
「このままでは、死んでいけましぇ~ん」が、吉兵衛さんのギャグ!・・ではなく、遇う人、会う人、に真剣に問うていた吉兵衛さん。
ついに[善知識=(仏道・悟りに導きいれる師匠)]に出遭い、聴聞して聴聞して、心に《阿弥陀さまの呼び声》を聞いたのでした。
・・・・
晩年、吉兵衛さんは、その時のことを次のように語っています。
『・・自分の心が、阿弥陀さんの光で包まれる。そんな体験は、いつ起こるんか解らんのや。仕事中に起こるかもしれんし、道を歩いている途中に起こるかもしれん・・。「ははん、これはしたり!」という心が内から起こってくるのや』と。(これは一種の神秘体験やったのかもしれん⁈・・余談)
『阿弥陀様の呼び声を聞いた』という吉兵衛さん。
そんな噂を聞いた師匠の元明師が、ある日、ひょっこり訪ねてきました。
「吉兵衛さん、お前さん、大そう有名になってきたそうやが、阿弥陀さんの呼び声を聞いたんか?」と、元明師が訪ねました。
すると吉兵衛さんは、きっぱり答えました。
「・・聞いたとも言えません。と言って、聞いてないとも言えません。」と不思議な答え方をしました。
すると、元明師は、
「そのとおりや!大事なことに出逢ったのぉ!」と、言われたのでした。
それは、まるで『禅問答』の答えを得たかのような(二人のみが解る)対話でした。 つづく
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紙芝居:「妙好人 物種吉兵衛さん」(その5)
紙芝居:「妙好人 物種吉兵衛さん」(その4)

この日、いつものように吉兵衛さんは、ご住職に(いつもと同じことを)尋ねました。
「西法寺のご住職様、わては常々、仏法を聴聞してます。・・しかし、このままでは死んでいけまへんのや」と。
すると、西法寺の[元明]住職は一言。
「・・そのまま、死んだらエエやないか」と。
そして、その後、一冊の経本を取り出して、《領解文(りょうげもん)》という一文を読み始められました。
『もろもろの、雑行、雑修、自力の心をふりすてて・・』と。
これを訳すと『私は自分の力で、仏になる考えを捨てました。・・ですから、阿弥陀仏さま、私は(来るべき)往生の一大事の時、あなた様にすべてをお任せしております。』という意味です。
そして、元明師は一言。「このとおりや。」
これを聞いた吉兵衛さん。『・・この人は解ってはる。大事な事を悟ってはる。おぉっ、この人や、この人について学ぼう!そして、わしの疑問を解決させるんや!』と思ったのです。
この出会いがあってから、吉兵衛さんは又、旅に出ることが多くなりました。
しかし、今度の旅は[元明師]のお供の旅でした。
師の荷物を持ち、お説教をされる所なら、どこまでもついて行き聴聞しました。
吉兵衛さんにとって、この旅は、《宗教的安心》をつかまれる為の、命がけのものでした。
が、その為に、手持ちのお金(=財産)が無くなりました。
このため、自分の田んぼを切り売りしてお金を作り、聴聞の旅を続けたのでした。
この旅の途中、吉兵衛さんの一人息子が病にかかって亡くなるという事も起こりました。
しかし、そんな時でも、お葬式を簡単に済ませて、すぐに師について、又旅を続けたそうです。つづく
紙芝居:「妙好人 物種吉兵衛さん」(その3)

(物種吉兵衛[ものだね・きちべえ]さんのお墓)
余談になるが、昨年の初秋、[物種吉兵衛]さんの事を調べに、吉兵衛さんの故郷[堺市浜寺船尾町]まで行って来た。
秋とはいえ、この日はまだまだ暑く、汗をかきかき探し回って、吉兵衛小旅行を続けたのを覚えている。・・昔ながらの佇まいが残る家々がまだ多く、横丁辺りから、ぬっと巨大な[吉兵衛]さんが現われるような錯覚を覚えた。又、海の近くか潮の香りがしたのを覚えている。おそらく吉兵衛さんもこの海を匂いを嗅ぎながら育ったのであろう。
僕は「浄土真宗本願寺派:元立寺」様を訪ね、吉兵衛さんのお墓参りをさせて頂いて来た。
小さなお墓で、巨漢の吉兵衛さんには小さすぎるのでは?思ったが、いや吉兵衛さんはきっと、お墓の大きさなんかにこだわる人では無かったに違いない、これで十分なのかも?と思い直した。・・余談終わり。
吉兵衛さんの求道の旅は、三年続きました。
しかし、結局、答えは見つかりませんでした。
吉兵衛さんの頭を反復するは言葉は、ただ一つ。
『このままでは死んで行けぬ!』・・でした。
つまり、『今の自分が、生と死について納得できる回答をもらえぬ内は、死んでも死にきれない。』ということなのでした。
この疑問を持ち、吉兵衛さんは、あらゆるお寺を訪ね、そしてあらゆるお坊さんを訪ねました。(ここで、僕の疑問なのだが、吉兵衛さんが訪ねたお寺というのは、浄土真宗に限られている。なぜ、他宗や他教を尋ねなかったのかは、疑問である。おそらく、自分の家の宗旨は真宗なで、その教えにこだわりがあったのかもしれない。)
「この答えが解らぬ内は、わては死ねない!」。
しかし、誰も答えてはくれませんでした。
やがて、もんもんとした気持ちを持ちながら、50歳になろうとしていました。
そして、50歳を過ぎた頃、ついに吉兵衛さんに転機が訪れます。
それは、大阪:備後町の西法寺のご住職との出会いでした。つづく
紙芝居:「妙好人 物種吉兵衛さん」(その2)

