お彼岸参りのはなしの続き・・。
お彼岸の時しか、お参りに行かない檀家さんがある。
今回はその話。
そのご婦人は一人暮らし。三年前にご主人を亡くし、昨年、息子さんを40代の若さで亡くされた。
「なんで私だけが、こんな目に遭わなあかんねやろ?」が口癖である。親戚も多いが慰めの言葉も耳に入らない。
この奥さんにシンクロニシティ(意味ある偶然の一致)が起った。・・こんな話だ。
(奥さん)「院主さん、私、仏さん(ご主人・あるいは息子さん)に救われたような気がして・・。」と話は始まった。
「いつものように夜眠れなくて・・。その日、又『なんで私だけがこんな目に遭うんや・・』と思い始めると目が冴えて・・、それで深夜ラジオのスイッチを入れたんです。
すると、ラジオのDjがハガキを読むコーナーでして、そのハガキの内容が『三年前に主人を亡くし、昨年、息子さんを亡くされた奥さんの話』でした。その奥さんは今、みんなの愛によって、ようやく救われているという話だったんです。
『私と一緒やん!・・私だけじゃ無かった』と思ったら、その日はなんか安心して、よく眠れたんです。
タイミングが良くて、不思議でした。」と言われた。
僕は「それは、まさしく仏さんからのメッセージですよ。奥さん、良かったですね。」と言った。
奥さんは、「やっぱり、そうですよねぇ。守ってくれてはるんですねぇ。」と嬉しそうにおっしゃられた。
僕は「そうです。そうです。」と言って、奥さんとご一緒に仏壇に合掌したのであった。
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春・彼岸の事Ⅱ~シンクロニシティ
春・彼岸のこと
(河南町「善秀寺」さま)
ようやく忙しかった[春のお彼岸]行事が終ろうとしている。
19日には『観念寺』の彼岸法要。
こちらは、僕が[紙芝居法話]をした。
そして21日には、同じ河南町の『善秀寺』さまの[彼岸・永代経法要]で、[紙芝居法話]をさせて頂いて来た。
その他、檀家さんでのお彼岸のお勤めも多くあり、たいへん忙しかった。
自坊観念寺の法要では、最後に皆で『千の風になって』を唄う。
檀家の皆さんは、よく、お彼岸にはお墓参りをされる。
されど、この歌は「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。」という歌詞が続く。
お墓参りをするのに、仏さまはお墓にいない。
これを、どう説明するか考えた。
僕はこう思って説明した。
この歌の(二番)は、亡き人は『秋は光になって畑にふりそそぐ。冬はダイヤのような雪になる。朝には鳥に成り、夜には星になる」・・ということは、[お墓]にもなっても良いじゃないか。・・そう思いませんか。要は、お墓の前でいつまでも『泣いちゃ』、そして『悲しんでは』ダメなのだ。
亡き仏さまに感謝をして合掌する。
そこには、お墓に仏様が変身される可能性だって十分ある。・・この歌は主旨は、きっとそうゆうことにある。
と、僕はそう理解し、檀家さんにこのようにお話した。
皆さん、しきりに頷いておられたので、賛同して頂けたのではないかと思った。
今年のお彼岸は、感動的なお話をたくさん檀家さんからうかがった。それは又、別の機会に・・。
大人の遠足~『富田林市じないまち雛めぐり』

(ちょっとした試練の[山中田坂])
三月十三日、観念寺・大人の遠足を決行。
総勢20名で出発。
最初の街に入る関門は『山中田(やまちゅうだ)坂』。
大人は、何でもない上り坂だが、お年寄りには、関門坂。
しかし20名も居たら、あっという間の試練阪。助け合って登りました。
「昔、あそこに料亭があってんでぇ」、「あっ知ってる知ってる」とか、懐かしい思い出話も弾み、登りきったところから眺める、南河内の風景は最高でした。
そして、たくさんの観光客から、こちらは大人の迷子を出さないように(笑)、寺内まちの[雛めぐり]を見学しながら、約二時間半の散歩(遠足)は無事に終わりました。
最後は、皆で記念撮影。
「次は、どこへ行くの?」という、次回の催促の声を聞きながら、楽しい時間を過ごしました。合掌
観念寺大人の遠足~富田林『寺内まち雛(ひな)めぐり』の下見

