住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その4)

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 重源和尚の提案に、村人たちは皆、困惑してしまい、集会が開かれることになりました。
(村の長老)「・・たたりがある!きっとたたりがあるでぇ!墓など荒らしたらあかん!石棺を使うなんてとんでも無いこっちゃ。わし等は反対や!!」と、村の長老は叫びました。
 その時です。
 子供を抱いた一人の母親が、突然立ち上がり、
(母親)「わては賛成や!
 狭山池の水が溜まらんかったら、今年の夏は、必ず田んぼの水が干上がってまう。そしたら、この子供たちは、食べる物がなくて、間違いなく飢え死にや!
 ・・そんなん、母親として見てられん。
 古墳の石棺に眠っとる人って、きっと人の上に立っとった偉いさんやろ!?
 きっと、生きてるわて等の気持ちを理解してくれるに違いないよ。・・わてはそう思う。」と、言ったのです。
 それを聞いて、みんなは「そうや!」、「そうや!」、「そらそうや」と賛同し、多数決で『石棺』を引っ張り出すことに決まったのでした。(・・母は強し)
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(村の民)「よいしょ、よいしょ、引っ張れ、引っ張れ!南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」と、こうして、民衆によって二十個近い『石棺』が古墳より引っ張り出されました。
 念仏を称えながら、男も女も皆協力し、力を合わせて石棺が運び出されたのです。
 それを見つめながら、重源和尚は手を合わせながら、つぶやきました。
(重源)「古墳の主よ。すまんが、生きとるわし等の為に寝床を譲ってくれ。貴殿たちの石棺は、必ず生きとる人間の役に立つんやから・・。」と。
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 そして、運び出された『石棺』は、今度は職人たちによって、丁寧に〔上の部分〕と〔下の部分〕の一部が削り取られ、水の通る道《水路=樋》へと変わっていったのでした。
 そして、この完成した石の管《石樋=水路》は、又皆で、改修途中の堤へと、曳かれて行くことになったのでした。

(ここで余談ながら、一つの疑問にぶつかる。石棺は引っ張り出され加工された。・・それでは中に眠っていた豪族達のご遺体は、いったいどうなったのか?・・先日、うちのお寺に来て下さった『狭山池博物館』の学芸員さんにその事をお尋ねしてみたのだが、「調査しても解らない」という答えだった。・・が、僕は思う。すべてにおいて抜かりの無い重源和尚のことだ。民衆の事を考えて、どこか別の場所にきっと手厚く埋葬したに違い・・と。) つづく

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