
昨日の夜、観念寺『仏教婦人会』主催で、[毛糸で編むバラのたわし・制作教室]を開いた。
この『バラ』の形をした[たわし]は、エコで洗剤要らず、究極のたわしだそうだ。
ご講師は、毛絲教室を開いておられるご門徒さんで、お忙しい中、時間を作って頂きボランティアで教えて頂いた。
皆さん、約二時間で完成されて、嬉しそうに作品を持って帰られました。
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毛糸のバラのたわし、制作教室
東大阪市:蓮浄寺仏教婦人会さまへの『紙芝居法話』
昨日、東大阪市の蓮浄寺さま『仏教婦人会』のご法座に、お招き頂き『紙芝居法話』をさせて頂いて来た。
寒さ極まる夜の二月のご法座である為、ご婦人の皆様の集まりは如何なものかな?と思いきや、ご本堂満堂で、びっくりした。・・かつ、やる気がみなぎって(余計なこと?(笑)まで)時間一杯、お話させて頂いた。
楽しかったわ~。
又、終わってからも、若住職のお嬢さんが作られた手作り紙芝居も初披露して頂き、面白かった!
いつも、紙芝居を演じるばっかりなので、人の演じる紙芝居を観させて頂くのは、本当に勉強になるのです。
これからも、一緒に『紙芝居法話』の礎を築いていきましょう!合掌
今年、制作予定の紙芝居
今日は、今年制作予定の『紙芝居』を書く。
あくまでも、予定である。
・・いつ気が変わって、取り止めにするか?はたまた完成までに、5年ぐらい掛かるか・・?。それはまったく分からない。・・が、一応、今の僕の頭の中にある制作計画である。
まず、地元の偉人・学者型外交官『高向玄理(たかむこのくろまろ)』の生涯を描いた『黎明のくろまろ』。
この作品は、おそらく春までに完成するだろう・・と思う。
そして、下書きがすでに完成している小泉八雲の短編『常識』。・・これは、僕の好きな(常識って何やろう?反社会派オカルト)作品である。
そして、おなじみ宗教作品は、『蓮如上人の最も長い一日、長禄元年六月十七日』という、本願寺宗主八代目を継がれた日の[蓮如上人]のたった一日の流れを描いたドラマチックなお話。
妙好人では僕の好きな『妙好人 赤尾の道宗』も作りたい。
又、今年は無理かもしれないが、二部作にして前編『本願寺三代目 覚如上人』と後編『覚如上人と存覚上人・終わりなき親子の葛藤!』を企画している。
また、他宗では、真言宗と念仏の融合を考えられたお坊さん「懺悔の聖人 覚鑁上人」を計画している。
又、現代物では、サントリーの創業者[鳥居信治郎]の信仰を描いた『(仮題)鳥居信治郎とハチャメチャ信仰!』も企画している。
さて、どこまで出来るかな・・?
高向玄理(たかむこのくろまろ)の話、続く・・

(河内長野市高向:高向玄理[たかむこのくろまろ]顕彰碑)
前回の続きであるが、僕がなぜ?[高向玄理]に興味を持ったのか、それは・・、
今から五年ほど前になるだろうか?
河内長野市市民大学[くろまろ塾]という会に、講師としてお話に行かせて頂いたのが『くろまろ』公という偉人との出会いであった。
(同じ場所に建つ玄理人形)
『くろまろ塾』?・・、『くろまろ』って何?・・何か犬の名前みたいな、お公家さんみたいな・・われはクロマロでおじゃる・・ちゃうか?
えっ?やっぱり人の名前なの?・・それ、何者?
・・何時代の人なん?・・飛鳥時代。
・・遣隋使の留学生。32年も中国に居ったん。(もし、18歳で留学しても帰って来たら50歳!・・楽しい青春無いやん。)そんなん日本に帰って来たら、浦島太郎状態やん。
・・えっ『大化の改新』の影の主役のひとり(仕事人の元締めみたい?)&改新ブレーン!・・あの教科書に出てきた蘇我入鹿の頭が斬られてぶっ飛ぶ!あの事件!
・・そっそっそんな偉い人なの?なのに無名やん!・・それで河内長野市とどういう関係なの?・・ふーん、河内長野市の高向(たこう)という所で生まれたん。
そんな説明を、担当職員の方にお聞きして、「ふ~ん。そんな凄い人が居ったんや」という感想だけ持った。
最初はそれだけ・・であった。(変な人って感じ。)
その後、仕事の帰り、『ふるさと歴史学習館=くろまろ館』に行って、くろまろ公について色々お話をお聞きしている内に、だんだん、だんだんと興味を持ち出し、紙芝居の主人公にしたいなと思ったのである。
でも、これは難しいことであった。
冒険やろうみたいな、頭カチカチの超エリートみたいな、それでいて革命家みたいな・・
それから、何年も胸の中で暖めて、資料も読み込み、今、ようやくストーリーが出来上がった。(超軽い『紙芝居』やけど。)
・・という訳なのです。
今、制作中です。・・春までに完成させる予定です。見てね。軽!以上
黎明の人、高向玄理(たかむこのくろまろ)制作中

