
(重源)「よっしゃ!皆の衆、石棺を堤の底へ、縦列に並べて伏せるんや!」と、重源和尚は声を掛けました。
こうして〔石棺〕は、堤の〔取水部〕と〔放水部〕に、〔木の樋管〕を挟んで並べられました。(全部、石棺を並べるには、とても数が足りんかったんやね。・・だから、水の勢いが激しく壊れやすい〔入り口〕と〔出口〕の部分に頑丈な《石棺》を並べたんやね。)
そして、やがて土が盛られ、石棺は堤の中に隠れました。
そして、次に重源和尚は、
(重源)「よしっ、次は《取水塔》を作るぞ!
《取水塔》さえあれば、池の水を抜いて流したり、止めたりすることが自由にできるからな。・・いわば《木の栓》や。あちゃら語でいうと、スイッチや。石棺の口の開閉装置やな。」と言って、皆で《取水塔》を築きました。
この工事は、建仁二年(1202年)の二月七日より始まり、同年四月二十四日に終了しました。
つまり、約三ヶ月間の工事でした。(早っ)
工事を終えた民衆は、塞き止めておいた川の水を一気に、狭山池全体に流し込みました。
「おぉーっ!」という歓声が沸き起こり、狭山池は水で満ち溢れてゆきました。
そして次に重源和尚は、
(重源)「よし、一度、石棺を使って水を堤の向こうまで流してみよか。」と言い、取水塔の栓を上げる合図を出しました。
すると、池の水は石棺を通って、堤の向こう側へ、勢いよく流れ出ました。
「おぉーっ」という又もやスゴイ歓声が巻き起こりました。
(重源)「よし、これでエエ、これでエエ。
石棺の仏さんも、これできっと喜んでくれよう・・。」と、民衆の大歓声の中、重源和尚はひとり呟いたのでした。 つづく(次回、最終回)
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紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その5)
紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その4)

重源和尚の提案に、村人たちは皆、困惑してしまい、集会が開かれることになりました。
(村の長老)「・・たたりがある!きっとたたりがあるでぇ!墓など荒らしたらあかん!石棺を使うなんてとんでも無いこっちゃ。わし等は反対や!!」と、村の長老は叫びました。
その時です。
子供を抱いた一人の母親が、突然立ち上がり、
(母親)「わては賛成や!
狭山池の水が溜まらんかったら、今年の夏は、必ず田んぼの水が干上がってまう。そしたら、この子供たちは、食べる物がなくて、間違いなく飢え死にや!
・・そんなん、母親として見てられん。
古墳の石棺に眠っとる人って、きっと人の上に立っとった偉いさんやろ!?
きっと、生きてるわて等の気持ちを理解してくれるに違いないよ。・・わてはそう思う。」と、言ったのです。
それを聞いて、みんなは「そうや!」、「そうや!」、「そらそうや」と賛同し、多数決で『石棺』を引っ張り出すことに決まったのでした。(・・母は強し)
(村の民)「よいしょ、よいしょ、引っ張れ、引っ張れ!南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」と、こうして、民衆によって二十個近い『石棺』が古墳より引っ張り出されました。
念仏を称えながら、男も女も皆協力し、力を合わせて石棺が運び出されたのです。
それを見つめながら、重源和尚は手を合わせながら、つぶやきました。
(重源)「古墳の主よ。すまんが、生きとるわし等の為に寝床を譲ってくれ。貴殿たちの石棺は、必ず生きとる人間の役に立つんやから・・。」と。
そして、運び出された『石棺』は、今度は職人たちによって、丁寧に〔上の部分〕と〔下の部分〕の一部が削り取られ、水の通る道《水路=樋》へと変わっていったのでした。
そして、この完成した石の管《石樋=水路》は、又皆で、改修途中の堤へと、曳かれて行くことになったのでした。
(ここで余談ながら、一つの疑問にぶつかる。石棺は引っ張り出され加工された。・・それでは中に眠っていた豪族達のご遺体は、いったいどうなったのか?・・先日、うちのお寺に来て下さった『狭山池博物館』の学芸員さんにその事をお尋ねしてみたのだが、「調査しても解らない」という答えだった。・・が、僕は思う。すべてにおいて抜かりの無い重源和尚のことだ。民衆の事を考えて、どこか別の場所にきっと手厚く埋葬したに違い・・と。) つづく
紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その3)

(重源)「ほぉ~、これが狭山池か。
しかしひどいのぉ・・。堤がみな壊れとる。これじゃ、水は溜まらんわい。しかも、堤の底の樋管(ひかん)も腐ってる。・・これでは、水路が塞がり、堤の向こうまで水が流れんわい。
堤は土を盛れば直せるが、水の〔取水口〕と〔放水口〕には、頑丈な〔石の管〕が必要じゃのう・・。
しかし、今から岩石を切り出し、加工し、水路を作るのは、あまりにも日数が掛かる。
何か良い考えはないものか・・・?
