
昔々の大阪にこんな歌がありました。
『一に寺池(=寺ヶ池)、二に狭山池、三に和泉の久米田池』。
これは南大阪で、たいへん大きく、深く、そして枯れる事のない、人工池の順位を唄ったものです。
この一番に出てくるのは、現在の大阪府河内長野市にある[寺ヶ池]。‥この池、初めは小さな池でした。
それを今からお話するこの物語の主人公、[中村與次兵衛]という一人の庄屋さんが開発し、大きい池に築造したのです。
そのおかげで、今でもこの地域は水不足に悩まず、皆が安心して暮らしていけるようになりました。
それでは、その與次兵衛さんのお話をさせて頂きましょう。
はじまり、はじまりー。 
(大阪府河内長野市/寺ヶ池)
つづく
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紙芝居:『中村與次兵衛(よじべえ)と寺ヶ池(てらがいけ)』(その1)
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その6 最終回)

そして嘉永4年(1851)、福井藩は公立の[種痘所]=(ワクチン接種無料の『除痘館』)を作った。
ここの責任者となった良策の悲願はついに達成されたのである。
「もうこれで沢山の大八車に乗せられた遺体の行列を見なくて済む・・。わしは果たした。」と良策は呟いた。
この良策の仕事は、この2年先の嘉永6年(1853)までに、6595人の庶民にワクチンを接種することができたという事である。
そしてやがて江戸時代は終わり、近代国家・明治時代に移り・・。
良策は、福井で「種痘事業」が完全に根を下ろした事を見届け、その後、東京へと移住する。
そして明治13年(1880)、病いに倒れ亡くなった。
享年72才。
その死顔はワクチン事業を成し遂げた満足気な表情であったそうである・・。
それでは、この紙芝居は笠原良策の残した一つの歌で終わるとしましょう。
『たとえ我、命死ぬとも 死なましき、人は死なさぬ 道開きせん』=(たとえ自分は死んでも、死ななくても良い人は絶対死なせない。そういう道を私は開きたい。)
お墓は、福井県の大安禅寺にあります。
おしまい
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その5)

「この牛痘さえすれば、一生[疱瘡(天然痘)]にならんでええんじゃぞ!」
と、良策は福井の町中を回って宣伝し続けた。
がしかし・・.
「牛の膿(うみ)を身体に擦り込んだら、わし等の子供も牛のようにツノがはえて、牛になって死んでしまうべ!」
「あの医者はとんでもない嘘つきだべ!偽医者だ!めっちゃ医者だ!」
と、悪い噂はあっと言う間に広まり、町の人々は良策の姿を見ると石や雪などを投げて追い払った。
又、役人の武士たちも、それを見て見ぬフリをした。
そう、福井藩では、良策のワクチン接種運動は完全に空回りしたのであった。
それに、本来味方であるべき漢方の医者たちも「良策の言うことを信じてはいかんぞ!」と言いふらしたのである。
良策は自分の全財産を使って、これまで無料でこの(ワクチン)接種をしようと頑張ってきた。
が、誰もが彼を無視し、今や良策は身も心もずたずたになろうとしていたのである。
(余談になるが、大阪の緒方洪庵は『牛痘法』を嫌がる庶民に対して、お米やお菓子を手渡す事で、ワクチン接種を広めたらしい。さすがナニワのお医者様!(笑)・・商品券や宝くじなどを渡してコロナワクチンを広めようとするどっかの国とよく似ているな‥(苦笑))
がしかし、それから半年ほど経ったある日、事態が急変した。
藩のお役人から呼び出されたのである。
役人は、「笠原良策、牛痘法はすばらしい天然痘の治療法である事が他藩からのしらせで解った。これから我藩でも、この治療法を全力をあげて推進していきたいと思う。良策、お前は福井藩の先頭に立って励むよう。‥又、理解の無い町医者たちには我々が厳しく処罰するでな。わかったか良策!頼むぞ。」と、申し渡されたのであった。
良策は泣いた。
心の中では『理解が無かったのはあなたたちも同じではないか!』と叫びたかったが、皆の命を救うためと怒りをぐっと我慢した。
そして『これで天然痘から福井藩を救えるぞ!』と涙を流し続けたのであった。 つづく 次回 最終回
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その4)

