住職のつぼやき[管理用]

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広報誌『osakaかなん議会だより』に載りました

広報誌『osakaかなん議会だより』六月号
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『シリーズ 人』~その道の達人から学ぶ~より
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 河南町の広報誌に載りました。
 (こっ恥かしいけど)内容をそのまま写します。
 以下、文面より・・、
『今回は、浄土真宗本願寺派「観念寺」住職 宮本直樹さんをご紹介します。
 住職は平成七年に仏教ホスピス「ビハーラ活動」に参加して以来、大阪を中心に病院や老人ホームなどに「お寺の出前 紙芝居屋亭」と銘打ち、手作り紙芝居を持ってボランティア活動をされています。
 幼少のころから絵を描くことや工作が得意な少年で、なんと酒屋の三代目、親の反対を押し切り出家し、後継ぎのいなかった寛弘寺の観念寺の住職になられました。
 ボランティア活動はお寺の出前ということで、自ら法話や各地の逸話などを題材にした手作りの紙芝居を病院や老人ホームなどに持参し、お話されています。
 紙芝居の題材となる各地の逸話(写真は『稲むらの火』)では、現地に赴き写真を撮って、その地の風景を忠実に描かれています。
 ボランティア活動は広くマスコミにも紹介され、今や知る人ぞ知る存在になりました。
 講演の依頼があると、「これも何かの縁」と、断ることをしてなかった為、少しオーバーワークとなり、昨年大病を患われ、活動を一時中断されていましたが、現在はまた活動を再開され、お寺の出前は制限されているものの、府内外からお参りに来られた方を対象に、法座を中心に行われています。
 こんな活動が評価されあるテレビ番組の「となりの人間国宝さん」に認定されました。』 以上。

 もったいないお言葉の数々、ありがとうございました。合掌
 

次回の紙芝居は『かくれ念仏』

 次に創る紙芝居は、『かくれ念仏』(仮称)にしようと思っている。
 今、資料を読んでいる最中だ。
 こんな話・・。
 江戸時代の初期から明治時代初期にかけて、九州の薩摩藩[今の鹿児島県]では、およそ250年もの間、キリスト教と並んで、浄土真宗は[禁制]となっていた。
 これは、藩の封建体制にとって、浄土真宗の[教義]が浸透することによって、農民たちが幕府・藩に対する反抗組織を形成し、農民一揆を起こす可能性を恐れての措置だった。
 その為、領民は春秋の年二回、村役人の所へ行って、本願寺の[門徒=(信者)]ではないことを誓約していたという。
 ・・それはまるで、隠れキリシタンの[踏み絵]を彷彿させるものであったという。
 そして、信仰が万一発覚すると、厳しい拷問があり、その組織を白状させられ、一村が藩吏によって焼き払われたという。
 ・・それでも、念仏信者たちは『かくれ念仏』として、秘密裏に、京都の本願寺とつながりを持ち、約250年以上?の間、この組織は無くなることはなかった。
 あまり、知られていない話だが、僕は信仰というものの持つ[凄み]を感じた。
 これを『紙芝居』にしたい。
 実際、九州にも取材に行きたいので、この紙芝居はゆっくり作ろうと思っている。
 主人公は、本当に実在し、刑死した農民[伝助]にするか、はたまた、ルポルタージュ形式にするか、今思案中である。 乞うご期待!
 

裏山に猿が出た!

 うちの村の裏山に、野生?の猿の親子が突如として現われた。
 僕のお参り範囲である。
 僕は自転車で大抵、村中の檀家参りをしているので、ちょっと怖い。
 目と目があったら、攻撃してくるらしい。(親子だからか?)
 うちの檀家さんも、遭って威嚇されたらしい。
 野生の猿か?はたまた、誰かが捨てたのか?
 そういえば、何年か前にはイノシシ親子騒動が、この裏山であった。
 うちの近くは畑が多く、エサには困らないだろうから、捕獲は難しくなりそう・・。
・・ちょっと嫌だ。
 今日もびくびく、自転車でお参りに行く。
 会わないように、遭わないように。

京都市[妙林寺]参拝団の来院

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 本日、京都市北区より、浄土真宗本願寺派『妙林寺』参拝団の皆さんが、観光バスで観念寺までお参り下さった。
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 住職様のお勤めの後、いつものように僕の紙芝居を披露。
 「アミダブツ物語」の他二本をご覧になって、次の目的地に向かって出発して行かれた。
 今日は、良いお天気。
 五月晴れだ。
 正に旅行日和。お気を付けて行ってらして下さいませ。合掌
 

