住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「妙好人 大和の清九郎(後編)」その2

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 さて、清九郎の一人娘の名は、『こまん』と言いました。
 その『こまん』が年頃になった時です。
 清九郎が、養子の縁談話を持ち帰って来ました。
 その相手が、なんと『まむしの久六』というヤクザ者でした。
 清九郎は、嫌がる娘を懸命に説得しました。
 「こまんや、あいつは、わしの若い頃に似ておる。阿弥陀様を知らんから、グレとるだけじゃ」と。
 娘こまんは、清九郎をたいへん尊敬しておりました。
 ですから、泣く泣くその縁談話を承知したのでした。
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 娘婿・久六は、若い頃の清九郎そっくりでした。
 博打好きで、気が荒く、よくケンカをして帰って来ました。
 しかし、清九郎は小言一つ言いません。
 口にお念仏を称えて、久六に阿弥陀様の話をしました。
 そんな久六は、清九郎の[念仏態度]に嫌気が差し、清九郎が大切にしていた『ご文章(=経本)』を囲炉裏に投げ入れてしまいました。
 びっくりした清九郎でしたが、すぐさまそれを拾い上げ、
「これは、阿弥陀様が、私たちの燃え上がる欲の世界に、自ら飛び込んで救い取って下さるお姿。・・有り難い、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」と、久六に御礼を言いました。
 久六はただただ、唖然としておりました。
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 そんな清九郎の姿を見て、久六の心はいつのまにか、変わっていきました。
 博打をぷっつり止めて、喧嘩もしなくなりました。
 又、熱心に仏法を聴聞するようになったのです。
 ・・やがて、親子三人がそろって勤行する姿に、村人たちはたいへん驚きました。
 それから、しばらくして、清九郎は若い夫婦に家を譲り、峠の上に粗末な小屋を建てて、隠居しました。
 そんなある日・・、 つづく
 

三人による『宇宙からの贈り物』~回復への底力

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(大阪水上隣保館内[ゆりの礼拝堂])
お医者さんから「まだ、講演は早い!」と、僕は言われていたのだが、今日は特別。
 なぜなら、親友の鍼灸師・渥美さんからの『お寺の出前』を依頼だったからだ。・・渥美さんは、何度も僕の入院する病院へ足を運んでくれて、痛む僕の身体(病状)をハリやマッサージで癒してくれたのだから。
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 渥美さんは障害児支援グループ「たんぽぽの仲間たち関西」の代表で、この日、教員で作家の「山元加津子」さんをお招きして、講演会を盛大に開く計画にあった。
 そしてその会の中で、僕にもその中の一コマを受け持ってやってくれと頼まれたのだ。
 テーマは『回復への底力』、病気から回復した三人の話を元に、それを[宇宙からの贈り物]と受け取って、みんなも共に頑張ろう!という主旨のものであった。
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 問題は、その会場で、大阪の大阪府大山崎にある社会福祉法人[大阪水上隣保館]内にある[ゆりの礼拝堂]というキリスト教の教会だったので、思わず「(仏教の)僕が講演しても良いんすか?」と、渥美さんに言ったら「宮本っちゃんやったら、喜んで来てくれると思って・・」と言ってくれた。(よく解っておられる・・[笑い])
 教会に入って驚いたのだが、中に先日完成したばかりの紙芝居の主人公、「アッシジのフランチェスコ」の絵が飾ってあった。この教会はフランチェスコと縁が深いらしい。・・僕は「あぁ、呼ばれたな」と感じた。
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 長くなってきたので、かいつまんで言う。
 今日は『気管切開をした車いすの声楽家[青野浩美]さん』の講演と感動的な歌。
 そして、僕の入院中の話と紙芝居。
 最後は『山元加津子さんによる「私たちの中にある宇宙の底力」』というお話であった。
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 そして、最後は三人による鼎談の会。
 とても、素晴らしい講演会になったと思う。・・おちゃらかな、僕の話はのけてだが・・。(笑)

