住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その7 最終回)

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 そして、「これ以上、お山を混乱させないようにしなければ・・。」と高野山を下りられるのです。
 そして、紀州(和歌山県)の『根来(ねごろ)』という所に、移住されます。
 ・・が、ここでも、様々な争いは止みませんでした。
 「大日如来様のような仏様みたいに、私は成りたい!」と思われた覚鑁上人は、果たして、この状況をどんな目で見られたのでしょうか?
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 そして根来の地で、覚鑁上人は、風邪をこじらせ、やがて49歳の若さでお亡くなりになります。
 おそらく、肉体も精神も、ボロボロの状態になっていたのではないでしょうか⁉・・たとえ、悟りを開かれていたとしても。
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(根来寺)
 宗教界の風雲児、空海の再来、とまで言われた『興教大師 覚鑁』上人。
 そのお墓は、現在も『根来寺』にあります。
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おしまい
 
余話として~
 当時、覚鑁上人の熱烈なファンであった《鳥羽天皇》が、覚鑁さまに『高野山に帰れー!お前は高野山に必要なんだぞー!・・かくばーん、カムバッーク!』と叫ぶのですが、
 覚鑁さまは『夢の中は、夢もうつつも夢なれば、覚めなば夢も うつつとしれ。』という歌を一首だけ、お返しになり、高野山には戻りませんでした。
 この歌の意味は、いろんな説があるのですが、私はこのように味わいました。・・間違っていたらすみません。

『悟りを開いたのちも、現実でやっちゃった事の、果報は受けねばならないのだ。・・私は今、その果報を受けている。これは、しかたがないのだ。』

紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その6)

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「何という事だ!お山にとって善いと思ってした事が、かえって高野山を二つに割ってしまった・・。仏様、お大師様、申し訳ありません・・。」と、覚鑁上人は反省を繰り返し、今度は『密厳院』というお堂に籠られ、千日間の[無言の行]に入られました。
 そして、その行の最後に有名な『密厳院(みつごんいん)発露懺悔文(ほつろさんげもん)』を書かれるのです。
 少しだけ中身を述べますと・・、
『我々は懺悔します。・・多くの罪を作っています。・・行動と、言葉と、心の働きは数えきれない程、良くない行いを犯しました。・・私はすべての人々に代わって、ことごとく懺悔します。』というような文が続きます。(お坊さんは一読有りです)
 清らかな心の悟りを開き、高野山のトップに立ち、長年の夢であった、弘法大師のような最高指導者になったものの、良き指導者になることが出来なかった悲しさと、そして上人の心の純粋さが文面からにじみ出ています。
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(根来寺 覚鑁上人の墓) つづく

『真宗木辺派 仏教婦人連合会』の団参

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浄土真宗には、《真宗教団連合》があり、[10]派がある。
 その一つが、滋賀県:野洲にある[錦織寺]様を本山とする木辺(きべ)派である。
 本日、その[木辺派]の、[仏教婦人連合会]主催の団体研修バス旅行があり、うちのお寺にお出でくださった。
 総勢63名、中型バス2台。・・うちの寺のキャパでは一杯いっぱいだ。(椅子が足らん、トイレも足らん・・(笑)ご迷惑をお掛けしました)
 まぁ、それでも、ご参拝下さり有り難いことだった。
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(僕の隣が、御門主さま・・です)
 しかも、木辺派の《御門主様=一番偉い方》もお出で下さり、(知らんかった・・サインもろたら良かった!)焦りました。(到着されてからお聞きした。・・事前に聞いてれば、トイレをもう一つ作ったのに・・うそ。出来ましぇん)
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 それでも、まぁ、僕はエエかっこ出来ないので、いつものように、何も変わらん紙芝居法話をさせて頂きました。

 ・・でも、御門主様の前で、皆で「坊主が、屏風に、坊主の絵を描いた!」と大合唱したのは、まずかったかなぁ・・。(笑い)すんませんでした。合掌

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