住職のつぼやき[管理用]

記事一覧

※画像をクリックすると拡大されます。

産経新聞〔夕刊〕に載りました

ファイル 684-1.jpg

 昨日の産経新聞の夕刊に、私の(ちっちゃな)活動が載りました。
 この記事を読まれた多くの方(特に最近元気のない関西人)が、少しでも元気・やる気を取り戻し、被災地復興へ協力できますように・・。
 そして又、東日本にも新たな良き、善き〔ご縁〕が(紙芝居を通して)生れますように・・。
 (電話取材も含めて)何度も、ご連絡下さいました〔秋山記者〕、本当にありがとうございました。
 そして、快く取材協力くださいました『ゆうせいデイサービス』の職員の皆様、感謝申し上げます。
 秋山記者さま、「一度お寺に伺って、すべての現物(生)『紙芝居』を見てみたい」と、おっしゃっておられましたね。
 お待ちしております。・・新鮮な内にどうぞ。合掌
(下の産経ニュース:ホームページからも見れます)
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110426/wky11042615270005-n1.htm

『稲むらの火』の時、大阪にも《津波》は来た!

 先週の金曜、『特養老人ホーム甍』苑内、「講話クラブ」でのお話。
 その時、例の『稲むらの火』の「紙芝居」をさせて頂いた。
 その講話も終り、帰ろうとした時、一人の入所者の男性に声を掛けられた。
 その男性は、次のような内容の話を僕にして下った。
「私のご先祖さんからの伝え聞いてる話ですが、大阪にも大きな津波が来て、そこで、たくさんの人が亡くなったらしいですよ。・・確か、その〔慰霊の碑〕が、(浪速区)大正橋の手前に建ってたと記憶しているのですが、・・一度行ってみられたらどうですか?」というものだった。
 それで、昨日さっそく行ってみた。
 その〔慰霊碑〕は、確かにあった。
 しかも驚いたのは、この地震大津波の記録の〔慰霊碑〕は、あの『稲むらの火』と同じ(安政元年11月5日)同年、同月、同時刻に起こったものと一緒だったのだ。
 そう、あの〔大津波〕は、大阪にも来たのだ!
ファイル 683-1.jpg(大津波両川口津波記の碑)
 そしてその〔慰霊碑〕の裏には、津波被災の詳しい様子が書かれてあった。
 又、横には、それを〔現代語〕に訳された碑も建てられていた。
 それは、今の我々が読んでも、非常に興味深い内容なので、今回抜粋して書かせてもらいたいと思う。

 〔大地震両川口(りょうかわぐち)津波記〕
 『(前略)・・嘉永七年(=安政元年)十一月五日午後四時ごろ、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに、一斉に津波が押し寄せてきた。(『稲むらの火』の様子とまったく一緒や!)
 安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東掘まで、約1・4mの深さの泥水が流れ込んだ。
 両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇や綱は切れ、川の流れを逆流し、宇治橋、亀井橋(等々)の橋はすべて崩れ落ちてしまった。
 さらに、大きな道にまで溢れた水に慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もあった。
 道頓堀川に掛かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し川をせき止めた為、河口から押し流されて来た船を下敷きにし、その上に乗り上げてしまった。
(中略)南北を貫く川筋は、一面あっと云う間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は、流されてきた船によって壊され、その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲になった。(犠牲者は三百五十人を越えたらしい)
 (中略)地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対にしてはいけない。又、建物は壊れ、火事になることもあるので、お金や大事な書類は大切に保管し、なによりも『火の用心』が肝心である。(今と一緒や!)
 (中略)津波というのは、沖から波が来るというだけでなく、海辺近くの海底などから、吹き上がってくることもあり、海辺の田畑にも泥水が吹き上がることがある。今回の地震で〔大和の古市〕では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、これに似た現象なので、海辺や大きな川や池のそばに住む人は、用心が必要である。
 津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよく解っているが、十分に心得ておくように。
 犠牲になられた方々のご冥福を祈り、拙い文章であるが、ここに記録しておくので、心ある人は時々、碑文が読みやすいように墨を入れ、伝えてほしい。(後世の我々の事まで、心配してくださってるんやね。・・ありがとうございます。) 安政二年七月 建立』
 
