住職のつぼやき[管理用]

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その相づちがワタシを救う

 今日は『相づち力(りょく)』のお話をしたいと思います。
・・これは老人ホームでの体験談です。
老人ホームなどへの出前先で、紙芝居を使った『法話会』を行う前はたいてい緊張モードに入っています。「今日はうまく話が通じるだろうか・・」などと考えている訳なのです。
・・で、毎回の『出前法話会』は、まず雰囲気作りから始めます。その場が柔らかい空気になると、自然とうまく本題の「紙芝居」に移っていけるからです。
 さぁ、法話会が始まります。空気が張り詰めます。みんな緊張です。
 そんな時、この雰囲気を一瞬にして和やかにしてくれるのが、聴いて下さっている方々の『相づち』力(りょく)です。
 たとえば、こんなことがありました。・・・「実はお釈迦様ってインド人だったのですよ。」と僕が言うと、間髪おかず、「なんとっ、そうやったんか!驚き桃の木山椒の木!」などと、インド人もびっくり!(かなり古いギャグ・・)のようなお顔とお声で、相づちを打って場を和ませ、笑いを振りまいて下さいます。 場の空気は一瞬にして、僕もみんなもリラックスモードに変わり、話がしやすく、又聴き易くなります。
そんな時、僕は《お客様は神様です!》。もとい、《聴衆様は仏様です!》と本当に思ってしまいます。
このような方々が居て下さるからこそ、僕はうまくノセラレテ、会がスムーズに進行するのだと思います。ありがたい話です。
 そう、これを読まれたそこのあなた!あなたの所へ出前に行かせてもらった時は、あなたのその「相づち」と「うなづき」が、おびえる子羊のようなおっさんのこの僕を救うのです。
・・「相づちは、忘れず実行、良い聴衆!」を合い言葉に、出前に呼んで下さる皆さん、末長いお付き合いをよろしくお願い申し上げます。
・・・何を言ってるのか、自分でもよくわからんようになってきましたので、このへんでやめます。
『紙芝居屋亭』からの「小さな相づち運動」のお願いでした。
・・おそまつっ!

命がけの法話会

「私はここへ来るのも命がけなんです・・」とNさんは僕に言われた。
こことは『特別養護老人ホーム白寿苑』での法話会の場である。・・Nさんは、その法話会に最初から来てくださっていた女性であった。一昨年、行年96歳でお亡くなりになられた。
 法話会を始めたのが平成8年からであるから、87歳からおよそ10年間のお付き合いであった。
最初にお会いした時は、まだまだお元気で、僕によく色々な若い頃のお話をしてくださった。・・が、亡くなられる2年ほど前からお身体も弱り、足の指も悪くなって一本切断された。腕の力も無くなって、車椅子も最後は自分では動かせなくなっておられた。
 Nさんは、ベットから車椅子に移動する時、「新米の寮母さんでは非常に心もとない」とよく言っておられた。それはいつずり落ちるか分からない怖さがあったからだそうだ。床に落ちると骨折するかもしれない。骨折すると、ここを出て病院に入院しなくてはならない。その入院が長期になると施設内での《籍》が無くなる。そうなると、もうここへは帰って来れない。ここが終の棲家にはならないのだ。
「病院よりはココが良い」と皆さんよく言われる。
Nさんもそう言われた。「・・だからあまり動かないようにしていますが、法話会には行きたいのです」とおっしゃてくださっていた。つまり《命がけ》で来てくださっていたのだ。
その命がけで来てくださっていた方に対して、はたして僕は《命がけ》でお話していたのだろうか・・。そんな思いが今も僕の頭をよぎる。『なんでも継続することが一番大切なのだ・・』と言って何も工夫せず、そこに甘えていい加減な話ばかりになっていたのではなかったか・・。このような想いが今も白寿苑に来る度に、Nさんのおられた部屋を横切る度に、頭をよぎるのだ・・。
「ここへ来るのも命がけなんです」とは、『一期一会の気持ちを大切に仏法を伝えなさい・・』と、僕に今も教え続けてくださっているような、そんなNさんの言葉であったと思う。