おおっそうじゃ!」。
重源和尚は、何か閃いたようです。
そして民衆を集めて、重源和尚は叫びました。
(重源)「皆の衆、ただちにこの『河内の国』に多く在るという〔古墳〕から、『石棺』をたくさん引っ張り出して来い!
それを使って〔石の管〕を作るんじゃ!
その〔石の管〕こそが、狭山池を生き返らせるに必要な物なんじゃ。」と。
しかし、それを聞いて民衆は『ゲッ!』と、びっくりしました。
(村の長老)「・・しかし、重源さま、石棺ちゅうたら、昔の豪族、つまり王様の眠る棺おけでっしゃろ?!
そんな事したら、罰が当たるんとちゃいますやろか?」と、村の長老が代表して言いました。
すると重源和尚は、
(重源)「大丈夫!仏さんの『入れ物』がもう一遍、生きてるわし等の役に立つんや。仏さんもきっと喜ぶに違いない!」と言いました。
(民衆)「ゲッゲッ!・・それで、いつやるんですか?」
(重源)「今でしょ!」
(民衆)「ゲッゲッゲッ!のジェジェジェ!」 つづく
紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その2)

それは、河内の国(今の大阪府東南部)に位置する『狭山池(さやまいけ)』という大きなため池の修復工事の依頼でした。
この池の歴史は古く、遥か飛鳥時代には、すでに日本最初のダム式人工池として誕生していました。
この池の豊富な水のおかげで、近隣の国々まで作物が豊かに実り、人々は餓えずに済んだのでした。
・・しかし、長年の風雪や自然災害によって堤(つつみ)は壊れ、今、『狭山池』は泥沼に変わってしまっていたのでした。
《以下、(独断と偏見にて)オール河内弁で・・》
(農夫)「あっちゃー、こりゃあかんわ!食い物にならんっ。やっぱし、狭山池の水が無かったら作物は育たんわぃ・・。しかし、このままやったらワシ等はみんな、来年あたり飢え死にしてしまうなぁ・・。早う、何とかせんとなぁ・・。」
(農婦)「でもあんた、わて等には、どうする事もできまへんで。とてもあの崩れた堤は直せまへんよ・・・。あっ、そやぁ!確か、奈良のお寺に〔重源(ちょうげん)〕っちゅう、どえらいお坊さんが居って、この方は壊れた橋や港など、何でも直して下さるって聞いたことありまっせ。
一遍みんなで、お願いに伺ったらどないでっしゃろか!?」。
こうして村の代表が決まり、〔重源和尚〕のお寺に向かうことになりました。
(村の代表)「ほんま、お願いしますわ。重源さま!どうか、わて等の願いを聞いてください。
泥沼になった『狭山池』をどうか、生き返らして下さい!