良策は思った。
「先日も、緒方洪庵という医師が大坂からやって来て[牛痘]を持ち帰った。彼なら大坂の町の予防接種は大丈夫だろう。・・もうこれで、京・大坂の町は大丈夫だ。・・いよいよ次は我が故郷[福井]だ!」と。
そう、彼はまだ地元・福井の町で牛痘予防接種をしていなかったのである。
風の便りによると、どうやら福井の町でも天然痘の患者が増えているらしい・・。
「が、今は真冬だ!どうする良策!?京から福井へ行くには大雪の峠を種痘しながら、子供達を連れて行かねばならない。予防接種は大人ではなく子供達でないとダメなのだ。そんな事が果たして出来るか?・・こう考えている内にも福井に犠牲者が出ている。」と、良策は自答自問を繰り返していた。
そして、彼はやがて決断した。
「よし!子供達を連れて種痘をしながら、福井に行くぞ!」と。
嘉永2年(1850)11月19日、4人の子供と8人のその親、そして良策を合わせた総勢13人は、京都を出発した。
それは子どもの腕に種痘(ワクチン)をして出発して、途中、次の子供に植え継ぎしながら進むという7日間予定の旅だった。
旅の途中、[栃の木峠]という難所で大雪になった。
一向は雪の横なぐりに合い、子供は泣き叫び、2メートル以上の雪の中に埋まってしまった。
「もうダメか!・・」と思ったその時、
「あっあれは!」
奇跡のような二つの松明が見えた。
それは、良策達の旅の話を聞いて、身を案じた先の村の住民達が、迎えに出て来てくれていたのであった。
「助かった・・!ありがとうございました。」と良策達は手を合わせて感謝した。
こうして無事、福井の町に着いた。
「これで福井の人々を天然痘の恐怖から救う事が出来るぞ!」と、良策は喜んだ。
が、彼は甘かった。
もっと大きな試練が、次に待っていたのであった。
つづく
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その3)

良策35才。
一度京都から福井に帰った彼だったが、さらに研鑽を積むべく、再び京都に出て西洋医学を学び初めていた。
そんなある日、師匠からビックリするような話を聞いた。
「良策、天然痘に罹らなくて済む方法が見つかったぞ!ヨーロッパのジェンナーという医者が発見したんだ!」と。
・・それは[種痘(しゅとう)=[牛痘接種]という方法だった。
これは、天然痘に一度罹った牛の膿(うみ)を、人間の腕にメスで少しだけ傷つけて植え付けるという方法だった。これをすれば、死ぬまで人間は天然痘に罹らないで済む・・という方法だった。
この方法はすでに実証済みで、天然痘へのワクチンの大発見だった。
嘉永二年(1849)、40才になった良策は、数々の困難を乗り越え、師匠と共に努力して、牛痘の苗(ワクチン)を外国から(長崎経由で)手に入れた。
そして子供達へのワクチン接種に成功したのだった。
当時、この接種の難しさは、子どもの腕にメスで牛痘を植え付け、膿が吹き出るまで待ち、それを取って、別の子どもに植え継ぎしなければ効果が出ない事なのだった。・・これが少しでも遅れれば、ワクチン効果がなくなってしまう。
つまり駅伝タスキのようなスピード感が必要なのだった。
が、良策達はこれに成功した。
そして京都で150人以上の種痘を済ませ、命を救ったのである。
つづく
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その2)
・・余談ながら、そもそも[ワクチン]とは何か?!
このお話にも出てくる『牛痘(ぎゅうとう)=(牛の皮膚に天然痘に似た丘疹(きゅうしん)を作るウイルス感染症)』を意味する[ワクチニア]というラテン語から『ワクチン』と呼ばれるようになったと言われている。
そして現在、ワクチンの意味は、病原体(ウイルス)そのもの、又は病原体を構成する物質などを基に作ったものと言われている。
そのワクチンを摂取する事で、病原体に対する免疫ができ、その感染症にかかりにくくなったりすると言われているのである。(・・ちょっと長い余談でした)
・・それでは紙芝居に戻りましょう。
幸い天然痘は一年で下火になった。
そこで主人公[良策]は休みを取って、骨休みに近くの山中温泉へ行く事にした。
そこで運命を決めるような出会いをするのであった。
それは、温泉で偶然知り合った[西洋医学]の医師との出会いであった。
良策はそこで[西洋医学]が、[漢方医学]よりも遥かに進んでいる話を聞くのである。
良策は「ひょっとすると西洋医学なら、[疱瘡(ほうそう)=天然痘]を治療する事が出来るかもしれない。・・西洋医学を学んでみたい。」と思った。
そして良策は、30才で西洋医学を本格的に学ぶ為、京都の有名な医師「日野鼎哉(ひのていさい)師の元に、藩の許可を得て入門するのであった。
そこで良策は、西洋医学の知識をしっかり身に付けていった。
つづく
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その1)