 少し長くなってしまったが、今読むと、当時の光景と先月の〔東日本大地震〕の様子がリンクしてしまう。
 「やはり、我々は先人からの言い伝えをしっかり守らなくては〔未来〕はないかもしれない。」
 ・・この写真を撮り、慰霊碑に手を合わしながら僕はそんな事を思った。 
 ・・帰ろうとした時、〔潮〕の匂いが微かにした。
 「そう、ここは海に近いのだ」と、改めて思ったのだった。
ファイル 683-2.jpg(奥に見えるは木津川と〔京セラドーム〕)

それって、おかしい?

 おとといに、檀家の奥さんから聞いた二つの話。
 一つ目。
「住職さん、私の茨城県に住む友達からメールが来ました。そこには、『〔震度4〕の揺れが普通になり、そんなに恐くなくなってきました。』と書いてました」と。
 僕は思う、『それって、良い事なの?』、いやいや、『とても恐い事でしょう!』。
 二つ目。
「一人暮らしの、私の年配の友人が、震災のテレビを見過ぎて〔うつ病〕になってしまいました」と。
 再び僕は思う、『それって、異常な事?』、いやいや、『誰でもあの惨状を一人で見続けたら、そうなるかも』。
 こんな時、私達はどうすれば良いのでしょう?
 そうだ、こんな時、平常時には不必要な(笑い?)〔さだまさし〕さんの歌を、聞くというのはどうでしょう。
 そう、精神状態が落ち込む時以外、それほど聞く必要もないような、(妻を筆頭とする〔さだまさし〕ファンの皆様、失礼な事書いてすみません。)さだまさしさんの『奇跡~大きな愛のように~』を聞くというのはどうでしょう?
 ちょっと歌詞を書かせていただきましょう。
『 どんなにせつなくても 必ず明日は来る
 ながいながい坂道のぼるのは あなた独りじゃない
 僕は神様でないから 本当の愛は多分知らない
 けれどあなたを想う心なら 神様に負けない(神様への宣戦布告かいっ?!〔僕のつっこみ〕)
 たった一度の人生に あなたとめぐりあえたこと
 偶然を装いながら奇跡は いつも近くに居る
 ああ大きな愛になりたい あなたを守ってあげたい
 あなたは気付かなくても いつでも隣を歩いていたい
 (中略)
 僕は神様でないから 奇跡を創ることは出来ない
 けれどあなたを想う奇跡なら 神様に負けない
 (中略)
 ああ大きな夢になりたい あなたを包んであげたい
 あなたの笑顔を守る為に 多分僕は生れて来た 』
 ・・ホントは僕も〔さだまさし〕さんの隠れファンなのです。
 あくまでも〔隠れ〕ですが。・・妻の影響かも。
 実は今、僕は『お寺の出前』に行く時、ずっとこの曲を車の中でリピートして聴いているのです。 すると少し精神が安定するのです。・・少なくとも僕は。
 津波に巻き込まれ魘される夢を見続け、あの日以来、口内炎が直らない僕が言うのですから、本当です。
 完全な曲自体を視聴されたい方は、パソコンで『さだまさし 奇跡』と打って検索したら、ぜんぶ聞けます。やってみて下さい。・・みなさんにも、小さな奇跡が起きるかも? 

