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紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その4)

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慈雲様は、様々な経験を経て、
「すべて、お釈迦さま時代の仏教に戻れば良い!」と、気づき、その教えを説き始めます。
具体的には、お釈迦さまが示された衣(けさ)を正しく身につける事。
お釈迦さまのお言葉であったサンスクリット語で、お経を読むこと。
お釈迦さまの定められた、僧侶の生活規律を守る事。これらの戒律復興を目指したのです。
そして、それを文字に書くという方法で、わかりやすく万民に示されました。
ところで、慈雲様はお釈迦さま時代の仏教に戻れば良いと言いながら、ご自分は何故?ヒゲや髪の毛を伸ばしていたのでしょうか?
一説によると、彼の髪の毛やヒゲは硬く、カミソリを使うと傷だらけになってしまうから、伸ばすようになったと言われています。(どんな髪の毛やねん?)
つづく

今日は『寺カフェ』の日

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 今日は『寺カフェ』の日。
 暑い日だったので、アイスコーヒーが無くなり、仏婦会会長さんに途中で、スーパーに買いに行ってもらうというハプニングが起こりました。
 今日も盛況でした。
 又、来月!合掌

紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その3)

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 それから、慈雲様は師匠の許可を得て、詩や文学なども勉強しました。
 又、本格的な密教の修法を学ぶため、河内の野中寺へ移り修行しました。
 さらに、信州の曹洞宗のお寺に行き、座禅を学びました。
 そして、そこで解脱の境地に達したそうです。
 彼の心の中には、様々な師匠の教えによって、
『一つの宗旨びいきになってはいけない!少しばかりを得ても、満足せず、さらなる修行のステップを踏んで、高みに登るべきである。』
という気持ちになっていったのです。つづく

紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その2)

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 法楽寺で出家した時の、慈雲さまの気の強かったエピソードが残っています。
 彼は師匠に向かって、こう言ったそうです。
「自分は仏教が嫌いだ!・・出家したのは母に頼まれたからだ。私は仏教をとことん学んで、こんな教えはたかが知れてると、仏教批判をしてやるつもりです。」と。 
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(大阪:法楽寺さま)
 後年、慈雲様はこの発言について次のように語っておられます。
「・・あの時、私は儒教にかぶれていた。
 死後の世界も否定的だったし、派手な衣を着た僧侶も大嫌いだったのです」と。
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 一本気な慈雲様は、何でも徹底的にするタイプで・・、おかしな話ですが、仏教を否定するために猛烈に修行に励んだのです。
 難しい経典を読み、古代インドのサンスクリット語も学びました。
 そして修法も学び、これらの修行を通じて、「自分の考えは間違っていた。仏教は信ずるに値する教えだ!」と、気づくのでした。 つづく
 

紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その1)

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江戸時代、お釈迦さまの再来と呼ばれ、宗派の枠を超えて、仏教の根源を見つめ、日本の宗教界全体に、多大な影響を与えた人物。
彼の名前は[慈雲(じうん)]といいました。
これは、慈雲尊者の生涯の物語です。
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(慈雲尊者誕生の碑:大阪中之島)
慈雲さまは、江戸中期、大阪は中之島の高松藩・蔵屋敷に生まれました。
彼の幼き頃の名前は[満次郎]、のち[平次郎]。
 平次郎は、小さい頃から正義感が強く、勇猛な性格であったようです。
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 平次郎13才の時、父が亡くなります。
兄弟の多かった彼は、母の勧めもあって、「法楽寺」という真言宗のお寺で、出家を決意します。
彼の師匠は、徳の高い[忍綱(にんこう)]という名の高僧でした。
平次郎は彼の元、出家し、[慈雲]となりました。つづく

東本願寺伏見別院『山城才三組門徒会』への出前

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(伏見別院)
本日、東本願寺伏見別院へ、『山城才三組門徒会』主催の講演会にお招き頂き、紙芝居法話に行って来ました。
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(伏見別院列座藤本住職と)
雨の中でも、本堂は満堂でした。
嬉しかったです。
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(藤原光馬氏と)
紙芝居法話を聞きに来て下さった、臨済宗の僧、藤原光馬さま。
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(藤原氏に頂いた仏画)
彼に、いただいた素晴らしい仏画です。合掌

紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その5 最終回)