(まだ途中です)
今、次の紙芝居の制作に入っている。
題名は『黎明(れいめい)のくろまろ』という。
これは、地元、南河内(河内長野市)の偉人《高向玄理(たかむこ・くろまろ)》の生涯を描いた物である。
題名は「日本の夜明け前の男、くろまろ」という意味である。・・いや、夜明け前に登場し、太陽を昇らせた男という意味も含んでいる。
夜明けとは、歴史の教科書で最初の頃に出て来た「大化の改新」である。
・・時代は、飛鳥時代。
この紙芝居の前半は、聖徳太子に『遣隋使(けんずいし)』の一人に選ばれた《くろまろ》が、隋(中国)へ渡り、そこで[隋国]の滅亡と[唐国]の建国を身を持って経験する。
そして32年間[国の成り立ち]を学んだ後、それを日本に持って帰り、中大兄皇子・中臣鎌足のクーデターに参加し、大化の改新のブレーンとなる。
が、やがて、異国で問題勃発。・・くろまろはマタマタ、問題解決の為、唐へ旅立ちそこで亡くなるという・・終わり方にしようと思っている。
スケールは大きい話なのだが、紙芝居なので、どこまで描けるか解らないが、今、一生懸命作っている。
なぜ、くろまろに興味を持ったのか?・・それは又、別のお話。・・ご期待を。
寒い日が続きますと・・。
寒い日が続きますと、お葬式も続くことが多いのです。
先週は、三日連続で(三つの)お葬式がありました。
お葬式は、一日だけでは終わりません。
お通夜があって、次の日、告別式がある。大抵二日間は忙しいのです。
先週は、その連続が続いて、今誰のお葬式をしているのか、混乱するときがありました。
なんとか、無事終えましたが、この仕事はまった無しです。
お葬式を終えて、ホッとする一時を大事にしないと、緊張の連続で自分の生活リズムが乱れて、体調を崩してしまします。
体調を考えながらも、仕事をきっちりしないと・・。お葬式はその家族にとって、一回きりの儀式ですので、失敗しないように、ゆったりとかまえて、沈着冷静に対処して行わねば・・。
こっちが慌てては、みんながパニックになるので。
ゆったりと、落ち着いて、・・自分に言い聞かせながら。
こういう仕事なのです。・・僕の仕事は。
大阪教区スカウト指導者主催『報恩の集い』へ紙芝居法話
先日、大阪の[北御堂]に、少年・少女たちの本派スカウト団の『報恩の集い』へ、紙芝居法話に行って来た。
約150名のスカウト団の子供たちに、紙芝居を通して、思いやり、友情、そして信仰の大切をお話させて頂いたつもりだ。
子供たちの真剣な顔、つぶらな瞳から、こちらも、教えられるものがたくさんあった・・そんな、集いであった。合掌
紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その7:最終回)

