三月四日、僕は天王寺区にある「クレオ大阪」ホールに、紙芝居を持って行った。
会場は、約800人で満席。
そして、午後3時から4時までの1時間が、僕の持ち時間。
この日は、やけに喉が乾き、スポットライトが明るく感じていたのを覚えている。
そして講演が始まり、30分が経ち、この日2本目の紙芝居に移り、なんだか今日は舌が滑らかじゃないなあと感じていた。(案の定、ドクターによるとこの時刻に脳内出血は始まっていたそうだ。又、後で聞くと、会場でも言葉が分かりにくかったそうだ。)
つづく
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それは、突然にやって来た...(その三)
それは、突然にやって来た...(その二)
...そう、それは何の前兆もなく、突然にやって来た。
その日は、三月四日だったのだが、時間を少し、巻き戻さねばならない。
丁度その前日(三月三日)に、一本の電話が入った。
「明日、クレオ大阪でやる.仏教婦人会の講師さんが、インフルエンザで倒れてしまったんです。急な話ですが、宮本さん.何とかなりませんか?」と。
僕は.「何とかしましょう!」と、調子に乗って言ってしまった。
だが、後から考えると、これが生死を分けた、不思議な仏さまからの、三つの奇跡の始まりだったのだ。
そう、その一つ目が、仏さまからの突然の講師依頼だったのである。
つづく
それは、突然にやって来た...(その一)
皆様、ご心配掛けております。
今はまだリハビリ病棟におります。
脳のリハビリとは、これほどしんどいものとは、しりませんでした。
いうなれば、毎日、算数.社会.国語、パズルなどの学校の試験をできるまで、居残りでやらされているようなものです。
しかし、身体はなんともなかったので、良かったかもしれません。
しょうがないです。脳内出血で一部の脳の機能が停止し.それをリハビリで新しい回線を作りあげようというのですから。
では、なぜ僕がこのようになったのかを、お話することにしましょう。
始まり、はじまり
つづく
リハビリ病棟に、入りました。
ご心配をお掛けしてます。
現在、リハビリ病棟に移りました。
特訓が、始まっています。
頑張ります。
二つの大きな法要への出講予定

今月、他府県への大きな「お寺の出前」が二つ、控えている。
一つ目が、九州の佐賀県への出前。
『親鸞聖人 巡番報恩講』という名の浄土真宗(西)本願寺派正連寺さまの五日間に渡るお寺の大法要である。
この法要の僕の出番は、23・24日の両日。23日が子供たちへの仏教紙芝居法話。そして24日が、大人の方への真宗紙芝居法話となる。
この法要は遠方の為、前日からの出発となる。
そして二つ目が、岐阜県への出前。
こちらは、『親鸞聖人750回御遠忌法要』という、浄土真宗(東)大谷派浄誓寺さまの七日間に渡る大法要である。
こちらの法要は、連日講師が変わり、僕の出番は三日目となる。
今から、わくわくしている、二つの遠方へのお寺の出前。
思いっきり、関西弁丸出しでしゃべってきたいと思っている。
妙好人「大和の清九郎」という人

(奈良県吉野郡大淀町鉾立[ホコタテ]清九郎さんのお墓にて)
今、『妙好人 大和の清九郎』という紙芝居の制作に入っている。
僕は、(宗派にこだわらず)信念を持って清らかに生きようとする人が好きだ。(おそらく自分が穢いからでしょう・・) で、そんな人の人生を『紙芝居』にしたいといつも思っている。(描いて元気をもらっているのです。)
『大和の清九郎』さんも、そんなお一人なのである。
幼い頃は親孝行であった清九郎さんが、読み書きが出来ない為、丁稚奉公先でいじめられ落ち込み愚れる。
そして博打・盗みなどの非行を繰り返し、人間的にトコトン落ちていった清九郎さんだが、やがて篤信の女性と結婚し一人娘に恵まれるが、その奥さんは苦労の連続で亡くなり、そこではじめて改心。 やがて仏の清九郎と呼ばれるようになってゆく。
・・いかにも、ドラマチックな人生ではないか⁉(でも、家族や回り人は大変やったやろうなぁ・・)
(高取町・因光寺様)
先日、清九郎さんの事を調べに、今も山深い鉾立村の中にある墓所や、所縁の地(清九郎さんの像が境内に建つ)「因光寺」様、(幼い丁稚時代に通ったという)「願行寺」様などにお参りに行って来た。
(下市町・願行寺様)
「そうか。清九郎さん一家はこんな山の中で暮らしていたのか。」と、今も残る墓所横の鉾立の屋敷跡などを見ながら、僕は少し清九郎の息吹きを感じたような気がした。
これは、長い紙芝居になりそうだ。(前・後編)の大作になるような気がする。
テレビでしゃべってる住職と、電話でしゃべっている私
今日、(僕がちょっとだけ出演した)NHKテレビの旅情報番組『ええトコ』が再放送された。
再放送のことは、事前にデレクターからのお電話を頂いていたので知っていた。
が、放送中に急用が出来た為、一度テレビを切って、用事をしていたら、ある檀家のお婆ちゃんから電話が入った。
ちょっとした興奮状態のそのお婆ちゃん。
「もしもし、住職さんですか?・・今、住職さんががテレビに出てはりますで!・・テレビつけてますか?」
僕「・・いえ、テレビに出るのは知ってますが、今ちょっと用事で・・」
お婆ちゃん「そんなことより、早よ、テレビつけなはれ。あんたさんが、今、しゃべってはるんでっせ。・・私、偶然テレビつけたら、住職さんが出てるんでびっくりして、今電話してますねんで。・・ほら、しゃべってる、しゃべってる。早よ、つけなはれ!」
僕「・・はっはい。今スイッチを付けました。・・はい、僕がしゃべってます。・・ありがとうございます。」
お婆ちゃん「テレビでしゃべってる住職さんと、今電話で喋ってるわ。・・何か、ものごっつい不思議でんねえ。へんな感じ。・・ほな、私テレビ見たいから、電話切りますね。さいなら。」 ガチャ!
お婆ちゃん、お知らせ、わざわざ有難うござました。合掌
紙芝居:「石山合戦始末記」(その5 最終回)

