住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『神武東征記』(その6 最終回)

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(奈良県『橿原神宮』)
 そしてイワレビコの命(みこと)は、大和の国『橿原(かしはら)の宮』で、初代天皇『のちの神武(じんむ)天皇』として即位の儀式をされました。
 これが[建国の始まり](紀元前660年?)と云われています。
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 その時、神武天皇は「大きな都を開き、すべての国を一つの家のようにしようではないか!」と宣言されたそうです。
 こののち、神武天皇は(126才・あるいは127才)まで長生きされたそうです。
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 波乱の生涯を送られた伝説の初代のミコト『神武天皇』。
 今もその御一代記は『古事記』や『日本書紀』に語り継がれています。おしまい
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(おまけ[大阪府河南町・寛弘寺古墳])
 ・・少しだけ余談のおまけ話。
 神武天皇の跡継ぎ(二代目天皇)は、次男の[綏靖(すいぜい)]天皇が継がれたといわれています。
 そして長男の[神八井耳命(かむやいみみのみこと)]は、弟の天皇の(なぜか?)サポートに回られました。
 その舌を噛みそうな[神八井耳(かむやいみみ)のミコト]にはたくさんのお子様が居られたそうで、そのお一人のご子孫が[紺口県主(こんく(かんく)あがたぬし)]と云われています。(寛弘寺古墳の主ではないか?とも言われています)
 そう!その[紺口(こんく)県主]が、私のお寺のある地名である河南町[寛弘寺(かんこうじ)]の名前の由来になっているそうです。
 [こんく]、・・[こんくう]・・[かんくう]・・[かんこう]、[かんこうじ]‥・『寛弘寺』、寛弘山観念寺!バンザーイ、バンザーイ! ・・知らんけど。(笑)

紙芝居:『神武東征記』(その5)

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宿敵[ナガスネヒコ]の軍勢は、大軍で強敵でした。
 激戦は続き、どうしても勝つことができないと思ったその時、又もや不思議なことが起きました。
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 今度は空から[金色に輝くトビ]が飛んできて、イワレビコの命(みこと)の弓にとまったのです。
 そして四方を稲妻の光のように照らしました。
 これには敵軍は驚きました。
 そして敵軍皆が降参しました。(※この金色のトビにも様々な説があって、超強力な豪族が味方についてくれたとか⁈・・またナガスネヒコの身内から裏切り者が出たとか?・・諸説はさまざま)
 そしてついにイワレビコの命は、この大和(ヤマトの国)を平定することが出来たのです。
 ちなみに、この九州(日向の国)から大和の国(奈良)までのイワレビコの命(『神武天皇』)の旅の期間は、『古事記』では16年間。又『日本書紀』では6年間掛かったと記録されています。つづく(次回、最終回)
 
 

紙芝居:『神武東征記』(その4)

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兄の死に意気消沈するイワレビコの命(みこと)一行でしたが、船団は兄の遺言通りに大阪から和歌山を回り、熊野(くまの)に到着しました。
 ・・が、ここでも慣れない荒海の嵐に巻き込まれて、船を何艘か破損しました。
 そして、後二人の兄たちが行方不明になってしまいました。(※亡くなったという説と、九州に帰ったという説もある。) 
 イワレビコの命たちは絶望の中、どうにか陸に上がり前進すれど、次から次へと強敵が現れ苦戦しました。(※強敵=巨大な恐ろしいクマや女性ボス率いる豪族たちなど。)
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 へとへとになったイワレビコの命たち。「もはやここまでか・・。」と思ったその時でした。
 不思議な三本足のカラス(八咫烏[ヤタガラス])が現れて、『こちらについて来なさい!』と言うように、空から案内し始めました。(※この三本足のヤタガラスは、三部族のお助け豪族たちであったという説もある。)
 「これは天の助け!」とこうしてイワレビコの命一行は、八咫烏について安全に山道を進むことが出来ました。
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 そして和歌山から奈良(大和の国)の吉野、宇陀へと前進しました。
 又、戦さをしながらですが、味方となる豪族も増えてきました。
 そしていよいよ、兄の命を奪った[ナガスネヒコ]の軍勢と対峙する時が来たのです。つづく
 

