
それからというもの、良忍さまは修行一途。
あっという間に、修行僧三千人のトップである『講主(こうしゅ)』という地位につかれました。
しかしその頃から、良忍さまの心には、迷いが生じ始めておりました。(これも、名僧伝にはよくある話やなぁ・・)
(良忍)「・・私は、偉い学者僧侶になる為に出家したのではない。困っている人や悩んでる人を助ける為に、この道に入ったのだ。・・このままではダメだ。修行をやり直そう!お山を下りよう!」と、ついに良忍さまは一大決心。
わずか23歳で山を下りられたのです。(若っか!)
そしてまずは、京都は[大原]へと向かわれたのでした。
さぁ、ここから良忍上人の不思議な伝説のオンパレートが始まります。パチパチパチッ。 
良忍さまは、大原の地で庵を作ろうと思われたのですが、その頃の[大原]は岩ばかりで、とても住める様な所ではありませんでした。
ところが、ここが良忍さまの不思議なところ。
岩に向って、お経を称えると・・、
まぁ、なんということでしょう!(ビフォー・アフターTVのノリで・・)
なんと、大きな岩が『鬼』になったり、『獅子』になったりして、たちどころにどこかへ逃げだしたのです。(きっと、盗賊か何か、先住者がおったのかも?)
そして良忍さまは、その空地に早速、『来迎院』と『浄蓮華院』を造られたのでした。
また、これも不思議な話。
良忍さまが、庵の近くの滝のそばで、『声明』という、お経に節をつけて練習をされていると、なんということでしょう!(こればっかり)
その声があまりに美しいお声なので、お滝もその流れを止めて、聞き惚れたというのです。
それで、この滝は今でも『音無しの滝』と呼ばれるようになったということです。
・・そののち、良忍さまは、音階や音符などを考えだされて、日本の音楽の元となるものを作り出されていかれました。(非常に『音』に敏感な御方だったようです)
それで今でも、大原は『声明の地』と呼ばれ、良忍さまは『声明の父』と呼ばれるようになったのです。 つづく
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紙芝居:「ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に」(その2)
紙芝居:「ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に」(その1)
『ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に~良忍さまの生涯とその伝説~』プロローグ
『融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)』。
別称で『大念仏宗(だいねんぶつしゅう)』とも云う。・・うちの近辺のおっちゃん達はそう呼んでいる。
・・日本仏教は、宗派が多い。
『融通念仏宗』も、その一つである。
・・うちの[宗派]は『浄土真宗』。
しかし、僕は以前、とある『融通念仏宗』のお寺の住職さんから、[紙芝居法話]を頼まれ参らせて頂いた時、帰り際に「うちの宗派の[開祖]の紙芝居を是非、作って下さい。」と頼まれた。
それでその時、融通念仏宗のたくさんの資料をお預かりし、この紙芝居を完成させた。・・今から4・5年前のことである。
この倉庫に眠っていた紙芝居をようやく、ここに発表する機会を得た。
それでは、はじまり、はじまりー。

昔、むかしのものがたり。
それは、平安時代の終わりの頃・・。
これは『融通念仏宗』を開かれた[良忍(りょうにん)]上人の不思議な不思議なお話。
良忍さまは、尾張の国の富田庄(今の愛知県東海市)という所で、お生まれになりました。
生まれた時から、とてもきれいなお声をしていたので、『音徳丸』と名づけられたそうです。
ところが、音徳丸さまは、普通の子供とはちょっと違っていました。
友達と外で遊ばず、家の中で土をこねては仏様のような物をつくり、手を合わすのが好きな子供だったのです。(よーある話だ) 
音徳丸さま、13歳(12歳とも?)の時、「どうか、私をお坊さんにならせて下さい!」と、ご両親に頼まれました。
最初は、反対をしていた両親でしたが、最後は根負け。
ついに、出家することを許されました。
こうして、音徳丸さまは、京都は比叡山に登り、厳しい修行生活に入ったのです。
名前も『光乗坊(こうじょうぼう)良忍(りょうにん)(良仁とも云われている。良忍に変わったのは大原の地へ移ったのちとも?)』に変わったのでした。 つづく
仏の印相箸置き