『坊主が屏風に・・・』の話 その2 《宗派を選ぶ権利》

今回は、僕が毎月「法話会」で行っている老人ホームで聞かせていただいたお話をしたい。
その日、僕はいつものように会を終え、後片付けをしていると、いつまでも部屋にお戻りにならずに、『絵像屏風(別名「坊主が屏風に坊主の・・」もう、ええか?)』をずっと見ておられる車椅子の男性がおられた。きっと何かお話があるのだろうと、お声を掛けさせていただくと、この男性は次のようなお話をされた。
 「この屏風に描かれたお坊様達(「最澄様」「栄西様」「道元様」など)は、昔の人だけど、それぞれにやはり我々と同じように悩みを抱いて、それぞれが独自の方法を見つけて『苦』の解決をされたのですよね・・。この宗祖たちも、やはり最後は死んでいったけれど、何かを残してくれたから、今でも崇められているのでしょう。それを私は知りたい。それぞれの『苦』の解決方法を知りたいのです。その中から、自分にあったものを見つけたいのです。それを自分の《死への準備》にしたい。そんな一人ひとりの宗祖の紙芝居を描いて下さい。そして、それを分かり易く教え伝えて下さい・・。
お釈迦様が亡くなった後、このお坊様達は世に出られた。今、あなたもこの方達と同じ衣(ころも)を着けているのだから、お釈迦様の教えを受け継がれたこの方達と、同じ立場にいるのではないですか?この宗祖の方々のお話しを伝えて下さるということは、宗祖方と同じことをするのではないでしょうか?是非お願いします」と・・。
そう、お話されて帰られた。
この言葉は堪えた。この時から、僕は色々なお坊さんの紙芝居を描こうと思ったのだ。それがこの《出前メニュー》にある《僧侶もの》シリーズの「紙芝居」だ。(これらの作品はこのHPで追々紹介していきたいと思っている。)しかしまだ描いていない宗教者はたくさん居られるので、少しでもこの男性の期待に応える様にこれからも、まだまだ作っていきたいと思っている。この男性の「自分にあった宗教・宗派はこれです!」という声を聞くまでは・・・。

『坊主が屏風に坊主の絵を書いた屏風』の話 その1

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出前に行かせていただく老人ホームや病院など、多くの場合『仏間(ぶつま)《仏壇のあるお部屋》』がない。
ゆえに、施設苑内で「法話会」を開き、お話をさせていただく場は、たいてい食堂や多目的ホールになる。
・・である為、『お寺の出前』と言いながら、なかなかお寺の雰囲気が出せない。(僧侶の着物姿でお話はするのだが・・)
それで・・、「それはそれで仕方がない」と思っていた或る日、施設内で仲良くなった一人のお年寄りの女性から、ホールで法話会が終わった後、「ホンマにここに来て、お話を聞かせてもろたら、お寺の居るような感じがします」と言われた。もちろん、それは僕へのリップサービスであろう。・・とわかってはいるけど嬉しかった。そして、「この場をもっとお寺らしい雰囲気にしたい・・。その為には御本尊となる仏像を置きたいな」と思った。
が・・、施設に仏像を持って来るのはご法度だった。それは「他の新興宗教の入所者の方からクレームがつく」と職員さんから言われたからだ。
それで考え作り出したのが、《写真》の屏風である。これは『絵像屏風』と言い、別名『坊主(僕)が屏風に坊主の絵を書いた屏風』という(笑)。ちなみに「じょうずに」は入っていないからあしからず。さて、この屏風は折りたたみ式で広げれば畳三畳ぐらいの大きさがある。真ん中がご本尊の《仏様》で、手から鈴付きの五色の紐が伸びるようになっている。これは、寝たきりの方の所へ持って行った時、「今、仏様とつながっていますよ」と言いながら、この紐を握ってもらいお話する為の装置である。・・そして《ご本尊》の回りには平安・鎌倉時代の宗派を作られた祖師方「親鸞様」「法然様」「日蓮様」「空海様」方などを、だいたい?オールスターキャストで似顔絵を描かせていただいた。そして、この屏風を『出前』の本尊とし、現在も講演には必ずこれを持って行き、日夜《お寺もどき》の雰囲気作りに励んでいるのである。ちなみに、これを見た新興宗教の方々からの苦情は未だない・・。めでたし、めでたし。

開け!ホームページ

平成12年から始めた『お寺の出前の会』は約7年間で幕を閉じた。
この間、毎月コラムを書き、「出前だより」と名づけ、行く先々の福祉施設などで配った。
その「たより」はけっこう評判も良く、友人のホームページの片隅に、毎月掲載もしていただいていた。
そして、そのホームページを見たからという出前の依頼者も少なからず現れ、この時ホームページの力(チカラ)を改めて思い知った。
・・が、平成18年末で会を閉じ、このようなコラムも二度と書くことはないと思った・・そんな時、ご縁ある方々からの後押しがあり、再びコラムを書く機会が与えられた。しかもそれは個人的なホームページを作るという形で。
それがこの『紙芝居屋亭HP』である。
しかも、今度は「ちらし」の時にはできなかった写真もジャンジャン載せることができる。又、直接コラムの感想も書き込んでもらえ、携帯からも見ることができるのである。
これは「お前、お寺の出前はやめてはいかんのだ。窓口を広げ、仏との縁をさらに紡ぐのだ!」という仏様からのお声だと思うことにしたい。・・そして、さらにこのHPを充実させ、少しでもご縁ある人々と多く出逢いたいと切に思っているのである。

