今年も、《干支ちぎり絵制作教室》の季節がやって来た。
お寒い中、15名ほどのご門徒さんが午後7時にお集まりになって、制作開始。
のりとハサミで、来年の干支《トリ》のちぎり絵を一生懸命に制作されました。
ご準備下さいました婦人部の講師Y先生、本当に有難うございました。
そしてお疲れさまでした。合掌
[管理用]
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干支ちぎり絵教室、開催
娘の前撮り
結婚式より前に、新郎新婦の二人で記念写真を、色々な場所で先に撮ることを《前撮り》というらしい・・。
娘が来年に結婚するので、その前撮りを昨日、うちの近辺で行った。
場所は紅葉のきれいな場所が良いということなので、近くの[弘川寺]の御住職に無理を言ってお願いし、境内で撮らせて頂いた。
もちろん、プロのカメラマンが同伴で撮ってくれるので、自然とマッチさせ、又被写体たちを上手く載せて撮り、見て居てたいへん面白かった。
さすが、プロのカメラマン!
そして弘川寺の御住職、ご協力有難うございました。
泉南市:善照寺さまの報恩講
紙芝居:「ただ、ただ人の為に・・、行基さま」(その3:最終回

しかし、やがて《民衆の超人気者、行基さま》の噂を聞いた時のミカド『聖武天皇』は、「一度、行基とやらに会ってみたい」と思われ、自ら、行基さまにお会いに行かれるのでした。
そして、行基さまのお話を聞き、行基ファンになられた天皇は、「行基菩薩よ、巨大なる盧舎那仏(大仏)を私と共に作ってはくれぬか?」とおっしゃられたのでした。
初めは大仏建立に、躊躇した行基さまでしたが、「大仏建立は、必ず民衆の心の大きな支えになるにちがいない!」と決心されたのでした。
そして朝廷でさえ、集める事の出来なかったお金や人手を、『行基さまの為なら喜んで!』と、民衆は大仏制作に、惜しむことなく力を貸したのでした。
この大仏建立開始時期は、行基さま76才でした。
が、行基さまは『大仏完成』を待たず、82歳でお亡くなりになります。
奈良の大仏さまが完成したのは、行基さまが亡くなって、わずか三年後でした。
仏の教えを伝え、苦しむ民衆を救うことに、生涯を掛けた男[行基菩薩]。
その功績跡は、今も日本各地に残されています。
(行基墓:生駒市[竹林寺])
(行基像)
おわり
紙芝居:「ただ、ただ人の為に・・、行基さま」(その2)

「道路を作り、川に橋を架け、池を作る土木工事こそが、まず、民衆を貧しさから救い出す第一歩なのだ!」と、行基さまは仏の教えを説きながら、民の生活し易い環境作りのために、土木事業を行い始めました。
民衆も、欲のない行基さまに賛同し、皆で工事を手伝い始めました。
行基さまたちが、作った橋や池は、現在解っているだけで、木津川に架かる[泉大橋]、淀川の[長良橋]、大阪狭山市の[狭山池]、岸和田市の[久米田池]、伊丹市の[昆陽池]など、エトセトラ、エトセトラ・・。
『橋の数・六つ』、『池の数・十五ヵ所』、『港の数・二つ』があります。
又、旅人が安全に休める無料宿泊所『布施屋』なども多く設置しました。
そして、仏の教えを説く道場[=お寺]も多く作りました。
近畿地方だけで、その数『行基四十九院』と呼ばれたお寺があります。
行基さまは、それらのお寺を拠点にして、貧しくとも《仏の教え》が心の拠り所になるような教えを、民衆に説いて回りました。
『行基さまが来た!』という噂が、一つの村で流れると、そのお説教の時間は、村の中に誰も居なくなってしまう程、お寺に人が集まったそうです。
・・がしかし、これを見て『面白くない・・』と嫉妬したのが、時の朝廷のお役人でした。
役人は「貧乏人に、高尚な仏の教えなどは無用!」、「行基とやらは、民衆の気持ちを煽って、国への反逆を企てている!」と、行基さまを何度も逮捕しました。
(行基菩薩の墓のある生駒市:[竹林寺])
つづく
紙芝居:「ただ、ただ人の為に・・、行基さま」(その1)

