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紙芝居:『夜泣き石』(その1)

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 大阪府岸和田市の『作材(ざくざい)町』のお寺の門前に建つ[夜泣き石]。
 えっ?『その石は、夜になったら泣くの⁈』ですって・・。
 いいえ、違うのです。
 実はこの石、泣いたと云われたのは、ずっと昔のこと。
 これは、昔々に伝わる『岸和田市』の民話なのです。
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「おとうちゃーん、おかえり!」
「おうおう、お前たち、よう迎えに来てくれたんか⁈・・おおきにおおきに。・・それにしても、この大きな石の橋が小川に掛けられてるから便利でええわい。それに丈夫やし、見栄えも立派やしのう。ほんにええ石や。」
 と、このように、石の橋は皆の評判が上々でした。
 そんなある日のこと・・。つづく

今月の寺カフェ、三年目を迎えました!

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 お寺と、地域老人会で提携して始めた『観念寺・寺カフェ』。
 めでたく、[三年目]を迎えました。
 最初に懸念していた、男の人の人数も安定してきました。
 来月は『ほろ酔い交流会・忘年会』も行います。
 檀家さんじゃなくても、どなたでもおいで頂けます。
 お待ちしております!

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その7最終回)

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 昭和三年、武子様は突如、敗血症で倒られます。
 おそらく、[震災復興活動事業]のご心労から、引き起こされたのではないかと言われています。
 そして武子様は、昭和三年二月七日、42歳の若さでお浄土に還られました。
 武子様が夢見た、総合診療所『あそか病院』の開設は、それから二年後のことでした。
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 武子様が初めて『巡教』に出られたのは、18歳の時。
 それから42歳でお浄土に還られるまでの、24年間・・。
 武子様は本願寺教団にとって、多大なる功績を残されました。
 仏教婦人会の近代的組織の促進。
 又、宗門女子教育機関の創設にご尽力。
 さらに、慈善事業に多大なる心血を注がれたのでした。
 武子様は、臨終の枕元で、皆に「また、来ます」と言われ、お浄土に還られたそうです。
 浄土真宗の『還相回向(げんそうえこう)』という言葉には、お浄土に生まれた者は、再び、この世に還って来て、悩める衆生を済度する。という教えがあります。
 武子様は、再び現世に還って来ることを、最後に約束されたのでしょう。
 ご遺骨は、東京の『和田堀廟所』と、京都の『大谷本廟』に分骨され、納められています。 おしまい

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その6)

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阿弥陀如来さまに、命の尊さを味わせて頂いた武子さまは、自らも被災者でありながら、震災被災者の救済活動に打ち込んでゆかれます。
 武子さまと志を同じくする門徒たちは『築地本願寺跡』に、まず[テント救護所]を作りました。
 そして、はがきの代筆活動。(この頃は文字を書けない人が、一杯居られましたので)
 又、薬品や食料、そして衣服の供給、または遺骨の預かり活動なども実施されたのです。
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 さらに、震災孤児のために[児童救護運動]を実施されます。
 それは、全国からの寄付金を使っての[子供学校]や[幼稚園]の開設であったり・・、
 震災孤児になった少女や若い女性たちの為の施設開設であったりしました。
 足りない資金は本願寺教団を頼らず、武子様の著書の印税を、すべて使って補てんされたそうです。
 大正時代に、武子様のような救援活動をされた方は、ほとんどいませんでした。
・・それは、誠に尊い活動だったのです。 
 が、無理が続いたせいでしょうか?  つづく

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その5)

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大正12年、武子様37歳。
 東京に[関東大震災]が襲います。
 この時、武子様は被害の多かった東京の[築地本願寺]付近に住んで居られました。
 その為、ご自身も被災されます。
 築地本願寺は全壊。
 そして、炎が迫り「もうダメ!」と何度も思われたそうです。
 が、武子様はお念仏を頼りにして、火事の中を脱出されます。
 炎の中、「ナムアミダブツ・・」と仏様の名前を呼ぶ度に、『我が名を呼べ!必ず救うぞ!』という、阿弥陀如来さまからの声がご自分の声と重なりあって聞こえ、何とか逃げ出すことができたのでした。 つづく 

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その4)

