住職のつぼやき[管理用]

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お別れのキッス

 先日の《お葬式》での話。
 棺が式場から出棺する時、旦那さんのご遺体に奥さんが《キス》をされた。それを見て娘さんも同じようにそのお顔に《キス》をされた。そして流石におばあちゃんは《キス》をされなかったが、ご自分の両手でお顔を挟んでおでこを合わされて「良いトコ往きや」とお別れを言われた。
 (確かこれによく似た場面が、この前見た『おくりびと』という映画にもあったなぁ・・)
 僕はこの光景を横で見ていて、悲しいけれど人間の優しさ溢れる素晴らしい場面だなぁと思った。

 今日あるお家で、「住職さん、・・それでは《お葬式》をされて『良かったなぁ』と思われるのはどんな光景ですか?」と問われた。
 僕はつい《お葬式》の現場の、(金銭に絡む)嫌な人間模様の話を檀家さん宅でしてしまう癖があるようだ、・・が、こんな話をしても誰も嬉しくないのだ・・と今日気がついた。(反省!!)
 これからこの《別れのキッス》の話専門でいこう!

知らされなかった《トピックス》

 先月、鎌倉の《光明寺》にて開催された〔仏教看護・ビハーラ学会〕へ「紙芝居講演」に行って来たと、このブログでも書いたが、その時の内容が、今月の月刊『SOGI』という本の《トピックス》欄に掲載されていると、九州の知り合いの方から連絡が入った。僕は全然その事を知らなかったので、本日その方からコピーを送って頂いた。
 内容が結構面白いので、全文このブログでも紹介したいと思う。
 (以下、本文のコピー。ちなみに僕の事が書かれてあるのは3枚目である。・・・「宮本氏のコミカルな語り口・・」という文句は少し気になるが、まぁ、そう思われたのだから良しとしよう・・か〔笑い〕。良かったら読んでください!)
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映画『おくりびと』を見て・・・

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 先日、映画『おくりびと』を見てきた。
 この映画は、ご遺体を棺に納める『納棺師(ノウカンシ)』を描いた日本の作品である。
 実はこの作品、以前僕は《葬儀・仏事情報紙》で内容を知って、封切られたら絶対見に行こうと決めていた。
 ・・が、きっとヒットしないマイナー作品だろうと思っていたので、はたして、僕の知っている近くの映画館で上映されるかどうか不安であった。・・が、なんと《モントリオール世界映画祭》で〔グランプリ〕を受賞したので、そんな不安も吹き飛び話題となって、近くの映画館でもやってくれた。
 さて、映画を見た感想であるが、一言で言えば「感動した!」。今年見た映画の中で一番素晴らしかった。
 ストーリーは、新人納棺師〔本木雅弘氏〕が、さまざまな「おくり」を通して、愛することや生きることを紡ぎ出し、時にはユーモラスに、時には感動的に『納棺師』の日常を描いている。
 映画の中で、ひとり又ひとりと人が亡くなって、その『納棺』の儀が終るたびに、主人公たちが、目一杯、食物を口にほおばり、自分が生きてる事を再確認するような場面が出てくる。
 これを見て、僕も「そうや、そうや、僕もお葬式が終る度に無償に食欲が湧き、食べることによって(自分は今、生きてる!)という事を再確認することがあるんや」とすごく共感した。
 
 僕はこの映画、きっとお寺の友人も関心を持つだろうと思って聞いてみたら、皆、案外関心がなかった。
 たとえば、「そんな〔ご遺体〕を扱う仕事の話なんて、生々しくて見たくないわ」とか、「この大阪で、『納棺』専門の仕事師なんておらんで。みんな『葬儀屋』さんがやってくれてるもんなー。どっか地方の話やろうから、興味ないわ」とか言われた。(そんなもんなんやなぁー・・)
 
 僕は、人が亡くなったら〔枕経〕に呼ばれて、ご遺体の横でお経をあげる。
 僕がその場に到着した時、すでにそのご遺体は、〔エンゼルメイク〕も済み、お顔の鼻や口には脱脂綿が詰められ、白い着物を羽織、手は合掌され念珠をかけられている。
 つまり、旅立ちの仕度はすでに整っているのだ。
 だから、読経するだけで良いので、楽と言えば楽なのである。
 が、たまに、葬儀屋さんよりも早く、僕がそのお宅に到着する事があり、その時、ご遺体の横で後から来られた葬儀屋さんの仕事を見ることになる。それは大変な重労働である。なぜならご遺体は、死後すぐに硬直し始めるからである。
 それで『ゴキッ、バキッ』とか音が鳴り、骨を折って合掌ポーズを無理やり取ったりされる。見ていて痛々しくもあり、でもこれをしなければ始められないので、割り切ってじっと見ている。
 僕はそれを見て、いつも『僧侶』はずるいと思う。
 それは自ら重労働で手を汚すことなく、又、たまにであるがテンションの上がった遺族さんの罵声も浴びせられず、〔キレイ〕な仕事だけしかしなくて良いからだ。
 だからこそ、僕はこの〔僧侶〕という仕事を(自分にできる範囲で)精一杯する事に決めている。