激動の時代を生き抜かれた『本願寺』第十一代[顕如]上人でしたが、京都に移られた翌年、文禄元年(1592)行年50歳で示寂。・・お亡くなりになります。
そして、第十二代御門主には、長男の[教如]上人が就任されました。
が、まもなくして天下人[豊臣秀吉]から、教如上人に呼び出しがありました。
秀吉公は、「教如さんよ~。おみゃーさま、本願寺の第十二代御門主の地位をすぐに退任せりゃ~。そして、弟の[准如(じゅんにょ)]上人にその地位を譲りゃーも。
こりゃなぁも、あんたの父の顕如上人の意志でもあるだがねぇ。・・ちゃんと、顕如上人の直筆の(准如上人への門主の地位の)『譲り状』がここにあるんだで。・・あんたの親族から、この秀吉の手元に届けられたんだがねぇ。つべこべ言ってんと、退任せりゃー。」と言われました。
教如上人はまさに寝耳に水。びっくりしました。
しかし、天下人の命令です。・・その命令は絶対でした。
こうして、弟の[准如]上人が、正式な十二代御門主に成られたのです。
教如上人は「・・おかしい。お父上の直筆の『譲り状』だと。私は、父上からそんな事一度も聞いてないぞ。・・又なぜ、そんなものがあるならば、父上が亡くなられた時、すぐにそれを出されなかったのだ。これは誰かの陰謀かもしれん。偽の『譲り状』なのかも。・・いや、もしかすると、父上は一度対立した私を、ずっと信用していなかったのかも・・?」と、悩みに悩みました。
そんな姿をじっと見ていたのが、徳川家康でした。
天下人秀吉が亡くなり、関ヶ原の合戦が起こり、その戦に勝利し、事実上の天下人となった徳川家康は、或る日、[教如]上人を呼び出しました。
家康は「教如さんよー、この家康が天下を盗ったからには、何と言ってもおみゃ~さんを(又名古屋弁や)、本願寺のご門主の地位に戻してやりたいが、大阪城にはまだ秀吉の息子の秀頼がおるでぇ。・・そんで今、おみゃ~さんたちの本願寺後継ぎ騒ぎに、わしが介入したら、又、どえりゃあ騒ぎになって、大戦がおこるかもしれんでねぇ。
・・それで、わしはエエことを思いついたんだわー。
今の本願寺の横に、もう一つ別の[本願寺]を作るっちゅうのはいかんかねぇ。わしが許可だしたるでぇ。そうせりゃー。決めてちょう。」と言いました。
これは、本願寺の巨大な力を分裂させようという、家康の政治的もくろみであったと思われますが、家康と仲の良かった[教如]上人は、これを受けられました。
こうして、弟[准如]上人が後を継いだ、通称(西)本願寺と、兄[教如]上人から始まった通称(東)本願寺に別れ、江戸・明治・大正・昭和を経て、平成の今にまで至っているというわけなのです。 おしまい
ちょっとだけ、あとがきに変えて余談を。
この東西本願寺を分けた[顕如]上人の『譲り状』は、はたして本物だったのだろうか?
それは今も、なぞのままなのである。
今月の初め、上の写真の[中外日報]という宗教新聞に載っていた記事から読むと、『譲り状』の筆跡鑑定からみると、これはまさしく[顕如]上人の直筆であると発表された。
もう一度いう。・・昔に解ったことでない。これは平成26年2月の今に発表された事なのである。
でもまだ、なぜ?が残る。なぜ、教如上人が御門主を継がれる前に、この『譲り状』を直接、教如上人に見せなかったのか?
そして、その手紙がなぜ、直接秀吉の手元に渡ったのか?
・・はっきり言って、この『譲り状』の真偽は(じっちゃんの名にかけても)まだ解らないのだ。
・・しかし、本願寺が分裂したのは、歴史の事実。
僕の結論。「もう、どっちでもええやん。・・西と東に仰山、お念仏を称える場が増えたんやから、エエとしょうや!」
ほんまに、おしまいだぎゃーも。