話すこと、聴くこと、寄り添うこと・・

「住職さん、出前講演会はどんな題名にしましょか?会のレジメに書かなあかんので・・」と、出前の依頼者から時々尋ねられる。そんな時はたいてい、「題は『話すこと、聴くこと、寄り添うこと』にしてください」とお答えする。この題名は『お寺の出前の会』の時分からも、よく使っていた。今回はこの《お題》について話をしたい。
そもそも、どうしてこんな題にしたのか。それは僕の大好きな宗教者の言葉に由来する。19世紀のインドに聖ラーマ・クリシュナという偉いお坊さんがおられた。この方の言葉に「信仰者の性格ってどんなものか知っているかい?オレが話すから、お前はお聞き、お前が話すならオレは聞くよっていうようなものさ・・」というのが残っている。ここから取った。
この言葉の部分だけでは、聖ラーマ・クリシュナの凄い所がわかってもらえないであろうが、とにかく僕はこの方の大ファン!なのである。僕の『出前』活動はこの方の影響を受けて始めたといっても過言ではない。ちなみに僕の紙芝居は、この方のお話から作ったものが多い。(仏教もの紙芝居№16『仏様の思し召し』・№17『先生にならなかったお坊さん』・№23『すべてのものは仏さま』である。)難易な宗教哲学を子供でも分かるようなたとえ話にされてお話されるこの聖人。是非一度、図書館などでこの方の本を探して、読んでもらいたいと思う・・。以上は余談。
さて、題の最後の『・・寄り添うこと』は、どこから取ったか。
これは僕の友人の言葉からヒントをもらっている。友人はこんな話を僕にしてくれた。「幼い子供が亡くなった時、お経をあげに来てくれた坊さんが、お通夜が終わっても、すぐに帰らんと、長いこと一緒に居てくれた。そして色んな話をしてくれたんや・・。うれしかった。・・寄り添ってくれてたんやなぁ、今でもよう覚えてる」。・・この言葉から付けた。
人間のコミニュケーションの基本でもある、この『話すこと、聴く事』を、宗教者として、『寄り添いながら・・』、活動していきたいと常に僕は思っているのである。

紙芝居事始め

今回は、私がなぜ『仏教紙芝居』を作るようになったのかを書かせていただきます。
題して『紙芝居事始め』のはじまり、はじまり~。
 《 むかーし、昔といっても・・平成8年。
 或るところといっても・・大阪は西成区に『白寿苑』という特別養護老人ホームがあったそうな。
 ここの施設長は、仏教的な癒しの力を、とても評価していた。
 ある時、施設長は考えた・・。「この頃、うちのお年寄り達は、夜になってもよく眠れんと言っておる・・。おおっそうじゃ、確かうちに毎月ボランティアでやって来るあの《宮本》という若者(本当は中年)は、自分を坊さんだと言っておったなぁ。よし、一度あの男に、うちで『法話会』を開いてもらうように頼んでみよう。年寄り達はきっと、仏様の話を懐かしく聴いて眠れるようになるに違いない」と。
 そこで、すぐに施設長は、その男に訳を話してみた。
 男は「それはうれしい!仕事冥利につきるわい」と言ってすぐさま引き受けた。
 しかし・・、困った事に施設の中では、目の悪い方や、耳の遠い方がたいそう多かったんじゃ。それでなかなか、仏法の話がうまく通じんかった。
 それで、この男は「そうじゃ・・、大きな紙芝居を作り、それを使って、仏様の話をさせてもらおう。きっと年寄りたちは懐かしく思って話を聴いてくれるに違いない。目が悪くても、耳が遠くても、ゆっくりお話をさせてもらい、仏様の教えをそこから味わってもらおう・・」と考えた。この坊さんは、絵を描くのが好きだったので、それが苦にはならんかったんじゃな。
 ・・・それからというもの毎月、毎月この坊さんは、紙芝居を作って、そこの施設で法話会を開いたそうじゃ。
 そして、お年寄り達は、毎月開かれる、その『紙芝居』の法話会を楽しみに集まり、いつしか、夜もよく眠れるようになったという事じゃ・・。めでたし、めでたし・・・。》
 
 

僕が住職になった理由(わけ)

