時は鎌倉時代の末期。
民の幸せを考えず、時の政権[鎌倉幕府]の権力者たちは、好きな事をやりたい放題、し放題。
民は、重い税金に苦しんでおりました。
それを憂いて、反旗を掲げ立ち上がったのが、『後醍醐(ごだいご)天皇』でありました。
しかし、天皇側は如何せん、幕府に対抗できる武力がありません。
そこで、天皇は[知恵]と[人望]と[勇気]を持った一人の武将に目を付けました。
その武将こそが、大阪は南河内《千早赤坂(ちはやあかさか)》の山里に住む[楠木正成(くすのき・まさしげ)]公だったのです。パパンパンッ!(扇子で机をたたく音)
後醍醐天皇は、正成を呼びました。
帝「そちが、楠木正成か?朕(ちん)は後醍醐の帝(ミカド)じゃ。
正成、どうすれば、幕府に勝てるか?教えよ。」
正成「はい、帝。武力では、とうてい幕府軍に勝てまへん。 ・・しかし、万民の心を味方にすれば、負けへんでしょう。
万民の心の先駆けとして、この楠木正成、幕府軍に戦いをいどみまひょう。」
帝「うむ、頼んだぞ、正成!」
こうして、正成は地元[南河内]で、反旗を翻したのです。
この時、楠木正成、37歳でした。
『南河内の楠木正成、帝に味方し、幕府に戦いを挑む!』、という知らせは、関東の鎌倉幕府にすぐ知れました。
幕府軍は数万の軍隊で、正成が籠る河内『赤坂城』を囲みました。
楠木軍は、わずか五百人。
しかも大半が、日頃は百姓をして暮らしている地侍たちだったのです。
さぁ、どうなる正成軍!どうする正成!パパンパンッ。つづく
(千早赤坂村・楠木正成生誕の地)
(同じく、生誕地すぐ近くの正成公産湯井戸跡)
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