紙芝居:「妙好人 大和の清九郎(後編)」その1

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 清九郎の妻『まん』が、極楽浄土へ還られて、二年が経ちました。
 ここは、清九郎の家の近くのお寺『光連寺』です。
 妻が亡くなった後、子供をおんぶした清九郎の姿が、よく見かけられるようになりました。
 清九郎は、誰よりも真剣に仏様のお話を聞くようになっていました。
ファイル 1361-5.jpg[光蓮寺]
 ご住職は言われます。
「阿弥陀様という仏様は、怒り・悲しみ・悶え苦しむ人が目当てなのじゃ・・。泣く人が居れば、一緒に泣いて、救ってくださる・・そんな仏様なのじゃ。」と。
 それを聞いて、
「おぉー、そうじゃったのか。阿弥陀様の目当ては、この極悪の清九郎が目当てであった。それを教えてくれた妻『まん』よ、母親よ、有難う!・・南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」と清九郎は合掌しました。
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 それからというもの、生まれ変わったように清九郎は、働き始めました。
『母を泣かせた。妻を苦しめた。世間様に迷惑を掛けた。・・何という、わしはつまらん人間だったんじゃ。』と、反省の気持ちが強い孝行心になり、世間に対しては、一挙一動、報恩感謝の気持ちをおこしたのでした。
 そんな清九郎の頭の上を、いつも[ウグイス]が『ホ~ッ、ホケキョウ。(法を、聞けよう)、(仏法を聞けよう)』と鳴いたのでした。
 「阿弥陀さま、こんなワシをも見捨てずに、じっと見守っていて下さったのですね。これからは、仏法を聞いてまじめに生きて行きます。有難うございます。」と、清九郎は空に向ってつぶやきました。
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 清九郎は生まれ変わりました。
 久しく見なかった母親の笑顔。
 無心に笑う娘の笑顔。
 清九郎の口から、お念仏がこぼれました。
 又ある時、子供を近所に預けて、老いた母親をおんぶして、京都の本願寺へお参りをしたこともあったそうです。

 ・・余談になるが、僕は以前、テレビ番組で元ボクサー俳優『赤井英和』さんが、母親をおんぶして、町を回って食べ物をご馳走するという放送を見た。
 「これって、現代の清九郎さん、やんか。」と、僕は思わずつぶやいた。
・・それで、この紙芝居の清九郎さんの似顔絵モデルは、赤井英和さんなのです。・・この人も若い頃は、やんちゃやったそうらしい・・ですね。
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 やがて、そんな母親も亡くなりました。
 清九郎は、母の恩を決して忘れまいと、母親の寝ていた時に使っていた『枕』を、天井からつるして、朝夕、お念仏をと称えたそうです。 つづく

[報恩講法要]が終わりました

 10月14日、観念寺における大きな法要の一つ[報恩講]法要が、無事に終わりました。
 台風の襲来も心配されましたが、それも無事に通り過ぎてくれました。
 恒例の門徒さんの『大掃除』も、お供え物の買い出しも無事に終え、すべて順調に終わりました。
 そして、本番。
 たくさんの近隣寺院・住職さんたちの出勤の中、心配していた僕が勤める導師も、何とか無事に終えることが出来、ちょっとだけ自信がもどった気がします。
 これを機に、早く回復を目指したいと思います。合掌
 

紙芝居:「妙好人 大和の清九郎(前編)」その5

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 そして、いよいよ妻『まん』の容態は悪くなり、今夜がヤマだという、その時です。
 ムシの知らせか、仏様の御計らいか、酔っ払った清九郎が、フラッと帰ってきたのでした。
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 苦しい息のした、切々と妻は訴えました。
「お前さま、お念仏に結ばれたお互いの縁。
 私は、お浄土の国で待っていますから・・。
 どうぞ、間違わない様、阿弥陀さまの道を来て下されや・・、南無阿弥陀仏。」と言って息絶えました。
 
 ・・その突然の別れに、酔いの醒めた清九郎は、
「おぉっ・・、おまんや!。
 目をもう一度、開けておくれ。
 わしが悪かった!許しておくれ。
 どうか、どうか、目を開けておくれ。
 おまんや・・、二度とお前に苦労を掛けんから。
 目を開けておくれ。」
 と、清九郎は泣き続けました。
 
 この時期から、[仏の清九郎]へと生まれ変わるのです。
[前編]おしまい
 後編へ続く

紙芝居:「妙好人 大和の清九郎(前編)」その4

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 清九郎は、妻をもらいました。
 しかし、ちょっと落ち着いたも束の間。
 やはり、放蕩は直りませんでした。
 ・・その頃、村に頻繁に盗難が続きました。
 そして、その犯人が清九郎だと明白になった時、村人たちが騒ぎだしたのです。
 この騒ぎに居たたまれず、清九郎一家は、隣の[鉾立(ほこたて)]という村に夜逃げしたのでした。 
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(今の鉾立村。清九郎の当時の住居跡に立つ清九郎のお墓)
 ・・余談ながら、今年の初旬、奈良県の[鉾立]村に行って来た。今も深い山林の中に、ポツンと[清九郎の墓]=(清九郎住居跡)は建っていた。
 いまでも、こんなに深い山の中なのである。当時は、さぞかし寂しかったに違いない。
 ・・そうなのだ、清九郎一家は人目から隠れて、ひっそり暮らしていたのだ・・と僕は思った。
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 こうした苦労が続いたのでしょう。
 信心が篤く、我慢強い妻でしたが、女の子を一人産んだ後、産後の肥立ちも悪くなり、ついに床に伏してしまったのです。 つづく
 

