住職のつぼやき[管理用]

記事一覧

※画像をクリックすると拡大されます。

竹内(タケノウチ)街道「灯路祭り」予告

ファイル 764-1.jpg
「竹内街道」というのは、日本最古と伝えられている街道です。
 かの有名な「聖徳太子」も通っておられたという道です。
 この街道は、大阪府南河内郡太子町にあります。
 今年の秋の夕暮れから夜に掛けて、第三回「竹内街道 灯路祭り」が、こちらの街道沿いで行われます。
 石畳の趣きある街道を、たくさんの灯籠で浮かび上がらせ、古民家でコンサートを行ったり、又、軒下ギャラリーなどのイベントを実施する幻想的なお祭りです。
ファイル 764-2.jpg
 そのお祭りのイベントの一つとして、私は「仏教紙芝居」を披露させて頂きます。 
 私の出番は、午後6時15分から7時までで、街道沿いにある『松井様邸』で演じさせていただきます。
 どうぞ皆様、『再発見と地域の魅力づくり』をテーマとした、この風情あるお祭りにおいで下さい。お待ち申しております。 合掌

 日時: 10月15日(土)午後3時~9時(5時点灯)
 場所: 太子町春日西交差~道の駅「近つ飛鳥の里・太子」

 尚、お問い合わせ先は、『竹内街道にぎわいづくり協議会事務局』 電話(0721)98-5521 まで
 

生福寺さまへの出前

 忙しかった〔お彼岸ウィーク〕が終ろうとしている。
 激務であった為、もう一週間もこのブログを書いていない。
 書きたいことが溜まっているので、大急ぎで書いてゆきたい。(この頃、何でもすぐ忘れてゆくのです。)
ファイル 763-1.jpg
 24日は、泉大津市にある浄土宗「生福寺」さまの『彼岸法要』にお話に行かせてもらった。
 大きなお寺で、どこからお寺に入ったら良いのか?迷った。
ファイル 763-2.jpg
 こちらのお寺さんとは、『NPO法人 泉州てらこや』を通じての御法縁である。(こちらの住職さんが代表なのである)
 たいていのお寺の法要は、まず読経があって、その後『法話』という流れなのだが、こちらは逆で、まず『法話』があって、その後読経なのだそうだ。
 なぜかというと、檀家の皆様、『読経大好き主目的』信者さんが多いらしく、読経が終ったらすぐ帰ってしまわれる方が多い為、『法要の流れ』を逆にされたらしい。 
ファイル 763-3.jpg
 まぁ、それで、僕が先に『紙芝居法話』をさせてもらい、その後、住職さんが読経を始められた。
 僕もその読経に参加させていただければ良かったのだが、実はこの日の晩に、自分の寺も『彼岸法要』があった為、すぐに片付けて失礼させて頂くことにした。
 おもしろかったのは、こちらの住職の若奥さんで、片付けながら、『住職さんとの馴れ初め』についての話をいろいろと聞かせてもらったことだ。
 お付き合いを始めた当初は、旦那さんは、お寺の住職である事を隠していたらしく、奥さんは『生福寺』というのは、老舗のお菓子屋さんだと思っていたらしい。(もの凄い勘違いである。・・でも、言われてみたらそんな感じの体格の住職さんである。〔笑い〕)
 そして、いつの間にか、結婚する事になり、お寺と言う事が解り、「えっ~~!」と驚いたらしいのだが、後のまつりだったそうだ。(漫画みたいな話や・・)
 まぁ、でも今は幸せに生活されているので、悔いはないと言う事だ。
 まじめで優しそうで、お菓子を作っているような福よかな布袋様のようなご住職に、さっぱりとした明るい面白い奥様。 どうぞ、お幸せに。
 その内、でかいお寺のなので「生菓子屋」も境内で初めはったらどうでっか?!浄土宗ゆえに、儲かり末世、いや、まっせ。(笑)

