住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「妙好人 物種吉兵衛さん」(その4)

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 この日、いつものように吉兵衛さんは、ご住職に(いつもと同じことを)尋ねました。
 「西法寺のご住職様、わては常々、仏法を聴聞してます。・・しかし、このままでは死んでいけまへんのや」と。
 すると、西法寺の[元明]住職は一言。
「・・そのまま、死んだらエエやないか」と。
 そして、その後、一冊の経本を取り出して、《領解文(りょうげもん)》という一文を読み始められました。
 『もろもろの、雑行、雑修、自力の心をふりすてて・・』と。
 これを訳すと『私は自分の力で、仏になる考えを捨てました。・・ですから、阿弥陀仏さま、私は(来るべき)往生の一大事の時、あなた様にすべてをお任せしております。』という意味です。
 そして、元明師は一言。「このとおりや。」
 これを聞いた吉兵衛さん。『・・この人は解ってはる。大事な事を悟ってはる。おぉっ、この人や、この人について学ぼう!そして、わしの疑問を解決させるんや!』と思ったのです。
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 この出会いがあってから、吉兵衛さんは又、旅に出ることが多くなりました。
 しかし、今度の旅は[元明師]のお供の旅でした。
 師の荷物を持ち、お説教をされる所なら、どこまでもついて行き聴聞しました。
 吉兵衛さんにとって、この旅は、《宗教的安心》をつかまれる為の、命がけのものでした。
 が、その為に、手持ちのお金(=財産)が無くなりました。
 このため、自分の田んぼを切り売りしてお金を作り、聴聞の旅を続けたのでした。
 この旅の途中、吉兵衛さんの一人息子が病にかかって亡くなるという事も起こりました。
 しかし、そんな時でも、お葬式を簡単に済ませて、すぐに師について、又旅を続けたそうです。つづく

紙芝居:「妙好人 物種吉兵衛さん」(その3)

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(物種吉兵衛[ものだね・きちべえ]さんのお墓)
 余談になるが、昨年の初秋、[物種吉兵衛]さんの事を調べに、吉兵衛さんの故郷[堺市浜寺船尾町]まで行って来た。
 秋とはいえ、この日はまだまだ暑く、汗をかきかき探し回って、吉兵衛小旅行を続けたのを覚えている。・・昔ながらの佇まいが残る家々がまだ多く、横丁辺りから、ぬっと巨大な[吉兵衛]さんが現われるような錯覚を覚えた。又、海の近くか潮の香りがしたのを覚えている。おそらく吉兵衛さんもこの海を匂いを嗅ぎながら育ったのであろう。
 僕は「浄土真宗本願寺派:元立寺」様を訪ね、吉兵衛さんのお墓参りをさせて頂いて来た。
 小さなお墓で、巨漢の吉兵衛さんには小さすぎるのでは?思ったが、いや吉兵衛さんはきっと、お墓の大きさなんかにこだわる人では無かったに違いない、これで十分なのかも?と思い直した。・・余談終わり。
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吉兵衛さんの求道の旅は、三年続きました。
 しかし、結局、答えは見つかりませんでした。
 吉兵衛さんの頭を反復するは言葉は、ただ一つ。
『このままでは死んで行けぬ!』・・でした。
 つまり、『今の自分が、生と死について納得できる回答をもらえぬ内は、死んでも死にきれない。』ということなのでした。
 この疑問を持ち、吉兵衛さんは、あらゆるお寺を訪ね、そしてあらゆるお坊さんを訪ねました。(ここで、僕の疑問なのだが、吉兵衛さんが訪ねたお寺というのは、浄土真宗に限られている。なぜ、他宗や他教を尋ねなかったのかは、疑問である。おそらく、自分の家の宗旨は真宗なで、その教えにこだわりがあったのかもしれない。)
 「この答えが解らぬ内は、わては死ねない!」。
 しかし、誰も答えてはくれませんでした。
 やがて、もんもんとした気持ちを持ちながら、50歳になろうとしていました。
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 そして、50歳を過ぎた頃、ついに吉兵衛さんに転機が訪れます。
 それは、大阪:備後町の西法寺のご住職との出会いでした。つづく
 

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