僧侶シリーズの紙芝居が、三本続けて完成しました。
おいおい発表してゆきます。
今日はその予告です。
(『戦争は罪悪である』)
まずは、真宗の反戦僧侶[竹中彰元(たけなか・しょうげん)]師。
この方は、NHKスペシャルでも特集された有名な僧侶。
このお話は、一種の悲劇です。
来週、こちらのお寺に(最後の仕上げの為に)取材に行って来ます。
(『戦争は集団殺人だ』)
次は、タレントの故・植木等さんの御父様[植木徹誠]師。
この方も真宗の僧侶だ。
この方の生き方は、ハチャメチャで一言では言い表せれない。・・とにかく、僧侶としても人間的にも凄い人。尊敬に値します。 
(『慈雲尊者(じうんそんじゃ)』)
最後は、地元河南町の高貴寺の住職であった[慈雲尊者]。
釈迦の再来と言われた真言宗の偉人である。・・いや、真言宗のような⁈禅宗のような⁈神道のような⁈・・ようわからんような。まぁ、とにかくすごい偉人ですわ。
この方が、あまり有名でないのは何とも悲しいので、それで紙芝居化した。
以上が、すでに完成した紙芝居シリーズです。
追々このプログで発表します。お楽しみに!
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これから発表する紙芝居シリーズ
堺市:萬福寺さまの春季彼岸会・永代経法要
(萬福寺様ご家族)
本日、堺市の萬福寺様の[春季彼岸会・永代経法要]にお招き頂き、『紙芝居法話』をさせて頂いて来た。
堺市は、本当にお寺が多い。
こちらも、その1ヶ寺だ!
お寺の横にもお寺があり、その横にもお寺があり、お寺大集合地帯。迷う。
お聞きすると、戦国の昔に堺を守るべき地帯(川や海沿いなど)に、お寺や神社をたくさん造り、敵からの攻撃に対して、神仏の力をお借りして守ろうとしたからだ(という一つの説を)教えて頂いた。
でも、このお寺激戦区!今は何かと大変だろうな。
なにわともあれ、本日、こちらのお寺は本堂満堂。参拝者の方々は熱心な御門徒さまばかりであった。
良かった、良かった。
万福寺のご家族の皆様、総代様、御門徒の皆様、大変お世話になりました。有難うございました。合掌
慈雲尊者を訪ねて


(大阪中之島[慈雲尊者生誕の碑])
次の紙芝居制作に入っている。
その取材に行って来た。
つぎは、お釈迦様再来の尊者といわれた『慈雲(じうん)』様の紙芝居だ。
その生誕の地は、大阪中之島にある。
場所はリーガロイヤルホテルの横だ。・・今は賑やかな場所の中にひっそりと立っている。
サラリーマンたちは見向きもせず、通り過ぎていく・・。これが現実だ。
(大阪東住吉区『法楽寺』:慈雲さま得度修行の寺院)
次は、東住吉区にある慈雲さま得度の地『法楽寺』様。
こちらで、慈雲さまは修行をされた。
(法楽寺ご住職と)
運よく、御住職[小松庸祐]様にお会いすることが出来たので、慈雲さまについて、そして紙芝居制作について、いろいろお話をお聞きすることができた。
僕は運が良い・・と、つくづく思った。
雨の寺カフェ
先日、春雨というか、まだまだ寒かった風雨の日に『寺カフェ』を開いた。
婦人会のボランティアの皆さんは「今日は雨なので、お客さんも少ないやろし、暇やろな⁈・・気楽にやろか」と言いつつ準備を始めた。
ところが、お店を開くと、次から次へとお客さんは来て下さって、座るところのないほどの超満員になって、てんてこまいだった。
その要因の一つは、雨の日はお百姓さんは暇になってしまい「お茶でも飲みにいこか」という話になったから・・らしい。
もう一つは、「今日の[寺カフェ]は雨で暇やろ、お客になって(売上を)助けに行こか」と(ボランティア精神で)来てくだった方が多かったようだ。
何はともあれ、お客さんの増加はうれしいことだった。・・赤字にならなくて。
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その9 最終回)