 ・・なんとも、長くまとまりのない文章になってしまったが、今回この映画を見て、改めて、自分の仕事への情熱を再確認した次第である。
 
 

《死に顔》って、恐ろしい・・?

 亡くなられた人の顔を見るって、皆さんは恐ろしいですか?
 先日、ある(ご高齢の)おじいさんが亡くなられて、《枕経》に行って来た時のこと・・。
 〔読経〕が始まる前に、おじいさんが寝かされている布団の横に、皆が集まって《死に顔》を見に、そして手を合わせに来られました。
 そこに(五才の)女の曾孫さんも来ました。
 その女の子は、しばらくその《お顔》を見ていたのですが、「もう、いい・・。あっちに行く。怖い・・」に言って、立ち上がりました。
 それを見て親戚のおばさんらしき人が、「おじいちゃんの顔をちゃんと見とこうね」と言ったのですが、「いや、怖い」と言いました。
 僕はその時「おじいちゃんは、仏様になったんやで、怖くないで」と言ったのですが、女の子はその部屋から、出て行ってしまいました。
 僕は自分でこのような事を言っておきながら、少し疑問符が頭に残りました。

 そこのお宅から帰って来た後、僕はその女の子の言った「怖い」という意味を、ずっと考え続けました。
 そして、女の子の『怖い』と言ったことは、非常に正直な意見だと思いました。
 この子は、今まで一緒に生活していた人が、まったく動かなくなってしまった事実を『怖い(恐怖)』と感じたのでしょう。
 僕は大人ですので、死者を見ても怖いとは感じませんが、自分の父の《死に顔》を思い出す時、『自分もいずれこのようになるのだ』という、なんともいえぬ恐怖があった事を思い出し、やはり死者は違う意味で『怖い』です。
 
 《死に顔》を見るという事は、『もうこの人は亡くなったのだ!』と自分を納得させ、かつ、『人は常に《死》と隣合わせに生きてるのだ!・・だから《生》を大事にするのだ!』と認識する大事な儀式だと思うのですが、やはりできるなら・・・見たくないと思う(心)があるのが本音です。僕は・・。

最近、恥ずかしかった二つの話

 今日は最近あった《二つ》の恥ずかしかった話を書きます。
 一つ目。
 僕はいつも近くの檀家さんへは自転車でお参りに行くのだが、その日は天気も良く、田んぼ道を割と大きな声で「フフフッ~~ン、フフーン・・」と〔鼻歌〕を歌いながら、走っていた。
 その時、フト、人の気配がしたので後ろを見ると、檀家の奥さんが、自転車ですぐ後ろを一緒に走っておられた。奥さんは、少し笑った顔で目を合わさず会釈をされ、僕を追い抜いて行かれた。
 僕は顔から火が出るぐらい恥ずかしかった・・。そこで一句、『気をつけよう、誰かが聴いてる、そのフフフーン』・・失礼。

 二つ目。
 今、僕の住む町で〔町議員選挙〕をやっているのだが、その《出陣式》に事務所に顔だけ出してくれ、と言われて行ってきた。
 その時、近所のおっちゃんが、時間待ちの退屈まぎれに僕に「この前、京都の寺に研修行って来たそうやなぁ。どやった試験は、うまくいったか?」と聞かれたので、僕はうかつにも「あかん、あかん、落ちた、落ちた」と言ってしまった。その時、ふと斜め前を見ると、〔立候補者〕がおられ、僕と目が合った。僕は必死で「あなたの事ではございません、ございません・・」と目で言ったが、うまく通じたか・・?。そして、〔選挙事務所〕の中の《禁句》、『落ちる、すべる、下る!』との張り紙をしっかり熟読させて頂いた。・・ホンマ、うかつやった!そこで一句、『気をつけよう、うかつな一言、オチ・スベ・クダル』・・字余り〔笑い〕。 失敬!