紙芝居:『神武東征記』(その3)

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(東大阪市・日下直越道)
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(この坂をイワレビコの命軍は急いで撤退したのか⁈)
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命からがら日下の下船の地まで戻れた一行は、五瀬命(イツセのみこと)の手当てをしました。重傷でした。
 そして五瀬命は、か細い声でイワレビコの命たちに言いました。
「・・我々は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子孫。太陽の子孫だ。太陽が東から昇るのに、我らはその東に向かって兵を進めた。
・・それが誤りだった。
 これよりは船を南(現在の和歌山、三重県)に向けて、大回りして大和(奈良県)へは、東より西へ向けて攻めよ。
 ・・無念ではあるがワシはここで死ぬ。イワレビコの命よ、後は頼んだぞ。」と言って五瀬命は亡くなりました。
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(神武天皇盾津顕彰碑(現在は住宅地の中にポツンと建つ。この日はカラスが鳴いていた。・ここまで撤退し盾で味方の陣を守り、イワレビコの命は雄叫びを挙げたらしい。『太陽に吠えろ』ではなく『太陽の子は吠えろ!』) つづく

紙芝居:『神武東征記』(その2)

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イワレビコの命(みこと)一行は、ナニワ(現・東大阪)の[日下(くさか)]という所で、船団を止めました。
 そしてそこから徒歩で生駒山を越えて、大和の国(現・奈良県)へ向かおうを出発されました。
 その時です!
 突然、山の上から人影が現れて、弓矢で攻撃を仕掛けられました。
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(日下・大激戦の地[神武天皇聖蹟孔舎衙顕彰碑])
 それは大和の国に入らせまいとする地元の豪族『ナガスネヒコ』軍の待ち伏せ攻撃でした。
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 突然の攻撃に、イワレビコの命たちは身を守るのに必死です。
 その時、一本の矢が長男の兄『五瀬命(イツトセのミコト)』の肘(ひじ)に刺さりました。
 「兄上ー!・・皆の者、退却じゃー!船まで戻るのじゃー。」と血まみれの兄を背負い、イワレビコの命等全軍は総退却になったのです。
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(五瀬命碑文・厄山の碑)
※ここで、五瀬命は負傷したのか⁉・・僕はこの場所でさぞや痛かったでしょう。無念だったのでしょうと、手を合わせた。つづく

紙芝居:『神武東征記』(その1)

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昔々の大昔。
 これは『天照大御神』をご先祖に持つと言われる、初代天皇『神武(じんむ)天皇』のお話。
 このお話の主人公[神武]様の正式なお名前は【神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコのみこと)】と言います。
・・がこの紙芝居では[イワレビコ]の命(みこと)とお呼びさせて頂きます。
 このお方は『日向の国(今の宮崎県)』にお生まれになりました。
 四兄弟の末っ子ながら持って生まれた人徳があり、15才でこのミコトは皇太子となられました。
 やがて45才になられたイワレビコの命(みこと)は、皆を集めて重大な会議を開かれました。
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「兄上方、並びに重臣たちよ、我らはこれより用意を整え、東の国を目指して旅立ちたいと思う。
 我が先祖[天照大御神]は、『この国を一つにまとめなさい。そして平和で豊かなお米が実る国にしなさい。』とおっしゃられた。
 ここから東の国は、力の強い豪族たちがお互い争い合っている。
 今こそ我らが行って、一つの国にまとめ上げるのだ。
 皆の者、ついに出陣の時は来たのだ!」と、イワレビコのみことは宣言されたのでした。
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 こうして船団を作り、イワレビコのみこと一行は日向の国を出航。 
 大分、福岡を経て、瀬戸内海を東へ。
 そして順調に浪速(なにわ・今の大阪湾)の海に到着したのでした。・・が、ここからが大変でした。
 この頃の大阪湾は、現在の東大阪市(西半分)までが海になっていました。
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(現在の東大阪市日下(くさか)公園・クジラの骨が貝塚から出たらしく公園にクジラのモニュメントがある)
つづく

