先日、河内長野駅に行く用事があったので、車を駐車場に止めて駅に向かっていたら、ロータリー横に『河内長野市観光案内所』を見つけ、思わずお邪魔してしまいました。
綺麗な内装で、しかも案内所のガイドさんたちもたいへん親切な応対をされていて、気持ちよかったです。
僕はすぐ立ち去ろうと思ったのですが、「どこから来られたのですか?」と聞かれたので、正体をばらすと皆さん立ち上がって「紙芝居ではお世話になっております!」と頭を下げられたので恐縮しました。 そして休憩タイムでもあったのでとコーヒーまでご馳走になりました。
案内所の壁にはNHKのテレビ小説[おちょやん]のポスターが貼ってあったので、僕は「今、車の中に[おちょやん]のモデルになった浪花千栄子さんの紙芝居がありますよ、見ますか?」と言ったら、みなさん『是非!』と言って下さったので、駐車場まで取りに行って見てもらいました。 少しの間と言いながら、けっこう長居してしまいました。ありがとうございました。又、今度はちゃんと訪問させていただきますね。合掌
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河内長野市観光案内所、訪問
紙芝居「犬たちをおくる日(リメイク版)」の制作開始
2012年に作った紙芝居「犬たちをおくる日」の(大人向き)リメイク版を今作っている。
これは児童文学作家の今西乃子先生が書かれた犬たちの殺処分を真正面から描いたノンフィクション作品である。
僕は当時、今西先生のこの作品に感動して、先生に手紙を書いて紙芝居化の許可を得て、四国の現地取材をして紙芝居を作った。
そして作品は完成したが、大人向きに作ったもので内容が難しく、作品はお蔵入りをして新しく子供用に作り直した。
それがこのホームページでも発表した「紙芝居メニュー126番」の作品だ。
そのお蔵入りした作品が、倉庫を整理していたら偶然出て来た。
読み直してみたら、こちらの方が作品として深い。
という事で、もう一度この作品を作り直し描き直してリメイク版を発表しようと思う。乞うご期待を!
紙芝居:『紙芝居事始(ことはじ)め~私が紙芝居を始めた訳』(後編)
・・それはな、老人ホームには[目の悪い方]や[耳の遠い方]が多かったんじゃ。
そこで男は考えた。
「そうだ!大きな紙芝居を作って、色は原色を使って見やすくし、話はなるべく分かり易く、ストーリーは幼稚にならず、大きな声で仏様に関するお話をしよう。」と。
まぁ、この男は絵を描いたり話を作ったりするのが、小さいころから好きだったんじゃな。
それで、月一回の施設内での『紙芝居法話会』は始まった。
これは職員たちと話し合ってな、不安で夜に眠れないという声に応えて、午後7時半から始めて、時間も長くならないように30分間で終わり、必ず最後は感想を言い合う「語り合う時間」を作ったのじゃそうじゃ・・。
これは当たってな!それから毎月毎月、お年寄りたちはその紙芝居を楽しみに集まり、それからは皆よく眠れるようになったそうじゃ・・と。
それからというもの、この坊さんはせっせせっせと紙芝居を作り・・、
いつしかその数も『200本』近くなった。
又その施設も越えて、その紙芝居とやらを観てみたいという者も多くあらわれ、今では地域の老人会や子供会、お寺などへも紙芝居を持って、演じに回っておるんだと。
『お寺の出前 紙芝居屋亭』と言う名前でな・・。
めでたし、めでたし。おしまい
(終わりに)
この三部作は、第二部の『私が住職になった理由』と第三部の『紙芝居事始め』が微妙に順番が重なりあっておりますがご容赦ください。つまり、住職が先か?紙芝居が先か?と問うならば、紙芝居の方が先なのです。簡単にいうなら、紙芝居を描いていて、結果的にお寺の住職になったと言うことです。
又、一度体調を悪くしてから、今では施設などへの講演もなるべく少なく控えるようにしておりますので、そこのところもご容赦ください。おわり
紙芝居:『紙芝居事始(ことはじ)め~私が紙芝居を始めた訳』(前編)
むかーし昔とは違い、これは平成8年(1996)のお話じゃ。
ある所といっても、大阪市は西成区に[白寿苑(はくじゅえん)]という、特別養護老人ホームがあった。
ある時、こちらの施設長は考えなさった。
「‥この頃、うちのお年寄りたちは夜中によく眠れぬと言っておる。皆、何らかの不安な気持ちがあるのじゃろう。
・・何か気持ちを安らかにしてあげれる良い方法がないものじゃろうか?