「認知症サポーター」になりました

 おととい、わが町「河南町」で、『(認知症)サポーター養成講座』があり、それを受講して『認知症サポーター』になりました。
ファイル 762-1.jpg
 この『認知症サポーター』とは・・、
 厚生労働省が平成17年から「認知症を知り地域をつくる10ヵ年」キャンペーンと称し実施しているもので、何か特別なことをする人ではなくて、認知症という病気を正しく理解し、偏見をもたず、認知症の人や家族を温かく見守る応援者として、自分でできる範囲で活動する者のことをいいます。
 僕も以前より、この「サポーター講座」を受けて欲しいと、知り合いから言われていたのですが、なかなか時間が合わなくて取れなかったのです。 
 この程、ようやく「サポーター」になりました。
ファイル 762-2.jpg
 この講座を受けた者は、その証として(写真)の〔オレンジリング〕を頂きます。
 このリングは「認知症の人を支援してます」という意志を示す目印なのだそうです。
 「宮本さんも、どこに行くにもこの〔オレンジリング〕を身に付けていて下さいね」と云われたが、『これを腕に付けてお参りはできんぞ~』と心の中で思ったのでした。
 でも、せっかく『認知症サポーター』になったのだから、できるだけ身に付けておくとしよう・・か。

築港地域在宅サービスステーション「敬老祝賀会」への出前

ファイル 761-1.jpg
「敬老の日」も近いという事で、今日、大阪市港区にある(『海遊館』近くの)築港地域在宅サービスステーションへ『紙芝居法話』の出前に行って来た。
 そう、今日はこちらで『敬老祝賀会』があり、その余興として「(テレビ『よーいドン』でやったような何か楽しい『紙芝居』をせよ」と、)呼んで頂いたのだ。
ファイル 761-2.jpg
 連休午後の良いお天気とあって、道路は、『海遊館』目当ての家族連れの車で一杯だった。(渋滞で遅刻するかと思ったで・・。)
 でも何とか間に合って、会場に到着。
 皆さん、まだ『祝賀弁当』を食べてはったような・・。
 それで皆さん、お腹一杯で寝てしまわんように、(体操とか入れて)工夫しながら「紙芝居」を二本させてもらった。
 寝てた人は・・・、居らんかった・・ような・・気がする・・かのような・・感じであった。・・かのような。(笑い)

親鸞聖人750回大遠忌法要バス旅行

ファイル 760-1.jpg
 昨日、ご門徒さん達と一緒に『親鸞聖人750回大遠忌法要』参拝バスツアーに、西本願寺まで参って来た。
 午前九時に、京都の西本願寺に到着。
ファイル 760-2.jpg
 そして、御影堂に入る。
 すでに、全国から三千人近くのご門徒の皆さんが、着座されていた。(この法要を(期間限定ながら)今年は連日行われているのだから、本願寺職員さん達もたいへんだろう・・。)
 僕達、観念寺参拝団も(迷子の方を出さず〔笑〕)無事にお参りさせて頂き、その後〔記念撮影〕をして、予約していた料理店で昼食を取る。
ファイル 760-3.jpg
 問題はその後で、この日台風15号接近の為、オプションとして予約していた『保津川船下り』をどうするか?悩んだ。
 今年にあった〔遊覧船の事故〕も頭をよぎり、総代さん、旅行社の添乗員さんと時間ギリギリまで話し合い、最後は『水かさが高くなく、雨風もまばらであるから大丈夫』と〔保津川遊船企業組合〕から(添乗員さんを通して)電話連絡があり、決行した。(実はキャンセルするかどうか、ほんま胃が痛んだ)
ファイル 760-4.jpg
 しかし、乗船したら、波はおだやかで、実にのんびりゆったりとした船旅を楽しむことができた。(総代さんと「良かったなぁ」と胸を撫で下ろしました)
 亀岡市から約一時間半の船旅は、(雨にも遭わず)ほんま楽ちんで、救命具は暑かったけど、のんびり遊ばせていただいた。
ファイル 760-5.jpg
 船の中から嵐山の渡月橋が見えた時、「何も無くて良かった」と(引率責任者として)ほっとしたのを覚えている。
 ・・最後、(余談であるが)嵐山の町を散策していた時、「キャー!」という声が上がって、びっくりして横を見たら、芸能人の「楽しんご」さんが、テレビか何かの撮影の為、人力車の乗って通り過ぎていったのを見て驚いた。(メガネかけてたから、教えてもらわんかったら誰か解らんかったで。)
 最後にエエもん?見せてもろて良かった、良かった。
 