富田林『光盛寺』様の永代経法要への出前

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 昨日は、富田林市『光盛寺』様の[永代経法要]へ、紙芝居法話出勤をしてきた。
 [昼の法座]と[夜の法座]の全二回の講演で、体力が続くかが、心配であったが、光盛寺ご門徒さんの温かい声援のおかげで何とか無事に終えることができた。
 ・・実は去年のこちらの法要にも、お招き頂いていたのだが、僕の入院により、一年間延期となってたいへんご迷惑をおかけした。
 その分、今日は大サービスで、紙芝居の盛りだくさんのオンパレード。ちょっと演りすぎたかなぁ。反省。
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 昼の座を終え、夜の座には、若院主さんの出身地が鳥取県だとお聞きしたので、急遽、演目の紙芝居を変更。
 『因幡の源左さん』の紙芝居を披露する。
 でも、これは練習もせずに演じたので、セリフが噛み噛みだった。これまた反省。(急な変更はやっぱり、あかんなぁ・・と思った)
 光盛寺の皆さま、たいへんお世話になり有難うございました。皆さま、お元気で。合掌

宗教って、何?

 ・・この前の法要の時、息子が久々にお寺に帰って来て、食事をしながら僕に聞いた。

 「お父さん、宗教って、現代人にとって、何の意味があるんやろ?」と。

 難しい事、聞きよんなぁ・・と思いながらも、今、サラリーマンをやって悩んでいる息子の想いが、ビシビシ伝わって来た。
 僕は言った。
 「これは、お父さんが常に思っていることやねんけど。・・宗教とは、心を自由にする手段やと思うねん。
 ・・鳥のはばたきや。鳥が自由に空に飛ぶように、こころが羽ばたくねん。・・そんな手助けやと思う。
 だから、心を狭めるような教義などは、自由になることから真逆やと思うので、お父さんはそれは宗教やと思わない。」と言った。
 すると、「じゃ、お寺の存在意味は何?」と、ぬかしてきよったで、ごじゃりまする。
 僕は「心の解放を、手助けする場所や。だから、お父さんはお寺を使って、歌のコンサートとしたり、お芝居をしたりもするねん。もちろん、紙芝居もそんな気持ちで作って演じている。・・百の説教よりも、一つの歌が心に残ったりすることもあるやろ。どんな説教よりも、一枚の絵が心を癒すこともあると思うねんで。」と言った。
 「・・ただし、それはお父さんが勝ってに思ってることやで。」と、付け加えた。
 
 「ふーん」と言って、この息子との会話は終わったのが、僕は本当にそう思っている。
 さて、息子は何を思ったろう?

油断

 油断した!
 ここんとこ、大きな法要や法事の出勤も多かった。、
 が、僕自身元気であり、回復したとばかり思っていた。
 それが先日、早朝目を覚ましたとたん、目の前がグルグル回ってめまいが止まらない。
 頭も痛く、血圧も高い。
『又、脳出血をおこしたか⁉』と思った。
 病気復帰後、口を開けたら「何か兆候があったら、すぐに救急車をよびましょう!急ぐのが一番です」と皆に言いふらしているので、「直ぐに医者にいかねばシャレにならんわ」とふらふらになりながら、近くの掛かりつけ医院へいく。
 お医者さんは僕を一目見て、「すぐに大きな病院へ行ってください。再発をおこしている可能性があります。救急車をよびましょうか?」とおっしゃった。
 うまい具合に、妻の携帯にすぐにつながったので(救急車は呼ばず、)妻を呼び出して、彼女の運転で国立病院へ行った。
 そして、すぐMRIを撮ってもらい精密検査をする。
 内心、『又入院か、手術か』とひやひやする。
 が、結果は、セーフ。
 傷口も治まっているし、脳梗塞も出来ていないと、いうことだった。 
 では、あのめまいは、何だったのか。
 先生がおっしゃるには、「(血圧の)薬を少なくした事が原因かもしれません」ということだった。
 とにかく、今はめまいの薬をもらって、身体は楽になった。
 だが、『まだまだ、油断をしてはいけないな。無理もいけない』と感じた一日だった。
 

紙芝居:「ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に」(その4:最終回)

