
幕府の滅亡は、あっという間でした。
足利(高)尊氏軍が京都を攻め、尊氏の親戚の新田義貞軍が、鎌倉幕府を攻め滅ぼしたのです。
こうして、150年続いた[鎌倉幕府]は潰れました。
島流しになっていた後醍醐天皇は、島を脱出。
意気揚々と京の都に還って来たのでした。
帝「正成、すべてお主のお陰じゃぞ。朕は感謝する!」
正成「はい、帝。これで万民が安心して、重い税に苦しまず、平和に暮らせる世が来ます。」と、正成は頭を下げて涙ぐむのでした。
戦を終え、河内の国に帰って来た正成は、皆に言いました。
「この戦で、たくさんの犠牲者を出してしもうた。・・攻めて来た者も、守った者も、皆、亡くなればホトケや。
わしは、すべての者の供養をしたいと思う!」と、
味方だった者のお墓=『身方(みかた)塚』。
敵であった塚のお墓=『寄手(よせて)塚』を造り、手を合わせました。
これは小さい頃、正成が[観心寺]というお寺で、仏教の精神を学んだことが、動機であったのかもしれません。 つづく
(寄手塚=敵塚と言う名前ではないのが良いと思う)
(実際は、二つの塚は隣り同士にはなく、7~8mは開いている)
(身方塚: 実際に、正成が二つの塚を造ったかどうか?は(地元では)疑問視されている。石の材質が、どうやら違うらしいので・・、でもそんなの関係ねぇ。正成の心の優しさは本物だと思うのです。)
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紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その4)
紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その3)

(赤坂城から見た金剛山。正成はこの山に千早城を築いた)
・・余談であるが、
なぜ?楠木正成は、後醍醐天皇に(そこまで)忠義を尽くしたのか?
この紙芝居を描きながら、ずっと考えていた。
一説によると、正成は小さい頃、観心寺というお寺で学問を習った。
住職から『日本の国は本来、天皇を中心とした国であった。そこに平和があった。だから、民は天皇に対し、忠誠の気持ちを持たねばならない。』と教わった。
もう一つの説は、楠木の一党は、水銀流通の商売をしていた。その莫大な利権を、幕府に盗られそうになった。だから、天皇側に付いてその利権を護ってもらおうと思った。
このような説があるのだが、はっきりわからない。
この紙芝居では、正成の心情をはっきりと描いていない。
ただ、勧善懲悪的なヒーローとして描いている。
ひょっとすると、正成は政治的な複雑な心を持って活動したのかもしれない。
・・が、この紙芝居では『(天皇を中心として)平和な未来を夢見た、根性ある中年のおっさん』として描いたつもりだ。・・まるで、下町大阪の町工場で、頑張る奮闘社長伝を書くつもりで描いた。
うちの寺から、わずか10分ぐらいで、正成が活躍した舞台の地があり、その地を何度も取材をしながら、「正成さん、なんでそこまで頑張んねん?いったい、何を考えていたの?」と問いながら、結局何も解らず、描き終わってしまった事を少し後悔している。・・これは今後、この紙芝居を演じながら考えてみようと、自分に宿題を出したのであった。・・余談終わり。
赤坂城での戦いから、一年が経ちました。
やがて、再び正成の立ち上がる時がきました。
彼は、少ない兵力で幕府軍を攻撃し、すぐに逃げて、今度は赤坂城よりも、奥まったところに造った[千早城]に籠ったのでした。
カンカンになって怒った幕府軍。
前の四倍の八万人の兵力を動員して、城を攻めてきました。
しかし、前と同じ、正成軍は村人たちと連携し、ゲリラ作戦を展開。
幕府軍を、またまた悩ませるのでした。
そうしている内に、攻める幕府軍の中から、[足利尊(高)氏]率いる、超強力な兵力を持っている一軍隊が、裏切って、楠木・天皇側に味方し始めたのです。
正に、正成の予想通りの展開でした。 つづく
紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その2)