NHK「おはよう日本」と「ニューステラス関西」

 先月の8月30日と、本日9月14日の二回に渡って、僕の活動がNHKニュースで放送された。
ファイル 759-1.jpg(「おはよう日本」)
 ひとつは、放送時間は大変早いが(午前4時半)、全国放送となった『おはよう日本』。
ファイル 759-2.jpg
 そして、もう一つが関西だけの放送であるが、夕方のゴールデンタイム(午後6時過ぎ)に放送された『ニューステラス関西』。
ファイル 759-3.jpg(「ニューステラス関西」)
ファイル 759-4.jpg
 この二つの特集は、どちらとも同じ内容であるが、『おはよう日本』の方が、ちょっと短い特集になっている。
 
 もちろん、僕は午前4時半スタートの『おはよう日本』を《生放送》で見た・・というのは嘘で、録画しておいて午前7時頃見た。(笑い)

 さて、どちらも同じ内容なのだが、見る時間帯によって(朝と夕方で)ちょっと違う雰囲気に感じたのが不思議だった。(朝に見た『おはよう日本』は、気持ちがピッと引き締まり『防災意識をしっかり持たねば』と感じた。
 そして、夕方に見た『テラス関西』の方は、ゆったりとした
気分で『いろいろと日頃の自分自身を振り返りながら』見れた・・ように感じた)
 同じニュースでも、時間帯によって雰囲気が少し変わるのだと思った、(そんな感想を持った)二つのニュース番組だった。
 全国版と関西版、二回も放送して下さって「NHKさんありがとう。」 合掌

今年の『紙芝居創作合宿』と、『宣光寺』さまの〔定例法座〕への出前

ファイル 758-1.jpg(Dr・南氏)
 おとといから開始していた、今年の観念寺『紙芝居創作合宿』が昨日のお昼で無事終了した。
 今回は、阪大医学生たちがキャンセルされた為、〔南吉一〕在宅ホスピス医と二人だけの創作合宿となる。
 わずか二日間で、一本の紙芝居を完成させてしまおうという試みのこの合宿も、どうにか今年も(無事に)完了できたように・・思う。
 題材に悩んでおられた南氏に、今年は「『高齢者数え歌』で作ったら解りやすくて面白いのでは?」と僕が言ったら、「それ、頂きましょう!」とすぐに決まった。
 それで、さっそく『一つとせ、・・一人で生きるを独居老人と申します~。今夜も孤独と気楽で、一杯やっか・・』と、いうような感じの絵と文章を考え、十の数え歌紙芝居を完成させた。
 これを、今、勤務医としてお勤めの『介護老人福祉施設』で、皆に披露されるということだ。(どうなることやら?〔笑い〕)
ファイル 758-2.jpg

 そして合宿が終り、お昼からは、大阪天王寺にある『宣光寺』さまの「定例法座」に紙芝居法話の出前に行って来た。
ファイル 758-3.jpg(近代的建築の宣光寺さま)
 日曜の午後ということもあり、今日はたくさんのご門徒さんがお参りなさっておられた。
ファイル 758-4.jpg 
 こちらでも、今一番多く演じさせて頂いている「稲むらの火」と「大阪に津波が来た日」という紙芝居をさせてもらった。
 『今、被災地から遠く離れたこの大阪で、我々はどのような気持ちで支援をすれば良いのか?その答えのヒントを頂けたような気がしました、とか・・又、大阪に住む我々も、天災に対して備えねばならないと思いました』とか、そのような感想を頂いた。
 「ああ、この紙芝居をやって良かった」と、そんな事を思った(僕にとって)有り難い御法縁であった。

『紙芝居屋亭~』のハンコ完成!

ファイル 757-1.jpg
 このブログに、よくコメントを書いて下さる『仏像はんこ』の女将(オカミ)〔愛子〕さんから、『紙芝居屋亭』のオリジナルハンコが届いた。
 忙しいのに、作ってくださったのだ。・・感謝、感謝!
 ・・で、これをどんな処に使おうかと、今(あっちこっち押して遊びながら)考えている。(笑い)
ファイル 757-2.jpg
 ・・で、今、思いついたのが、『紙芝居』を見に来て下さった方に、この〔写真〕のように〔のし〕にこのハンコを押して、プレゼントする方法である。
 結構、インパクトがありそうだ。・・まあ、これから色々と活用させて頂くとするか。 
 愛子さん、ありがとう!