平和を求める祈り

 僕の好きな〔お坊さん〕に、『聖フランチェスコ』がいる。
 彼は、中世の西洋のお坊さんである。
 僕がこの方を最初に知ったのは、大学生の頃であったろうか。
 ちょうど、クリスマスの晩、深夜テレビで『ブラザーサン・シスタームーン』という〔フランチェスコ〕の生涯を映画化した番組がやっていて、偶然、僕は録画しながらそれを見た。
 ・・恥ずかしながら、感動で涙が止まらなかった。それから、この映画を何度も、何度も、何度も、何度もテープが擦り切れるぐらいみたし、映画の中で出て来る〔フランチェスコ〕の詩歌も、静止ボタンにして、全部ノートに写しだした。
 あぁ、今思い出してもウルウルしてくる。(これは年のせいかも・・)
 余談ながら、のちDVDも買ったし、聖フランチェスコに関するあらゆる本(詩集・研究書など)を買い揃えた。
 それぐらい好きなのである。(もちろん、近い将来『紙芝居』にさせて頂きます)
 こんな立派なお坊さんはいない・・と思う。
 宗教は違うが、『聖フランチェスコ』は僕の理想である!
 「お寺の出前」の原点も彼の行動にあると言っても過言ではない。
 又、彼に憧れて僕は宗教者になったといっても、大げさにはなってないと思う。(だけど、僕は《仏教》を選んだ。・・僕の中では、やっぱり仏教だったのだ)
 実は僕の机の上に、『お釈迦さま』と『ラーマ・クリシュナ』と『聖フランチェスコ』の絵像が飾ってあり、毎日眺めている。・・もちろん、『親鸞さま』の絵像も掛け軸で飾ってある。(コレ言うとかな〔笑い〕)
 長くなってしまったが、簡単に『聖フランチェスコ』の生涯を述べる。
 13世紀のイタリアで、裕福な商人の一人息子として、彼は生れ何不自由なく育った。いわば、ボンボンである。
 青年になったフランチェスコは、仲間と共に〔十字軍〕の戦いに参戦。
 しかし、捕まって捕虜となり、又、重病も患い故郷になんとか帰って来る。
 生死を彷徨いながら、彼は奇跡的に回復。・・と、同時にフランチェスコは自分の中で起きた大きな変化に気づく。
 それは、神への《信仰心》だった。
 それから、彼は富や財産を拒絶して、次第に修道の道に進んでゆく。・・ここから先は、レンタル屋さんで借りて見てください。一見の価値は、あると思う人には、あると思う。
 長くなり過ぎた。
 今回は、その『聖フランチェスコ』の「平和を求める祈り」という(やはり僕の机の上に飾ってある)詩を書きたかったのだ。
 もうちょっと我慢して、読んでください。

 「平和を求める祈り」
 『わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
 憎しみあるところに、愛を
 いさかいあるところに、許しを
 分裂あるところに、一致を
 疑惑あるところに、信仰を
 誤っているところに、真理を
 絶望あるところに、希望を
 闇にも、光を
 悲しみあるところに、喜びを
 もたらすものとしてください。
 慰められるよりも、慰めることを
 理解されるよりは、理解することを
 愛されるよりは、愛することを
 わたしが求めますように。
 わたしたちは、与えるから、受け
 ゆるすから、ゆるされ
 自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。

 《アッシジ(土地の名)の聖フランチェスコ》の詩より
 
 
 

ある時は「余興」、又ある時は「法話」、又又ある時は「講話」、はたしてその実態は?

 しばらく忙しすぎて、このブログを書く時間が無かった。(今日、久々に書こうと思ったら、今度は何を書いて良いかわからん始末です・・。)
 で、先週のおもろかったことを、思い出して書きます。
 で、で、僕の『紙芝居を使ってのトーク』って、いったい何?と感じたお話を。
 まず、昨日の『寛弘寺老人クラブ』への「出前」の件。
 その会では、一年間の決算報告も無事終わり、会長さんが、横に控えて座っていた僕を、おもむろにこう紹介された。
「さあ、それでは、次に《余興》に移りたいと思います。・・観念寺の住職さんに、今から紙芝居をしていただきます。どうぞ、みなさん拍手を」(パチ、パチ、パチッ)と。
 で、僕は「こんにちは皆さん、《余興》に参りました観念寺です。それでは今から『稲むらの火』という紙芝居を見て頂き、このほどの大震災、そして命について考えて頂きたいと思います」と。
 ・・そう、ここでの僕の話は《余興》なのだ。