次の日曜日、観念寺『大人の遠足』に、檀家の皆さんと行く。
総勢17名、ちょっとした団体だ。
平均65歳、年齢層が高いので(笑)、ケガをしたらあかんので保険にも入ってゆく。
場所は、隣町[富田林市]寺内まち。
町中に飾られた『お雛様』を観に行くのだ。
その下見に今日行って来た。
そのわけは、街に入るには一か所だけ難所があるのだ。
それは、『山中田(やまちゅうだ)坂』という坂だ。
小さな坂なのだが、日頃、ショッピングカートを押して歩いておられるご夫婦にとっては、難所なのだ。
「お雛様たちを見たい!」と、熱烈にそのご夫婦はおっしゃった。
願いを叶えてあげたいではないか。
(山中田(やまちゅうだ)坂を上から見た所)
今日、その場所に行って(怪しいやつと思われるほど)、何度もその坂を下調べした。
みんなで、助け合えばきっと登れると思う。
老夫婦に「大丈夫ですよ。」と、さっきお伝えして来た。
さぁ、みんなで行きましょう!
大したことないけど、『隣町へ!(笑)』
北陸・野々市(ののいち)市への旅行~富樫奏高(とがし・やすたか)の調査

(JR野々市駅)
サンダーバードに乗って、北陸の[野々市]市へ、日帰り旅行に行って来た。
脳出血の手術をして丸二年。ひとり旅もできるようになりました。
さて、野々市市というのは、金沢市のちょい南にある街である。
金沢の街は、新幹線景気に浮かれているようだが、隣町の野々市に、その恩恵はなかった・・ようだ。つまり、寂しい駅、そして寂しい街であった。
(富樫館石碑)
そんなことは、どうでも良い。
僕は、戦国時代初期の守護大名[富樫奏高]の事を(以前にも書いたが)調べに来たのだ。
(富樫館の中にあった云われている[布市神社])
いずれ、紙芝居に描こうと思っているので、ごちゃごちゃとした説明は書かないが、この[富樫奏高]というのは可哀想な武将なのである。
中世の政治・宗教によって、その運命を、もてあそばれたようなところがある。
(役場近くに建つ富樫大名像)
[奏高]は、名門[富樫家]の次男に生まれたので、小さい頃、京都の醍醐寺に預けられ僧侶となる。(跡目争いの起こらぬように)
が、兄(長男)が足利将軍から嫌われ大名をクビになった為、[泰高]は還俗(坊さんを辞めて)、北陸に帰って、大名となった。
しかし、兄弟・親族間の確執が続き、最後は、浄土真宗(一向宗)の勢力の助けを得て、(人徳と人気もあったと云われている)三度、富樫家の大名をやったり辞めたりしながら、戦国の世を生き抜いた。・・そんな武将である。
(富樫奏高が描いたと云われている?馬の絵)
難しい親族間の人間関係、そして宗教の持つパワーと恐ろしさを味わながら、そのしんどい人生を生きぬいた[富樫奏高]。
彼は晩年、趣味の[馬のお絵描き(文芸活動)]に精神の安定を求めて、生き抜いたようである。
人間的に優しくもあり、弱くもあり、ちゃっかりしていたところもあった大名[富樫奏高]。
現地でたっぷり調査をしてきたので、いずれ、紙芝居にしたいと思う。
シンクロニシティ(意味ある偶然の一致)
「シンクロニシティ」とは、『共時性』とか『意味ある偶然の一致』とかいう(確か不思議な心理学者のユング博士が言い出した)言葉だっかなぁ?・・しっかりと調べてません。ごめんなさい)
つまり、遠く離れた身内が亡くなった同じ時間に、偶然、同じ身内の靴の紐が切れたり、手鏡が割れたりすることだ。
・・規模は小さいが、先日そのような事が起った。
土曜日にお寺の会議があり、そのお茶菓子を買いに「狭山市」のケーキ屋さんまで行った。
その帰り、まだ時間もあり、お天気も良かったので、散歩に[狭山池博物館]に偶然寄った。
博物館に入ると、なんと『重源』和尚像の前で、(博物館ガイドボランティアの)Kさんが、僕の作った重源さんが活躍する『狭山池の紙芝居』をたくさんのお客さんの前で、(拍手喝采の中)演じておられるではないか。
びっくりしました。
そこで、僕もお客さんに交じって後ろから拝観させて頂きました。
おもしろいものです、自分の作った紙芝居のどんな部分に、お客様が感情を動かしてくださるかを見つめるのは・・。
紙芝居が終わって、Kさんに挨拶と御礼だけ言って、すぐ引き上げたのだが、『これが、シンクロニシティ(偶然の一致)というのだな』とつくづく思い、重源像に深く御礼を言って帰りましたさ。
紙芝居:「悲劇の哲学者 三木清伝」(その7)最終回