飛鳥へ行って来た時のおみやげの話。
一軒のガラス工房に入って、仏の印相の箸置きを買った。
一つが、(上)の写真の[説法印・箸置き]。
お釈迦さまが、悟りを開いて始めて説法をした時の印相だ。(お金ちょうだいではない)
これが、一千円。・・ちょっと高いか。
『食事の時に不気味かもと知れない』と、一瞬迷ったが買ってしまった。
でも案外、良いのだなぁ。これが。・・食事の時でも、仏様をイメージできて。ええもん買うた。
ああ、それと、もう一つ、[与願印・箸置き]=(人々の願いを聞き入れる印相)も、ついでに買ってしまった。(グローブみたい・・)
無駄遣いやったかも・・。
でも、これが箸置きに合うんやなぁ。
「箸置きさん、どうか僕のデラックスな願いを聞いて下さい」言いながら、毎日、質素な食事を取ってます。
飛鳥、散策
名言
名言だった。
今日、御門徒さん宅で、お茶を頂きながらの話である。
一昨年、大病をされた83歳の女性○○さんに、僕は「失礼ですが、○○さんは何歳まで生きたいと思いますか?」と、話の流れで聞いた。
すると彼女は、つと考えて「・・私は畑仕事をしていまして、出荷も[道の駅]にしています。
この身体が動けて、仕事ができることに、私は喜びと感謝を感じています。
・・これが(精神的に)苦痛を感じたり、不平不満を言うようになったら、いつ死んでも良いと思います。明日でも良いです。
又、生きがいを感じれるなら100歳まで生きたいです。」と言われた。
生きがいを感じることができること、そして今、動けることの有難さを、昨年の今頃、車いすに乗っていた僕にとっては、名言に聞こえた。
京都宇治『薗林寺』様、ご一行の来院
ハチが出た!
今日、ご門徒さんのお宅で、仏壇の前に座った途端、驚いた!
大きなハチが、目の前の[過去帳]の上にいるではないか。
きっと花の蜜に誘われ、迷い込んだのだろう。
そんなことより、気になってお経が挙げれない。
大きなハチと目が合う。
刺されないかと、刺激せずに小さな声で、お経をあげる。
あいにく、家の人は仕事に行って留守なのだ。
で、僕一人。
そうっと、そうっと、お経をあげて、それからゆっくり立ち上がって退散することにした。
でも、家の人は帰って来たら、びっくりするかもしれない。
・・いや、ハチはもう、飛び去ってしまって消えているかな?
一筆、『蜂、危険』と、書いて置いてあげれば良かったか? いやいや、そんな余裕はなかったわいな。もう一度帰るの嫌やし・・。
やっぱ、夜にでも電話しとってあげよか⁈・・なぁ。
橿原市仏教会金橋支部「花まつりの集い」への出前
堺市『極楽寺』様の永代経法要

昨日、堺市『極楽寺』様の[永代経法要]に、出講させて頂いた。
こちらへの[紙芝居法話]の出講は、もう10年になる。
10年間行かせて頂いていると、ご門徒さんとも顔なじみになる。
荷物を持ってお寺に入った瞬間、境内をお掃除しておられたご門徒さんに、「もう、大丈夫なのですか⁉・・皆、心配してたんですよ。」と言われた。
「お陰様で、もうこの通り!」と、ポパイみたいに腕まくりをして見せた。
又、講演が始まる前に、少し挨拶をすると、「元気になって下さって本当に良かった。一年に一回のこの『紙芝居法話会』をみんな楽しみにしてるんですよ。私らの為にも元気でおってもらわんと。」と、ご門徒さんに言われ、拍手をされた。
本当に有り難い事だ。
『何としても、元気でいなくては』とこの日、僕は誓った。
見られてるんや・・
今日、檀家さん宅のお参りの帰り、
「この前、お寺に観光バスが三台で『紙芝居』を見に来られたんでんなぁ・・。
どえらい人数の人達が村の中を入って行きはったんで『なっ何事や!』と思って追いかけて行ったら、お寺に入って行きはったやないですか⁉
村の私等はちょっとパニック状態になってましたんやで。・・お寺が有名になる事は嬉しいことなんやけど、住職さん、お身体大事にしてくださいや。病み上がりなんやから。」と言われた。
僕は「わざわざ遠くから、バスで紙芝居を見に来てくださるのはたいへん有り難いことです。
寺と村の宣伝にもなりますし。・・けど、身体が資本なので十分気を付けてやってますから、・・大丈夫ですよ。ご心配お掛けしてすいません」と、言った。
と言いながら『見られているんやなぁ・・』と思った。
小さな村やもんなぁ・・、当たり前か。