あの〔ため池〕が無かったら、わし等は来年には皆、飢え死にしてしまうんですわ。」
(重源)「・・ふむふむ、解った。
お前達の真剣な願い、この重源、確かに聞かせてもろたで。・・しかし、一遍、その〔ため池〕を見に行かな、どんな状態になってるのか解らんなぁ・・。
よしっ、行こう!狭山池に!!」と言って、重源和尚はお供をつれて、河内の国へと向かうことにしたのでした。 つづく
紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その1)
(大阪狭山市〔狭山池〕)
大阪狭山市に〔狭山池(さやまいけ)〕という、古くは『日本書紀』や『古事記』に登場する日本最古のダム式の美しい『ため池』がある。
ちなみにこの池は、僕のお寺から車で約15分ほどの所にあり、運動不足の僕はよく妻から「運動不足やねんから、狭山池の周りを歩いてらっしゃい!」と言われ、天気の良い日はよくウォーキングに通った。・・いや、現在も通っている。
そう、現在「狭山池」の回りは(程よい)ウォーキングコースになっているのだ。
(大阪府立狭山池博物館)
そして、「なんで(妻から)そんなに偉そうに言われなあかんねんな・・ブツブツ」と、つぶやきながら歩いていた僕は、いつのまにか、この池周辺の風景の美しさがすっかり気に入ってしまい、今では好んで歩くようになっている。
さて、歩きながら僕は、この池の北側に建つ『大阪府立狭山池博物館』という近代的建物に(入館料無料というのもあって・・)よく立ち寄るようになっていった。
(展示されている石棺)
そしてその度、いろんな展示物を見て回るようになったのだが、一つとても気になっている展示物があった。
それはいびつな形の『石棺』であった。
これはレプリカではなく、すべて本物と展示されているのだが、『なぜ?石の棺おけが、改造されたかのような形になって、この博物館で展示されているのだろう?』と、日に日に気になって気になってしかたがなくなっていった。
(博物館内の『重源』像)
それで真剣に、そのなぞを調べようと思い、そのなぞを解く鍵は、館内にあるこの(写真)の『重源(ちょうげん)』という(頑固一徹のような顔の)お坊さんにあると解った。
そして調べていく内に、『なんと、おもろい発想力を持つ坊さんなんだろう!』と感動してしまい、いつしかこの『お坊さん』と『狭山池の石棺』の事を紙芝居にしたいと思うようになり、こつこつとここ何年か、資料を集めるようになっていった。
又、狭山池博物館のガイドボランティアさんたちのご協力も得て、解りにくかった部分もなんとか(自分なりに)納得でき、絵に描けるようになり、先日この『紙芝居』が完成した。
随分と前置きが長くなってしまったが、それではその出来上がった『紙芝居』を(何回かに分けて掲載しますので)宜しかったらご覧になって下さい。
それでは『狭山池の底の石棺 ~アイデア和尚重源さまの究極のリサイクル~』のはじまり、はじまり~・・
皆さんは、『重源(ちょうげん)』という名のお坊さんを知っていますか?
この坊さんは、平安末期から鎌倉時代に掛けて、活躍されたスゴイお坊さんなのです。
たとえば当時、戦乱によって焼け崩れた『奈良の東大寺・大仏さま』を修復したり、新しい道を作ったり、橋を架けたり、港を直したりして、世の為、人の為に働かれたお方なのです。
しかも、そのほとんどが、60才を過ぎた頃から行われたというのですから驚きです。(シニアの鑑やね)
いわば、鎌倉時代の『復興事業請負人』と言っても、過言ではないでしょう。
この超人的和尚『重源』様、82才の時、又一つ大きな仕事が舞い込んで来ようとしておりました。 つづく
紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その7:最終回)

このような大きな仕事を成し得た、中甚兵衛ですが、新大和川完成の次の年、67才で、突然、大阪は浄土真宗本願寺派『北御堂』(どうでもよい余談ですが、僕が今月の「花まつり」に紙芝居をしたお寺です。・・仮面ライダーも一緒でしたちなみに、昨年はアンパンマンも一緒でした。・・書かなかったら良かったか?)で、剃髪してしまいます。
そして〔庄屋〕の仕事はすべて息子に任せ、自分が亡くなる92才まで自宅に引き籠ってしまいます。
おそらくそれは「自分のするべき仕事はすべて終った。」と思ったからかもしれません。
・・が、あるいは、今も〔肖像画〕に残る頭にある傷跡に、その秘密があるのか?・・それは誰も解りません。(けっこう(新川筋の人たちに)怨まれてたような感じもするからなぁ・・)
さて、新大和川の生みの親、中甚兵衛が亡くなって約300年。