ある時は、荒れ狂う川に橋を架け・・、
又ある時は、水に困る人あらば、池を作り、
悩める人には、寄り添って仏法を説き、
そして、最後には奈良の[大仏]を作った僧侶。
彼の名を[行基(ぎょうき)]と言いました。
これは、ただただ、人の幸せの為に生きた男の物語です。
なぜ、行基さまは、そのようなボランティアスピリットを持っていたのでしょうか?
それは、彼の生まれにあるかもしれません。
西暦668年(飛鳥時代)、行基さまは、河内の国(今の大阪府堺市)の貧しい村に産まれました。・・当時、裕福なのは一部の豪族だけだったのです。
行基さまの両親は、貧しい百済系の渡来人でした。
そして、彼は苦しい環境で懸命に働く、多くの人々を見て育ちました。
『いつの日か、貧しい人々を僕の手で救いたい!』と、少年[行基]は心に誓いました。
そして、15歳で『お釈迦様のように、苦しむ人々を救いたい』と思い、出家したのでした。
行基さまの師匠は、『道昭(どうしょう)』と言う名の、超エライお坊さんでした。
道昭さまは若き日、遣唐船で中国(唐)に渡り、あの(西遊記の)三蔵法師(玄奘)の直弟子となり、新しい知識を多く学んで帰国した僧でした。
行基さまは、その弟子になったのですから、彼もラッキーでした。
行基さまは、道昭さまについて、『仏法』の他に、『貯水池や橋づくりの技術』なども学びました。
そして道昭さまが亡くなったのち、行基さまは一度、山に籠って修行を積まれます。
それから「お師匠さまの後を継ぐぞ!」と、優れた知識と技術、そして仏の心を持って、各地を巡る旅に出たのでした。つづく
(行基さま誕生の地、堺市[家原寺])
愛犬ポッキーの夢
昨日、愛犬だったポッキーの夢を見た。
もう、ポッキーが亡くなって、何年経つのだろうか?
毛は黒色。それに白の「わらわは麻呂でおじゃる」のような眉毛の入ったメスの中型柴犬だった。チョコレートのポッキーみたいなので、息子がそう名付けた。
最後は、肝臓がんで推定14歳(捨て犬だったのだ)で亡くなった。
夢の中で、・・ポッキーが雨に打たれ、庭でじゃれている。
僕は「ポッキー、風邪ひくぞ!こっちへ来い。」と言うと、右後ろ脚を引きずって、ポッキーがこっちにやって来る。
「足、どうしたんや?」と言って、顔を両手で挟んでこすってやると、ポッキーはつぶらな瞳で嬉しそうにハァハァと舌を出して喜んだ。
家内が「病院につれて行かなあかんなぁ・・。」と言うと、ここで目が覚めた。
あぁ、ポッキー・・。極楽浄土で又会えるのやろか?
やっぱり、次の犬はまだ飼えない。
今月の『寺カフェ』

今月の寺カフェは、満員御礼!盛況だった。
心配していた『男組』もたくさん来て下さった。
初めての御方も多かったなぁ。
・・今回は、童話『ないた赤おに』の真似をして、宣伝文句の看板を書いた。(いっぺん、やりたかったのです!)
こういう看板文字でした。
『心安らぐお寺のカフェです。
どなたでもお出で下さい。
おいしいコーヒーございます。
お菓子もおまけについてます。住職』と。
ちなみに童話は・・、
『心の優しい鬼のうちです。
どなたでもお出で下さい。
おいしいお菓子がございます。
お茶もわかしてございます。』(原文は、カナ文字)
・・まぁ、ぱくりです。

ひきたてのコーヒー豆が足らなくなるのでは心配もしました。
いつにも増して、賑やかな寺カフェでした。
又、よろしくお願いします!ごひいきに。
観念寺フラワーアレンジメント(生け花)教室
紙芝居:「修験者 役の小角(おづぬ)」(その6:最終回)

捕らわれた母親を救う為に、自ら姿を現して、捕まってしまった小角・・。
「お母さん、大丈夫ですよ。必ず、私は帰って来ます!」と言って、小角は去りました。
そしてそのまま、伊豆大島に島流しになってしまいました。
・・それから、二年が経ちました。
やがて、小角の無実が判明し、無事、大和の国に帰って来ることが出来ました。
が、その年(大宝元年[701])、小角は亡くなりました。(ここから僕の想像ですが、すでに小角は伊豆大島で、無理がたたり身体が衰弱していたのか?・・あるいは遺体になって帰って来たのではなかろうか?・・と思ってしまった[涙])
その死についても諸説様々で、小角は大阪の[箕面]の山から、天高く雲に乗って飛び立ったとか・・。
あるいは、母を小っちゃくして鉢の中に入れ、中国大陸まで飛んで行ったとか・・。いろいろな伝説があります。
(まぁ、多くの人から、小角は好かれていたんやろなぁ。だから、そのまま死なせたくなかったんやろなぁ。)
役の小角が亡くなって、1300年。
小角が開いた、[修験道]という日本古来の信仰は、今も『奈良県:吉野』の[金峯山寺(きんぷせんじ)]を総本山にして伝わっています。
そして、小角の目の前に現わされたという《金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)》様は、今も本堂から我々を見守って下さっているのです。
・・えっ?なぜ、三体も金剛蔵王権現さまが居るのかって?
それは、過去の過ちを赦す《お釈迦》様、現在を護る《千手観音》様、未来を輝かせる《弥勒菩薩》様が、それぞれ、金剛蔵王権現さまに変身して、我々を守って下さっているからなんですって。
(吉野:金峯山寺)
おしまい







