住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その2)

・・余談ながら、そもそも[ワクチン]とは何か?!
 このお話にも出てくる『牛痘(ぎゅうとう)=(牛の皮膚に天然痘に似た丘疹(きゅうしん)を作るウイルス感染症)』を意味する[ワクチニア]というラテン語から『ワクチン』と呼ばれるようになったと言われている。
 そして現在、ワクチンの意味は、病原体(ウイルス)そのもの、又は病原体を構成する物質などを基に作ったものと言われている。
 そのワクチンを摂取する事で、病原体に対する免疫ができ、その感染症にかかりにくくなったりすると言われているのである。(・・ちょっと長い余談でした)
 ・・それでは紙芝居に戻りましょう。
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 幸い天然痘は一年で下火になった。
 そこで主人公[良策]は休みを取って、骨休みに近くの山中温泉へ行く事にした。
 そこで運命を決めるような出会いをするのであった。
 それは、温泉で偶然知り合った[西洋医学]の医師との出会いであった。
 良策はそこで[西洋医学]が、[漢方医学]よりも遥かに進んでいる話を聞くのである。
良策は「ひょっとすると西洋医学なら、[疱瘡(ほうそう)=天然痘]を治療する事が出来るかもしれない。・・西洋医学を学んでみたい。」と思った。
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 そして良策は、30才で西洋医学を本格的に学ぶ為、京都の有名な医師「日野鼎哉(ひのていさい)師の元に、藩の許可を得て入門するのであった。
 そこで良策は、西洋医学の知識をしっかり身に付けていった。
つづく

紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その1)

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この紙芝居は『ワクチン』に関するお話である。
 が、現代のコロナワクチンの話では無い。
 江戸時代後期の[天然痘ワクチン]のお話なのである。
 それでは、決め手はワクチン!の話の始まりはじまりー。
  原作[吉村昭]より

 昔々、と言っても江戸時代後期。
 福井藩(福井県)に、笠原良策(かさはら・りょうさく)という町医者がいた。
 彼は『めっちゃ医者』と云われていた。
『めっちゃ』というのは[はちゃめちゃ]という意味ではない。
 福井の方言で[あばた]を意味する。・・それは『天然痘感染症』に罹った後に出来た[吹き出物(おでき)]を意味する言葉である。
 つまりこの医者は、[あばた医者]と呼ばれていたのである。
 ・・が、この医者に[あばた]があったからではない。
 この医者は当時、一度感染したら、ひどいあばたが出来るか?又は死んでしまうか?わからないと云われた[天然痘]という病気を必死で治療しようとしたのでこう呼ばれたのである。
 それでは、天然痘と戦った一人の町医者のお話を始めましょう。
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 笠原良策(かさはら・りょうさく)師は、福井の城下町に住む漢方の医者であった。
 天保八年(1837)、良策27才。町で天然痘という感染症が流行った。
 当時、この病いは恐ろしく、福井の街でも一年で千人近くが亡くなった。
 又運よく治っても、顔中に[めっちゃ]こと、あばたが残り、人々はつらい思いをしなければならなかった。
 今日も遺体を乗せた大八車が、たくさん火葬場まで走り抜けて行った。
 特に子供たちの遺体が目立っていた。
 それを見ていた医者・良策(りょうさく)は、自分は医者でありながらどうする事もできない無力さに一人打ちふさがれていた。
つづく
 
 

紙芝居:『続・白隠さま』(その4 最終回)

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 白隠さまの言葉にカッとなった武士は、刀を抜くと斬りかかろうとしました。
 すると白隠さまは、「おぉ、腰抜け武士のくせに、少しは度胸があると見える!? さぁ、わしを斬れるものなら斬ってみよ!腰抜けサムライ!!」と言って逃げ出しました。
 怒りの頂点に達した武士は、刀を振り上げ、白隠さまを追い掛けました。 
 そして、追い詰め刀を振り下ろそうとした次の瞬間・・、
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 白隠さまはくるりと武士の方を向いて、武士を指差し大声で言いました。
「カッーツ!(喝)、それが[地獄]じゃ!お主は今、地獄の中におる!」
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その言葉に、「はっ」と我に返った武士は、その場に座り込み両手をついて言いました。
 「いかにも・・。あっありがとうございます。
・・私は今、地獄の中に居りました。
 一瞬の怒りで身を滅ぼすところでした。
・・これが地獄のありかなのですね。」
と、ポロポロポロポロ涙を流しながら、謝りました。
 「そうそう、それそれ、その涙を流して感謝し謝る姿が仏の姿じゃ。
 即ち、極楽にありかじゃのう。はっはっはっ。」と白隠さまは笑いながら答えました。
 これが、白隠さまが生涯テーマにした『脱地獄』の教えなのでありました。おしまい

紙芝居:『続・白隠さま』(その3)