紙芝居『神武東征記(じんむとうせいき)』取材

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(東大阪市・日下直越道)
 今、神武天皇の[東征ものがたり]の紙芝居を作っている。
 神武天皇といえば、伝説の初代天皇である。
 この紙芝居、取材も終りほぼ完成した。(本当は和歌山にも行く予定であったが、コロナ禍で断念した)
 奈良の橿原神宮や畝傍山東北陵にもすでに行き、後は東大阪の日下直越道(神武天皇が一番苦戦されたであろう激戦の地。この紙芝居でも一番のメインになる場所)にどうしても取材に行きたくて、思い切って行って来た。
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(神武天皇聖蹟孔舎衙坂顕彰碑・大激戦の地)
 この物語は作っていて思ったのだが、これは冒険小説のようなお話である。
 40才を過ぎた、九州(宮崎県出身)の豪族の四男坊(のち神武天皇)が、兄さん達と共に船を作って、東に向かって旅に出る。
 そして、大阪まで船旅は順調であったが、東大阪の日下(くさか)の地で、生駒の山を越えて奈良県に入ろうとした時、初めて大きな地元の敵と出くわして、大激戦となる。
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(五瀬命碑文・厄山)
 ここで神武天皇は、敵の攻撃を受け兄が負傷。その結果、戦死される。そして味方は撤退。
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(日下公園)
 この頃、大阪は中心が大きな湖であり、東大阪は海辺であった。
 その証拠が、この写真の[日下公園]。くじらのモニュメントがある。(ここの貝塚からクジラの骨が出たらしい。)
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(神武天皇盾津顕彰碑・住宅地の中である)
 この海辺まで撤退した神武軍は、ここで初めて盾(たて)を並べて防戦したらしい。(この場所を[盾津]という)
 そして、神武天皇は雄たけびを挙げた!・・らしい。(さぞや悔しくて復讐戦を誓ったのか・・、それともものすごく悲しかったのか⁈)
 ここから、神武軍は大阪を船で離れ、和歌山を回り上陸し、困難な陸戦を経て(三本足のヤタガラスの助けも得て)大回りして、リベンジ戦を経て、奈良の橿原の地で初代天皇として即位をされる。
 この紙芝居はここまでを描く。もう完成します。乞うご期待!
 

紙芝居:『ワカタケルとワカクサカ』(その5 最終回)

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ワカタケル大王(オオキミ)は、124才まで生きられました。
・・ホントかどうかはわかりません。聞いたことが無いので‥?
 思えば大王のご生涯は、若き頃は波乱に飛んでいましたが、晩年は穏やかで安定しておりました。
「ワカクサカ、これもお前のお陰じゃ」と、素直に言える程穏やかでした。
 その最後は家来,豪族達を枕元に呼び、息子のことを頼む。そして、民がいつも安心して食事を取れるような、そんな国をずっと築いてくれ。」と言いお亡くなりになりました。
 えっ?、ワカクサカ皇后はいったい何歳なのか?ですって・・。
 女性にそんな失礼な事を聞いてはいけません。
 私は元巫女ですよ。神様のお使いをする為、そう200歳以上は生きるつもりですよ。オホッホッホッ。
 最後に足腰が弱りましたら、懐かしい実家の日下の里に帰りましょうかねぇ?
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 私の夫、ワカタケルの大王。
 第21代雄略(ゆうりゃく)天皇。
 そのお墓は、今[大阪府羽曳野市]に祀られています。
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(雄略天皇の古墳)
 おしまい

紙芝居:『ワカタケルとワカクサカ』(その4)

