
(聖フランチェスコ)
昔、友人の一人が僕に、「お前の一番お気に入りの映画は何か?」と尋ねたことがある。
僕は「『ブラザーサン・シスタームーン』だ。」とその時答えた。
それは今も変わっていない。
『ブラザーサン・シスタームーン』は、アッシジ(イタリア)の聖フランチェスコの生き様を描いた洋画である。
僕はこの映画を観て、僧侶になる決意をしたといっても過言ではない。
とにかく、この映画が大好きなのだ。(今観ても、涙が止まらない)
・・裕福な商人の息子に生まれたフランチェスコが、戦争体験して、精神を病んで帰宅。・・その後、奇跡的回復をしたのち、やがてキリスト信仰に目覚め、富や財宝を拒絶し、それらは信仰の妨げになるだけだと(何もかも)捨て果てて、病の者や貧しい者たちに寄り添いながら、修道の道を歩み始める。・・そんな映画である。
(一遍上人)
これって、日本の『一遍上人』に似ている・・ではないか。
又、お互い同じ[中世]に生まれ、日本とイタリアの国の違いこそあれ、仏教とキリスト教の違いこそあれ、『物に執着するな!・・何もないのが幸せへの近道なのだ』と、二人とも言っている。
僕は憧れる。・・このような生き方に。
このような、生き方はとてもできないが、僕は迷った時や悩んだときは、この二人の生涯を追う。
そして、この映画を観て、仏教徒として、僧侶として、どのように生きたら良いのかを模索するのである。
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聖フランチェスコと一遍上人
特養ホーム『白寿苑』と軽費ホーム『河南荘』のお盆法要
昨日今日と、二つの老人ホームで、お盆法要を行って来た。
昨日が、毎月法話会で行かせて頂いている特養『白寿苑』での盂蘭盆法要。
そして、今日が、一年に一回行かせて頂いている軽費老人ホーム『河南荘』での地蔵盆法要である。
どちらも、結構お付き合いが長く、今年で17回目ぐらいだろうか?
どちらも、まず会場での勤行から始まり、お焼香をして頂く。
そして、短い法話。
その後、『白寿苑』では第二部として、職員さんのギターとバイオリン・サンシンによる生演奏で『涙そうそう』と『千の風にのって』を遺族さんと入所者のみなさんで歌う。(今年も感動的でした)
そして、『河南荘』では、僕の紙芝居法話と仏教質問コーナーで盛り上がる。
毎年、こんな感じでやっていて、今年も無事に盛大の内に終わった。
が、やはり今になって、疲れが出てきたのか、昨日あたりから、のどが腫れ出して、とても痛い。
薬を飲んでも腫れがひかなくて、これはしばらくおとなしくしていた方が良さそうだ。
・・が、僕のサガで、つい御仏縁があると、思いっきりお話ししてしまい、回復を遅くする。
・・これは今年も同じだ。 僕って成長せんなぁ。(笑)
山口県:長門市仙崎に行ってきました

(金子みすゞさんが愛した青海島の王子山公園より見た仙崎の町)
昨年の秋より、制作を(少しだけ)開始している『(仮題)金子みすゞと仏さま』という紙芝居の取材の為に、昨日おとといと、山口県の長門市[仙崎]の町まで行って来た。
早朝の出発でも、(山陽自動車道を使い)車で、到着まで、約八時間掛かった。(もう行き帰りだけでへとへとでした)
長門市に着いたら、さっそく取材を開始。(他の観光地には行かず、ただただ[金子みすゞ]さんの事だけに絞りました。)
金子みすゞさんの生まれ育った仙崎の町は、潮の香りのする静かで小さな漁村。・・それは今も変わらない。
(再現された[自宅]金子文英堂[金子みすゞ記念館])
まずは、[みすゞ通り]を歩いて、自宅を再現された[金子文英堂]へ。(当時のままに再現されていて、金子みすゞ女史の部屋も見学できます。
・・ここで少し余談。みすゞさんの実の弟の正佑[まさすけ]さんは、ご長寿で平成元年まで生きられます。そのお仕事は主に『劇作家』であったそうです。そこまでは知っていたのですが、その書いたお芝居の一つに[古川ロッパ劇団]の『笑いの王国』の作品があったそうです。・・これは知らんかった。弟さん、コメディ書いてはったんや。余談の余談ですが、僕はこの『笑いの王国』をパロッた[三谷幸喜作品]『笑いの大学』が大好きです。・・ほんま余談でした。)
そして、その隣は、現在『金子みすゞ記念館』が併設されていました。(しっかりと直筆の手紙などの資料を取材してきました)
(遍照寺さま内:金子みすゞ墓所)
その後、そこから歩いて10分ほどのところにある浄土真宗本願寺派『遍照寺』様の境内にある、みすず女史の(小さくかわいい)墓所に、(紙芝居を作らせて頂くご報告をして、)お参りさせて頂きました。(金子みすずさんは、熱心な浄土真宗門徒でした。)
それで、彼女の詩は、そのまま『お念仏の味わい(=教え=感想)』になっているのです。
僕の作ろうとしている紙芝居も、彼女の生涯はさらっと流して、彼女の想いに寄り添って作ろうと思っています。(それは非常に難しいことですが・・)
(鯨(くじら)墓)
その彼女の命に対する優しい心の(核)となったものが、父親の実家のあった隣の町=島[青海島]『通』(かよいと読みます)の古式捕鯨の様子(風土)ではなかったかと僕は思うのです。
それで、『通』の[くじら資料館]に行き、捕鯨との命のやり取りの現場を見て、そして、鯨に対するその優しさの表われとして残っている『鯨墓』(生まれることが出来なかった鯨の胎児が祀られています。(一頭一頭の戒名もあります))をお参りさせて頂いて来ました。
非常な強行軍で、たいへんしんどかったですが、しっかりと[取材]させて頂いてきたつもりです。
いよいよ、この秋から実質的な制作に入る予定です。・・お楽しみに。
紙芝居:「捨聖 一遍上人」(その9 最終回)