結局、親たちの猛反対に遭い、恋する二人は別れさせられたのでした。(江戸時代なので、親の言うことは絶対やったんやろなぁ・・)
そしてやがて、その恋人と生まれた子供は、別の男性と一緒に成ることになりました。
・・それを見ながら、どうすることもできなかった吉兵衛さん。失意のどん底に落ち入ります。 この時、吉兵衛さんは25歳。
・・この頃から、吉兵衛さんの熱心なお寺参りが始まるのでした。(仏様に救いを求めたのかなぁ・・?)
そして、『もう二度と、人を好きにはならない。結婚はしない!』と、誓った吉兵衛さんでしたが、大事な農家の後継ぎの身です。
縁あって、30歳で結婚しました。嫁の名は[のぶ]という名で、息子も一人出来ました。
しかし、吉兵衛さんの[心の悩み]は、この頃、哲学的にもっと大きなものになっていました。
(吉兵衛)『・・人間は、いったい死んでどうなるんや?
「死んでみな、そんなもん解らんわい」と世間ではいうけど、わしは[生きてる間]にそれを知りたい!・・それを知って、わしは大安心したいんや。・・そうや、世の中には、[悟り]を開いたという偉いお坊さんが居るという・・。そんな人を見つけて、是非、わしの疑問を解決してもらおう!』
と、どえらい事を思いつきました。
そして、35歳で妻と子供を残して、[宗教的助言者]捜しの旅に出たのでした。(思い込んだら一途な吉兵衛さん、まっすぐな性格やってんなぁ・・、あぁ、嫁さん可哀想。)つづく
紙芝居:「妙好人 物種吉兵衛さん」(その1)

純粋な信仰心の高さにおいては、跳びぬけたレベルにある人・・、それを[妙好人(みょうこうにん)]と言います。
江戸後期、大阪は泉北(せんぼく)郡に生まれた《物種吉兵衛(ものだね・きちべえ)》さんも、その一人です。
裕福な農家に生まれた吉兵衛さん。
村相撲では一番!というほど、堂々たる体格で強く、激しい気性を持っていました。
しかし、彼は人生の大きな問題にぶち当たり、自分の田畑(財産)も売ってまで、聴聞(=仏法を聞く事)の日々を送ります。
そして、たぐいまれな念仏者になっていくのです。
これは、そんな一人の男の物語です。
人生の大きな問題の始まりは、吉兵衛さんの[恋愛事件]でした。
吉兵衛さんは、親の許しなく、或る村の女性と恋に落ちました。
そして、その女性に赤ん坊が出来ました。
しかし・・、つづく
良いニュース
20年ほど前に、バイク事故で息子さんを亡くされた檀家さんがある。
お参りの度に、お父さん、お母さん、お兄ちゃんの顔を見るのがつらかった。
あれから、20年近く・・。
お父さん・お母さんもお歳を取られた。今では、もう一人の息子さんも結婚され、孫も二人いる。
今日、そのお家にお参りに行って、嬉しい?というか(少なくとも僕は嬉しかった)、そんなニュースを聞いた。
「住職さん、この頃、落ち着いてきた事もあって、夫婦でよく一泊旅行に行くのです。その時、旅先で、亡くなった息子の話が、ようやく出来るようになりました。・・孫も死んだ息子に似て来ましてね、そんな話もするんです。・・嫁には言いませんけど。」と。
僕は思わず「良かったですやん!これまで長い歳月だったでしょうねぇ。お気持ちお察し致します。・・これからも、ご夫婦であちこち行かれて、息子さんの思い出話をして下さいね。きっと、お浄土の息子さんもそれを喜んで聞いておられると思います!良かった、良かった。」と、思わず嬉しくなって言ってしまった。
ご仏壇の遺影の前で『良かった!』を連発して、申し訳なかったが、元気を取り戻され、本当に良かったと思った。
奥さんも「息子の話が出来るまで、20年かかりました。歳月は大事ですね。」と涙ぐんでおられた。
一日二つの永代経法要・河内長野観光ボランティア倶楽部の皆さんの来院
5月14日、快晴。
この日、僕は二つの[永代経法要]に携わった。
一つは[富田林市]の『泉龍寺』さまの法要。
こちらは、午後二時からの法要で、僕の『紙芝居法話』の出番は[前半]の一座。後半は、吉本興業の芸人さんによる余興であった。(観たかったのだが、急いで帰らねばならなかった・・)
それは夜の〈法座〉に、うちの『観念寺永代経法要』の準備があった為だ・・。 
本堂での勤行の後、今年は『かわちながの観光ボランティア倶楽部』の皆さんにおいで頂き、[音楽付紙芝居]を、二本演じて頂いた。
総勢11名の倶楽部の皆さんが、ご来院して下さり、一階ホールは超満員。
紙芝居ありの、替え歌ありの、宣伝ありの、プレゼントありの盛りだくさんの内容で、50名近い檀家さんは、大満足でありました。 
最後は、皆さんと記念撮影。
本当にお忙しい中、[かわちながの観光ボランティア倶楽部]の皆様、有難うございました。合掌
法雲寺さまの[永代経法要]in2016