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やがて、戦争が終わりました。
ようやく、徹誠さんも刑務所から、出る事が出来ました。
がしかし、彼はお寺には帰りませんでした。
いや、お寺も帰れるような状態では無かったのです。
そこで、家族みんなで東京に向かい、そこで、小さな工場を始めたのでした。
又、息子の等さんも、(僧籍を持ちながら)芸能界に入りました。
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徹誠さんは、僧侶は辞めましたが、心はやはり、浄土真宗の親鸞聖人と共にあったようです。
最初に述べたエピソードにかえります。
芸能界入りした、息子の植木等さんに、コミックソング「スーダラ節」を歌うようにと、社長から指示が来ます。
本来、真面目な等さんは、不真面目な歌詞のこの歌を、唄うかどうか迷います。
そして、父の徹誠さんに相談するのです。
すると、歌詞を見た徹誠さんはこう言いました。
「うん、この歌は真理をついている。
[わかっちゃいるけどやめられない]というところは、すべての人間が持つ弱さだ。
その弱さを、そのまま理解して救ってくださるのが、阿弥陀さまという仏様なのだ。まぁ、あちこち、おかしな箇所があるが...、
これは親鸞聖人の生き方そのものだ。
等、是非、歌いなさい!」と。
この一言で、歌う決心をしたそうです。
そして、「スーダラ節」は、大ヒットしました。
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その後の徹誠さんの晩年は、お孫さん達に囲まれて、穏やかに過ごされました。
そして昭和53年、82才で病に倒られます。
病床の中、こう言われたそうです。
「俺はあの世で、親鸞聖人に合わせる顔が無い。ああ、恥ずかしい。」と。
そして最後の言葉は、「ありがとう。おかげで楽しい人生を送らせてもらった。」で、あったそうです。
おしまい

紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その4)

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徹誠(てつじょう)さんは、侵略国家へと進んでいく日本国家に対しても、「異議あり!」と唱えました。
彼は戦時中、戦地に向かう出征兵士や檀家さんに対して(その場に警察官がいても)、堂々とこう言いました。
「いいか、君たち。戦争というものは、集団殺人行為なのだ!
君たちは、それに加担させられる事になった訳だから、なるべく、戦地ではタマの飛んで来ないところに居てなさい。
そして、なるべく相手もころすな!
それから、絶対に死んじゃあ駄目だぞ!生きて帰って来い!」と発言したそうです。
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国は、そのような事を言う徹誠さんを見逃すはずがありません。
[治安維持法]違反という、法律をかざして、彼を逮捕しました。
そして、何度も拷問に掛けられたそうです。
が、釈放されたら、又すぐに「いいか、君達、戦争というものは集団殺人だ!」と人前で話すものですから、その都度、彼は逮捕されたそうです。
彼はブレませんでした。又、彼の精神力は、強靭でした。
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仏説無量寿経というお経の中に[兵ガ無用(ひょうがむよう)]という言葉があります。
これは、「仏の国に、兵士や武器など必要ありません。」という意味です。
徹誠師は、この言葉を実践しようとしたのです。つづく

紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その3)

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昭和4年。
徹誠さんは、34才で得度して、僧侶になりました。
そして翌年、空き寺に入り、住職になりました。
この頃、徹誠さんは身を持って、根強く存在する部落差別の現状を、目の当たりにするのでした。
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そして、自ら差別の激しかった地域のお寺移り、差別撤廃運動の指導者になったのでした。
こちらのお寺に移った時、徹誠さんは檀家の人達に、こう言っています。
「私の仕事は、死んだ人を供養するだけではなく、生きている人々の良き相談者になることです。」と。
そして、不平等と戦いました。
おそらく、[仏の下では、すべての生命は平等である]という、仏教思想が、彼を動かしたのでしょう。つづく

紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その2)

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 植木徹誠(うえき・てつじょう)師。
 本名、植木徹之助さんは、明治28年、三重県の回船材木商の次男に生まれました。
 彼は学校を卒業してから、親戚である『ミキモト真珠店』東京工場に就職します。
 そこで働きながら、キリスト教や労働運動、そして社会主義などから様々な影響を受け成長していきます。
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大正12年、その東京で、彼は関東大震災に遭遇します。
その結果、工場は閉鎖。
彼は解雇されます。
それで、妻の実家であった三重県の浄土真宗のお寺に避難します。
そこで、次第に仏門に帰依する心になっていったのです。
つづく