住職のつぼやき[管理用]

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奈良教区三山組(さんざんそ)仏教婦人会の来院

 本日、奈良教区三山組(さんざんそ)『仏教婦人会(27カ寺)』の会員の皆様が、(総会も兼ねて)来院下さった。
 大型バス三台、総勢92名の方々が、来て下さったので、うちのちっちゃなお寺に、それだけの人数が入れるかどうか、心配した。
 が、なんとか全員納まって?下さったようだ。(『イモ洗い』いや失礼、『おもちゃの缶詰め』状態。・・後ろの方は、玄関の靴置場に足を投げ出して腰かけ、紙芝居を観てくださったようで、申し訳なかったな・・。ごめんなさい)
 なんせ、これだけの収容人数は初めて・・。
 緊張してしまって、写真を撮るのも忘れてしまった。
 だから、証拠写真は本日ありません。あしからず(笑)。
 

お寺の出前、復活!

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 一年ぶりに、お寺の出前を復活させた。
 出前先は、近所の公民館。
 依頼主は、老人会会長。
 会名は、寛弘寺老人会。
 「村の(80歳以上の)老人会で、何か話をして欲しい」というご依頼だった。
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 僕は「それじゃ、僕が入院中に作った紙芝居をしましょか。そして、脳卒中にならない為に、何に気を付けたら良いかという、お話させていただきましょか。・・そして、もう一本、それにリンクする他の紙芝居も組み合わせて・・」と言ったら、
 会長さんは「それで、頼みます!」と言われた。
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 ということで、会場には地元のボランティアさんも含め、約50名ほどの人数で満員御礼状態の中、楽しくお話させて頂くことが出来た。
 ほぼ、一年振りで、緊張したが地元の方ばかりで、ほのぼのとした中、無事にお話することができた。
 今日は『お寺の出前、復活!』に向け、少し自信がついた日であった。

・・丸一年が経ちました。

 ・・3月4日、この日は僕の人生の中で、大事な日である。
 そう、丁度、昨年のこの日(3月4日)に、僕は病気で倒れたのである。
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(丁度、その時の写真)
 思いおこせば、昨年の今頃(午後3時頃)、僕は大阪市内の天王寺にある『クレオ大阪』で、講演をしていた。
 一時間の講演時間で、ちょうど30~40分が過ぎた頃に、舌が回らなくなって来て、早めに、講演を終えた。
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 そして、控え室に帰った途端、目が回り出し、ふらつきながら、紙芝居を直した。
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 とにかく、カバンに荷物を詰め込んで、帰ろうとしたが、講演料のサインが出来ない。
 右腕が動かないのだ。
 そうしているうちに、講演会の担当職員さんに「ただ事じゃないですよ。救急車を呼びましょう!」と言われた。
 僕は『そんな大層な』と心で言っているのだが、声にはならなかった。(この時、かなりの量の血液が頭の中であふれていたらしい。=脳内出血だった)
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 そのまま、坊さんの法衣姿のまま、そこから2・3分の救急病院に運ばれ、すぐに緊急手術だった。
 4時間ほど掛かったらしいが、発見が早かったた為、手術は成功した。
 後遺症も心配されたが、(病院側に嫌がれる程、夜遅くまでリハビリを繰り返し[笑い])、僕は復活した。
 昨日も、お医者さんに診てもらったが、順調に回復していると言われた。
 体重が3キロほど増えたので(現在61キロ)それには気を付けるようにとのことだった。
 クスリの量も、減らす方向でゆくらしい。
 仕事も開始し、車ももう乗れる。
 講演も、出来る範囲で開始している。(新たな講演ネタ『脳卒中には気を付けろ!』が増えた。(笑い))
 ・・と言っても、家族はまだ心配している。(そりゃそうやな。)
 今までは『依頼された講演は断らない!』だったが、これからは『依頼された講演は、ゆっくりできる範囲で、考えてやる!』にする。
 まずは今日で、1年、生き延びた!
 
