
『月刊 御堂さん』は、本願寺津村別院が、発行する冊子である。
今年は、その冊子の〔お参り茶話〕という(毎月異なった住職が書くエッセイの)コーナーのイラストを頼まれている。
今回は、『お稚児行列の思い出に』というタイトルの原稿が、ファックスで送られて来たので、僕は(写真の)『お稚児さん』の絵を(あちらこちらのお稚児さんの写真を取り寄せてディフォルメして)書いて送った。
この原稿は、毎回、忘れた頃に送られて来て、わずか五日間ぐらいで仕上げなければならないので、(まぁ、妥当な締め切り日数かもしれんが・・?)結構プレッシャーを感じて、しんどい。
でも掲載紙が送られてきたら、まずそのコーナーを開いて見て、「あぁ、こんな風に載ってるわ」と一人口ずさみ、結構感激して嬉しいものである。
・・と言ってる間にも、次々月の原稿が(間もなく)送られて来る頃か?
次はどんな原稿内容なのか?・・「ちゃんとした絵が描けるのかどうか?」と毎回、ドキドキする。
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五月の『月刊 御堂さん』、「お参り茶話」のイラスト
中村小学校:図書室「読み聞かせの時間」での紙芝居

今日は、地元「河南町」中村小学校での『本の読み聞かせ』の時間に、紙芝居を持って入って来た。
これは(役場の教育委員会がバックアップして)、小学校の図書室を使って、(学校のお昼休みに)地元の大人たちが、子供たちに昔ばなしを語ったり、本の読み聞かせをしたりして、情緒教育を育み(先生方の)お助けをしようと始めた試みである。
・・それに僕も巻き込まれた。(笑。・・いや、校長先生と元教員の総代さんの奥さんに頼まれたので断れんかったのだ。)
でも、やったら、結構おもしろかった。
第一回ということで、僕は子供たちに、解りやすい日本の昔ばなしが良いと考え、『わらしべ長者』を持って行った。
が、『わらしべ』という言葉の意味や『長者』という意味の説明から、話に入らねばならなくて、最初から苦戦した。
・・で、もう「オールアドリブ」で、紙芝居をやった。(ちょっと大げさに演じた。)
低学年の子供たちは、どうやら紙芝居が気に入ったようで、真剣に見ていてくれた。
まぁ、これからどうなることかは解らんが、毎月定期的に、僕は小学校の図書室に出没することになる。
庄松(しょうま)さんの故郷、香川県東かがわ市へ
今、『讃岐の庄松(しょうま)さん』と云う〔妙好人=無学でめっちゃ心のピュアな念仏者〕の紙芝居を作っている。
この方は、四国は香川県東かがわ市の方で、一度、その庄松さんの故郷に行き、取材を兼ねながらお墓参りをしたいと思っていた。
その思いは、紙芝居製作中からどんどん強くなり、昨日、思い切って車を飛ばして行って来た。(もちろん、庄松さんゆかりの『勝覚寺』さま(庄松さんはこのお寺の(小間使いのような)寺男をしていた)にはアポは取って行った。)
車は、行きは良いよいでスムーズに走れたが、帰りはゴールデンウイークの大渋滞に巻き込まれて、へとへとになってしまった。
写真は、途中休憩のパーキングから撮った『大鳴門橋』である。
でも、今日はとにかく『紙芝居の取材』が目的の旅なので、景色をゆっくり見るゆとりは無く、たえず「庄松」さんの事を考えて、車を走らせた。(でも、ちょっと「讃岐うどん食べたい」と云う事も頭の隅にはあった。〔笑い〕)
午後の一時に、三時間掛けて『勝覚寺』さまに到着。
まぁ、とにかく大きなお寺であった。(松も立派!)