幕府軍「なんじゃ、このボロ砦。一日で潰せるわい!皆の者、かかれー!」と、幕府軍は笑いながら[赤坂城]に挑みかかりました。
すると、塀は崩れ、丸太や岩石が転がり落ちて来たのです。
幕府軍「ひぇー、この砦、カラクリがあるぞ!・・まるで、『風雲たけし城』のようじゃー。」
楠木軍「ざまぁ、みやがれ!ナハナハ、ナハぁ。コマネチッ!」
幕府軍「うわー、こりゃたまらん!引け、引けー。」と幕府軍は初戦は大負けしたのでした。
こののち、『楠木正成という男、只者ではない』と幕府軍は恐れ、城を攻めず、ぐるりと囲んで兵糧攻めにしたのでした。
そして、20日ほどが経ちました。
城の中の食料は無くなり、又、京都で旗揚げした[後醍醐天皇]も捕らわれたという噂も流れてきました。
そこで正成は、自ら城に火をつけ、ひそかに脱出したのでした。
正成は(河内弁で)思いました。
「この戦、まだ負けたわけやないで。わしのような小さな豪族が、天下の幕府軍相手にここまで戦えたんや。・・きっと全国の武士たちは『幕府なんて怖くない』と、思ったはずや。・・そんな武士たちは、やがて民たちの声に押し上げられ、立ち上がるはずや!・・それまで、わしは身を隠そう。それからや・・。」と。つづく
(千早赤阪村・赤坂城跡1)
(千早赤阪村・赤坂城跡2)
紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その1)

時は鎌倉時代の末期。
民の幸せを考えず、時の政権[鎌倉幕府]の権力者たちは、好きな事をやりたい放題、し放題。
民は、重い税金に苦しんでおりました。
それを憂いて、反旗を掲げ立ち上がったのが、『後醍醐(ごだいご)天皇』でありました。
しかし、天皇側は如何せん、幕府に対抗できる武力がありません。
そこで、天皇は[知恵]と[人望]と[勇気]を持った一人の武将に目を付けました。
その武将こそが、大阪は南河内《千早赤坂(ちはやあかさか)》の山里に住む[楠木正成(くすのき・まさしげ)]公だったのです。パパンパンッ!(扇子で机をたたく音)
後醍醐天皇は、正成を呼びました。
帝「そちが、楠木正成か?朕(ちん)は後醍醐の帝(ミカド)じゃ。
正成、どうすれば、幕府に勝てるか?教えよ。」
正成「はい、帝。武力では、とうてい幕府軍に勝てまへん。 ・・しかし、万民の心を味方にすれば、負けへんでしょう。
万民の心の先駆けとして、この楠木正成、幕府軍に戦いをいどみまひょう。」
帝「うむ、頼んだぞ、正成!」
こうして、正成は地元[南河内]で、反旗を翻したのです。
この時、楠木正成、37歳でした。
『南河内の楠木正成、帝に味方し、幕府に戦いを挑む!』、という知らせは、関東の鎌倉幕府にすぐ知れました。
幕府軍は数万の軍隊で、正成が籠る河内『赤坂城』を囲みました。
楠木軍は、わずか五百人。
しかも大半が、日頃は百姓をして暮らしている地侍たちだったのです。
さぁ、どうなる正成軍!どうする正成!パパンパンッ。つづく
(千早赤坂村・楠木正成生誕の地)
(同じく、生誕地すぐ近くの正成公産湯井戸跡)
柏原市:西法寺さまの[敬信講]初法座
浄土真宗本願寺派『西法寺』さまの[敬信講(けいしんこう)]は、門徒壮年の方の男子の会。
いわゆる働き盛りの仕事現場第一線を、ちょっと引かれた方々の会だ。
その会の[初法座]に呼んで頂き、紙芝居をさせて頂いて来た。
その演目は、『出家とその弟子』、『中甚兵衛ものがたり』、『大和の清九郎』と、男が主役ばかりの紙芝居、三本を選んだ。
その中でも、やはり地元の有名人大和川の流れを変えて大阪の発展の為に尽くした『中甚兵衛』の話は、(さすがは壮年の会)皆さん食いついて見てくださった。
やはり、その地元での有名人の紙芝居をするのが一番良いと思った初法座であった。
河南町:介護者家族の会の新年会
東大阪市「善林寺」様の新年法要
昨日、東大阪市:善林寺さまの新年法要に、紙芝居法話でお招き頂き、演じて来た。
約一時間の紙芝居法話。あたたかい雰囲気の中、お話しさせて頂いた。
紙芝居法話が終われば、皆で善哉を頂きワイワイと歓談。
楽しい一時を過ごさせて頂きました。
善林寺の皆様、有難うございました。合掌
今年初めの『寺カフェ』
平成29年 新年法要
新年法要の準備
今、今週の土曜日に行う『新年法要』の準備に入っている。
お善哉の用意、軽音楽演奏会の準備やら、机やイスを並べたり・・エトセトラ。
中でも一番手間のかかるのが、恒例のビンゴゲームの景品包装だ。
すでに、景品は40個ほど(百均ショップ[笑]で)買ってきたので、それを(内職のようにせっせ、せっせと)袋詰めしている。
毎年、手間はかかるが、ご門徒の皆さんの喜ぶ⁈お顔が楽しみで、これだけはやめられまへんなぁ。