一遍さまの『遊行』は、その死の直前まで続きました。
その休むことのない、その過酷な行脚は、いつしか一遍さまの体をボロボロにしておりました。
そして、ついに摂津の国(現在の神戸市兵庫区)の『観音堂』でお倒れになります。
(その病の原因は、極度の栄養失調ではないか?といわれています)
そして、死期を悟られた一遍上人は、ある日、ご自分の書物(経典類)など、すべて焼き尽くされます。(まさに捨て聖!)
この時、一遍さまは『一代の聖教みなつきて 南無阿弥陀仏になりはてぬ』というお言葉を(弟子の記録により)残されておられます。
死に臨み、一遍さまは『自分の遺体は、野に捨ててけだものに施すべし』と言われたそうです。(実行されませんでしたが。)
一遍上人は、正応二年(1289)、このお倒れになられた地で、五十一歳でお亡くなりになりました。
ご廟所(お墓)は、現在、神戸市兵庫区の『真光寺』さまの境内にあります。
又、本堂には一遍上人のお木像も安置されています。
一遍上人のその教えの特徴は、
『念仏こそが人生で一番大切な教えなのである。その妨げとなる欲望は、すべて捨てなさい。』というものでした。
一遍さまは、それを実践され、往生されました。
(ご廟所入口)
それでは最後に、私の好きな一遍さまのお言葉を書かせていただいて終わりにしたいと思います。
『・・・念仏の行者は、知恵をも捨て、愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理も捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、又 諸宗の悟(り)をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に 尤もかなひ候へ・・・。』
(ご廟所『真光寺』)
「となふれば 仏も われもなかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」(一遍)
おしまい
紙芝居:「捨聖 一遍上人」(その8)

(一遍)「ナムアミダーブ!(鐘の音=チン、チンッ)・・、ナムアミダーブ(チン、チンッ)」
何やら賑やかで、楽しいそうなその響きに、町中の人々が集まってきました。
そして、一遍さまは集まった人々に、『念仏札』を一枚一枚丁寧に配って歩き、阿弥陀様のお救いの話をされました。
地位の有る人無い人に関係なく、老若男女の隔てもなく、病気の人にも進んで接して、お念仏の教えをと説いてゆかれました。
こうして、いつしか多くの人々が、一遍上人を慕い、自ら弟子と称してついて来るようになったのでした。
その弟子の中から、やがて楽しさのあまり、念仏と共に踊りだす者も現われ、これがいつしか『念仏踊り』へと変わっていったのでした。
そして、その『踊り念仏』の人気は全国各地へと広まり、一遍上人一行は、どこへ行っても大歓迎で向かい入れられるようになったのでした。
しかし、一遍上人は威張らず、また一か所に安住せず、お寺も創らず、いつも謙虚に歩き続けられました。
その旅の途中のエピソードに、次のような話が伝わっています。
一遍上人が行くところ、よく不思議な自然現象が起こったそうです。
それは、(めでたい現象と云われる)紫の雲が、(一遍上人の居る場から)よく天へと立ち昇った事でした。
それを見た、一人の弟子が一遍さまに言いました。
(関西出身の弟子)「一遍さまっ、ほんま、毎度毎度、不思議でんなぁ。まさにミラクルや!・・これは、我らをいつも神仏が護って下さってるという事でっしゃろ?・・一遍様は、ほんまに生き仏様や!神や神さまや、そしてわしら高弟たちは、神セブンや!」と言うと、一遍様は冷やかに、こうおっしゃったそうです。
(一遍)「花のことは、花に問え。・・紫雲のことは紫雲に問え。・・一遍知らず」と。
そんな(不可思議な)現象が起こったなどと、いちいち騒ぐな。そんな現象など、この一遍のまったく知らぬこと。そんなことは、天の雲に直接聞いてくれ。お前はそんな暇があるのなら、ただ念仏を称えよ。・・とおっしゃりたかったのかもしれません。
次回、いよいよ最終回 つづく
紙芝居:「捨聖 一遍上人」(その7)