坊守さんが、本堂からお出迎え下さり、銘菓「庄松さん」というお茶菓子を頂きながら、「この近辺は生き仏『庄松』さんの(人気の)お蔭を、今でも多く頂いているのですよ。このお菓子の名前なども。」とお話して下さった。
僕は今回の目的の一つでもある、未完の『庄松さんの紙芝居』を見て頂き、(史実として)間違った箇所はないかをチェックして頂く。又、これからあちこちでこの紙芝居をさせて頂く許可も得た。
そして庄松さん研究の書物には載っていない『庄松さん出生の秘密』なども教えて頂いた。(ここには書けないが、これを聞くだけでも来た甲斐があった)
そして、『庄松音頭』という(こんなんあるんやねぇ。〔笑い〕・・ほんま庄松さん様様やねぇ。なんか京都の本山でも、最近皆がこの歌に合わせて踊ったらしい)カセットも聞かせて頂いたり、紙芝居でも描いたエピソードの一つの〔経本〕を見せて頂いたりした。(このおもろいエピソード話はいずれ、このブログで詳しくアップしたいと思います。)
そして、境内の『庄松さんの像』をカメラに収める。(ほんまにおもろいねぇ。この変わった妙好人が、境内で銅像になっているんやから)
そして、僕は次に大急ぎで、一つ駅向こうにある『庄松』さんのお墓へ。
身寄りの無い庄松さんが臨終の間際の時、近所の人が集まって、「お前の為にお墓を建ててやるから安心せぇ」と言ったら、庄松さんは「わしゃ、死んでも墓の下にはおらんぞ。」と(『千の風になって』そのまんまの人やねぇ)言い切った庄松さん。
可愛く無いといえば可愛く無いおっちゃんやけど、なんか、僕は(『男はつらいよ』の寅さんと源ちゃんを合体させた男みたいで)好きやなぁ・・。
おそらく、この墓の下には『庄松』さんは居らんねやろうなぁ・・。どこか、極楽で逆立ちして遊んでいそうな、そんな人やね。でも、僕は拝んできたけど。
この方の破天荒な人生は、いずれこのプログで紹介しますので、楽しみに待ってて下さい。・・いつになるか解らんけどな。・・僕も可愛くないおっちゃんやなぁ。
お寺漫才
毎月、定例に行かせて頂いてる『カナン・デイサービス』へのお寺の出前。
今月はゲストとして、R寺とG寺の坊守さん(お寺の奥さんのこと=僧侶でもある)が、苑内で「お寺漫才をさせて欲しい」と連絡があり、「どうなることやら・・」と、内心不安でもあったが、まぁ取りあえずやってもらおうかと、披露して頂いた。
まず、僕が「紙芝居」をやって、それから坊守さんたちを紹介。
そして僧侶の姿をした、二人の女性の掛け合い漫才が始まった。
「あんたの、そのお坊さんの着物の名前何ていうの?」
「ふ~ん、何やったかなぁ?・・ごほう(誤報)」
「そら、間違いのお知らせやがな」
「ほな、○○ほう。」「そら、○○やがな。」と、関西風のボケとつっ込みで、お寺の中の素朴な話題で話は進み、最後は歌って踊って終った。(答えは「布袍(ふほう)」という。)
期待していた以上に面白かった・・と思う。(上から目線やなぁ、失礼)
利用者さんからも、最後質問も出たりして、明るい雰囲気で閉めることができた。
帰り、控え部屋で「次回の(第二弾の)漫才の台本を書いてもらえませんか?」と頼まれ、「えぇー、そんなん、よう書かんわ」と言いながら、今日もお参りの最中、漫才ネタを考えて自転車でお参りしていた僕であった。
紙芝居:「念仏もうせ物語~道綽禅師のはなし」(後編)

道綽(どうしゃく)さまは、朝、目が覚めてから、夜、眠るまで時間を惜しんで『念仏』されたそうです。(思い立ったら、とことんやるタイプだったのですね。・・こんな人、一学年に一人、学校に居りましたよねぇ。〔笑い・・笑てどうすんねん!〕)
