そして、「これ以上、お山を混乱させないようにしなければ・・。」と高野山を下りられるのです。
そして、紀州(和歌山県)の『根来(ねごろ)』という所に、移住されます。
・・が、ここでも、様々な争いは止みませんでした。
「大日如来様のような仏様みたいに、私は成りたい!」と思われた覚鑁上人は、果たして、この状況をどんな目で見られたのでしょうか?
そして根来の地で、覚鑁上人は、風邪をこじらせ、やがて49歳の若さでお亡くなりになります。
おそらく、肉体も精神も、ボロボロの状態になっていたのではないでしょうか⁉・・たとえ、悟りを開かれていたとしても。
(根来寺)
宗教界の風雲児、空海の再来、とまで言われた『興教大師 覚鑁』上人。
そのお墓は、現在も『根来寺』にあります。
おしまい
余話として~
当時、覚鑁上人の熱烈なファンであった《鳥羽天皇》が、覚鑁さまに『高野山に帰れー!お前は高野山に必要なんだぞー!・・かくばーん、カムバッーク!』と叫ぶのですが、
覚鑁さまは『夢の中は、夢もうつつも夢なれば、覚めなば夢も うつつとしれ。』という歌を一首だけ、お返しになり、高野山には戻りませんでした。
この歌の意味は、いろんな説があるのですが、私はこのように味わいました。・・間違っていたらすみません。
『悟りを開いたのちも、現実でやっちゃった事の、果報は受けねばならないのだ。・・私は今、その果報を受けている。これは、しかたがないのだ。』