そして、昭和二十年九月二十六日。
終戦後も(三木清は歴史から忘れられたかのように、)釈放されず、豊多摩刑務所の中で病死します。
死因は、この刑務所の衛生状態が悪かった為だと伝わっています。
法名『真実院 釋清心』。
行年 四十八歳の若さでした。
三木清の寂しさを表わした言葉が、一つ残っています。
『孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。』
三木清は、「正しく美しく生きる事が、哲学であり、知識だけで終わらせてはダメだ。」と言っています。
現実を見つめながらも、『人間らしく生きる』為に、どうしたら良いかと考え続けた彼でしたが、その志の途中、激動時代の犠牲者になってしまいました。
彼の若き日の詩が、一つ残っています。
『しんじつの 秋の日 てれば せんねんに 心をこめて 歩まざらめや』。
今、彼の故郷、播州竜野市に、この詩と共に[三木清哲学碑]が建っています。 おしまい
(龍野市 霞城館)
(三木清コーナー)
(龍野市 三木清哲学碑)
紙芝居:「悲劇の哲学者 三木清伝」(その6)

昭和十一年、二二六事件の勃発。
昭和十六年、太平洋戦争の始まり・・。
この時期、三木清は日本の思想家として、自分には何が出来るか考えます。
そして、[軍国主義批判]と[平和を目指した評論活動]を開始しますが、『特高警察』から睨まれる存在となっていきます。
そして大学の仕事も辞めて、疎開先で、彼は(最後の仕事となった)『親鸞』の執筆を開始します。
三木清にとって、哲学の集大成は『親鸞聖人の教え』であったのかもしれません。
この本の中で彼は、「親鸞の思想の特色は、仏教を人間的にしたところにある。」と述べております。
おそらく哲学とは、[親鸞聖人]のように、人間らしく真実に生きる事なのだと、(日本国民全体に)述べたかったのかもしれません。
しかし、この本は完成しませんでした。
それは執筆の途中に、(特高警察に追われている)共産党の友人を一日匿ったという嫌疑で、警視庁に[治安維持法]違反で逮捕されたからでした。つづく
紙芝居:「悲劇の哲学者 三木清伝」(その5)

帰国後・・、
昭和二年、三木清は法政大学の教授となります。
そこで、哲学・歴史学・経済学などのあらゆるジャンルの本を出版し、その才能を発揮してゆきます。
彼は今や、学者たちや政財界の重鎮にも、堂々と意見の言える日本の[トップランナー]でした。
そして、三十一歳で結婚。・・長女の誕生。
しかし、時代は暗黒のファシズムの時代へと移ってゆくのでした。 
日本の急速な[軍国主義]の流れに憂える三木清でしたが、昭和八年、個人的にも悲しいことが起こりました。
それは、妻の病死です。
彼の忙しさを影で支えた妻は「私は幸福でした。」と言い残し亡くなったのです。
号泣する清。
そのお葬式の時、日本を代表する哲学者の面影はなく、彼は真摯にお坊さんのお説教を聴聞するのでした。
親鸞聖人の『歎異抄』を深く愛した三木清。
「僕は親鸞聖人の真実の信仰によって死んでいきたい」と、この後、宣言するのでした。
「愛する者、親しい者の死ぬことが多くなるに従って、死の恐怖は、反対に薄らいでいく。」・・これは、三木清の名言です。
つづく
大阪府介護者(家族)の会連絡会への出前

(会場:河南町保険福祉センター)
少しずつ、ほんの少しずつ、今(医療・福祉団体への)『お寺の出前』を復活させている。
もちろん、[近場]だけだが。
昨日、今年初めて、福祉に関わる場への『出前』に行って来た。出前先は、(大阪府の)介護者家族の連絡会である。
その持ち時間は、45分。
「病を越えて、寄り添って生きる」というテーマで、『介護者をされる者も、介護をする者も、みんな一人じゃない。仲間がいるよ』という話を『紙芝居』を絡めてお話した。
紙芝居は、『仏様からの三つのご縁』と『素晴らしき哉、人生』の二本をさせて頂く。
話が終わってから、早速、他の地区から『出前依頼』のお話が来たのだが、すでに僕の予定は今年の12月まで入っているので、受けるかどうかは慎重に決めたいと思っている。