決戦は、兵庫の湊川(みなとがわ)という所で始まりました。
・・が、正成の予想通り、五百人の[楠木軍]に対して、十数万人の[足利軍]。
海・陸からの大軍団には、とうてい勝てません。
あっという間に、正成軍は総崩れ。
最後の頑張りこそしましたが、足利軍に追い詰められ、弟の[楠木正季(まさすえ)]と共に、一軒の民家に逃げ込みました。
(正成)「弟よ。わしらは精一杯やった。・・が、もはや、これまでや。いさぎよく、自刃しょう。・・又、あの世で会おな・・。」
(正季)「はい、兄上。」
と、二人は自刃し果てたのです。
楠木正成、享年43歳。・・正式に歴史の中に登場した期間は、わずか7年間でした。
正成の首は、尊氏の計らいで、河内の妻子の元に届けられたと伝わっています。
そして時代は巡り、足利尊氏が天下を取った[室町時代]を経て、安土桃山、徳川時代になりました。
その[徳川時代]中期。
天下の副将軍[水戸光圀]公こと、水戸黄門さまが、荒れ果てた[湊川]の正成のお墓を発見し、建て直そうとされます。
そして、お墓に自筆で『嗚呼、忠臣楠子(なんし)之墓』と記し、
(黄門さま)『良いですか・・助さんも聞きなさい、格さんも聞きなさい。主君に忠誠をささげた正成公は、人間の鏡ですぞ。すべての武士は、正成公の精神を見習うべきですぞ。かっかっかっかっ(笑い声)。』と言われました・・さ。
(黄門さまは、正成の大ファンだったのですね。)
(神戸:《湊川神社》内、楠木正成の墓)
のち、この言葉に感銘を受けた、坂本龍馬・吉田松陰・西郷隆盛等、幕末の志士たちは、このお墓にお参りしパワーをもらい(?)明治維新を築く原動力となっていったそうなのですが、・・その活躍は又、別のお話。
これにて、紙芝居はおしまい。
(お墓の横に建つ[水戸光圀]像)
(うっかり八兵衛)「ご隠居~、お腹が減りました~。」
(黄門さま)「おまえは、そればかりじゃのう。・・では、皆さん、湊川神社の前の和菓子屋さんで、名物の菊水饅頭でも食べましょうか?」
(みんな)「はいっ!人生~、腹減りゃ、菓子あるさ~。」
(皇居前の楠木正成像)
おわり
紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その6)

(帝)「正成、逆臣[足利尊氏]をやっつけてくれ!」と、後醍醐天皇は、正成に頼み、一時は尊氏を九州に追い払うことに成功しました。
・・が、しばらくすると、尊氏は九州の武士たちを皆、家来にして、今度は都に向って逆襲して来ました。
(帝)「正成、何とかせえ!尊氏をやっつけよ。」と、後醍醐天皇は、又、正成に命じたのでした。
しかし、正成は、じっと考えて次のように言ったのです。
(正成)「帝、尊氏と仲直りしてください。・・それが出来ないようなら、今度の戦さ、勝てまへん。」
(帝)「なぜじゃ、正成⁈」
(正成)「・・一度、負けながら、皆が家来になって付いてくるというのは、尊氏が万民の心を掴んでいるという事でおます。・・万民の心には、・・勝てまへん。」と言いました。
しかし、正成の意見は却下されました。
こうして正成は、九州から大挙して帰って来る尊氏軍に立ち向かうことになりました。
その京の都から、兵庫(今の神戸)へ向かう途中でのこと。
[桜井]という場所で、陣中の息子の《正行(まさつら)》を呼びました
(正成)「息子よ、お前はここから[河内]の国に帰れ。
・・今度の戦さ、どう考えても勝目はない。味方が集まらん。・・時勢が解っているのか、大半の仲間が去ってしもた。
・・おそらく、今度の戦さで父は死ぬと思う。
お前は、こんな戦さで死んだらあかん。
生きて故郷に帰って、母や弟を助けよ。そして、大きく成長して力を付けるんや。そして、これからどう生きたらベストかを、自分でよく考えるんや。・・わかったな。
・・残念やけど、しゃあない。これしか無かったんや、父の選択は・・。
エエか、これは父の命令じゃ!」と言って、涙を浮かべながら、息子と別れたのでした。 次回最終回、つづく
紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その5)

・・が、しかし、『これで平和の世が来る』と、安心したのも束の間、
又、暗い影が押し寄せて来ようとしておりました。
それは、天皇・公家中心の新しい時代の到来と、《建武の新政》と名付けられ『新政権』が生まれたのですが・・、
何分、長年[政治]を取ったことのない(野党・・ちゃうちゃう⁈)公家たちでしたので、前より重い税金を万民に命じ、自分達はやりたい放題、し放題。
有頂天な気持ちで、おごってしまったのでした。(昔の話と思えまへんなぁ・・)
これで又もや、万民の心は新政権から離れてしまったのです。(どえらい昔の話とは思えまへんなぁ・・もうええか(笑))
そんな皆の不満の気持ちを一身に引き受け、天皇とその政権に逆らった武将。・・それが、足利尊氏でした。
尊氏は、新政権への不満の多かった武士たちの代表として、天皇・公家政権に戦さを仕掛けてきたのです。
公家たちは、大わらわ!
すぐに『くっくっくすのき、正成を呼べ!』という事になったのでした。つづく