[武士と白隠さま]
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ある日の事です。
 彦根藩の織田信茂という名の武士が、白隠さまを訪ねて来ました。
 この武士、何か悩みがあるようでした。
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 「白隠和尚、仏教では[地獄]と[極楽]
があると教えます。
・・では、その地獄というのはどこにあるのでしょうか?
やはり地下にあるのでしょうか?
 極楽は空の上ですか?
 私はそれを考えると、最近眠れないのです。
 どうかお願い致します。和尚、教えて下さい!」
 すろと白隠さまは・・、
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「さてさて、武士ともあろう者が・・、
 地獄、極楽のありかを探しているなんぞ、おぬし、武士は武士でも腰抜け武士じゃろう!?」と白隠さまは言いました。
「何?!無礼な、侮辱したな!あやまれ。たとえ和尚たりとも、容赦はせぬぞ!」と武士は刀に手を掛けると、
「ほぉー、腰抜け武士でも怒るか!?」と、白隠さま。
「えーい!もう許さん!」
つづく

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紙芝居:『続・白隠さま』(その2)

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「おーよしよし、わしが育ててあげようのう。」と、白隠さまは赤ん坊を背負い托鉢に出て、お乳などを貰い歩きました。
 この事件で、白隠さまはすっかり信用を無くしてしまいました。
 しかし、白隠さまは何の弁明もせず、赤ん坊と暮らしたのです。
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 「お父様、ごめんなさい。どうかお許しください。私は嘘をついておりました。
 あの赤ん坊は、白隠さまのお子では無いのです。
 白隠さまのお子と言えば、許してもらえると思っていました。
 ・・なんと私は愚かであったでしょう。
 どうか白隠さまにお詫びして、赤ん坊をお返し頂けるよう頼んではいただけませんでしょうか?!お願い致します。」
と、娘は良心の呵責に耐えきれず、ついに父親に本当のことを話しました。
びっくりしたのは父親です。
「なっなんだって!私はとんでもないことをしてしまった。」
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「和尚さま、申し訳ございません。私の間違えでした。
 失礼の数々、どうかどうか、お許しください!」と、父親は托鉢途中の白隠さまを見つけて、娘と共に深く謝りました。
 そして赤ん坊を返して貰いました。
「ああ、そうですか。それは良かった良かった。ではその子を大事に育てて下さいよ。」と言って、白隠さまはそれ以上何も言わず、去って行きました。
 その姿に父親と娘は、頭をいつまでも下げて見送ったと言うことです。
 おしまい
 次回は『武士と白隠さま』です。つづく

紙芝居:『続・白隠さま』(その1)

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 第一部の紙芝居では、一人の僧侶が偉大な宗教者『白隠さま』になってゆくまでを中心に、お話させて頂きました。
 さて、この第二部の続編では、有名な白隠さまの二つのエピソードを紹介させて頂きたいと思います。
 それでは「白隠さまの赤ん坊」というお話からスタートです。
 はじまり、はじまりー
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[白隠さまの赤ん坊]
 このお話は、白隠さまが駿河の国(今の静岡県)の松蔭寺の住職をされていた頃のお話です。
 お寺の近くに、一件のお金持ちの檀家の家がありました。
 この家で、ある事件が起こりました。
 家の年頃の娘に、父親知らずの赤ちゃんが出来てしまったのです。
「馬鹿者め!いったいその子の父親は誰なんだ!言え、言えんのかー!」と娘の父親はカンカンです。
 娘は焦って、口を開きました。
「はい、白隠さまです。」
「何っ?!それは本当か?」
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 そしてその数ヶ月後・・、無事に赤ん坊は生まれました。
 がしかし、我慢がならない娘の父親は、娘から力づくで赤ん坊を奪って、その足で白隠さまのお寺へと向かいました。
 そして、「あんた、偉い坊さんだと思っていたが、とんでもない坊主だ!さあ、責任を取れ!この赤ん坊を引き取れ!」と言って、赤ん坊を白隠さまに手渡し、さっと帰ってゆきました。つづく

 

紙芝居:『白隠さま』(その4 最終回)

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この白幽仙人は、他にも秘法と呼ばれる病いの治療法を白隠さまに授けられました。
 そしてこれらの治療法は、身体や心を病んだ多くの弟子たちや、一般の庶民達の命を救うことになっていきました。
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 やがて多くの庶民を助け、あちこちのお寺を建て直し、多くの弟子達を育て上げた白隠さまは、明和5年(1768)12月11日、84歳の生涯を閉じられました。
「駿河には過ぎたるものが二つある。富士のお山と 原の白隠」。
 臨済宗の中興の祖と呼ばれる偉大な僧侶、白隠さま。
 今も多くの人々に慕われておられます。おしまい
 さて、この紙芝居には続編があります。
 次回から、白隠さまの面白いエピソードをお話ししましょう!