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 それから良忍さまは、[融通念仏]を広げる為、京都は云うに及ばす、奈良・大阪へと足をのばし布教されました。
 身分の高い人も低い人も、気の毒な病気の人にも教えを説いて回られました。
 そんな布教のさなか、大阪は四天王寺にお参りされた良忍さまは、いつものように融通念仏を(エエ声~で)称えていると、それを聞いた人々が、いつの間にか楽しくなって踊り出したのです。手を回し、腰を振り、足を踏み鳴らし・・。
 この時の踊りが、やがて『念仏踊り』のルーツになったのだと伝わっています。(※空也・一遍上人にも同じような話がある。どの御方の逸話が、本当の始まりなのかは解らないが、・・まぁ、娯楽の無い暗い時代に、今でいうEXILEが流行る様に、この[念仏踊り]が大いに盛り上がったという事だろう・・と思う。)
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 四天王寺を出られた良忍さまは、次に河内の国へ向かう予定でした。
 その途中のこと。[平野]の『修楽寺』というお寺に立ち寄られました。
 それをどこからか聞いた町の人々が、たくさんお寺へと押し寄せ、良忍さまにお説教をせがまれました。
 それで、とうとう出発することが出来ず、ついに良忍さまは、ここに留まることをお決めになりました。
 そして、お寺の名前も『大念仏寺』に変えられたそうです。
 それが、今も続く総本山『大念仏寺』の始まりだそうです。(・・余談だが、僕もこの紙芝居の取材の為に『大念仏寺』へ行って来たのだが、さすが総本山!大きな威厳のあるお寺でした。)
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 その後も良忍さまは、世の為人の為に[融通念仏]を広めて旅を続けられました。、
 そして61歳の時、良忍さまは、京都は大原に戻られ、お亡くなりになります。
 ご臨終は、亡くなる七日前から死期を悟り、自ら身体を清め、極楽があるという西を向き、最後を迎えられたという事です。
 亡くなられた時は、空には紫の雲がたなびき、お香の香りが一面に、ただよったと伝わっています。
 『一人の念仏は万人の為、万人の念仏は一人の幸せの為。すべてのモノはつながって助け合っている。融通し合う念仏が大切である。』と、教えられた偉大な御聖人のご一生でした。 おしまい

観念寺永代経法要記念コンサートin2015

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 今年の『観念寺永代経法要』は、ドイツの竪琴[ライアー]&[沖縄三味線]演奏者の「高野陽子」さまにお出で頂き、歌と演奏の記念コンサートを開いた。
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 演奏曲は、有名なアイルランド民謡「Downt by the Sally Garden」や映画『千と千尋の神隠し』のテーマ曲、さらには、三味線を使っての[沖縄民謡]など、たくさんの素晴らしい曲を演奏して頂いた。
 ご門徒さんの中には涙ぐむ方もおられ、美しいお声と演奏に、皆の心にぐっと何か残るものがあったに違いない。
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 僕は父親を亡くした経験から、『百の説教よりも、一曲の生演奏』が、心を癒してくれるものと、かってに思っているので、この日も僕にとってとても素晴らしい一日となった。
 お忙しい中、重い楽器をよっこらしょと背負い、観念寺までお出で頂き、高野陽子さま、本当にありがとうございました。合掌
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 尚、高野陽子さまのホームページ『蓮音日記』は、こちらです。http://hasunooto.blog109.fc2.com/

紙芝居:「ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に」(その3)

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 大原の地に移られて、厳しい修行を積まれた良忍さま。
 いつしか46歳になっておられました。
 ある日の事。
 いつもように、お念仏を称えて修行をしていると、突然、恍惚(トランス)の状態になられ、気がつくと、阿弥陀如来様が目の前に立っておられました。
 阿弥陀さまは言われました。
(阿弥陀仏)「良忍よ、[融通念仏(ゆうずうねんぶつ)]をお前に授ける。これを世に広めて、苦しむ人々を救うように」と。
 良忍さまは、「[融通念仏]とは、いったいどのような教えなのですか?」と尋ねられると、

(阿弥陀仏)「それは・・、一人の念仏で、たくさんの人が幸せになり、たくさんの人の念仏で、一人の人が幸せになる教えじゃ。・・つまり、ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏は、ひとりの幸せの為に称えるということなのじゃ。
 もうちょっとくわしく云うと、この世の者はお互い、つながり、助け合って生きている。だから、みんなで念仏を称えて幸せになり、往生しようという教えなのじゃ。解ったかな⁉」と言われました。
 良忍さまは、それを聞き感動していると、天から一枚の絹がヒラヒラと舞い降りてきました。
 手に取ってみると、そこには、阿弥陀様を中心に、十人の菩薩様が描かれてありました。
 これを『天得(てんとく)如来様』と、そう良忍様は名づけられました。
 それ以後『融通念仏宗』を開宗、そして、この『天得如来様』をご本尊とされることになったのです。
 阿弥陀様から、有り難い教えを賜った良忍さまは、それから、ひたすら[融通念仏]を称えられました。

『みんな、みんな、幸せに・・南無阿弥陀仏。みんな、みんな助け合って・・南無阿弥陀仏』と、そう願いながら。
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ある日の事です。
 良忍さまの庵に、一人の若いお坊さんが訪ねて来られました。
 このお坊さん、「是非、融通念仏宗に入門させて下さい」と言われるので、良忍さまが[勧進帳]を出して、「それでは、ここにお名前を書いてください。」と言うと、名前を書いて、そのまますうっと、そのお坊さんは消えてしまいました。
 「不思議なことがあるものだ。」と良忍さまは思って、フトその[勧進帳]を見ると、そこには『融通念仏を守る為に来ました。鞍馬山の毘沙門天(びしゃもんてん)』と書かれてありました。
(良忍)「なんと、あの若いお坊さんは、毘沙門天さまだったのか⁉」と、良忍さまはさっそく、鞍馬山に登って御礼の念仏を称えられたそうです。 つづく
 

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