(熊野本宮大社)
・・ここで余談を書く。
実は先日、この紙芝居の主人公『一遍上人』が、神勅(神仏のお声)を頂かれた、和歌山県[熊野本宮大社]に行って来た。
さすがに、ここは大きな有名神社で、この日もたくさんの観光客で賑わっていた。
(奥が工事中の証誠殿)
さて、僕の目的は一遍上人の神勅を受けられた場所一本。
がしかし、現在この社殿は、一昨年の台風被害により、大改築中で、はっきりとしたそのお姿は望めなかった。(お参りはさせて頂きましたが。)
(旧社地にある「一遍上人名号碑」)
そして、この本殿から15分ほど歩いた地の[旧社地]に、向かう。
ここには、[南無阿弥陀仏]と刻まれた、一遍上人名号碑が建っている。
ここは、あまり観光客が来ない場所みたいなのだが、おそらく鎌倉時代は、この場に本殿があり、ここに一遍さまが籠られ、神勅を受けられたのだろう。
あまり、人によって踏み荒らされてなく、静寂で清らかな場所であった。(僕はここが一番気に入った。・・ここで(一遍さまに紙芝居の完成報告と)お念仏を申してきました)
この後、一遍上人もお参りに行かれた[熊野那智大社]にもお参りに行ったのだが、そこは(世界遺産にはなっているが)完全な観光地化されていたので、ここには書かない。
さぁ、いよいよ、この紙芝居も佳境です。
一人旅となった[一遍上人]は、やがて、
(一遍)「・・そうだ、昔、[空也]というお坊様が、京の町を鐘を打ち鳴らしながら念仏を称えて、教えを説いて廻られたと聞く。・・私も[空也]様の真似をしよう!」と、思われました。
そして、ご自分も鐘を打ち鳴らしながら、お念仏を称えて、お札を配り始めました。
(一遍)「ナムアミダーブ!」(チンチン)。「ナムアミダーブ!」(チンチン)と、何やら楽しそうなその様子に、たくさんの人たちが集まって来ました。 つづく
紙芝居:「捨聖 一遍上人」(その6)

(一遍)「そうじゃ、わしはただ[阿弥陀仏]のお救いを、皆に知らせるだけで良いのじゃ。・・わしは阿弥陀様の宣伝マンじゃ。それに撤しよう!・・そして皆に、(阿弥陀さまを知って頂けた、)そして(阿弥陀様とご縁を結んで下さった)その記念(証し)としてこの[念仏札]を配ろう!」と、一遍さまは固く誓ったのでした。
しかし、その決意の中でひとつ気がかりがありました。
それは、一緒に旅をしている(妻と子)のことでした。
(一遍)「・・しかし、わしが[阿弥陀]さまの宣伝マンに撤して、多くの場所を巡り、多くの人たちとご仏縁を結ぶ為には、もうひとつ(大きな自分の執着を)捨てねばならぬ。・・それは妻と子だ。」
そこで、一遍さまは妻と子に別れを告げる決意をしました。
(一遍)「超一、超二や、辛いけれどもここで別れよう。お前たちは故郷に帰るも良し、どこか別の場所で庵を持つも良し、自由にしなさい。私はこれから一人で行く。
私は、決してお前たちの事が嫌いになったんじゃないよ。
お前たちのことは本当に愛している。
しかし、お前たちとずっといると、常に私は、お前たちのその日の宿や食事のことを心配し続けなければならない。
自由な心が束縛されてしまうのだよ。
私はもう、お前たちの夫や父親ではない。私一遍は阿弥陀様のものなのだ。阿弥陀様の一遍なのだ。
だから、ここで別れておくれ。」と、妻と子に涙ながらに伝えられました。
そして、一遍さまは、妻と子をお供に託して、別れを告げました。
そして、一遍上人は、この時から、まさにすべてを捨てた『捨て聖』となって、念仏流布の旅を続けられることになったのでした。 つづく
紙芝居:「捨聖 一遍上人」(その5)