 

紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その11)最終回

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 [天台宗]の僧侶でありながら、[浄土宗]の開祖『法然上人』から、「私が亡くなった後は、『お念仏』に関しては、聖覚法印に聞くように。」とまで言われた聖覚様。
 『唯信鈔(ゆいしんしょう)』という、念仏の教えの要を書かれ、弟弟子の親鸞聖人からも、(親鸞聖人はこの書物の解説文『唯信鈔文意(もんい)』を書かれた)尊敬された聖覚様。
 今、聖覚法印さまは、京都市上京区にある浄土真宗『西法寺』さまの境内におまつりされています。 おわり
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(安居院 西方寺さま)

 (あとがき)
 昨年、僕は『聖覚法印』のお墓がある京都の[西方寺]様にお招き頂いた。
 そこで、聖覚さまの肖像画を、ご住職から見せて頂いた。
「なんと、優しいお顔なのか!」と、僕はその時思った。
 もっと、(通天閣にある串カツ屋のおやじのような)厳つい顔を想像していたのである。
 その時、僕の中の聖覚法印のイメージは変わった。そして『この方を紙芝居にしてみたい』と思い、約一年ほど掛けて資料を読み、解り易いように単純化して作った。
 でも、今も『まだ、書き足らない』と思っている。・・反省。
 それと、西法寺の近くに、今も紫式部のお墓が、慎ましくちょこんと建っている。(まるで、聖覚さまに感謝するように・・。)これも、感慨深いものがあって(余計かもしれなかったが)紙芝居の中に導入したが、聖覚様の人間性を描くに当たっては、やはり余計な事であった。・・これも反省。
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 最後に、ちょっと専門的なことになるが、聖覚法印と親鸞聖人と我々僧侶やご門徒の、今も続く関連の話を。
 私たち『浄土真宗』の同朋は、法要の後(必ずと言って良いほど)『恩徳讃(おんどくさん)』という、親鸞聖人が『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』という書物の中で書かれた和讃(歌)を唄う。
 ・・こんな(和讃)歌だ。
『如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳は 身を粉(こ)にしても報ずべし。 師主知識(ししゅちしき)の恩徳も 骨をくだきても謝(しゃ)すべし。』(親鸞聖人作)

 実はこの和讃には、聖覚法印が作った『原文(モデル)=「本尊色紙文」』がある。
『つらつら教授の恩徳を思えば 実に弥陀の悲願に等しき者か。骨を粉にして之を報ずべし。身をくだきて謝すべし』 ・・似てるやん。(ひょっとして、親鸞聖人のパクリ!)ちょっと違うのである。

 拙意訳では・・、
(親鸞聖人=『恩徳讃』)
『阿弥陀如来は「必ずあなたを救う、すべてを私に任せよ」と言われた。このご恩は身を粉にしても、返すことは出来ないほど有り難い教えです。この事を伝えて下さったお釈迦様や高僧の方々も、骨をくだいても返せないほどの有難さがあるのです。この感謝の気持ちを持ちましょう。』=(我々の力では返すことが出来ない、有り難い境地を唄っておられる)
 ・・に対して、
(聖覚法印=『本尊色紙文』)
『阿弥陀如来は「必ずあなたを救う、すべてを私に任せよ」と言われた。このご恩は身を粉にしても、返すことの出来ない有り難い教えなのです。この教えを伝えて下さったお釈迦様や高僧の方々のご恩は、阿弥陀如来と同じぐらい有り難いものです。骨を粉にして、身をくだいてお返ししましょう!』になる。
 よく似ているが、聖覚法印は「このご恩は、何としても(自分で)返しましょう!」と言っている。
 もう一度言うが、それに対して親鸞聖人は、「とても、そのご恩は(こんな私が)返せるものではない!ただただ感謝しましょう!」と言っているのだ。
 このへんが、同じ『他力』の教えながら『浄土宗』(聖覚法印は浄土宗では無いが、)と『浄土真宗』の違いとなっているのだ。
 ・・ちょっと専門的だったが付け加えました。本当におわり。
 

紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その10)

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又、聖覚さまには、こんな伝説があります。
 ある晩、聖覚さまは所用の為、京都から大津の石山寺に向かって歩いていました。
 その途中、[紫式部(むらさきしきぶ)]の亡霊に、呼び止められたのです。

(紫[ムラ]ちゃん) 「申し、もうし、聖覚様。わたくしは『源氏物語』という好色な(どうやら、当時はそんな風に考えられたらしい・・ムフフッ)物語を書いた罪により、地獄へ落ちてしまいました。・・どうか、私を助けてたもれ。」と。

 もうちょっと詳しく言うと、この当時、狂言・戯言などを書いた人間、又、それをを読んだ人達は皆、地獄へ落ちると考えられたのです。

 聖覚様は「わかりました。私が何とかしましょう。」と、(この時は、法然上人に頼まず)答えたのでした。
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 そして聖覚様は、[紫式部]やこの物語に縁のある人々を、供養するために、『源氏表白』という、お経を称える前に唱える[表白文(ひょうびゃくぶん)]を作ったのでした。
 『きりつほの(桐壷) ゆうへのけむり すみやかに・・・、』と始まる、この『源氏物語』の登場人物の名前が盛り込まれた『表白文』。(『イロハにほえと・・』みたいな名文)
 この功徳によって、紫式部の罪は許され、お礼に聖覚様の前で舞いをまって、極楽へと昇っていかれたそうです。(・・という事は、聖覚さまも『源氏物語』を読んだんやな・・ムフフッ) つづく(次回、最終回)

紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その9)

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 なぜ当時、聖覚さまはこんなに人気があって、色んな人が尋ねて来たのでしょうか?
 それは、一つには[説教のうまさ]にあったそうです。
 聖覚さまの『お説教(=仏さまの法話)』の方法は変わっていました。
 父親の代から引き継いだ[安居院(あぐい)流唱導]という説法技術に、聖覚様はさらに娯楽性(=物語のような解り易さ)を加えられ、話す言葉に節を入れ、身振り手振り(=ジェスチャー)を入れ、聞く人の情念に訴えるかけるという、お説教を編み出されたのです。
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(実際の[聖覚法印絵像]by西方寺さま)
 この方法は『節談(ふしだん)説教』と名で、仏教に馴染みの無い人でも話が伝わりやすく、大人気を博していきます。
 で、当時の庶民層を中心に、聖覚様は超有名人となっていったのでした。

 この説法方法は、のち『日本の話芸』へと発展し、浄瑠璃・講談・落語・浪曲へと変化していきます。
 又、余談ですが、親鸞聖人もこの方法で、お説教をされたという説もあるのです。つづく

紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その8)

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又、或る日の事・・。
 聖覚さまの所へ、一人の気落ちした中年武将がやって来ました。
 彼の名は、熊谷直実(くまがいなおざね)といいました。

(熊谷)「聖覚様、私はほとほと武士が嫌になりました。先の平家との戦[一ノ谷の合戦]で、打ち取った侍の首が、私の息子と同じぐらいの年齢だったです。
 私は戦が嫌になりました。・・世の無常を覚えました。
 どうか、こんな私をお救いください。私はどうすれば救われるでしょうか?」と。直実は聖覚さまに訴えたのです。
 
(聖覚)「あなたを救えるのは、私ではありません。阿弥陀さまです。・・その教えを説いていらっしゃるのは、法然上人です。さぁ、法然上人のお寺に参りましょう。」と、聖覚様はこの武将を法然上人の元につれていったのです。(あくまでも、聖覚法印は自分の弟子にするのではなく、法然上人を頼られました。・・このこと一つにおいても、いかに聖覚法印が法然上人を信頼していたがわかります。)
 こうして、熊谷直実は、法然上人の弟子になりました。
 法名は[法力房連生]。のち立派なお坊様になられたという事です。つづく
 

紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その7)

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 こうして、範宴(=親鸞聖人)は、聖覚様につれられて、法然上人の居られる吉水のお寺に案内されました。
 範宴さまは、法然上人にカクカクシカジカと、今までのあった事をお話し、夢の一件を尋ねました。

 ※ここで、ちょっとだけ余談ながら、親鸞聖人の子孫の一人[存覚(ぞんかく)]上人が書いたといわれている『親鸞聖人正明伝』には、この不思議な観音様の夢が起ったのは、法然上人の出会いの後?という事になっているが、僕は(フィクションとしてドラマチックに、)この時の出会いのキッカケにした。・・勝手に変えてすみません。
 又、『正明伝』では、この法然上人との最初の出会いの時、すでに上人は親鸞聖人を存じていたと書かれてあるが、僕は当時、無名の青年僧であった親鸞聖人を、法然上人が知っているなんて『そんなはずないやろ~』とこの部分はカットした。余談終わり。
 
(法然)「・・うーん、不思議な夢じゃな。この末法の世。(※余談ばかりで申し訳ないが、法然上人のこの十八番決め台詞『末法(まっぽう)の世』は、今の時代でいうと(ちょっと古いが)『ノストラダムスの大予言的終末思想』を超本気で考えたぐらいの事だと思う) いかに、修行しても悟りを得るのは難しい・・。お念仏して、阿弥陀様にすがるのが一番なのじゃ。
・・観音さまは、範宴どのに『女性と結婚して、ごく普通人の生活をしながら[仏の道]』を歩んでみよ。』と、おっしゃりたかったのかもしれんのう。・・まぁ、すでに結婚して子供もいる僧侶もここにはいるが・・。(ちらっと聖覚さまを見る)」と、法然上人は言われました。
(範宴)「あっ!そうかもしれません。(聖覚様をチラッとも見ず無視して)・・そのお言葉の通りだと思います。私は『俗人』として(「俗人先輩の聖覚さまのように」・・とは言わんかったが、)仏の道を歩もうと思います。・・法然さま、何とぞ私を御弟子にして頂けませんか!」と、範宴は弟子入りを願い入れました。
(聖覚)「良かったね。・・こんな歴史的出会いの紹介者なのに、今回、こんだけのセリフかい⁉」
 こうして、又、聖覚さまと範宴(=親鸞聖人)は、兄弟弟子になられたのでした。
 こののち、親鸞聖人は、一生、聖覚様を兄のように慕ったそうです。(・・主役でもないのに親鸞聖人の事を書きすぎた。そろそろ、聖覚様の伝説一本に戻すことにします。)つづく
 

紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その6)

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・・ある日のことです。
 聖覚さまは、共にお山で修行をした[親鸞]さまと、四条大橋でバッタリ出会いました。

(聖覚)「おぉっ、懐かしや!範宴(=親鸞)どの。・・それにしても、そのやつれたお姿、いったいどうされましたか?」

(親鸞)「あぁっ・・、聖覚さま。なつかしや・・。あなた様がお山を下りられて私はどれほど寂しかったか! あの後、私も比叡山を下り、心の平安を得るべく、一人で六角堂への百日間の参籠を致しておりました。
 ・・その95日目のこと。不思議なことに、観音様が目の前に現れて『私はあなたの妻となって、一生添い遂げよう』とおっしゃられたのです。・・その意味が解らず、こうして毎日、京都中を歩き回って考えている所なのです。」

(聖覚)「・・・何とも不思議な夢。・・・ここでお会いしたのも仏様の御計らいか⁉・・範苑どの、私についていらっしゃい!・・夢の意味が解るかもしれませんよ。」

(親鸞)「えっ、どこへ行かれるのですか?」

(聖覚)「私の師匠、法然上人の元へ行くのです!」 
つづく
 ※『親鸞聖人正明伝』の一部を参照、後はフィクション
 

紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その5)

ここで、ちょっと余談ながら、『聖覚(せいかく)』という人について、僕の想いを書く。
 この親鸞聖人外伝(スピンオフ)的な、お坊さんのお話を描くに当たって迷いがあった。
 この『聖覚』というお坊さんは、平安時代末期においては、その当時の大有名人なのである。(鎌倉時代に編纂された『沙石集』という本に、聖覚法印は、よく有名人として登場されるのだ。)
 その点、『親鸞聖人』は、当時の(聖覚さんに比べたら)、大御所の先生(=聖覚法印)と、青二才の書生(=親鸞聖人)みたいな差がある。
 が、今は逆である。
 『親鸞』という名前は中学生でも知っているが、『聖覚』という名は、この道の専門家でもあまり知られていない。
 なぜ、そうなったのか?・・わからない。
 そこからは、想像でしかないのだが、二人の生まれの違いによる性格の違いからなのかも?と、僕は勝手に想像する。(ええトコのボン二世と、無名のガッツな成り上がり青年。)
 ガッツな親鸞聖人はあくまでも、浄土系の信仰一本を通された。
 が、聖覚法印は、浄土宗の中で活躍しながら、生まれながらの宗派「天台宗」は、(どっちつかずで)死ぬまで止めなかった。のち、天台宗と浄土宗は激しい論争をおこし争うことになるが、この時、聖覚法印はどっちについたのか?ひょっとして、この時の争いが、聖覚法印を歴史の闇へと落とし入れたのかもしれない。・・まったく想像なのだが。(僕は『鳥と動物の戦争』の物語の中のコウモリをなぜか思いだしてしまった)

 ・・だが、おそらく人柄の良い、世話焼きなボンボン聖人『聖覚』法印が居なかったら、『親鸞』聖人は存在しなかった。・・これは確かなことだろう。(このエピソードは次回述べる)
 はたして、歴史上『聖覚』法印は、高僧であったのか?・・はたまた?最後は自分を守る事だけによって生涯を終えた、浄土宗と師を裏切った男だったのだろうか?
 ドラマチックすぎて・・こんな事を想像しながら、書き始めたのだが、出来た紙芝居を見てみれば、そんな深いところまで描けていない。
 それは、書いてるうちに『聖覚』法印に情が移ってしまい、ブラックなところは描けなかったらからなのだ。
 迷いながらも、聖覚法印の好きな部分だけを取り上げ、僕の拙い紙芝居は完成した。
 ・・はたして、此れで良かったかと、書き終えた今も迷っている。
 本当に、今回はまとまりのない(その5)になってしまった。次回は続きを描きます。すんません。
 つづく

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