その『念仏』の数は、一日〔七万遍〕を超えたそうです。(一時間は3600秒で、一日24時間ですから、一日86400秒。一秒間に一回念仏を称えたとしても、一日20時間近く念仏を称えなければ、七万遍になりまへん。・・ようやるわ。・・こんな人、一学年にひとり、おりまへんなぁ。)
まぁ、それ程、念仏に打ち込まれたのです。・・この御方は。
又、その念仏の数が正確と解るように、〔モクゲンジ〕や〔小豆〕の種で、計算された伝わっています。 
そして道綽さまは、言われました。
「皆さ~ん、世の中は乱れ、人の心も悪くなり、罪を作るより他何もできません。
私たちの救われる道は、お念仏なのですよ。
さぁ、皆さんご一緒に念仏を申しましょう!」と。
「さぁ皆さん、お念仏を一回称えることに、お数珠の珠を一粒、動かしてください」と、道綽さまはみんなに教えて、念仏の数を競争させてものですから、皆もう熱中して大変でした。
ナムアミダブツ、ナムアミダプツ、ナムアミダブツ・・・。
このように、玄中寺にお参りするたくさんの人の念仏の声は、一日中、波(ウエ~ブ)のように辺り一面、響き渡りました。
こうして玄中寺には、連日、道綽さまを慕ってたくさんの人がお参りに来られ、念仏の声が途絶えた日は無かったそうです。
さて、その道綽さまがご病気になられたのは、84才の時でした。
心配して駆けつけて来られた多くの方に囲まれて、道綽さまは西を向いてお話なさいました。
「みんな、私は先に往って待ってるからね。みんなもお念仏を喜び、極楽に生まれさせてもらいなさいよ。」と言って、いつものような笑顔のままで、息を引き取られたそうです。
その後、たくさんのお弟子の中から、《善導(ぜんどう)大師》という御方が、道綽さまのお心を受け継がれ、さらにお念仏の教えを広めてゆかれるのですが、それは又、別の『紙芝居』。
道綽さまのお話は、これにておしまい。
紙芝居:「念仏もうせ物語~道綽禅師のはなし」(中編)

心の安らぎを求める為、道綽(どうしゃく)さまは次に『坐禅』を実践する教団に入門され、ひたすら『坐禅』の修行に打ち込まれました。
しかし、その修行によって明らかになってくるものは、どれ程ひたむきに修行に励んでも、〔煩悩〕を絶つ事が出来ぬという、醜い自分の姿でした。
戦乱の続いた苦しい時代を体験された道綽さまは、今自分の生きている時代は《末法(まっぽう)の世》だと思い始めていたのでした。
・・ちなみに簡単に説明しますと、仏教には《正法(しょうほう)》・《像法(ぞうほう)》・《末法(まっぽう)》という三つの時代観があります。
《正法》とは、お釈迦さまが亡くなられてからの500年間であり、まだ修行して悟りを開く人が居る時代をいいます。
《像法》とは、正法が終ってからの1000年間であり、修行する人は居るが、悟りを開く人は居なくなってしまう時代のことです。
そして《末法》とは、像法が終ってからの10000年間で、この時、仏教の教えはあっても、修行する人も悟りを開く人も誰ひとり居なくなるであろうという時代です。(・・誰が考えてん?!)
道綽さまはご自分の体験から、今、自分の生きてる時代は《末法》の時代に間違いないと思われたのです。 
それで、絶望された道綽さまは「旅にでも出るか・・」と思われ、センチメンタル・ジャーアーニィ~~に出発されました。
そしてその途中、曇鸞(どんらん)大師が亡くなったいう『玄中寺』というお寺で、一休みされた時のことです。
そこで、曇鸞さまの御一生が刻まれた『石碑』を見つけました。
「うーん、何々。・・仙人の教えを捨てて、ただ『念仏』のみに縋り、仏さまにして頂こうと信じ、それを喜ばれ実践されたお方。・・そしてそれを皆にも勧めた・・か。
(もっと詳しく曇鸞さまを知りたい方は、https://o-demae.net/blog/archives/463.htmlへゴー!)
