住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「石山合戦始末記」(その5 最終回)

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 激動の時代を生き抜かれた『本願寺』第十一代[顕如]上人でしたが、京都に移られた翌年、文禄元年(1592)行年50歳で示寂。・・お亡くなりになります。
 そして、第十二代御門主には、長男の[教如]上人が就任されました。
 が、まもなくして天下人[豊臣秀吉]から、教如上人に呼び出しがありました。
 秀吉公は、「教如さんよ~。おみゃーさま、本願寺の第十二代御門主の地位をすぐに退任せりゃ~。そして、弟の[准如(じゅんにょ)]上人にその地位を譲りゃーも。
 こりゃなぁも、あんたの父の顕如上人の意志でもあるだがねぇ。・・ちゃんと、顕如上人の直筆の(准如上人への門主の地位の)『譲り状』がここにあるんだで。・・あんたの親族から、この秀吉の手元に届けられたんだがねぇ。つべこべ言ってんと、退任せりゃー。」と言われました。
 教如上人はまさに寝耳に水。びっくりしました。
 しかし、天下人の命令です。・・その命令は絶対でした。
 こうして、弟の[准如]上人が、正式な十二代御門主に成られたのです。

 教如上人は「・・おかしい。お父上の直筆の『譲り状』だと。私は、父上からそんな事一度も聞いてないぞ。・・又なぜ、そんなものがあるならば、父上が亡くなられた時、すぐにそれを出されなかったのだ。これは誰かの陰謀かもしれん。偽の『譲り状』なのかも。・・いや、もしかすると、父上は一度対立した私を、ずっと信用していなかったのかも・・?」と、悩みに悩みました。
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 そんな姿をじっと見ていたのが、徳川家康でした。
 天下人秀吉が亡くなり、関ヶ原の合戦が起こり、その戦に勝利し、事実上の天下人となった徳川家康は、或る日、[教如]上人を呼び出しました。

 家康は「教如さんよー、この家康が天下を盗ったからには、何と言ってもおみゃ~さんを(又名古屋弁や)、本願寺のご門主の地位に戻してやりたいが、大阪城にはまだ秀吉の息子の秀頼がおるでぇ。・・そんで今、おみゃ~さんたちの本願寺後継ぎ騒ぎに、わしが介入したら、又、どえりゃあ騒ぎになって、大戦がおこるかもしれんでねぇ。
・・それで、わしはエエことを思いついたんだわー。
 今の本願寺の横に、もう一つ別の[本願寺]を作るっちゅうのはいかんかねぇ。わしが許可だしたるでぇ。そうせりゃー。決めてちょう。」と言いました。
 これは、本願寺の巨大な力を分裂させようという、家康の政治的もくろみであったと思われますが、家康と仲の良かった[教如]上人は、これを受けられました。
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 こうして、弟[准如]上人が後を継いだ、通称(西)本願寺と、兄[教如]上人から始まった通称(東)本願寺に別れ、江戸・明治・大正・昭和を経て、平成の今にまで至っているというわけなのです。 おしまい
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 ちょっとだけ、あとがきに変えて余談を。
 この東西本願寺を分けた[顕如]上人の『譲り状』は、はたして本物だったのだろうか?
 それは今も、なぞのままなのである。
 今月の初め、上の写真の[中外日報]という宗教新聞に載っていた記事から読むと、『譲り状』の筆跡鑑定からみると、これはまさしく[顕如]上人の直筆であると発表された。
 もう一度いう。・・昔に解ったことでない。これは平成26年2月の今に発表された事なのである。
 でもまだ、なぜ?が残る。なぜ、教如上人が御門主を継がれる前に、この『譲り状』を直接、教如上人に見せなかったのか?
 そして、その手紙がなぜ、直接秀吉の手元に渡ったのか?
 ・・はっきり言って、この『譲り状』の真偽は(じっちゃんの名にかけても)まだ解らないのだ。

 ・・しかし、本願寺が分裂したのは、歴史の事実。
 僕の結論。「もう、どっちでもええやん。・・西と東に仰山、お念仏を称える場が増えたんやから、エエとしょうや!」

 ほんまに、おしまいだぎゃーも。
 

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