・・おぉっそうじゃ⁉良い事を思いついたわい。確かうちに、毎月ボランティアでやって来るあの宮本という若者・・いやいや中年がおったわい。
あの男は坊さんじゃと言うておったのう。
あの男にうちで『仏様のお話(法話)』をしてもらうように頼んでみよう。
‥と言うわけで、さっそく施設長はその男に訳を話してみたそうじゃ。
男は大そう喜んだ。「それは仕事冥利に尽きる」と。
そしてすぐに引き受けた。
しかし、困った事があった。・・つづくじゃ
空(す)いている病院
僕は高血圧の為に二ヶ月に一回、病院に行かねばならない。
診察と薬を貰いに行くのだ。
で、今日も行って来たのだが、コロナ禍の影響か?院内は空(す)いていた。
いつもは一時間程待たされるのを覚悟して、文庫本など持って行くのだがその心配も無し。
すぐに診てもらえた。丁寧に扱ってもらえるのは嬉しいが、何故か寂しい。・・コロナの収束を早く願う。
紙芝居;『私が住職になった理由(わけ)』(後編)
この話は冒険でした。
大阪とはいえ、広うござんす。
見知らぬ土地で、見知らぬ人達と一緒に住むというのですから・・。
しかも、妻と子供も一緒に来て欲しいというのです。(親とは離れて)
この時ばかりは悩みました。
僧侶になったからには、一ヶ寺の住職になって自分流の運営をしてみたい。
がはたして、こんなスタイルで生活が上手くやっていけるのか?
又、いつかきっと老姉弟の介護の問題も起こってくるに違いない。その時はどうするか?
いろんな問題を想像して、それから妻と子供達と残してゆく両親と何日も話し合いました。
そして最後に「やるだけやってみよう!」という結論に達しました。
両親も「店の事は心配するな、いずれは閉める。行って来い」と言ってくれ、妻も「あなたの夢について行く」と言ってくれました。
一方、お手伝いをしていたお寺も、ご子息さんが後を継ぐ事に決まり、心置きなく出発できる事になりました。
そして平成10年の夏、引っ越し。
見知らぬ土地での他人との同居生活が始まりました。
がやはり、上手くいきませんでした。
最初はお互い遠慮し合って、上手く生活していたのですが、その内、生活習慣の違いから話しがこじれ、やがて老姉弟は別居される道を選ばれました。(親戚の近所に家を買われ移られました。)
そしてお寺には私達家族だけが残りました。
結果的には、後味の良いものではありません。がしかし、正直この様な選択しかなかったのです。
こうして、私は「観念寺」の住職になりました。
今でも「これで良かったのか?」と悩む事があります。
がしかし、観念寺の檀家さん達から「住職さん、これからこの寺を頼みます!」と言われる度に、責任を感じ身の引き締まる思いがします。
ご縁あって、住職になったのです。
これからも、檀家さんの為に、世の為人の為に、仏様の元精進して行きたいと思っています。ご縁ある皆様、これからも御鞭撻のほど、宜しくお願い致します。おしまい
(終わりに)
平成18年、「宮本酒店」は閉店し、父も亡くなりました。母は健在です。
又、お寺を守っておられた老姉弟も老衰で亡くなられました。
現在、観念寺は私の娘が、次期住職として精進しております。
もちろん、私も住職として、バリバリ現役です。
最後に余談になるのですが、このお話では、私の弟が出てきませんでした。話がややこしくなるのでカットしたのです。(弟、すまん!優しい兄思いの弟です)
現在、弟は三重県で、家庭を持ち公務員になって働いています。
これで、第二部が終わりました。
いよいよ、第三部は、何故?私が紙芝居を制作するようになったかを、お話します。題して「紙芝居事始〜私が紙芝居を始めた理由」です。
紙芝居:『私が住職になった理由(わけ)』(前編)
私が後悔しない僧侶の道で生きていこうと思ってから、何年かが経ちました。
がしかし、相変わらず酒屋の二階に、家族(父母、妻と子供二人)と共に暮らして居ました。
さてこの紙芝居は、私がお寺の法務員(役僧)から、今のお寺(観念寺)の住職になるまでのお話です。始まり、はじまりー。
宮本酒店の規模は縮小し、父親一人でも運営出来るようになっていました。
・・というよりも、時代の波でお酒を置いたコンビニが増えだし、ウチのような小さな酒屋は縮小せざるを得なかったのです。
私は相変わらず、お寺の仕事をしながら、酒屋の仕事も手伝っていました。
又それとは別に、休みの日には、その頃[仏教ホスピス活動]と呼ばれていた[ビハーラ活動]にも参加していました。
これは、老人ホームや病院などへ宗教者が出向き、様々な奉仕活動をさせて頂くものです。