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 日本へ一人で戻られた武子さまに、義理の姉を助けての[仏教婦人会]の仕事が待っていました。
 それは、父に代わって兄が[ご門主]になられたので、門主夫人になられた義理の姉の仕事が俄然増えて、忙しくなられたからです。
 それで、武子様が[仏教婦人会・総裁代理]となって、全国各地へ回られることになられました。
 さらに明治44年、その義理の姉が亡くなられた為、武子様は[仏教婦人会]の運営を、一人で背負わなければならなくなりました。
 それで、武子様は『仏教婦人会・本部長』に就任し、その重責を果たされる事となったのでした。
 そして、やがて待ちに待った夫がイギリスから帰国されました。つづく

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その3)

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明治22年、武子様は23歳で結婚されます。
 お相手は銀行勤務の男爵で、[九條良致(よしむね)]氏という御方でした。
 良致氏は、武子様の義理の姉の[弟]でもありました。
 お二人は結婚された後、イギリスへ新婚旅行へ行かれました。
・・と同時に、それは夫のケンブリッジ大学留学を兼ねた旅行でもありました。
 ところで、なぜ銀行マンの夫が外国へ留学することになったのか?
 それは武子様の兄[大谷光瑞様]が、良致氏を外国で勉強させて、将来、この義理の弟を[西本願寺]の学術専門家にしたかったからではないかと言われています。
 が、結果的には、武子様は一人で先に日本へ帰国されることになります。
 そして、良致氏の帰国まで、10年間待つことになるのでした。 つづく
 

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その2)

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 武子様はすくすくとお育ちになりました。
 末っ子ということもあって、父の明如上人も取り分け、武子様をかわいがられたそうです。
 彼女は『西本願寺の宝』と呼ばれ、大切に育てられたのです。
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 こうして、武子さまは美しい女性に成長されました。
 その美しさは、『大正時代の三美人』のおひとりと呼ばれたそうです。
(※余談ながら、あとのお二人は、九州の炭鉱王と結婚しのち若者とかけおちした柳原白蓮さん、そしてもう一人は、新橋の芸者から法律学者と結婚して、社交界で有名になった江木欣々さん・・です。) 
 又、武子様は短歌、絵画も一流の先生に学びその才能を発揮されていったのでした。
 が、悲しいことも同時にやって来ます。
 武子様17歳の時、父明如上人が54歳でお浄土に還られたのでした。つづく

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その1)

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 九條武子さまは、西本願寺のご門主のお嬢様に生まれました。
 才色兼備のお方で、その美しさは『大正時代の三美人』のおひとりとも云われました。
 そのご活躍は『仏教婦人会・連合本部長』を務め、社会事業に尽くし、現在の「京都女子大学」創設にも尽力されました。
 又、歌や絵画でもその才能を発揮されたそうです。
 ・・がしかし、そのご生涯は短く、人生も波乱に満ちたものでした。
 それでは、武子様のご生涯を紙芝居を通して見てゆく事にいたしましょう。はじまり、はじまりー。
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 武子様は、明治20年京都にお生まれになりました。
 お父様は、西本願寺第21代門主、大谷光尊(こうそん)様=明如上人です。
 武子様の『武(たけ)』という文字は、明如上人がお考えになられ付けられたそうです。
 それは「『武』とは、本来、『戈(ほこ)を止める』と書く。・・つまり力(武力)を使わず、平和に物事を納めてゆく。それがこの文字の本来の精神なのだ。この子にはそんな平和の礎になって欲しい」と、考えられたお名前なのでした。
 つづく
 

怖い夢を見ました

 昨日、怖い夢を見た。
 ・・日本の田舎のどこかに、僕は弟と居る。
 空は、真っ青で良い天気だ。
 その時、大きな津波が来た。
 その大きさといったら、言葉にもできない。
 うねりながらやってきたのだ。(目が覚めた今でも覚えている)
 逃げる間もなく、波が僕らを襲った。
 それから、僕は水の中でアップアップしながら、死とはこのような感じか⁈と思っている。
 そして、波が去った。
 僕は助かったような・・。
 振り返れば、弟が居ない。 
 そして、周りも誰もいない。
 わーっと言って、目を覚ませば、午前三時前。
 あの夢は何か⁈ 
 僕の頭の中で、映像が再現できる。
 いつか、本当にこのような事が起こるのであろうか?
 地震と津波対策を真剣に考えねば、今思う。