そして、カンナ屑に詩を書いた日の晩は、それを必ずノート清書しました。
才市さんは、詩を作っている時の気持ちをこのように表わしています。
「こんな才市は、書くことやめりゃあええだ。
いいや、こがあな楽しみはありません。
やめりゃしません、死ぬるまでやめしません。
法を楽しみ書くもんであります。
誠にゆかいな楽しみであります。
名号のなせる楽しみ。
ナムアミダブツであります。」
やがて、この清書されたノートは、百冊を越えるようになり、それをご縁あるお寺の人々によって、世間に発表されました。
そして、いつしか才市さんは、『生きる妙好人 浅原才市』として、有名になっていったのでした。
つづく
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紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その7)
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その6)

その後、才市さんは、55歳で故郷の島根県温泉津(ゆのつ)に帰って来て、下駄やさんを始めます。
元々、船大工の才市さんでしたので、下駄を作るのは、た易い事だったのかもしれません。
(余談ながら、僕は才市さんが作った実物の下駄を見た事がある。思ったよりも小さいものであった。)
才市さんは、仕入れきた桐の木にカンナを入れて、一つ一つ丁寧に下駄を作り上げていきました。
カンナを動かすと、フワフワとカンナ屑が舞い上がります。
この作業中、才市はいつしか、心の中で阿弥陀仏さまと信心の会話をするようになっていきました。(これを『口あい』といいます)
そして、その会話が詩へと変わり、思いつくままにカンナ屑にその詩を書き写していったのでした。 
それでは、それらの詩のいくつかをご紹介しましょう。
『ナムは私で、アミダは親で、これが親子のナムアミダブツ』。
『ブツブツと、仏を喜ぶブツブツと、ナムアミダブツが仏のブツブツ』。
『ナムアミダブツが耳にいい、こころに受けるナムアミダブツ』。
『風邪をひくと咳が出る。才市がご法義の風邪をひいた。念仏の咳が出る、出る』。
『あなたの心と、私の心。こころコロコロ、くいあいでナムアミダブツの子が出来た。出来たこの子に助けられ、ご恩うれしやナムアミダブツ、ナムアミダブツ』。
このようなカンナ屑に書かれていった詩は、いつしか九千首(一説では一万首?)を超えるようになっていったのでした。
つづく
快気祝い
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その5)
それは、才市さんの幼い頃、母と離婚し、僧侶となって一人暮らしをしていた父(83歳)が、病いに倒れてしまった時でした。
『父、臥せる!』の知らせを、妻からの手紙で知った才市さんは、急いで九州から帰って来ます。
そして父を自宅に引き取り、子供の時の怨みは忘れて、看病することにしたのでした。
その父の病いが重くなり、父は枕元から才市さんに向かって、小さい声で遺言を言いました。
「わしが遺言、南無阿弥陀仏」と。
そして、静かに亡くなりました。
この父の遺言は、才市さんの信心をさらに深めてゆくのでした。
その時の気持ちを、次のような詩で表わしています。
『相承(そうじょう)の知識、命日。
親の遺言、南無阿弥陀仏の御命日。
ご恩うれしや、南無阿弥陀仏。』
(相承とは、弟子が師匠から法を受け伝えられるという意味)
つづく
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その4)
結局のところ、才市さんの九州への出稼ぎは、25年間続きます。
才市さんの30歳から55歳までです。
もちろん、その間、妻子の待つ島根県の自宅へは、何度も帰って来ていますが、四半世紀にもおよぶ長い出稼ぎでした。
その間、才市さんは、京都の西本願寺で[帰敬式]=(仏弟子となる儀式)を受けたり、妻にも受けさせたりしています。
これは、出稼ぎ先でも、仏さまを敬っていた才市さんの信心の篤さを物語るエピソードです。
そして、この25年間の間に、父の臨終も看取ることになるのです。
つづく
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その3)
そして、才市さん25歳の時、一つ年下の[セツ]さんと結婚し、一人娘を儲けます。
・・が、しかし、貧乏で生活が苦しい為、才市さんは一人九州へ『船大工の出稼ぎ』に出る決心をします。
そのころの才市さん、唯一の詩です。
『三十一まで、何が偉うなった。
小猿のような知恵ばかり。
小猿のような はからいやめて、南無阿弥陀仏を言うばかり。』
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その2)
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その1)

妙好人というのは・・、
言葉では言い尽くせない程の、すばらしい念仏者のことです。
石見(いわみ)[今の島根県大田市]の『浅原才市(あさはらさいち)』さんも、その一人です。
江戸時代の終わり頃(嘉永三年)、に生まれた才市さんは、初めは[船大工]をし、そののち[下駄職人]として、一生を過ごされました。
才市さんは思い立てば、仕事中でも「かんなくず」などに、仏さまを想った『詩』を書き綴り、それを十八年間続けられました。
その数、九千首とも云われています。
その晩年、町の絵描きさんが、才市さんの肖像画を描いた時、「これは私じゃない。良い顔過ぎる!・・角(つの)を描いておくれ。私は人を憎んだりする浅ましい人間だから・・。」と言った、話が伝わっています。
それでこのように、才市さんの絵には「つの」があるのです。
そんな、才市さんまお話を聞いて頂きましょう。
浅原才市さんの両親は、訳あって、才市さん11歳の時、離婚しました。
母親に引き取られた才市さんでしたが、やがて母親は再婚し、才市さんは一人、船大工の親方の所へ奉公に出されました。
又、父親はその後僧侶となり、一人墓場の隅に小屋を建て、孤独に暮らしました。
幼くして、両親と別れて暮らさねばならなかった寂しさや、そんな両親への恨みの気持ちなどを引きづりながら、才市さんは成長してゆくのでした。
のちに、その時の気持ちをこのような懺悔の詩にしています。
『ゆうも、ゆわんもなく、おやが死ぬればよいとおもいました。
なして、わしがおやは、死なんであろうか、と思いました。
この悪業 大罪人(才市)が、いままで ようこれで、今日まで 大地がさけんとこに、おりましたこと。』 つづく
一日の出来事
リハビリの日々が続いている。
朝のラジオ体操で始まり、それが終われば、本堂で勤行。
塩分の少ない野菜中心の食事を取り、長めの散歩に出て、帰って来たら、腹筋・腕立てなどの筋トレをやる。
その次に、ボイストレーニング。
・・お昼からも、続けれる日はやっている。
夜眠って、朝目覚めて、『昨日、こんなにリハビリをやったから、今日は元気さが戻っているだろう。』と、思いきや、体調はその日によって違う。
良い日もあれば、悪い日もある。
でも、リハビリは続ける事に意義があるのだろう。
紙芝居を描くのと同じ。根気だ。
倒れてから、四か月。
「今年はダメでも、来年は[お寺の出前]を頼みます。」と、来年の予定もすでに聞いている。
頑張って、元に戻れるとこまで、体力を戻すぞ。