 愛子さんのホームページはココ
 http://ameblo.jp/butuhan/entry-11012232547.html

宮澤賢治の故郷:『花巻』へ (後編)

『雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ・・』で始まる有名な宮澤賢治の詩は、東日本大震災の後、マスコミを通して、日本全体、電波に流れた。
ファイル 756-1.jpg(賢治の手帳〔復刻版〕買いました)
 それほどこの詩は、人を癒し元気にする効果があると、皆が感じられたからに違いない。
 余談になるが、実はこの詩には、実際モデルになる人があった?と言われている。今回とは主旨が違うので長々と書かないが、賢治には、同郷〔花巻〕の知り合いで、熱心なクリスチャンであった『斉藤宗次郎』という友人がいて、彼がこの詩のモデルだと云われているのだ。斉藤宗次郎は(ある意味)壮絶な生き方をして、賢治は(宗教は違うが)彼を大変尊敬し、『ソウイウモノ二 ワタシハナリタイ』と心から思い、この詩を(病状悪化の中)書いたと言われているのだ。(もっと詳しく知りたい方は『斉藤宗次郎』でウィキペディアで引かれると出るので参考に。とにかく凄い人です!)
ファイル 756-2.jpg(宮澤賢治記念館)
 さて、僕は今回(短い時間の中)、できるだけ宮澤賢治のことを調べてみたいと思ったので、『宮澤賢治記念館』に向かった。
 そして館内を見学し、先ほどの『賢治の手帳』の現物が見たいと思い、学芸員さんに聞いたのだが、実物は現在『宮澤家』が大切に保管しているために、ここではレプリカ(複製)しか見れないと云われた。
 僕は、そこをもうちょっと食い下がって、では、その『手帳』には、他に何が書かれてあるのかをしつこく聞いた。
 熱心な奴だと思われたのか、それともヘキヘキされたのか、「それでは、中身もそのままの〔復刻版〕を買われませんか?」と聞かれたので、値段はちょっと高かったが(二千五百円)で、その復刻版を買った。
 これも余談になるので、細かく書かないが、とにかくこの手帳の中身は、落書きのようにいろんな事が書きなぐってあり、やたら『南無妙法連華経』という文字がよく出てきて、賢治の信仰の篤さがよく解る。この他、例の『雨ニモ・・』の詩の後のページに『凡ソ 栄誉ノアルトコロ 必ズ 苦禍ノ因アリト 知レ』と書かれてあって、これも又、賢治が自分自身に言い聞かせていた言葉なのだと興味深く思った。 余談終り・・。
ファイル 756-3.jpg
 その後、賢治が愛用していた『チェロ』を見たり(あまりうまくなかったらしい)、実際の原稿やお経の本なども見学した。
ファイル 756-4.jpg(レストラン『注文の多い料理店』)
 その後、記念館前に建つレストラン『注文の多い料理店〔山猫軒〕』で、ミルクを飲んで一休みした。(この『注文の多い料理店』の話は以前、紙芝居にしたことがある。)
ファイル 756-5.jpg(レストラン入り口)
 僕はこの『注文の多い料理店』の話は、前々から不思議に思っていたことがあり、こんな機会は二度とないだろうと、又、学芸員さんを摑まえて聞いた。
 それは、このブラックな童話は、賢治の信仰心がピークに達している、その若き晩年の頃に書かれたお話なのだが、この話は一向に宗教臭くない。『それはなぜか?』を聞いてみたかったのだ。 
 聞いてみると、学芸員副部長さんが出て来られ、次のように語って下さった。
「・・この『注文・・』の童話は、正に賢治の寿命が尽きようとしている頃に書かれたお話で、その信仰心も(賢治自体が生き仏のようになっていて)正にピークになっています。しかし、私も不思議に思うのですが、この頃の童話はあまり説教臭くないのです。神とか仏とかが姿を消して、『すべてを(善いも悪いもずるいも)ありのままに受け入れて、ただ生きぬく』という心境になっているのですね。・・それはなぜかは、私もわからないのです」と云われた。
 その言葉を聞いて、僕はなぜ、宮澤賢治が好きなのかが解ったような気がした。
 賢治は、(その若き晩年に)一つの宗教宗派(イデオロギー)の思想の枠を超越してしまったのではないかと思うのだ。そして行き着いた先にあったのは、(努力はするが、又泣いたり、喚いたりするが、)自然をそのままに受け入れるという心境になっていたのだはなかろうか?・・そう思うのだ。
 宮澤賢治が今、この東日本大震災に遭遇したらどうするか?
 おそらく、おろおろ、うろたえ、泣きながらも、細々とボランティア活動を続けるのではなかろうか?
 そんな事を思いながら、僕も『ソウイウモノ二 ワタシ(モ) ナリタイ』と思って、東北を後にした。  おしまい