5月9・10日の2日間、豊中市の浄土真宗本願寺派『法雲寺』さまの[永代経法要]が賑々しく行われ、今年も御尊院の記念法話会にお招き頂き、出講させて頂いて来た。
(今年は雨だったので、この写真は昨年のもの)
毎年、書かせて頂いているが、こちらのお寺の広いお庭は、改造されていて、『スポーツ公園』になっている。
近隣の子供たちや若者たちが、無料でこのグランドを借りれて、バスケットなどのスポーツを楽しめるようになっている。
又、本堂では、毎月『写経会』、『演奏会やコンサート活動』なども行われている。
その事は、すでにマスコミなどで広く宣伝されていて、住職の個性的なキャラも加わり、本当に(老若男女が集まって癒される)お寺らしいお寺になっている。
これは、本当にこれからのお寺の未来を考えても凄いことだ。
僕は、この(刺激の有る)お寺様にご縁を頂けたことは、本当にラッキーなことだと思っている。
そして今年も、こちらで法雲寺檀家の皆様に『紙芝居法話』をさせて頂けた幸せを味わいながら、『僕もまだまだ、頑張るぞ!』と思ったのであった。
堺で一泊、アゴーラリージェンシー堺

(ホテル・アゴーラリージェンシー堺)
((株))同朋観光の日帰り旅行バスが、うちのお寺に寄られた後、よくお昼ご飯を食べに行かれるという[堺市ホテル・アゴーラリージェシー]。・・そして、中国料理店『龍鳳』。
一度、行って泊まって、料理も食べてみたかった。
それで、思い切って休みの日に、嫁さんと行って来た。
(中国料理《龍鳳》)
「ここが、皆さんが食事を取られるという中国料理《龍鳳》さんか!」と、思い切って入りました。
満員の中、美味しいランチを頂きました。
これで、紙芝居『三尺三寸の箸』の中華料理ネタができます。(笑)
(堺事件跡)
そして、ホテルの周りを散策。
そこには、森鴎外の幕末小説『堺事件』の舞台となった記念碑が建っていた。(学生の頃に読んで感動したなぁ・・。可哀想な武士道物語やった。こんな所にあったんや。)
(大浜公園内:安政地震記念碑)
こんな所といえば、僕の『大阪に津波が来た日』という紙芝居で、調べながらも枚数の加減で泣く泣くカットした堺の『安政地震津波記念碑』も、このホテルのすぐ近くの[大浜公園]内にありました。
(ホテル前に建つ南蛮人モニュメント)
旧堺港の橋の上に建つ[南蛮人モニュメント]が、何ともよく似合うホテル前の風景でした。
堺出身の茶の世界の革命児『千利休』や、とにかく猛烈にエネルギッシュなおばさん『与謝野晶子』の事も、ついでに調べてきたけど、又それは別のお話・・。いずれ機会があれば。
奈良の[当麻]へ

(二上山)
『極楽』の絵のマンダラを織り上げたという伝説の霊能力美女、[中将姫(ちゅうじょうひめ)]の事を、今調べている。
もちろん、『紙芝居化』するためだ。(案外、人間のドロドロした親子愛憎話だ)
それで、うちの寺から山一つ越えた所にある[当麻(たいま)]の里、二上山のふもとへ行って来た。
(曼陀羅と中将姫の像のある当麻寺)
連休初日もあって、当麻寺は満員。
でも、極楽マンダラの実物をゆっくり見せて頂きました。
中将姫の像も、じっくり観察しました。(明け方、夢に出て来られてびっくりしました。)
(中将姫の墓)
それから、中将姫のお墓参り。
(ここでマンダラを織ったと伝わる石光寺)
そして、マンダラを織られたと伝わっている『石光寺』へ。
ここはお寺の名前の通り、二上山産光る石で掘られた日本最古の仏像があり、それも見仏。
そして、自宅に帰る途中、頭で中将姫の話をまとめていたら、携帯電話で、檀家さんからお葬式の連絡が入り、そんな気分もふっとんで、急いで帰りました。仕事、仕事。おわり