紙芝居:『白隠さま』(その3)

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悟りを開いた白隠さま。
・・がしかし、悟り開けども病気はします。(そうなんやなぁ・・,)
 長い間の厳しい修行が、白隠さまの身体を病いで冒しておりました。
 それは有名な医師でも治す事が不可能でした。
 そこで白隠さまは、今度は自分の病いを癒す事のできる医者探しの旅に出ます。
 そしてある日、京都の山奥の洞窟に住むという、医学に詳しい仙人の噂を聞くのです。
 白隠さまはそこに向かいました。
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 白隠さまは山中を彷徨いながら、ようやく仙人の洞窟に辿り着きました。
 「お頼み申します!どうかお救い下さい。私の病いを癒して下さい。」
仙人の名前は[白幽(はくゆう)]と言いました。
白幽仙人は「お前さん、坐禅のやり過ぎからなる[禅病]じゃな・・」と言って、白隠さまに[軟酥(なんそ)の秘法]という治療法を授けて下さいました。
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 それは、頭の上にバターのような栄養に塊りを置くという一種の[イメージ治療法]でした。 
 大雑把に説明すると、頭の上にバターを置くとイメージして、それが少しずつ溶けてゆきながら、身体の中の悪いものが全て溶かして、大地へと流して消して行くと想像する瞑想法でした。(余談ながら、僕も以前、これを実践した事があります。時間は掛かりますが、結構スカッとします。)
 このイメージ治療法は、白隠さまを徐々に元気にしていったのでした。つづく

紙芝居:『白隠さま』(その2)

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 そして、白隠さまは若くして修行先の越後(新潟県)のお寺で、悟りを開いたのでした。
「私は悟りを開いた!天下でこのような境地に達したのは、釈迦以来、私だけだ。
 もう何も怖くない!ワッハッハッハッ!」と思いました。
が、しかし・・
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 師匠は白隠さまの悟りを認めません。
「あんな師匠はダメだ!」と白隠さまは別のお寺を探して、自分の境地を解ってくれる師匠を探しました。
 そして、自分と同じような境地に達したと噂の師匠を探し出し、自分の悟りに境地を話しました。するとその師匠から、白隠さまは鼻をつままれ、こう言われました。
「このおごっている天狗の鼻はこれか!
 一度や二度の不思議を体験をしたからと言って、良い気になるな!この慢心ものめ!」と。
 そこで初めて、白隠さまは自分の奢りに気がついたのでした。
「あれは小さな悟りであった!もっと大きな悟りを目指さねばならない!」と。
 そしてさらに修行を続けました。
 そんなある日のこと。
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 托鉢を断られてたたずむ白隠さまに、そこの家のお婆さんが「さっさと帰れ!」と怒りのホウキが白隠さまの頭に直撃!
 白隠さまは気を失ってしまいました。
 が、その一撃が迷っていた白隠さまに、大きな悟りへのスパーク(導火線)となったのです。
 このきっかけによって、白隠さまは本当に大きな悟りの境地に達したそうです。(悟った事の無い僕はようわからんねんけど・・)
 この日、白隠さまは「悟りを開いた証明書」である印可(いんか)を、師匠から受けたのでした。つづく

紙芝居:『白隠(はくいん)さま』(その1)

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 昔、静岡県は[駿河(するが)の国]と呼ばれていました。
 こんな歌があります。
「駿河には、過ぎたるものが二つある。富士のお山に、原の白隠(はくいん)」。
 白隠さまは、臨済宗の『中興の祖』と呼ばれる立派なお坊さまです。
 江戸時代の半ば、駿河の原(はら)宿(今の沼津市)に生まれました。
 それでは、白隠さまのお話をさせて頂きましょう。
はじまり、はじまり〜。
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 白隠さまは、宿場町の大きな運送業の息子として生まれました。
 幼き頃の名は[岩次郎]と言い、よく母親と共に近くのお寺にお説教を聴きに行っておりました。
 そんなある日のお寺での事。
 いつものように、住職がお説教を始めました。
「良いか、悪い事をすれば、あの世で閻魔大王に裁かれて地獄に落ちるんじゃぞ!・・たとえそれが子供であってもな・・、わかったかな。」と話されました。
 それを聞いて、岩次郎は心の底から「地獄には行きたくない!」と思いました。
 で、悩んだ末・・。
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 15歳で両親を説得して、出家することにしました。
「よし、私はお坊さんになって、これから一生懸命修行して、必ず極楽へ行かせてもらうぞ!」と誓うのでした。
 お坊さんになった岩次郎は[慧鶴(えかく)]と名を改めました。
(が、この紙芝居では悟りを開いたのちの名である[白隠]で通します。)
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 それから白隠さまの修行の日々は続きます。
 朝のお勤め、座禅、掃除、そして托鉢。
 それは地獄に行かずに済む、悟りを求めた骨身を削るような修行でした。
 そして、良い師匠を求め、全国各地の国を旅して巡り歩きました。
 つづく

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