『気持ちが合う』瞬間!(《信仰を持つ者》と《持たない者》)

 老人ホームには、さまざまな宗教・宗派の方が居られる。
・・で、施設内で『法話会』をするに当たって気をつけている事は、一つの教え(教義・教学)に執わらず、他宗の批判をしない事。そして皆が納得できるような『道徳』に近いような救いのある話をする事。
 又、皆が仲良く生活できるような実生活に活かせるような話をする事。これ等を、いつも心に留めおいてお話している・・つもりだ。
 ・・であるから、僕の苑内でやっている『法話会』には、色々な宗教(浄土真宗・浄土宗・日蓮宗・曹洞宗・融通念仏宗・真言宗・キリスト教・天理教など)の方がお出でになる。(ある意味でエエ加減な話しか、僕はできんから、皆さんは気楽に来られるのだろう。〔笑い〕)
 これらの方々とは、《教えの違い》こそあれ、どんなお話をしていても、『ピタッ』と気持ちが合う瞬間が毎回ある。
 『ツゥ』と言えば『カァー』と解ってくださるのだ。
 そんな時、何らかの《信仰》を持つ者同士の共通認識(わからん表現ですんません)を毎回感じる。
 ・・が、がっ、である。信仰をまったく持っていない人には、(タマに『法話会』に来られるのだが、)それが無い。話が通じないのだ。
 僕もこれ以上、《何かを信じる事によって得る安らぎがある》という事をどう説明(表現)して良いか、わからなくなるのだ。
 そんな時、自分の説明できない力不足を感じつつも、信仰というものは、やはり《個人の内面のもの》なのだと思ってしまう。

 ・・僕の『法話会』は、《信仰》を持ってもらう為の会ではない。
 何らかの《心の安らぎ》を一瞬でも、感じてもらう為の会だと思っている。
 そう思いながらも、《信仰を持たない方》に対して、信仰を持つ事の大切さを『紙芝居』で感じて頂きたいと常に思っているのである。
 そんな矛盾する、おせっかいな変な自分がいるのである。

「ありがとう」って言わなくなって・・・

 先日、老人ホームで月例『法話会』が終り、後片付けをしていた時の話・・。
 ひとりの女性が来られて僕に「住職さん、最近の子供は『ありがとう』って余り言わなくなったそうやねぇ。テレビでそう言うとったで」と言われた。
 それで僕は「じゃ、何か頂いた時とか、それに変わる言葉は何なんでしょうかねぇ」と言うと・・、
 その女性は「『どうも』・・やそうや」と答えられた。
「へぇー、そうなんですか」というと、「何か、大人みたいでマセとんなぁ。ハァハァハァ」と笑って車椅子で帰って行かれた。
 これは、ただの世間話だったのかもしれんが、大事な事を言って下さったような気がする。
 やっぱり《お礼の言葉》は『どうも』や『すみません』より『ありがとう』の方が、心がこもっていて良いような気がする。
 僕は、その女性の後ろ姿に『良いことを教えてくださって、ありがとう』と言って別れた。

ちょっと、オモロかった話・・

 先日、一週間、京都に居たという話をしたが、宿泊は《西本願寺》近くの《ビジネスホテル》を利用していた。
 その時にあった、ちょっとオモロかった話。
 毎日、エレベーターを使って〔宿泊部屋〕と〔フロント〕までの移動をしていたのだが・・、
 ある朝、遅刻しそうになって、急いでエレベーターまで走って駆け込んだ。
 その時、ずっと〔待機ボタン〕を押して、僕を待ってて下さったのが、ひとりの初老の白人外国人の方であった。
 有難かったので、僕は力を込めて、「さんきゅー、べりーまっち!」と大阪弁で言った。
 そしたら、向こうは日本語で、丁寧に優しく「ドウイタシマシテ」と言われた。
 僕は思わず、「逆やんけ・・」とつぶやいたら、向こうも笑っていた。(意味がわかったかどうかは不明?)
 それだけの話なのだけど、安物のコントみたいでとても面白かった。以上

お寺は《社会の凝縮図》!?

