住職のつぼやき[管理用]

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観念寺仏婦会「葉っぱのコースター作り」を行いました

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昨日、観念寺仏教婦人会主催による「布を使っての、葉っぱのコースター作り」を行いました。
 参加者は、20名。
 午後7時から開始にも関わらず、6時半には、もう皆が集まり、各自、作業準備オッケーの体勢でした。
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 そして、1時間後には、皆が完成。
 綺麗な、葉っぱのコースターが完成しました。
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 そして作業を終えてから、楽しいお茶の時間。
 出来立ての「コースター」の上に、お団子を乗せたりして、各自が大はしゃぎの楽しい時間でした。
 

祝!白寿苑「法話会」、200回

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 昨日は、特養ホーム「白寿苑」での『法話会』の第200回記念の日であった。
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 思えば、平成七年からこちらに寄せて頂き、(暗中模索の)テスト法話会を実験的に行い、平成八年の春から本格的に『紙芝居法話会』を開いて、気がつけば18年が経っていた。
 それで、昨日で記念すべき『第200回』となった訳だ。
 ・・で、昨日の法話会は、『一回目を振り返る』と題して、第一回目の紙芝居『くもの糸』を行った。
 写真を見て頂ければ解ると思うのだが、第一作目は、非常に小さくて色鉛筆を混ぜながら作っている。
 この作品は、その後、「もうちょっと、大きく見たい!」という要望の元、大きい新バージョンに作り変えている。(昨日は、旧と新バージョンと対比して見ていただいた)
 ほんまに、最初は小っちゃな作品だったのだ。
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 そして、会の終了後、入居者の皆さんから、お祝いに「花束」と「記念色紙」を頂いた。
 そして、お祝いのメッセージのお手紙も頂いた。
 照れくさいが、それを少しだけピックアップすると、

『200回記念、お喜び申し上げます。暑い日、雨の日、寒い冬の日、ご遠路おこし頂きました。私たちは、日頃の痛みも忘れるほどに、法話を楽しませて頂きました。(中略)・・それでは、次回を楽しみにお待ちしております。ご健康とご多幸をお祈り申し上げます。 (代表として)白寿苑4階 O川八重子 平成25年7月17日吉日』。
 有り難いことだ。涙がでそうになった。
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 終りに当たって、皆さんから「次は、300回記念をやりましょう!」とお声を掛けて頂き、感謝感謝であった。 
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 最後に記念撮影をして、さぁ、来月は「第201回」。白寿苑盂蘭盆法要が待っている。
 さぁ、頑張りましょう!

 よく考えてみたら、僕の方が『生きる気力』を皆さんから頂いているような・・。昨日、改めてその事に気がついた。合掌

宮津市:天橋組「聞法のつどい」への出前(紙芝居始祖との遭遇)

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 昨日、京都府宮津市にある、浄土真宗本願寺派〔佛性寺〕さまで行われた、京都教区天橋組「聞法のつどい」へ、『紙芝居法話』に行かせて頂いて来た。
ファイル 1148-2.jpg(佛性寺さま)
 驚いたのは、こちらの会場となった『佛性寺』のご住職から聞いた、お寺の襖絵の逸話だった。
ファイル 1148-3.jpg(左右にちらっと見えてるのがその襖絵である)
 掻い摘んでいうと、それはこんな話だった。
 こちらは、『紙芝居の始祖』と言われている〔佐藤正持(理三郎)〕所縁のお寺なのだそうで、
 佐藤正持氏は、幕末の勤皇の志士の走りで、自分で描いた日本神話や歴史上の出来事などの絵物語を、街頭で見せて歩き、全国を回って勤皇思想の宣伝に努めたらしい。
 それで、幕府に目をつけられ、ここ、京都の宮津の殿様に匿われ、このお寺(又は近くの神社で)で潜伏しながら、こちらの襖絵を描かれたというのだ。
 身近で拝見させて頂いたのだが、それは、極彩色豊かな源氏物語の美しい大きな絵であった。
 この佐藤氏は、もちろん小さい頃から絵を描くのが好きだったらしいが、それだけではなく、スピーチの勉強もせねばダメだと、プロの狂言師にも学び、自分で描いた絵を木の木片に入れて、女子供、老若男女を問わず、街行く人々に弁舌豊かに話して廻られたそうだ。
 僕は、その逸話を聞かせて頂いてから、こちらの(始祖の)襖絵の前で、紙芝居をさせて頂いたので、大変緊張した。
 こちらのご住職も、「うちの『紙芝居始祖』所縁の寺が会場となり、ここで「紙芝居法話」のつどいが、沢山の門徒さん(約100名)の前で、披露される仏縁を、本当に不思議に有り難く感じております。」と、おっしゃってくださった。
 僕も、まさか『紙芝居始祖』と、こちらで遭遇するなんて、夢にも思ってみなかったので、本当にその不思議な引き合わせを有り難く感じた。
 今日のこの日を大切にし、今後益々、紙芝居製作に精進してゆかねばと、誓い直した不思議な出会いの日であった。
 

