住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「唯円房の歎き~『歎異抄』かく語りき~」 その6

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(唯円)「・・・という訳で、私(唯円)は、それからずっと、親鸞聖人のお側で、〔弟子〕として過ごさせて頂く事となったのでございます。
 そう言えば、お聖人は、この〔弟子〕という言葉も、お嫌いでございました。
 それは、次のようなお聖人のお話があるのでございます。」
(親鸞聖人)『・・ひたすら〔お念仏〕を称えている仲間の内にも、「これは私の弟子だ!」とか、「あれは誰それの弟子だ!」とか《言い争い》があると聞くが、これはもっての他だ!
 たとえば、私が面倒をみて、〔お念仏〕をさせる事が出来るなら、「それは我が弟子だ!」と云えるであろう。
 しかし、その人が〔お念仏〕をするのは、《阿弥陀仏》の計らいによってするものなのだ。
・・私がさせるのではない!
 だから、その人を「我が弟子」などと云うのは、とんでもない思い違いだ。
 この世の事は、すべて《縁》によるものなのだ。
 一緒になる《縁》があれば、一緒になり、離れる《縁》があれば、離れる。
 「師匠を変えたから往生できるとか、出来ないとか」、「あの者の弟子を取ったとか、取られたとか」、まるで、仏様から頂いた〔信心〕を、自分が与えたかのように言う者がいるが、それはとんでもない間違いだ!
 自然の理に従い生きてゆくなら、いつかは自ずと、仏様の恩、師の恩がわかるものなのじゃよ・・。』と、そうお聖人は言われました。
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 又、ある時、お聖人は私に、こうおっしゃいました。
(親鸞聖人)『唯円よ、ワシは亡くなった父母の〔追善供養〕の為に、一度も〔お念仏〕を称えたことはない!
・・唯円、そんな驚いたような顔をするな!わっはっはっはっ。
・・ワシは、《阿弥陀仏》が『皆を〔仏〕にして必ず救うぞ!』と誓われた、その〔感謝〕から、お念仏を申すのじゃよ。
・・ワシはな、唯円、〔自力〕を捨て、急いで《極楽浄土》へ行って〔仏〕となったなら、その不思議な力で、ワシの〔縁〕の深かった父母も含め、すべての縁或る〔生き物〕達を救いだせるに違いないと思っておるのじゃ。』と、そう申されました。
 つづく

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