 テロとの戦いはまだ〔国際社会〕で続いているようだが、僕のお盆参りの暑さと自分との戦いは無事に終った!(自分で言ってて意味がわからん!夏バテです・・)
 今年はお盆参りの最中、三ヶ寺のお寺の〔お盆法要〕に、《紙芝居法話》という形で『出前』させて頂いた。
 その中で、ひとつ〔心に残った〕御住職さんのお話を今回は書かせて頂く。
 こちらのお寺で、どのような《紙芝居》をさせて頂こうかと考えていたら、今回、御住職さんから〔リクエスト〕があった。
 それは、「先月、子供さんを亡くされ、落ち込んでおられる檀家さんのご両親を癒す為に、『子供を亡くしたゴータミー』という《紙芝居》をして欲しい」というものであった。
 僕の『紙芝居』に、人の心を癒す力があるかどうかはワカランが、そのお話を聴いて是非そのようにさせて戴こうと思った。
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 ・・幼い子供を亡くし、悲しみのあまり、死んだ子供を抱いたままインド中を走り回り、助けを求めるゴータミーという母親。
 おシャカ様は、ゴータミーに「お葬式を出した事のない家から『ケシの実』をもらってきたら、子を助ける方法を教えよう」と言われる。
 それを聴き、必死になって一件一件の家を訪ね『ケシの実』を求めようとするゴータミーであったが、世の中に《お葬式を出した事のない家(死別の悲しみを知らない家)》は、結局一件も無かった。・・が、ゴータミーは、それぞれの家で様々な〔別れのお話〕を聴かせてもらっている内に、誰もが経験しなければならない《真理》を悟る。そして人の思いやりや優しさにも気づくことができたというお話・・。
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 このお話を《死》をどのように受け入れるかという〔テーマ〕にしてお話させてもらった。
 ・・結果、その紙芝居を見られ、ご両親はタオルを顔に当てて号泣されていたそうだ。
 〔法座〕が終ってから、ご住職と僕は色々と話し合った。
 「あの流された涙によって、悲しみの気持ちが少し和らいだか、ハタマタ増幅させてしまったかどうかは、実際にご本人に聴いてみないとわからないが・・、本堂で話を聴かれ、号泣されている人を見るのは初めてで、不思議な感じがした」と正直に言われた。
 又、もっと不思議さを感じたのは、「号泣されているその人の横で、何もないかのように居眠りをされている人が居たという事実であった」と、言われた。
 そしてそれは、「片や戦争や貧困で悲しみ、今泣いている人がいると思えば、その一方、平和を享受して何も感じないで生きている人があるように、このお寺の本堂の中にも《社会の凝縮図》が確かに有り、それを見たような気がした」と言われた・・。
 この言葉は強烈だった!
 ご住職のおっしゃられたように、お寺であっても、人がそこに集まれば、そこに《社会の凝縮図》が間違いなくできる。
 『紙芝居』に沿ったお話を一つするにしても、単なる自己満足的・宗教観念論ではなく、今そこにある《現実の社会》に向き合う気持ちで真摯にお伝えしなければいけないと思った。
 ・・このような《御法座》とお出逢いできた事、又意義深いお話を聴かせて頂けた事、私心から喜んでおります。本当にありがとうございました。では又、来年!(来年度の宿題テーマじっくりと考えておきます・・。そのうち・・) 合掌

作りかけの《紙芝居》!

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 今年も半分以上が過ぎてしまったが、今、作りかけの《紙芝居》が6本ある。(写真参照)
 おそらく、今年中には、全部『完成』しないと思う・・。
 いつ出来上がるかは、全くわからないが、一応、未完成作品を本日紹介させていただきたいと思う。
 未完成作品№1『目蓮さまの最後』 (これは『お盆のお話』の続編である。この『お盆』の紙芝居を見て下さった方が、「・・さぞや〔目蓮〕様は、良い亡くなり方されたのでしょうねぇ」と言われたので、神通力がありながら、己の意志で非業の死を遂げた〔目蓮〕様の最後を語りたくて、作りかけている作品)
 未完成№2『お隠れになったアマテラスの神』、№3『ヤマタノオロチを倒せ!』(『古事記』三部作を作ろうと思って表紙だけ作った)
 №4『弘法大師 空海さま』、(老人ホームの方のリクエストから、作りかけている作品。高野山・四国は取材済み)
 №5『願わくば花の下にて春死なん~西行法師の一生~』(私の住んでる河南町で亡くなった《西行法師》を是非紹介したくて書きかけている作品。西行さまの長い垂れた〔眉毛〕がチャームポイント)
 №6『不思議なクマグス』(和歌山の巨人〔南方熊楠〕の一生を是非紹介したくて書きかけている作品。『お寺の出前』で和歌山の白浜に行った時、熊楠資料館を寄って、是非この方の悲しくそして、オモロイ不思議な一生の『紙芝居』を作ってみたいと思った)
 ・・今、僕の頭の中は、これらの作品をどう完成させたら良いか!で一杯である。来年度には、すべて作ってしまいたいが、〔気力〕が沸かないと筆が進まない。又、もっと時間も欲しい・・と思う。
・・が、ボチボチいく。

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