私はこのような[宗教と福祉と医療]が共に手を携えて、社会の為に貢献してゆく奉仕運動が本来したかったのです。(ちっちゃな事ですが)
この活動が私の運命を変えました。
ある日、このビハーラ活動の恩師から、次のようなお話がありました。
それは、平成10年の春でした。
恩師は私に突然言われました。
「大阪は南河内に後継を探しているお寺がある。
良かったらそこに来ないか?新住職として迎えるから・・」と。
「・・ただし、」と話しは続き、
「すでに、その寺には留守番僧として、老人姉弟が住んでいる。
その御老人達と暮らすのが、条件なのだが・・」と言われたのでした。つづく
泉南市:善照寺様への「報恩講法要」の[紙芝居法話]
12月5・6日の2日間、関西空港近くの泉南市にある「善照寺」様の『報恩講法要』にお招き頂き、[紙芝居法話]に行って来た。
コロナ禍で、法要開催が心配されたが、皆さまの熱いご要望で実現できたようだ。
フェイスマスクを着け、お話する時間も短くして、二日間、紙芝居をさせて頂いた。
・・やはり皆さん、コロナの中でもお寺にお参りをされたいようだ。
二日目は本堂が満堂に近かった。
僕は「親鸞聖人」の紙芝居はもちろん、コロナ禍なので『蓮如上人の疫癘(伝染病)の御文』や、コロナ禍太りの話を交えた『ダイエットの王様』などのお話をさせて頂いた。
「楽しい、ありがたいお話をありがとうございました。」と何人かのご年配のご門徒さんからお声を掛けて頂き、手を振って笑顔を共にお寺を後にして帰宅したのだった。
善照寺の皆さま、二日間ありがとうございました。合掌
紙芝居:『私が僧侶になった理由(わけ)』(後編)
そして、私は午前中、法衣を羽織り[檀家参り]をして、
午後からは(酒屋に戻り)、前掛けをして[お酒の配達]という[二足のわらじ]を履くという生活が始まりました。
やがて、檀那寺の御住職は腰痛の手術の為、病院に入院されました。
するとやはり、私のお寺の仕事は増え、今度は酒屋の仕事が疎かになり始めました。
父が怒り出しました。
当然です。
配達要員が居なくなったのですから・・。
父はそして堪忍袋の緒が切れました。
「商売をするのか、僧侶でいくのか?はっきりしろ!」と。
私は最終通告を出されました。
悩んだ末、私は恩師に相談に行くことにしました。
その恩師は私に言われました。
「人間というものは、いつか必ず死ぬ。・・それがいつかは分からぬが、その最後の臨終の時、『この仕事を選んで良かった』と思える道を選びなさい。君は酒屋か、僧侶か、どちらが後悔しないかな?」と言われたのです。
私はこの一言で、「後悔しない」と思う、僧侶の道を選びました。
そして、父にも自分の意志をはっきりと言いました。
父はがっかりしていましたが、「お前が選んだなら、それで良い」と最後は言ってくれました。
そして私は、正式にお寺の役僧(法務員)になったのでした。
第一部、おしまい 第二部『私が住職になった理由(わけ)』につづく
紙芝居:『私が僧侶になった理由(わけ)』(前編)
『お寺の出前 紙芝居屋亭』亭主の宮本直樹です。
私は出前先で、「なぜ?在家(一般の家庭)の者が、お坊さんになったのですか?」とよく聞かれます。
又、「なぜ?今のお寺の住職に?」とか、
「なぜ?紙芝居を作って演じるようになったの?」とかも聞かれます。
・・という事で、今回は[3部作]にして、その質問に「紙芝居」でお答えしようと思います。
題して第一部、私の短い自叙伝もどき「私が僧侶になった理由(わけ)」から始めたいと思います。はじまり、はじまり〜。
私は昭和35年、大阪の小さな酒屋の長男に生まれました。
店は私で3代目。当然、小さい頃は自分も大きくなれば、酒屋を継ぐものだと思っていました。しかし・・、
いつの頃からか、宗教に興味を持ち、学校も仏教の大学を選んで進みました。
大学卒業後は、結婚もして、酒屋の跡取りとして店を手伝い始めました。・・それが父親との約束でしたので。
が、どうしても心は満たされず、神仏、そしてスピリチャルなものに常に向いておりました。
ちょうど、そのような時・・.
私の家にお参りにくださっていた檀那寺のご住職が腰痛を起こし、「お参りを空いている時間だけ手伝ってくれないか?」という話が起こりました。
御住職には息子さんが居られましたが、まだお若かったのです。
「僕がお坊さんになる!?」というこのお話は、私自身の心の中のモヤモヤ感や闇を、照らす一筋の光に感じました。
両親も「困っておられる檀那寺を助け、空いている時間だけなら良い。」と賛成してくれて、このお話をお受けすることになりました。
後編へつづく。