宮澤賢治の故郷:『花巻』へ (前編)

 『世界がぜんたい幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない』(宮澤賢治著「農民芸術概論綱要」より)

 ・・台風12号が、近畿地方を中心に被害を出し襲った。
 今日現在(9月7日)で、百名以上の死者・行方不明者を出している。亡くなられた方、行方不明の方、又、被災地の方々は本当にお気の毒なことである。 一刻も速い復旧を望みます。又、協力できることは、微力ながら何でも協力させて頂きたいと思っています。(今できることを模索中) 合掌
 さて、東北被災地と宮澤賢治の故郷の事を中心に書こうと思っていたのだが、又、このような天災が起こってしまったので、賢治氏の(上記)の言葉から始めた。説明は要らない。正に賢治氏のいう通りだと思う。
ファイル 755-1.jpg(新花巻駅)
 東北ボランティアの帰り、急遽時間を作って、宮澤賢治の故郷、岩手県「花巻」まで向かったことは、前回述べた。
 JR「新花巻」駅に着き、案内所で行く所を定め、(時間がなかったので)すべてタクシーを使って回ることにした。
 まず、行きたかったところは、賢治が農業学校の教師を止め、お百姓さんの真似事をしながら、一人自給自足の暮らしを始めた家が、(『羅須(らす)地人協会』といったそうだ)現・花巻農業高校の内に残っているというのを聞いたので、そこに向かった。
 その『現・賢治先生の家』と呼ばれている邸宅は、今も自由に出入りできた。  
ファイル 755-2.jpg(花巻農業高校敷地内『賢治先生の家』)
 写真で有名なこの宮沢賢治の像の姿は、賢治が尊敬したベートーベンの姿を真似して写してもらったらしい。(あの写真、気分はベートーベンだったのだ!)
 その奥に邸宅がある。
ファイル 755-3.jpg
 有名な『下ノ畑二居リマス』というこの黒板は、今も大切に保管されていて、消え欠けたら、農業学校の生徒たちが上から描くらしい。
 又、これは地元の方から聞いた裏話なのだが、この『下ノ畑』というのは、賢治の土地では無くて、無断で借用して使っていたらしい。(それが、ちょっと問題になったとの事だ。・・歴史に埋もれたエピソードである)
ファイル 755-4.jpg
 そしてこの家の中で、賢治は小説を書いたり、生徒たちを集めて勉強会をしたり、チェロを弾いたりしていたらしい。(『セロ弾きゴーシュ』のヒントとなる)又、今もオルガンも残っている。
ファイル 755-5.jpg
又、『風の又三郎』に描かれたマントも展示されていた。(これも賢治が、寒さで苦しむ貧しい生徒の為に、このマントをプレゼントした事が、作品のヒントになっていったらしい)
 又、先の『農業芸術概論綱領』もこの家の中で書かれた。

 宮澤賢治は、熱心な仏教徒であった。 
 だから、どうすれば、人は皆幸せに生きる事ができるのか(仏さまのようになれるのか?!)を考え続けた人であった。
 おそらく、この家の中で賢治は、一生懸命その事を考え続けたに違いない。 
 ただ、理想を追求しすぎて、身体を壊し37才の若さで亡くなってしまった。
 僕は、『今こそ、あなたのような人が必要とされています』と呟いて、この地を後にした。 つづく 

上に戻る