紙芝居:「永観、遅し!」(後編)

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 驚き、立ち止まった永観さま。
 その姿に気が付かれた『阿弥陀』さまは、すっと首を左にひねって、こちらを向き、そして、こうおっしゃったのでした。
 「永観、遅し!」と。
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 その感激で、永観さまは涙を流しながら、又、行道を始められました。
 そして、いつしか夜は明けて、阿弥陀様は元の壇に戻ってゆかれました。
 しかし・・、
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 壇に戻られた『阿弥陀』さまのお首は、この日以来、(ムチ打ちのように〔いかん、最後にボケをかましてもろた!〕)左に曲げられたまま、もう二度と、元のお姿には戻りませんでした。
 その後、永観さまは、この日の体験から、さらに熱心にこの〔阿弥陀〕さまを拝み続けられ、又、民衆救済に、力を注がれたということです。
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 そして今も、この阿弥陀様は、『見返り美人』ではなく、『見返り阿弥陀』というお名前で、禅林寺永観堂で、お祀りされておられるのです。
 おしまい
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紙芝居:「永観、遅し!」(中編)

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そして、永観(えいかん)さまは、禅林寺で『浄土教』の布教をするかたわら、お寺境内に『薬王院(やくおういん)』を設け、病人や、罪を犯した囚人たちの更正にも、力をそそがれました。
 さらに・・、
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 日課として、一日一万遍の念仏を称え、修行を続けられました。
 そして、永保二年(1082)二月十五日、深夜。
 この日も、永観さまは夜を徹して、阿弥陀堂にて、念仏行道を行っておられました。
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 『念仏行道』というのは、ご本尊の阿弥陀像の廻りを、夜を徹して、念仏を称えながら、歩き続けるという厳しい修行です。
(永観)「南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ・・。」と、永観さまは、一心に称え、歩き続けておりました。
 堂内は、凍てつく様な寒さです。
 そして、そろそろ、夜明けが近づいて来たとき・・、
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 ふと、永観さまは、前方に何者かの気配を感じました。
 そして、「あっ」と、驚いた永観さま。
 思わず、息を呑んで立ち止まってしまいました。
 そう、前を歩いておられたのは、ご本尊の『阿弥陀』さまだったのですから・・。
 阿弥陀さまは、壇から下りられ、永観さまを先導されておられたのでした。 つづく

紙芝居:「永観、遅し!」(前編)

ファイル 1145-1.jpg(観念寺記念スタンプ)
 観念寺の〔記念スタンプ〕を作って下さった、『仏像はんこ愛子』さんが、ご友人たちと一緒に、東京で『第2回神仏画展』を開かれるらしい。
ファイル 1145-2.jpg(神仏画展案内状)
 (その案内状の絵からすると、)どうやら、彼女はそこで『見返り阿弥陀』ハンコを出展されるみたいだ。
ファイル 1145-3.jpg(永観堂の案内)
 ・・と、いうことで、彼女の出展をお祝いして、全三回で、僕も『見返り阿弥陀』の紙芝居を紹介したいと思う。
 いわば、彼女の露払いだ。(愛子さん、展覧会の大成功を、大阪よりお念じ申しあげます!)
 それでは、はじまり、はじまり~。
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 「永観、遅し!」。
 これは、遥か平安時代に、お寺の仏像「阿弥陀如来」さまが、修行中の『永観(えいかん、ようかんとも云う)』というお坊様に、お掛けになったお言葉と伝わっています。
 「でも、いったいなぜ?」
 これは、紅葉で有名な、京都は『永観堂 禅林寺』に伝わる不思議なお話です。
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 永観(えいかん)上人。
 この方は、平安時代のお坊様で、十一歳で禅林寺にて得度。のち、奈良の東大寺で仏教学を学ばれました。
 そして、三十一歳の時、貴族という特権階級の人々だけに、仏法を説く虚しさを感じ、地位と名誉を捨てて隠遁。
 禅林寺に帰り、独自の活動を始められたのでした。 つづく