なんと、このような御方でも、学問・研究を捨て、アミダ仏様に縋って『念仏』を称える道を選ばれたのか・・。
そうだ、いたらぬこの私も、その道を歩むしかない!」と、道綽さまはその石碑を読んで、一大決心をされました。
この時、道綽さまはすでに48才になっておられました。
「私は曇鸞さまの御あとを慕って、お念仏を実践することにする!」と、そのまま『玄中寺』に留まり、寝ても覚めてもひたすら念仏を称える実践修行に入られたのです。 つづく
紙芝居:「念仏もうせ物語~道綽(どうしゃく)禅師のはなし」(前編)

『七高僧』のお一人、「道綽(どうしゃく)禅師」は、今から一千四百年程前に、中国でお生まれになりました。
道綽さまの生まれた頃の〔中国〕は、三つの国に分かれており、お互いが対立しておりました。
道綽さまの国〔北斉(ほくさい)〕では、そのころ、イナゴの大群による被害や、旱魃・水害が起こり、食べ物を巡る醜い争いが、何度も起こっていました。
庶民であった「道綽」さまは、その醜い争いを見て、深く思う所があり、僧侶になる決心をされたのでした。
時に道綽さま、14才でした。
しかし、道綽さまが出家されてから二年目に、〔北斉〕で大きな戦争が起こりました。
そして、かねてより中国統一の野望を抱いていた、〔北周〕の「武帝」という王が、〔北斉〕に攻め入り、北斉国を滅ぼしてしまいました。
その「武帝」は、元から仏教が大嫌いでした。
それで、仏像を壊し経典を焼き、すべての僧侶は、元の庶民に還俗させられました。
僧になってまだ二年の「道綽」さまも、元の庶民に戻り、この仕打ちをじっと我慢しておりました。
それから一年後、武帝は亡くなり、新しい国〔隋〕が生まれました。
この〔隋〕の王は、武帝と違って、仏教にたいへん好意的でした。
それで又、やがて仏教は認められる事になり、「道綽」さまも再出家される事になったのです。
再び出家された時、道綽さまは20才になっていました。
本来まじめな「道綽」さまでしたので、又また、寝る間も惜しんで難しいお経を勉強され始めました。
そして、やがて多くの人々からたいへん尊敬されるような偉い僧侶になりました。
しかし、本人の道綽さまの心は、一向に安らいではおりませんでした。 つづく
白衣観音
「住職さん、これ私が描いた『白衣観音』という仏さんなんやけど、受け取ってもらえませんか?」と言われて、差し出されたのが、上の(写真)の絵である。
これは、昨日の特養老人ホーム『白寿苑』での「法話会」終了後の話で、この絵はOさんという(女性)が、私にプレゼントして下さったものだ。
おそらく、これはカレンダーの裏か何かに、描いた絵なのだと思うのだが、「私、住職さんの『紙芝居』を毎月見ていて、私も仏さんを描いてみようと思ったんです。・・でも、難しいもんですねぇ。 私ね、週刊誌見てたら、『白衣』を着た観音さんを見つけて、これは珍しいと思って描くことにしたんです。」とおっしゃった。
「そんな心のこもった絵を、私が頂戴して良いのですか?」と問うと、
「また、何枚でも描きますから。どうかもらって下さい。・・でも、仏さんの絵は、眉毛と目を描くのが一番難しいですわ。描いてて、『ホンマに一枚の絵を描くって、こんなに難しい事なのか』と、何度も住職さんの顔を思い浮かべて描いたんですよ。」と答えられた。
実はこのOさんは、癌の病気を持っておられて、いつ変事があるかわからない。
つい先日も、入院されていて、こちらに帰って来れないのではないかとも言われていた。・・が、しかし、帰って来られた。(あっけらかんとしておられるが、ご自分の病名は薄々気づいておられる賢い方だと、職員さんは言っておられた。)
『白衣観音』とは、「災難を除き、延命の願いをかなえて下さる仏さまである。」
Oさんは、今、ご自分の身体に起こっている事を知っていて、病院の医師や看護師さんの姿などを思い浮かべながら、白衣姿のこの仏さんを描かれたのかもしれない。
この絵を頂いた僕は、大事にご本尊の仏さまにお供えしておきたいと思う。
52回目の誕生日
4月16日は、僕の52回目の誕生日。
昨日で52才になった。
子供の頃、50才っていうのは凄い〔年寄り〕だと思っていた。
だが、実際成ってみて、あまり昔(30・40代の頃)と変わってない。
つまり、成長していないのか?・・精神的に。(笑)
もちろん、あちらこちらに、身体のガタはきているが。
昔、ビートルズの(故)ジョンレノンが言った。
「人間は、突然30才になる。そしてまだまだ、やらねばならない事がいっぱいあるのだ」と。
これは、おそらく30才になった時の抱負を、インタビューされて答えたものだろう。
僕も突然、50才を過ぎた。・・そして、まだまだ作りたい紙芝居がいっぱいある。
だから、身体を大事にして長生きせねば。
妻からもらった誕生日ケーキを食べながら、そう思った。