昭和34年、露子は、自宅で二度目の[脳出血]を起こします。
そして、享年78歳で、その生涯を閉じることに成ります。
亡くなったその日は、ちょうど晴れ渡った秋の日だったそうです。
虫干しの為、色鮮やかな着物の中で、露子は倒れて亡くなったと伝わっています。
(杉山邸内)
『人の世の 旅路のはての 夕づく日 あやしきまでも 胸にしむかな』
これは、露子七十代の歌です。
明治時代のロマンチズムの清純さを、代表する歌人であった石上露子。
南河内随一の大地主の娘に生まれ、才色兼備を持ち合わせながら、波乱万丈の人生を生きねばならなかった露子。
それでも、彼女は懸命にその人生を生き抜きました。
今、露子の杉山家は、富田林市が買い取り、国の重要文化財の指定を受け、一般市民に公開しています。
おしまい
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その8)

明治時代は終わり、大正、昭和へと時代は移り・・、
露子の家に次々と悲劇が襲います。
昭和16年、長男は病死。
終戦の年、昭和20年。精神の病から息子に家督を譲っていた夫が死亡。
さらに戦後の農地改革で、杉山家は[保有農地]を失い、経済的大打撃を受けます。
しかし、もっと大きなショックは、次男の自死でした。
次男が亡くなってから、露子は彼が生前からよく通っていたという、(現・河南町の)高貴(こうき)寺に、度々足を運び、住職との交流を深めてゆきます。
この山深いお寺で、露子は(おそらく)心の安らぎを求めたのでしょう。
現在、このお寺には(杉山家のお墓とは別に)、露子と子供たち三人のお墓が建っています。 つづく
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その7)
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その6)
失恋の傷が、まだ癒されぬ露子に、さらに追い打ちが掛かります。
それは、師であり心の友であった家庭教師の解雇と、自分の味方であった妹の嫁入りによる別れでした。
一人ぼっちになった露子が、そのやるせなさを解放できたのは、雑誌への投稿である[文筆活動]でした。
与謝野鉄幹・晶子夫妻等と知り合いになった露子は、次第に社会へ目を向けるようになるのです。
次の歌は、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』の歌よりも、早く発表された露子の反戦歌です。
『みいくさに こよい 誰(た)が死ぬ さびしみと 髪ふく風の 行方(ゆくえ)見まもる』
(意訳)
「この日露戦争で多くの人が亡くなった。
今夜はいったい誰が死ぬのであろうか。
ああ、寂しい。
私の髪は戦場へ 風と共になびいていくようだ。
ああ、私はそのように思いやることしかできない。」
このように、露子は反戦の歌や小説を発表し、社会や国家のあり方に、自分の持つメッセージを込めたのでした。
つづく
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その5)

露子と別れた後、長田正平はどうなったか?
彼は学校を退学し、貿易関係の会社に就職して、カナダの国へ渡りました。
そして一生独身を貫いて、カナダの国で一人亡くなったという事です。
のち露子は、家を継ぐ運命の為に、初恋の正平とのかなわなかった想いを詠んだ、絶唱『小板橋(こいたばし)』を発表します。
(小板橋跡)
『小板橋』
「ゆきずりの わが小板橋
しらしらと ひとえのうばら(=野バラ) いずこより
流れか よりし。
君まつと 踏みし夕(ゆうべ)に いひしらず 沁みて匂ひき。
今はとて 思ひいたみて 君が名も 夢も捨てむと
なげきつつ 夕(ゆうべ)わたれば ああ、うばら あともとどめず
小板橋 ひとり ゆらめく」
[意訳]
「私がよく渡る小さな小板橋。
橋の下を見れば 白い野バラが どこからか流れて来た。 あなたが来て下さるかと思い、夕べ この『小板橋』まで出て来ると、言い尽くせない この野バラの香りがした。
もう あなたのことは忘れてしまおうと思うの。
その名前も、夢も・・。
そう嘆きながら この『小板橋』を渡り、下を見れば もう野バラは 流れ去り無かった。
あとは この小さな板の橋だけが、私の心のように 限りなく ゆらめいていた。」 つづく
(小板橋跡近くに建つ、現代の小板橋)
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その4)
露子は、大地主『杉山家』の跡取り娘です。
又、正平も由緒ある家の長男、・・跡取り息子です。
当時の法律では、お互い跡取りの子供同士の結婚は認められなかったのです。
それで、露子の父親は、この交際を認めませんでした。
そして、二人は愛し合いながらも、とうとう、別れることになったのです。
のち、露子は、次のような別れの時の歌の思い出を歌っています。
『霜(しも)白く 菊におきけり その日より 久に君見ず 夕別れして』
意 (霜が白く菊におりていました。その日より、あなたと会っていませんね。あの夕暮れに お別れした時から・・)
この失恋から、絶唱『小板橋(こいたばし)』が生まれるのです。 つづく