東本願寺「伏見別院同朋会」への出前

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 おととい、京都市伏見区にある「東本願寺伏見別院」へ、お寺の出前が、お寺へ出前をして来た。
 その目的は、月一回、別院のご門徒さんたちで運営されている『伏見別院同朋会』という勉強会へ、紙芝居法話をする為だった。
 現在、こちらのお寺は、(老朽化の為、プレハブの仮の本堂を創られていて、)それも年内に取り壊し、来年新築落慶される予定なのだそうだ。
 輪番さん(お寺の代表)のお話によると、おそらく僕が最後の法話担当らしい・・。記念すべき「法話会」だったと言って良いのだろうか??(笑)
 さて、今はプレハブ寺院だが、もの凄く歴史はある。
 古くは、家康公の時代から始まり、幕末には、鳥羽伏見の戦いで、こちらは会津藩の陣営地になり、新政府軍の攻撃によって、お寺は崩壊寸前まで打撃を受けたということだ。
 ゆえに、今残っているものは、境内の大木だけなのだそうだ。
 今は昔の物語である・・。
 さて、この日、京都は暑かった。
 又、プレハブなので、クーラーの効きも緩かった。・・が、皆さんの熱気は熱く、それがこちらにも伝わり、歓談の時間を含めて、二時間半もお話させて頂いた。
 同朋会の皆さんも、ちょっとした「行」になったのではないか?(笑)・・でも、倒れる人が出なくて良かった。
 「伏見別院同朋会」の皆様、本当にお世話になり有難うございました。合掌

紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その5 最終回)

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 このように、円空さんの作った仏さまは、どのような薬よりも、病人を安心させ、癒しました。
 又、子供たちに抱きつかれ、握りしめられる『心のおもちゃ』になりました。
 こうして、円空さんは、生涯12万体の仏像を作り、民衆の中で生き抜きました。 
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 その円空さんの膨大な仏像群は、『民を護る護法神』。
 『悪を懲らしめる憤怒仏』。
 又、『合掌せずにはおられない慈悲仏』。
 『握り締められる木っ端仏』、に分けられます。
 それらは、現在、全国各地に五千三百体確認され、お寺や神社、又は博物館などでまつられ、展示されています。(後の仏さまは、まだ発見されていません。・・もう無くなってしまったかも。)
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 円空さんは、64才で亡くなりました。
 その最後は、母の亡くなった長良川の川辺に穴を掘り、村人たちに見守られながら、自らその穴に入り、念仏を称えながら、土に埋もれて入定を果たしたといわれています。
 それは、川の氾濫を抑える為の『即身仏』という〔生き仏〕になる行為だったのです。
 そして今も、岐阜県関市の長良川の川辺に、この『円空入定塚』が、(円空さんが大好きだったという)藤の花の下に祀られています。
 おしまい
ファイル 1143-4.jpg(円空上人入定塚)
ファイル 1143-5.jpg(塚のすぐ横に流れる長良川)

紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その4)