 次に、おとといの夜の〔専光寺〕さまの『春の法事』への「出前」の件。
 勤行も終り、本堂にお集まりの皆さんに、ご住職さんが、僕をこのように紹介された。
 「さぁ、それでは、今から『法話』に移りたいと思います。観念寺の住職さんは紙芝居を使って『法話』をされます。・・では、よろしく。」と。
 で、僕は「こんばんは皆さん、紙芝居を使っての『法話』に参りました観念寺です。今日は『稲むらの火』という紙芝居を見て頂き、このほどの大震災、そして命について考えて頂きたいと思います」とご挨拶をした。
 ・・そう、ここでは僕の話は《法話》なのだ。

 そして、先日の老人保健施設では、司会者職員さんが、僕を
 「さぁ、それでは皆さん、お楽しみのお時間です。今から『講話』をしていただきます。・・後、省略。」
 で、僕は「こんにちは、皆さま、今から紙芝居を使って《講話》をさせていただきます。お話は『稲村の火』という・・後、省略。」
 ・・そう、ここでは《講話》なのである。
 でも全部、話の内容は一緒。
 ある時は『余興』、又ある時は『法話』、又又ある時は『講話』・・はたして、その実態は???
 結局、何でも良いのですよね。ネーミングなんて。
 大事なのは、僕からのその時その時の『紙芝居』を使ってのメッセージなのです。(まぁ、毎回軽いメッセージですけど。)
 後、又なんかおもろい『ネーミング』が飛び出てきたら、書きますね。 『お寺の出前、出前先ネーミング大募集』!
  

「お葬式」合い間の「出前」とインタビュー

ファイル 679-1.jpg(ゆうせいデイサービス)
 お葬式の合間(告別式終了後と還骨(骨上げ)勤行の間の二時間)の福祉施設への「お寺の出前」は、しんどい。
 ・・プラス、新聞記者の方のインタビューが入ると、もっとしんどい。
 ほとんど、(迫り来る)時間を気にして、記者の方の質問にも、しっかり答えられていなかった・・気がした。(サンケイ新聞の記者様、失礼の談、お許し下さい)
 今日の話だ。
・・まぁ、こんな日もある。
 せっかくの機会なので、どちらかを中止するには忍び難かったのだ。(欲かな~)
 もうちょっと、体力をつけなければ。 
 こんな事でへたばっていてはいけない。
 でないと、これからを時代を乗り越えれないぞ・・。
 頑張ろう、日本!&お寺の出前!・・どちらも復興の為に!
 

紙芝居:「実録 稲むらの火」 ~余話

 少々、マニアックだが、もう少し梧陵さんの話を続けたい。
 実は一昨年の人気ドラマだった、TBS日曜ドラマ『JINー仁』に、浜口梧陵(儀兵衛)さんは出ていた。(ラッパのマークの正露丸CMの〔石丸謙二郎〕さんが演じていた)
 梧陵さんは、ドラマの中で、主人公の医師(違いがわかる男〔大沢たかお〕氏が演ずる)〔仁〕に、医薬のペニシリン作り協力の為、《ヤマサ醤油》の倉を提供し、金銭共に〔仁〕を応援したのだ。(浜口梧陵の近代医学の為の莫大な資金提供は史実である。)
 このドラマの(「世界の車窓から」のナレーター、そして、メロスのような日本初のストリーキング男)〔石丸謙二郎〕さん演ずる浜口梧陵も、義侠心ある梧陵さんを堂々と演じられていて、とても好かった。(第2部でも出るかな?・・楽しみだ。)
ファイル 678-1.jpg(浜口梧陵のお墓)
 もう一つ、浜口梧陵の死因であるが、旅行中にアメリカで亡くなられたというのはすでに述べたが、原因は『腸の癌』の突然の悪化ではないかと云われている。(・・はっきりとはわからない。)
 ただ、ご遺体は日本に持ち帰り、お葬式は和歌山県『広村』でされたと伝わっている。
 それは盛大なお葬式で、導師に西本願寺から有名な〔大洲鉄然〕師が読経に行かれたと伝わっている。
ファイル 678-2.jpg(浜口梧陵旧宅・現:記念館)
 又、これも余談だが、現在『浜口梧陵旧宅』は『記念館』であると共に、『津波防災教育センター』になっている。是非、和歌山県に行かれた時は、お寄りになられたら良いと思う。(『稲むらの火 3D映画』も見れて迫力満点である!)
 又、この記念館の石標碑の文字は、なんとあの元総理〔小泉純一郎〕氏が書いている。(「感動した!」(笑い))・・裏話だが、外国の政治家に『稲むらの火』の話を聞いて、「日本にもそんな人が居たのか!?感動した!(こればっかり・・)」と驚いて、急遽調べて、この石標碑筆のご縁となられたらしい。
ファイル 678-3.jpg(広川町の空)
 最後に、僕がこの和歌山県広川町に取材に行ったのは、去年の夏だった。この最後の写真は、梧陵さん達が避難した『広八幡神社』から写した広川町の空である。
 山の上に(原子力発電ではない)、大きな〔風力発電機〕が回っていた。・・この巨大扇風機も、騒音公害・環境破壊ともいわれているが、今考えれば、原子力発電の恐さから見れば・・・。終わり
 