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そうそう、忘れてはならないのは・・、ワカタケル大王がたいへん女性好きであった事。
 ・・こんな事がありました。
 大王(オオキミ) が若き頃、散歩の途中で美しい少女にお会いになります。
 一目惚れした大王は少女に、「私はワカタケルといいます。貴方、私と結婚しませんか?奥さんの一人にしましょう。・・もうしばらくすれば必ず迎えに行きます。ですから絶対に結婚しないで待っていて下さいよ。」と、言われ別れたのです。
 そしていい加減な大王は、ご自分が言われた事をとうに忘れ・・、やがて80年が経ちました。
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 やがて大王は120才?になられました。
 あの日、腰の曲がった老婆が大王の元に訪ねて来ました。
 そして開口一番、「あの~、まだお迎えには来ていただけないのですか?私はずっと待っているのですが・・。」と老婆は言いました。
 それを聞いて大王は「・・この老婆は何を言っているのだ?」と訳を尋ねると、
 老婆は「あなたがずっと待って居よと言われたのですよ。だから私は80年待っていました。」と説明すると・・、
大王は真っ青になって「そっそなたは、その年になるまでずっと待っていてくれたのか⁈・・私はとうの昔に忘れて居た。すまなかった!許してくれ。」と何度も謝り、その後たくさんの財宝を与えて帰ってもらったのでした。
 私ワカクサカが思いまするに、80年間も待つ老婆も老婆ですが、倭の国の大王が、何度も老婆に対して謝っている姿になぜだかほっこりしてしまいました。
 このおっちょこちょいの大王の自分の過ちを素直に謝る姿に、民や家来・豪族たちがついてくるのだなと思ったのです。つづく(次回、最終回)

紙芝居:『ワカタケルとワカクサカ』(その3)

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・・ワカタケル大王(オオキミ)が倭の国(現・日本)を統一に向わせた、ちょうどその頃の事です。
 海の向こうの外国(現・朝鮮半島)から、難しい交渉があり、さすがの暴れん坊大王の[ワカタケル]さまも慎重に(日本の舵取りを)お考えになる日々が続いておりました。
 そのような時、大王は私に「おい、ワカクサカ。この倭の国の為に神に祈ってくれ。」とよく言われました。
 そう、私(ワカクサカ)は、神々に対しての巫女(みこ=シャーマン)のような役目もしていたのです。
 日頃乱暴者の大王も、この国の運命が掛かるような大事な時は、真剣に神々にお祈りをしておりました。
 そして、外国との危機を脱する事が出来た大王は、宋の国(現・中国)から信頼を得て、倭の国(日本)で初めての[大将軍]という称号を頂かれたのでした。
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 そういわば、こんな事(エピソード)もありました。
 ある儀式が終わった時、ワカタケル大王は「儀式は終わった!誰か酒を持て!」と言われました。
 すると、一人のお付きの女性が持ってきて、お酒を注ごうとしたのですが、その時1枚の葉っぱが落ちて来て、お酒と一緒に入ってしまったのです。
 それを見た(瞬間湯沸かし器の)大王は、「きさま、わしに葉っぱを飲めというのか!」と、剣を抜いて切り殺そうとすると・・、
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 凍り付いたその場で私が止めようとすると・・、
 そのお付きの女性は「大王、待ってください!わざと葉を入れたのではございません。・・しかし、しくじりをした私を成敗する前に、私の舞と歌をご覧になってからお斬り下さい。」と言いました。
 そしてその場でその女性は、自分の失敗を笑いに変えたみんなを和ます歌と舞を即興で披露したのです。
 それを見た大王は「わっはっはっは、見事な歌と舞じゃ許す!」と言われたのです。
 乱暴で恐ろしい大王でしたが、たいへん歌や舞など(芸)はお好きで、ご自分でもよく歌を作られました。
 ※のち『万葉集(まんようしゅう)』という、歌を集めた書物にも、ワカタケル大王(のちの雄略天皇)の歌が最初に出てきます。つづく

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