがままで残酷。人民の幸せを考えず、大土木工事やら戦争のやりたい放題し放題。
 民は泣いていたのです。
 そしてついに、堪忍袋の緒が切れて・・、
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 家臣(けらい)中から、反乱が起こりました。
 そして、あっという間に、『隋』国は滅亡し、『唐(とう)』という国が誕生したのです。
 建国に喜び民衆は唄いました。『隋、ずい~、ずっころばし~、唐が来てちょん。皇帝追われて、とっぴんしゃん。負けたーら、唐とこしょ~』と。(・・嘘です。又、しょうもない事、書いてもうたぁ[反省!])
 (話を戻して、)それは、くろまろ達がこちらに来て、10年近く経った時の大事変でした。
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 隋の国は滅びました。
 しかし、くろまろ達は日本へ帰国しませんでした。
 それは、この超大国の滅亡の原因と、新しい国の成り立ちの過程を、しっかり見ておけるチャンスだと思ったからです。
 くろまろは、新しい国の制度をしっかり学びました。
「うーん、何々・・。唐という国の仕組みは、『律令(りつりょう)制度』が基本になっているのかぁ。
『律』とは、人がしてはいけない事。
『令』とは、人が守らなくてはならない事。
 この制度が大事なんだ!
 これを、ちゃんと整備する為に、[役所]という所が必要なのだ。これを整備しないと、国は滅びてしまう。
 うーん、僕、いや私は、この制度を細かく勉強して、ヤマトの国に持って帰るぞ!」と、固く誓うのでした。 つづくマロ。
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(河内長野市立『くろまろ館』内、ゆるキャラ[くろまろくん])
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(河内長野市:高向(たこう)神社=高向氏一族の祖神を祀ったといわれている)