紙芝居:「実録 稲むらの火 (復興編)」 後編

ファイル 677-1.jpg
 〔浜口梧陵(ごりょう)〕先導のもと、四年間に渡る〔広村堤防改修工事〕は、無事に終了しました。
 これは、その完成直前のエピソードです。
 昔から、人々の為に力を尽した人が、『神様』として祀られることがよくありました。
 〔梧陵〕にも、そんな話がきたのです。
 村の長老が、梧陵に言いました。
「梧陵の旦那様、どうか我々の願いを聞いてくだせぇ。旦那様は、村の復興の大恩人じゃ。だから『浜口大明神』として、お社を作らせて頂けませんですか? 皆で、旦那様を拝みたいんでなぁ。」と。
 しかし梧陵は、「私は人として、やるべき事をやっただけ。『生き神さま』の話は、お断りいたします」と辞退したのでした。
ファイル 677-2.jpg
 その後、時代は『江戸』から『明治』へと変わり、梧陵は、跡継ぎにお店を譲りました。
 このお店が、現在の『ヤマサ醤油株式会社』です。
 そして、そののち、梧陵は『国政』に参加し、〔郵政大臣〕や〔和歌山県県議会 初代県議会長〕などを務めます。
 そして晩年は、アメリカ合衆国に渡り、若い頃からの夢であった、海外視察に出るのです。
 ・・が、明治18年、ニューヨークにて病いで亡くなります。行年66才でした。
ファイル 677-3.jpg
 『稲むらの火』が燃えた、〔安政地震大津波〕から92年後、再び〔昭和南海大地震〕が起こり、大津波が、広村に押し寄せます。
 しかし、〔梧陵〕達が作った『広村堤防』のお蔭で、被害は最小限にとどまりました。
ファイル 677-4.jpg
 現在、広村(今の広川町)では、安政地震大津波が発生した、旧暦11月5日(現在は11月3日)に、全国でも珍しい『津波まつり』が行われています。
 この日は、地元の子供たち一人ひとりが、防波堤に土を運び、郷土の安全を願い、そして、〔浜口梧陵〕の偉業を讃えているという事です。
ファイル 677-5.jpg(現在の広村堤防:歩けます!)
それにしても・・、
 『ごりょ、ごりょ、ごりょう(梧陵)さん~、お金をようさ~ん、使(つこ)たのね、・・ヤ・マ・サ!』・・倒産せんとこが凄い!
 おしまい。