紙芝居:「妙好人 大和の清九郎(前編)」その3

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 実家に戻った清九郎でしたが、やる事がありません。
 そんな時、悪い友人に誘われて、賭博の場に、足を踏み入れてしまいました。
 これが、悪の始まり・・・。
 清九郎の放蕩時代のはじまりでした。
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 それから十年あまり、清九郎は放蕩無頼の生活が続きます。
 清九郎は、人並み外れた体格でしたので、世間はことさら恐れて、代官所のお役人さえも、もてあましました。
 酒・博打・ユスリ、そしてお金に困ると、泥棒も働きました。
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 そんな清九郎の変わり果てた姿を、誰よりも嘆いたのは母でした。
 たまに家に戻ってくる清九郎に、泣いていさめましたが、何の効果もありません。
 しかし、そこは母親でありました。
 他人は恐れても、親はあきらめません。
「嫁さえおれば、清九郎はまじめになる!」と元々、信心の篤いかった母親は、お寺にお参りをして、お同行の娘さんとの縁談をまとめてきたのでした。
 娘の名は[まん]と言いました。 
 こうして、清九郎は妻をもらいました。 
 しかし・・。つづく
 

紙芝居:「妙好人 大和の清九郎(前編)」その2

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 清九郎は、一生懸命、まじめに働きました。
 けれど、学問がありません。
 読み書き、そろばんが出来ないのです。
 それで、後から入って来た後輩の[丁稚]が、やがて自分よりも上司になってゆき、清九郎を何かと叱りつけるようになっていきました。
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 清九郎は悩みました。
 そして、フトしたきっかけに、後輩と大喧嘩。
 お店を辞めてしまったのでした。 つづく
 
 

西城秀樹のコンサートへ

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 ファンでもない僕が、割とご高齢の方が目立った女性たちの多い「西城秀樹」氏の生コンサートへ、昨日、観に行って来た。
 理由はただ一つ。
 僕と同じ病気[脳卒中(=西城氏の場合は脳梗塞)]をされた、西城秀樹氏が、病(やまい)から復活後、どれぐらいまで、人前でパフォーマンスを見せることができるのか?を見たかったからである。
 又、本当に何曲も歌えるのか?(口パクではないか?)も、見たかった。(僕はオペラグラスを持って、ずっと口元ばかりを見ていた・・嫌な客である。)
 でも、僕もこれから人前で「紙芝居」を演じるに当たって、どれぐらいまで[やれるのか⁈ドクターストップはかからないのか⁈]を知りたかったのである。
 結論から言うと、横と後ろに「手すり」を張り巡らせて、椅子に座ったり、立ったりしながら、約二時間、歌を唄い続けられた。(僕が思うに、掛け声は本物の声だか、歌はやはり怪しい。それは途中での言語障害のあるトークと、歌声の差で解る。そして、汗もあまりかいていないし、水も飲まなかった。・・水ぐらい飲んだら良いのにと、僕は心で叫んだ。プライドがあるんやろか⁈)
 余談ついでに、僕もリハビリ病院で、カラオケで歌声を出す発声練習を毎日した。言語会話の発声は難しかったが、歌は案外楽に歌えるものである。・・だから、一概に口パクであるとは言えないし解らない。
 そんなことより、僕はやはりコンサートへ行って良かった!
 歌は「YМCA」と「ギャランズゥ」しか知らなかったが、手すりを持ってヨタヨタ歩きながら、必死に不自由な右手を振って歌う西城秀樹の姿に、僕は感動した。
 心の中で「秀樹、頑張れ!脳卒中なんかに負けるな!」と必死で応援していた僕がいた。
 本人が言ってたが、来年は『秀樹、カンレキ!=還暦』らしい。
 頑張れ!秀樹。国民年金をもらえるまで!

紙芝居:「妙好人 大和の清九郎(前編)」その1

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 妙好人というのは、この苦悩に満ちた人間世界で、仏さまの本願を信じ喜ぶ[念仏者]をいいます。
 江戸時代中頃、奈良(大和[やまと]の国)に生まれた『大和の清九郎(せいくろう)』もその一人です。
 清九郎は無学ながら、信心が篤く、毎月、地元の奈良から京都の本願寺へ、仏様にお供えする[仏飯]を炊くための[薪]を担いで、十八里(72キロ)の道を歩いて通ったそうです。
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(因光寺境内に立つ清九郎像)
 ・・しかし、そんな清九郎も、若い頃は手の付けられない程の放蕩無頼の極道者でありました。
 このお話は、そんな清九郎が[仏の清九郎]と呼ばれるまでに至る物語です。
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 清九郎は、江戸時代(延宝六年)、(今の奈良県)高市郡、矢田村に生まれました。
 幼い頃に父を亡くし、信心の篤い母親に育てられた清九郎は、七歳の時、家計を助ける為に、下市(しもいち)町の呉服屋に丁稚奉公に出ます。
 清九郎は、何より親孝行な子供で、貧しい母親に一生懸命、仕送りをして家計を助けていたのです。 つづく

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