今も、南大阪を東西に横切り、流れ続ける(全長68キロメートルの)大河〔大和川〕。
その川を、『中甚兵衛』像が、柏原市役所前の公園から、今もじっと見つめ続けています。 
おしまい
参考文献: 中九兵衛氏著『甚兵衛と大和川 北から西へ改流・300年』、『ジュニア版 甚兵衛と大和川』、他
紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その6)
・・そろそろ、この『紙芝居』も終りに近づいている。
ここで少し、余談を述べたい。
大阪の人間に「大和川って知ってる?」と聞くと、たいていの人は「ああっ知ってるよ。あの汚くて有名な川やろ」と答える。
しかし、甚兵衛達が作ったときは、周りが田畑でたいへんキレイな川だったそうだ。
これはそんな昔の話ではないようだ。なぜなら、うちの檀家のあるお爺ちゃんに聞くと「昔、あの川で泳いでいたよ。魚も一杯おったしなぁ」と答えてくれたからだ。
これは、下水道を作らずに川の近くにたくさんの人が住むようになった為、生活排水がそのまま流れ込み、急激に汚れたからなのだそうだ。
(現在の大和川)
・・残念な話ではあるが、しかし、現在「大和川クリーンキャンペーン」が市民の間で盛んに行われ、大和川はキレイに成ってきている。最近、魚が増えたとの新聞記事も目にした。
せっかく、甚兵衛たちが苦労して作った川なので、我々は、川を汚さず、未来に向けて大切に守ってゆきたい。・・でないと、先人たちに申し訳ない。
(大和川:浅香山(堺港近く)付近)
もう一つ、余談。
先日、知り合いの方からこのようなお話を伺った。
「私がある堺地区の(大和川の新川筋になった場所)昔から住む方に、『中甚兵衛さんって知ってる?』と聞くと、その人は『あんな悪い奴はおらんで』と答えられました。」と、そのお方から聞いた。
・・甚兵衛さん達が行った『大和川の付け替え』で、先祖代々住む土地から立ち退かざるを得なくなり、大変迷惑を被った人たちの御子孫が、現在も居られる事を、我々は忘れてはいけないと思う。・・が、立ち退きに合った人は、その同じ分だけの別の土地を、幕府からもらったそうなのだが。新天地でゼロから暮らした人の苦労は計り知れないものがあったのだろう。
以上、余談おわり。
七ヶ月半に渡る『大和川』付け替え工事は無事に終り、新しい大和川はついに完成しました。
そう、大和川は生まれ変わったのです。
これによって、河内平野の様子は大きく変わりました。
元の川筋の人達は、もう洪水の恐怖から解放され、お米や作物を安定して収穫できるようになったのです。
又、新しい川のお蔭で、潰された古い川の上は平地となり、『新田』が開発され、そこで、綿の木などが栽培され、これがのちに『河内木綿(かわちもめん)』へと発展し、大阪経済発展の基礎を作ってゆくことになるのです。
つづく(次回、最終回)
紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その5)

中甚兵衛は、突然、奉行所から呼び出されました。
なんと、そこには、時の堤奉行(一度聞いたら忘れられない名前)『万年長十郎(まんねんちょうじゅうろう)』が、甚兵衛を真剣な面持ちで、待って居たのでした。
(万年さん)「甚兵衛よ、ようやくお上は、河内平野の洪水被害を無くす方法はただ一つ、『大和川の付け替え』しかないという事に気がつかれたまんねん。
・・甚兵衛、お前の考えた案は正しかったのだ!今度こそ、幕府はどんな地元の反対意見が起こっても、断固として、大和川の付け替えを行うでおまんねん。
・・さて、甚兵衛。お前ほど大和川の付け替え策に詳しい者は居ない。これからワシと一緒に付け替え工事の陣頭指揮を一緒にしてくれないかまんねん?」と、言われました。
それは、あまりに寝耳に水の話だったので、甚兵衛はその場で、感激の余り、泣き崩れてしまったのでおまんねん。
(甚兵衛)『ああっ、これで長年の苦労が報われる・・』と、甚兵衛は心の中でつぶやきましたでおまんねん。(もうエエか。)
甚兵衛が、初めて江戸に訴え出たのが、19才の時。
そして今が、65才。幕府に認められるまで46年間も掛かったのでした。(ほぼ半世紀やおまんねん・・まだ言うか)
時に元禄17年〔西暦1704年〕、(余談ながら、我寺『観念寺』が出来たのは、元禄16年と伝わっておます。ちなみに赤穂浪士の討ち入りは元禄15年でっせ。)大和川の付け替え工事はついに始まりました。
幕府の命令により、幕府が直接受け持つ工事区域の他、姫路藩、岸和田藩、三田藩、明石藩が選ばれ、工事を受け持つことになりました。
これらの藩は、お互いが意識し合い、その工事スピードを競った為、その結果、付け替え工事はなんと〔七ヶ月半〕で完成したのでした。(早っ!)