紙芝居:「実録 稲むらの火 (復興編)」 中編

ファイル 676-1.jpg
 〔浜口梧陵(ごりょう)〕の物心伴う援助は、それは手厚いものでした。
 しかし、〔津波〕の村人たちに与えた恐怖は、梧陵の想像を遥かに超えたものでした。
 いわゆる、それは『トラウマ』でした。
 真夜中でも、津波の夢を見る者が増え、『又、津波が来るかもしれない!』という恐怖心から、村を出てゆく者が出始めたのです。
 「・・これではいけない。頑丈で高い堤防を作らなければ、この恐怖心は、いつまでも消えはしない。」と、梧陵はそう思い・・、
ファイル 676-2.jpg
 そこで、藩のお役人に『堤防改修工事』を願い出ました。
 しかも、その工事費は、梧陵が私財を投げ打ってやるというのです。
 「私財でやってくれるなら、願ってもないこと。」と、お役人たちは、喜んで許可を出しました。
 そして、被災三ヶ月後、いよいよ改修工事が始まろうとしておりました。
ファイル 676-3.jpg
 梧陵は、工事が始まる前に、村人達を集めて言いました。
 「皆の衆、いよいよ堤防改修工事を始めることになった。
 ・・そこでだ、今回の工事は、わし等《村民の力》で完成させたいと思うのじゃ。 どうじゃ、みんな、力を貸してはくれんか!?」と。
 それを聞いて、一人の村人が「・・では、わし等は毎日、タダ働きで手伝うのですかのぅ?」と聞きました。 
 梧陵は「いやいや、その日その日の《日当》は、この梧陵が責任を持って支払う。 女子でも子供でも、手伝ってくれたら支払うぞ。 さぁ、皆で頑丈な堤防を築き、元の美しい『広村』を取り戻そうではないか!」と、そう叫びました。
ファイル 676-4.jpg
 梧陵の演説に感動した村人達は、次の日から、皆で力を合わせて工事を開始しました。
 これは、これからの生活に不安を抱えていた村人達に『働き場所』を与えることになり、又、同時に『自分たちの村は自分たちで守るんだ!』という『やる気、元気』をも甦らせることにもなったのです。
ファイル 676-5.jpg
 こうして、工事は順調に進み、安政五年十二月、四年間に渡る〔堤防改修大工事〕は無事に終りました。
 そして工事の仕上げとして、数千本の〔松〕が山より移植されました。 これらの松は、海からの風を防ぎ、そして根を張り、堤をより強固にしてゆくのでした。 つづく 

紙芝居:「実録 稲むらの火 (復興編)」 前編

ファイル 675-1.jpg
東日本大震災が起り、25日間が過ぎた。
 今、日本は悲しみを乗り越え、すべての智恵と力を結集して、復興へと向かおうとしている。 ・・が、まだまだやるべき事は絞り込めず、問題点も抽象的なままだといってもよい。
 もし、今の時代に、この紙芝居の主人公〔浜口梧陵〕が居たなら何をしたであろうか?
 そんな事を考えながら、この紙芝居を発表してみたいと思う。
ファイル 675-2.jpg
 江戸時代末期、安政大地震で壊滅的な打撃を受けた、和歌山県:広村。(今の有田郡広川町)
 今、『稲むらの火』によって、多くの人の命を救った〔浜口梧陵(ごりょう)〕商人は、呆然と荒れ果てた自分の村を眺めていました。 
ファイル 675-3.jpg
 村人:夫「あ~ぁ、何もかも無くなってしまった。」
 村人:妻「明日から、どうすればいいんでしょう?」
 そう、津波は村人の『やる気』も奪っていたのでした。
 それを見た〔浜口梧陵〕は、「何とかせねば・・」と思い、「そうだ、まずは腹ごしらえだ!食べ物が無いと元気も出んわ!」と・・、 
ファイル 675-4.jpg
 江戸にある自分の支店にすぐ連絡し、私財を使い、隣村から米俵を運び入れ、にぎりめしの〔炊き出し〕を始めました。
 「さぁ、みんな、腹いっぱい食べて元気を出してくれよー。」と梧陵は叫びました。
 さらに、梧陵は・・、
ファイル 675-5.jpg
 「住む処も必要じゃ。御上からの援助など待っておれんわ」と、これも又、私財を使い、『仮設小屋』を五十戸建てました。
 さらに、農民には『農機具』を、猟師たちには『網や舟』などを無料で提供しました。
(『どれだけ金持ちやねん!金持ちやからそんな事できたんや』と思いながらも、この武士の時代によくぞ損得抜きに、一介の商人がやったなぁと感心する。) つづく

上に戻る