住職のつぼやき[管理用]

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『稲むらの火』の時、大阪にも《津波》は来た!

 先週の金曜、『特養老人ホーム甍』苑内、「講話クラブ」でのお話。
 その時、例の『稲むらの火』の「紙芝居」をさせて頂いた。
 その講話も終り、帰ろうとした時、一人の入所者の男性に声を掛けられた。
 その男性は、次のような内容の話を僕にして下った。
「私のご先祖さんからの伝え聞いてる話ですが、大阪にも大きな津波が来て、そこで、たくさんの人が亡くなったらしいですよ。・・確か、その〔慰霊の碑〕が、(浪速区)大正橋の手前に建ってたと記憶しているのですが、・・一度行ってみられたらどうですか?」というものだった。
 それで、昨日さっそく行ってみた。
 その〔慰霊碑〕は、確かにあった。
 しかも驚いたのは、この地震大津波の記録の〔慰霊碑〕は、あの『稲むらの火』と同じ(安政元年11月5日)同年、同月、同時刻に起こったものと一緒だったのだ。
 そう、あの〔大津波〕は、大阪にも来たのだ!
ファイル 683-1.jpg(大津波両川口津波記の碑)
 そしてその〔慰霊碑〕の裏には、津波被災の詳しい様子が書かれてあった。
 又、横には、それを〔現代語〕に訳された碑も建てられていた。
 それは、今の我々が読んでも、非常に興味深い内容なので、今回抜粋して書かせてもらいたいと思う。

 〔大地震両川口(りょうかわぐち)津波記〕
 『(前略)・・嘉永七年(=安政元年)十一月五日午後四時ごろ、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに、一斉に津波が押し寄せてきた。(『稲むらの火』の様子とまったく一緒や!)
 安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東掘まで、約1・4mの深さの泥水が流れ込んだ。
 両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇や綱は切れ、川の流れを逆流し、宇治橋、亀井橋(等々)の橋はすべて崩れ落ちてしまった。
 さらに、大きな道にまで溢れた水に慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もあった。
 道頓堀川に掛かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し川をせき止めた為、河口から押し流されて来た船を下敷きにし、その上に乗り上げてしまった。
(中略)南北を貫く川筋は、一面あっと云う間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は、流されてきた船によって壊され、その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲になった。(犠牲者は三百五十人を越えたらしい)
 (中略)地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対にしてはいけない。又、建物は壊れ、火事になることもあるので、お金や大事な書類は大切に保管し、なによりも『火の用心』が肝心である。(今と一緒や!)
 (中略)津波というのは、沖から波が来るというだけでなく、海辺近くの海底などから、吹き上がってくることもあり、海辺の田畑にも泥水が吹き上がることがある。今回の地震で〔大和の古市〕では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、これに似た現象なので、海辺や大きな川や池のそばに住む人は、用心が必要である。
 津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよく解っているが、十分に心得ておくように。
 犠牲になられた方々のご冥福を祈り、拙い文章であるが、ここに記録しておくので、心ある人は時々、碑文が読みやすいように墨を入れ、伝えてほしい。(後世の我々の事まで、心配してくださってるんやね。・・ありがとうございます。) 安政二年七月 建立』
 
 少し長くなってしまったが、今読むと、当時の光景と先月の〔東日本大地震〕の様子がリンクしてしまう。
 「やはり、我々は先人からの言い伝えをしっかり守らなくては〔未来〕はないかもしれない。」
 ・・この写真を撮り、慰霊碑に手を合わしながら僕はそんな事を思った。 
 ・・帰ろうとした時、〔潮〕の匂いが微かにした。
 「そう、ここは海に近いのだ」と、改めて思ったのだった。
ファイル 683-2.jpg(奥に見えるは木津川と〔京セラドーム〕)

コメント一覧

Event Monk 2011年04月27日(水)20時16分 編集・削除

有り難い先人達の
ご苦労とお言葉。
お伝え有難うございます。

人の力は有限なれども、
願わくば
平等伝一切

カンネン亭様
有難うございました。m(_ _)m

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