この時、甚兵衛は大きくなった息子(遅くに出来た子供(男の子)だったらしい)を従えて、工事現場を検分しながら指揮して回ったという事です。(万感の思いやったやろなぁ・・)
結果として、この工事はのぺ245万人を動員し、およそ71500両(今でいうと、およそ143億円)が費やされました。
つづく
紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その4)

やがて、中甚兵衛が初めて江戸に訴え出てから、40年を越す年月が流れようとしていました。
今や、甚兵衛は65才です。
かつての仲間も、極わずかになっておりました。
・・がしかし、甚兵衛は、まだ諦めてはおりませんでした。(・・僕は思う。ある意味、お百姓さん達からの訴えを聞くことが『庄屋』の仕事だったので、甚兵衛は『川の付け替え願い』から、逃げられんかったんやろなぁ・・と。)
(甚兵衛)「・・毎年続く、洪水被害。これやったら、米も作物も何も収穫でけへん。川の付け替え工事が、結局出来へんねんやったら、何か他の方法(改善策)を考えなあかんなぁ。」と、甚兵衛はずっと思案していたのです。
そんな或る日、突然、甚兵衛は奉行所から呼び出されたのでした。 ・・どうなる甚兵衛、運命やいかに! つづく
紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その3)

やがて甚兵衛は、頼りにしていた父親が亡くなり、若干19才ながら、村の代表の一人となり、江戸の勘定奉行所にお願い(嘆願)へと向かったのでした。
しかしながら・・、
一度や二度のお願いぐらいでは、幕府は簡単に意見を聞いてくれません。(これは、今も一緒やなぁ・・)
そこで甚兵衛は、江戸に留まり、何かしらの仕事をしながら(・・これが何の仕事(バイト)やったのかは、調べても解りましぇんでした)、訴えを続けることにしました。(想像やけど、お金もあったんやろなぁ。)
やがて三年目に、幕府はようやく、第一回目の大阪『水害調査』&『川の付け替え調査』を行ってくれました。
・・が、しかし、調査をされた(新・川筋予定の)土地の住民から猛反対を受け、この計画はすぐに中止になってしまいました。 
その後、何度もこの『川の付け替え調査』は行われました。
が、しかし(こればっかり)、その度に反対運動に遭い、調査は中止。
こうして甚兵衛は、いつしか35才になっておりました。
そこで一度、大阪の今米村に帰り、庄屋の仕事に戻り、結婚もして家庭を持ち、地元の仲間たちと一緒に、この訴え運動を続けることにしたのでした。
が、そうしている内に、またもや何十年に一度の大洪水が大阪を襲いました。
世に云う『寅年大洪水』です。
この時、大和川や池の回りの堤防が皆崩れ、誰もが経験した事の無いような、大阪の町中が水浸しになるという、大被害を出したのでした。
この事態を重く見た幕府は、四度目の『川の付け替え調査』を行います。
が、やはりこの時も、強い反対運動が起こり、計画は中止になったのでした。
その後、幕府は、何度も小さな川の改修工事を行うのですが、すべて根本的な解決策にはなりませんでした。
(余談ながら、僕の実家は大阪の城東区中浜という所にあった。・・いや今もある。子供の頃、家の近くの『どぶ川』が大雨の時、何度も氾濫して、僕の家の中まで流れ込んできたことがあった。その恐ろしい記憶は、今もはっきりと覚えている。・・だから洪水被害と聞くと、今でも身体がビクッと反応するのです。・・その後、この川は埋められ、今では自動車道路になっているが、少し、甚兵衛たちの気持ちが解るような気がするのです。)つづく
