(善鸞)「お父上、善鸞でございます! お会いしとうございました。・・どうか、お許し下さい。私は、私は・・」
(親鸞)「善鸞、許されておるのだ。 誰も裁くものなどおらん。」
(善鸞)「私は悪い人間でした。多くの罪を作りました。私のせいでたくさんの人が迷いました。」
(親鸞)「お前の罪はすでに、〔阿弥陀如来〕様が先に償うて下さっている。・・許されておるのじゃ。
のぅ善鸞、わしはもうこの世を去る。
・・最後に聞きたい。お前は〔阿弥陀如来〕様の《お救い》を信じるか?」
(善鸞)「ゲッ!?」
(親鸞)「善鸞、わしを安心させてくれ。ただ『信じる』とだけ言うてくれ。」
(善鸞)「お父上、・・私には申せません。」
(親鸞)「ゲッゲッ!」
(唯円&その他の僧)「ゲッゲッゲのゲッ!」
(善鸞)「・・本当のところ、私は〔阿弥陀如来〕様のお力が信じきれないのです。
本当に〔阿弥陀仏〕は、我々を救い取って下さっているのでしょうか? 私たちの罪をすべて償っていて下さっているのでしょうか?・・正直、私には解らない。だから、信じるとは言えないのです。」
(親鸞)「・・そうか、お前は〔阿弥陀如来〕様の救いが信じられんか。
・・・・いや、それで良いのじゃ。それで良い。
阿弥陀如来という仏様は、信じきれない者も、救い取って下さる仏様じゃった。
・・ただ、阿弥陀様のお名前『ナムアミダ仏』とお呼びし、救い取って下さっていることに感謝申す。それが一番大切なことじゃった。
・・お前は〔阿弥陀〕様を信じきれなくても良い。
それでも〔阿弥陀〕様は、お前を見捨てはしないだろう。
信じきれぬままで、阿弥陀様はお前を救って下さっている。
安心せぇ。」
(善鸞)「父上、意味、解りません?・・私はすでに救われているのでございますか? こんなに苦しみ悩んでいるのに・・。」
(親鸞)「・・解らんでもよい。すでに救われておるのじゃ。いつか解る。必ず解る、善鸞。・・南無阿弥陀仏。・・さらばじゃ。南無阿弥陀仏。」
(善鸞)「お父上!」
(唯円&その他)「お師匠さまっ!」
(医者)「ご往生でございます。」
(善鸞)「・・あぁっ、父上。 ナムアミダブツ・・。」
おしまい
~終わりにあたっての一人事~
何という、意味難解な終り方でしょう。
善鸞は、「迷っている」と言っているのに、
親鸞は、「すでに救われている」という。
善鸞は、「信じられん」と言っているのに、
親鸞は、「信じられんでも、向こう(仏)はすでに救い取ってるから、そんなことかまわん。安心せぇ」と言う。
信仰の極致のようなこの問答。
書いてて、自分でもよう解らん・・気持ちでした。
実際のところ、親鸞聖人の臨終の場に、善鸞さんが登場される史実はありません。・・が、こちらの話の方が救われるような気がします。
自分の心を深く見つめ、自己反省の鬼のような極致に至った人間、親鸞。
自分自身の心を深く見つめれば見つめるほど、自分は《悪》であるという結論に至った人間、親鸞。
しかし、親鸞聖人は「わしは、悪人じゃ~!好きなように生きたるわい!」と考えず、(悪なればこそ)謙虚に謙虚に、謙虚の鬼のようになり、(『自分に厳しく、他人に優しい』という言葉のお手本みたいな)仏のような境地になられました。
こんな悪の塊りのような自分が生きている。・・それは『生きている』のでなく、〔仏さま〕によって『生かされているのだ』。だから生きていけてるのだ、いや、救われているからこそ生きてられるのだ・・と考えられたのでしょう。
そして、弟子たちに慕われ90年の波乱の生涯を送られました。
魅力的です。
願わくば、私も自己内省(内観)を深めて生きたいと思うのですが、そんな勇気はありません。おそらく、紙芝居を作ることによって自分自身の心をちょびっと見つめることしかできないでしょう。 でも、それで良いのです。 すでに救われているのですから。 そう、親鸞聖人もこのお話の中でおっしゃっておられたではありませんか。 ナムアミダブツ、南無阿弥陀仏。合掌
尚、この(深い)壮大な宗教文学の紙芝居化は、私の力不足でもあり、これが限界です。願わくば、原作を一度読んで頂ければ幸いです。もっと活き活きとした「唯円房」、「善鸞」、「左衛門」、「かえで」が登場し、ほんまマニアにとってはおもろい一冊です。是非、一読を ほんまにおしまい。