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後悔しない生き方として酒屋をやめ、僕は8年近くお寺で勤めた。そんな僕に再び、人生の転機がやってきた。
それは平成10年の春---。
突然、師から「大阪は南河内に跡継ぎを探しているお寺がある。新住職として迎えてくれるから、良ければそこに来ないか」という話が舞い込んできたのだ。
「ただし・・、」と師の話は続いた。
そこからが重大で、「すでに、その寺には留守職をされている老姉弟がいる。その姉弟と同居するのが条件だが・・」と言われた。
これは僕にとって冒険であった。
見知らぬ土地で、見知らぬ人達と一緒に住むのだから・・。
しかも、妻と子供も一緒に来てほしいという。
この時は悩んだ。
僧侶となったからには、一度は一ヶ寺の住職になってみたい。
しかし、そのような形の生活がはたしてうまくいくのだろうか・・と。
それから、いろいろと起こってくるだろうと思われる問題を想定しながら、家族で話し合った。
そして、その夏にはやるだけやってみようという、結論に達した。
一方、お世話になったお寺の方も、ご子息が跡を継ぐことで話が決まり、そちらの方も安心した。
そして、その年の秋に引越し。
見知らぬ土地で、他人との同居生活が始まった。
が・・、しかし、やはりうまくいかなかった。
お互いの生活習慣の違いから話がこじれ、やがて老姉弟は寺を離れ、新しい土地に新しい家を建て、引越しをされた。
そして結果的に、お寺には僕達家族だけが残り、現在に到っているという訳だ。
こうして僕は観念寺の住職になったのです。(写真参照・観念寺)

僕が僧侶になった理由(わけ)

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僕は酒屋の長男として生まれた(写真参照 《在りし日の宮本酒店》)。
店は僕で三代目。当然の如く、小さい頃は自分も大きくなったら、酒屋をやるものだと思っていた。しかし、いつの頃からか、宗教に興味を持ち、学校も仏教の大学を選んだ。
大学卒業後は、跡取りとして店を手伝い始めたが、心はどうしても満たされず、神や仏、そして精神的なものに向いていた。
ちょうどそんな時、私の家にお経をあげに来てくださっていたお寺の御住職が腰痛の為にお参りができなくなってしまわれた。御住職にはご子息がおられたが、まだ学生さんだったので、誰か近くで手伝ってくれる人を探しておられるとの話を耳にした。
この話が、その時、自分の心の中の闇を照らす一筋の光明のように思え、早速お手伝いを申し出た。
午前中は衣を着て『檀家さん宅へのお参り』、そして午後からは前掛けをして『お酒の配達』という、二束のワラジを履く生活が始まった。
しかしその後、店の仕事がおろそかになり始め、父が怒り出し「商売をするのか、僧侶でいくのか、はっきりしろ!」と最終通告を出した。悩んだ末、私の恩師に相談にいくと、師は次のように言われた。「人間というものはいつか必ず死ぬ。それがいつかはわからぬが、その臨終の時に『この仕事を選んで良かった』と思える道をゆきなさい。君はどっちが後悔しないかな」と。
僕はこの一言で僧侶の道を選んだのです。

ネ(寝)コロンビア・レコードにデビューしたい

きのう、或るご門徒さん(お寺の檀家さんの事)から電話があった。「住職さん、今晩、居酒屋で一杯やりにいきまひょか?」というお誘いの電話だ。思わず一言「ハイ!」。夕方、その居酒屋で焼酎の水割り(梅干入り)を三杯ほど飲んだ。僕はアルコールに弱い。しかし、門徒さんの色んな話をお聴きしている内につい勢いで飲んでしまった。その内、隣の知らない河内のおっちゃん達も話に参加しだし盛り上がった。おまけに今日近くの汚ーい泥池から獲ってきたというバケツ一杯の小さなエビを差し出して「これうまいからあんたも食べ!」と言って跳ねているそのエビたちを皿に入れてポン酢をかけて差し出してくださった。門徒さんは「やめとき・・、食べる振りだけしとき、菌があるかもしれんから・・」と僕にそっと耳打ちされた。そして「住職さん、このエビなんとかするから、その間におっちゃん等の目をそらす為、1曲カラオケで歌っといて」と言われた。僕はおっちゃん等の目をこちらに引きつけるために大きな声で河島エイゴの『時代遅れ』を歌った。作戦はうまくいき、エビはその間無事処理できた。おっちゃんのひとりが歌を終えた後ボソッと言った。「あんた歌うまい。でも・・コロンビアレコードに売り込むのは無理やなぁ。しかし、寝(ね)コロンビアレコードやったらデビューできるかもしれんでぇ」と言われた。酔っ払ってるとはいえ、そのユーモアのセンスに感心してしまった。と同時に、おっちゃん等に悪いことしたと少し罪悪感が残った。でも食べなくて良かったとも・・やっぱり思う。しょうもない話ですんません。ブツブツ・仏 合掌

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