一遍さまは、自分の行っている『(念仏札を配り)、阿弥陀仏を信じて、救われてほしい』と、説いて廻ることは間違いなのではないかと、深く悩みました。
そこで、本地仏(神と仏は本来、同体であるという考え)として[阿弥陀如来]が祀られている神社、『熊野本宮 証誠殿』に籠り、ひたすら祈りました。
・・すると、ある晩のこと、
ご神殿から、山伏姿をされた[熊野権現]さまが現われて、一遍さまに言われました。
(熊野権現)「・・念仏を進めている聖よ。お前は間違っている。
そなたは、自分が人を救うつもりでいる。
とんでもないぞ。
阿弥陀仏が人を救うのじゃ。
阿弥陀仏の救いはのう、もうすでに完成しておる。
すでに数億年も昔から、その救いは完成しておるんじゃ。 だから、皆、もうすでに阿弥陀仏に救われることは決まっておるんじゃ。
・・自分が浄らかだとか、不浄だとか、・・信心があるとか、無いとか、そんなことは関係ない。
すでに阿弥陀仏の救いは完成しているのだから・・。
だから、お前はそんなことを気にせず、阿弥陀仏によって救われていることを、皆に自信を持って伝え、念仏を勧めれば良いのじゃ。・・一遍、自信を持って[念仏札]を配れ!」と告げられ、やがて消えてゆかれました。
(一遍)「そうだ、そうなのだ!・・私は自分がお札を配ることによって、人を救うつもりでいた。
違うんだ!
すでに、阿弥陀様は永久の昔より、我々を救ってくださっているのだっ。
そのことに(皆に)気づいてもらうだけで良い。
その為に、私はただお念仏のお札を配る。・・それだけで良いのだ。
・・ああっ、楽になった。」と、一遍さまは今ここに、大きな悟り(気づき)を得たのでした。
つづく
今年のお盆のこと・・
現在、『一遍上人』の紙芝居を(長期)連載中のため、個人的なこと(日記)を、まったく書いていない。
で、今回はちょっと閑話休題ということで、今年のお盆でのことを少し書いてみたい。
相変わらず、今年も[お盆]は忙しかった。
七日には、富田林の専念寺さま、そして十五日には、太子町の光福寺さまの[盂蘭盆法要]へ、紙芝居法話に行かせて頂き、その間、九日には例年の村のお墓参りがあり、それが終われば、檀家さん(全宅)へのお盆参りが続いた。
今年は、非常な暑さのため、その対策には万全を期して対処したつもりなのだが、それでもやはり体力は消耗した。
また、お盆の終わり頃には、ある檀家さんのお葬式も入ったため(あっちこっちへ)分刻みで、車と自転車で走り回ることにもなった。
・・でも、なんとか、無事に怪我なくトラブルなく、今年も無事に乗り切りました。
さて、来年はどうなることか?それはその時、考えましょう。
まずは(今年のお盆は)、めでたし、めでたし・・でした。
紙芝居:「捨聖 一遍上人」(その4)

(一遍)「さぁさぁ、皆の衆、この[南無阿弥陀仏]と書かれたお札をお受け取り下され!
そうすれば、必ずや極楽へ往生することができますぞ!」
と、一遍上人親子は四国を離れて、摂津の国(四天王寺)などを巡り、『念仏札』を配って歩き続けました。(これを『賦算(ふさん)』という)
この当時、『お念仏』が書かれた[お札]を手渡して、その代わりに、わずかなお布施を頂いて、旅を続けることができたのです。
そして、やがて一行は、和歌山県の熊野へと差し掛かった時・・、
山道を下って来る[修験者]の一行と出遭います。
(一遍)「このお札をお受け取り下され。そして、信心を起こして阿弥陀仏の名を称えて下され。必ずや、極楽往生できますぞ」と、一遍さまが言うと、
(修験者)「わしは要らん」と、修験者の代表は答えました。
そしてさらに、
(修験者)「わしに信心を起こせと言われても、わしにはその[阿弥陀仏]を信じる気持ちには(まだ)成れん。・・・だから、極楽へは往生したいが、その札を受け取ったら、わしは自分に嘘をついたことになる。
だから、要らん!」と、続けました。
これを聞いて焦った一遍さまは、「まぁ、そう言わずに、とにかく受け取って下され!!」と、強引にお札をその修験者に手渡し、その場を去りました。
(一遍)「なんと、なんと、後味の悪いこと・・。私は信心が起こらないという人に、強引に[阿弥陀仏]のお札を押し付けてしまった。・・私のやってることは、とんでもない間違いなのではなかろうか??」と、一遍さまは悩みました。(どうする、一遍!?)
(実際の念仏札の大きさは、縦7・5センチ、横2センチ、ということだ。書かれてある文字は『南無阿弥陀仏 念仏往生 六十万人』。一遍上人は、六十万人の人にこのお札を配ろうとしたのだ。・・実際に作ってみたら、本当に小さい!・・でも当時、紙はとても貴重なものだったのだろう。・・ちなみに横は、僕のスマホ。)
つづく