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 又、こんなお話も伝わっています。
 ある日のこと、円空さんは、飛騨の国の正宗寺というお寺に滞在し、一体の〔薬師如来〕様を彫っておりました。
 その姿を、じっと窓から村の子供達が、何やらひそひそ話しながら眺めております。
 やがて、仏様は完成し、本堂に安置されました。
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 そして、円空さんがお昼寝をしていたある昼下がりのこと。
 子供達は、そっと本堂に上がり込み、仏様を皆で、外へ持ち出して行ったのでありました。
 それを、薄目を開けながら見ていた円空さんでしたが、何も言わず、又眠ってしまいました。
 いったい、仏さまはどこへ運ばれて行ったのでしょう?
 実は・・、
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 仏さまは、その頃、川の中で子供達と一緒に遊んでいたのでした。
 つまり、泳げない子供の〔浮き輪〕代わりになっていたのです。
 しかし、それを偶然見かけた一人のお爺さんが、びっくりして、
(じっちゃん)「こりゃーっ!お前達は、何と言う罰当たりなことをするのじゃぁ!すぐに、仏さまをお寺に返して来い!」と、すごい剣幕です。
 叱られた子供達は、しゅんとして、泣く泣く仏様をお寺へと戻しました。
 ・・しかし、その日の夜、その怒ったお爺さんが、高熱を出してうなされることになったのです。
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 そして、お爺さんの夢枕に、昼間の〔薬師如来〕様が立ち、
(お薬師様)「お前は何という余計なことをしてくれたんじゃ!わしは、子供たちと楽しく遊んでおったんじゃぞ!」と、怒って出て来られたのです。
 それを聞いて、お爺さんはびっくり!
(じっちゃん)「すっすっすみませんでした、仏様っ。そうとは知らず、わしが悪うこざいました。」と、必死で謝りました。
 すると、仏様は静かに消えて、不思議なことに、熱もスッと下がったのでした。
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 次の日、このお爺さんは、お供え物を持って、お寺にお参りに行きました。
(円空)「ほおっ、そんなことがあったのか。わしの彫った仏さまは、子供たちと遊ぶのが好きなんじゃよ。爺さん、村のみんなに伝えておくれ。これからも、病の者や、一緒に遊びたいという子供たちが居ったら、遠慮のぉ、仏様をお寺から持ち出しておくれと。・・仏さまも、きっとそれを望んでおいでじゃろうて。」と、言って円空さんは手を合わせました。
 そう、円空さんの彫られた仏様は、常に庶民と共にあったのです。

 ・・ここで少し、余談。
 僕はこの話を以前、テレビのまんが「日本昔ばなし」で見た。
 その時は、『これは円空さんが彫った仏様である』というエピソードがカットされていた為、このストーリーが納得できなかった。
 「お爺さん、正しいやん。なんでエライ目に遭わなあかんのん?」と。
 しかし、この仏様が円空さんが、彫ったものなら、はなしが違う。
 円空仏は、常に庶民と共にあった。
 子供たちの、遊ぶ人形代わりにもなっていたそうで、よく小さい子供に背負われていたそうだ。(何とも微笑ましいではないか)
 僕は、常日頃から、何年に一回かの、有名寺院の秘仏の『ご開帳』というのが嫌いだ。
 仏さまは、いつも拝めて、(壊さないようにしながら)触っても良い、近くでまじまじと見ても良いと、そう思っているのだ。
 だから、うちのお寺では、なるべく、自由なカタチで仏様を観て頂くようにしている。
 うちの『阿弥陀様』も、それを望んでおられるような気がするのだ。 これでイイのだ。つづく
 

紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その3)

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 ・・・こんな話が伝わっています。
 ある日のこと。
 円空さんは旅の途中、一件の農家に立ち寄りました。
(円空)「すまんが、水を一杯もらえんかのぉ・・。」
 と、円空さんがその家の戸を開けると、そこには床に臥せる女性がおり、その横に夫と子供らしき者が看病をしておりました。
(夫)「おぉっ、旅のお坊さんかね。水はそこにあるで、遠慮のぉ、飲んでけろ。」と、快く円空さんを招き入れてくれました。
(円空)「おや、そこで休んで居られるのは、坊やのお母さんかね?」と、円空さんが尋ねると、
(子供)「うん、そうだよ。母ちゃんは重い病気なんだ。・・でも、うちは貧乏なんで薬を買うお金が無いんだよ。」と、子供が答えました。
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(円空)「そうかい、そうかい。わしは銭は持っとらんので・・、それじゃあ、良いものを作ってやろう。」と言って、円空さんは、背中の背負子から、一本の木切れを取り出しました。
 そして、せっせせっせと、自分の鉈で、一体の仏さまをこしらえたのでした。そして、
(円空)「この仏さまを握り締めれば、お前さんの苦しみは解けてくるぞ。そして、念ずれば仏様が護って下さるからな。」と、母親に手渡したのでした。
(母)「まぁ、なんと優しいお顔をした仏様。・・私はこのような仏さまが欲しかったのです。」と、母親は涙ながらに喜びました。
(子供)「母ちゃん、良かったね。」と、子供も一緒に喜びました。
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 そして、この日の晩。
 母親は、「旅のお坊様、仏様を有難うございました。・・私はこれで、安らかに旅立てます。・・ナムブツ、ナムブツ。」と言って、静かに目を閉じました。
 父が泣きました。
 子が泣きました。
 そして、円空さんも泣きました。
 しかし、その亡くなった母の顔は、たいへん安らかな表情でありました。 つづく

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