この紙芝居は『ワクチン』に関するお話である。
が、現代のコロナワクチンの話では無い。
江戸時代後期の[天然痘ワクチン]のお話なのである。
それでは、決め手はワクチン!の話の始まりはじまりー。
原作[吉村昭]より
昔々、と言っても江戸時代後期。
福井藩(福井県)に、笠原良策(かさはら・りょうさく)という町医者がいた。
彼は『めっちゃ医者』と云われていた。
『めっちゃ』というのは[はちゃめちゃ]という意味ではない。
福井の方言で[あばた]を意味する。・・それは『天然痘感染症』に罹った後に出来た[吹き出物(おでき)]を意味する言葉である。
つまりこの医者は、[あばた医者]と呼ばれていたのである。
・・が、この医者に[あばた]があったからではない。
この医者は当時、一度感染したら、ひどいあばたが出来るか?又は死んでしまうか?わからないと云われた[天然痘]という病気を必死で治療しようとしたのでこう呼ばれたのである。
それでは、天然痘と戦った一人の町医者のお話を始めましょう。
笠原良策(かさはら・りょうさく)師は、福井の城下町に住む漢方の医者であった。
天保八年(1837)、良策27才。町で天然痘という感染症が流行った。
当時、この病いは恐ろしく、福井の街でも一年で千人近くが亡くなった。
又運よく治っても、顔中に[めっちゃ]こと、あばたが残り、人々はつらい思いをしなければならなかった。
今日も遺体を乗せた大八車が、たくさん火葬場まで走り抜けて行った。
特に子供たちの遺体が目立っていた。
それを見ていた医者・良策(りょうさく)は、自分は医者でありながらどうする事もできない無力さに一人打ちふさがれていた。
つづく
紙芝居:『続・白隠さま』(その4 最終回)

白隠さまの言葉にカッとなった武士は、刀を抜くと斬りかかろうとしました。
すると白隠さまは、「おぉ、腰抜け武士のくせに、少しは度胸があると見える!? さぁ、わしを斬れるものなら斬ってみよ!腰抜けサムライ!!」と言って逃げ出しました。
怒りの頂点に達した武士は、刀を振り上げ、白隠さまを追い掛けました。
そして、追い詰め刀を振り下ろそうとした次の瞬間・・、
白隠さまはくるりと武士の方を向いて、武士を指差し大声で言いました。
「カッーツ!(喝)、それが[地獄]じゃ!お主は今、地獄の中におる!」
その言葉に、「はっ」と我に返った武士は、その場に座り込み両手をついて言いました。
「いかにも・・。あっありがとうございます。
・・私は今、地獄の中に居りました。
一瞬の怒りで身を滅ぼすところでした。
・・これが地獄のありかなのですね。」
と、ポロポロポロポロ涙を流しながら、謝りました。
「そうそう、それそれ、その涙を流して感謝し謝る姿が仏の姿じゃ。
即ち、極楽にありかじゃのう。はっはっはっ。」と白隠さまは笑いながら答えました。
これが、白隠さまが生涯テーマにした『脱地獄』の教えなのでありました。おしまい
紙芝居:『続・白隠さま』(その3)
[武士と白隠さま]
ある日の事です。
彦根藩の織田信茂という名の武士が、白隠さまを訪ねて来ました。
この武士、何か悩みがあるようでした。
「白隠和尚、仏教では[地獄]と[極楽]
があると教えます。
・・では、その地獄というのはどこにあるのでしょうか?
やはり地下にあるのでしょうか?
極楽は空の上ですか?
私はそれを考えると、最近眠れないのです。
どうかお願い致します。和尚、教えて下さい!」
すろと白隠さまは・・、
「さてさて、武士ともあろう者が・・、
地獄、極楽のありかを探しているなんぞ、おぬし、武士は武士でも腰抜け武士じゃろう!?」と白隠さまは言いました。
「何?!無礼な、侮辱したな!あやまれ。たとえ和尚たりとも、容赦はせぬぞ!」と武士は刀に手を掛けると、
「ほぉー、腰抜け武士でも怒るか!?」と、白隠さま。
「えーい!もう許さん!」
つづく
紙芝居:『続・白隠さま』(その2)

「おーよしよし、わしが育ててあげようのう。」と、白隠さまは赤ん坊を背負い托鉢に出て、お乳などを貰い歩きました。
この事件で、白隠さまはすっかり信用を無くしてしまいました。
しかし、白隠さまは何の弁明もせず、赤ん坊と暮らしたのです。
「お父様、ごめんなさい。どうかお許しください。私は嘘をついておりました。
あの赤ん坊は、白隠さまのお子では無いのです。
白隠さまのお子と言えば、許してもらえると思っていました。
・・なんと私は愚かであったでしょう。
どうか白隠さまにお詫びして、赤ん坊をお返し頂けるよう頼んではいただけませんでしょうか?!お願い致します。」
と、娘は良心の呵責に耐えきれず、ついに父親に本当のことを話しました。
びっくりしたのは父親です。
「なっなんだって!私はとんでもないことをしてしまった。」
「和尚さま、申し訳ございません。私の間違えでした。
失礼の数々、どうかどうか、お許しください!」と、父親は托鉢途中の白隠さまを見つけて、娘と共に深く謝りました。
そして赤ん坊を返して貰いました。
「ああ、そうですか。それは良かった良かった。ではその子を大事に育てて下さいよ。」と言って、白隠さまはそれ以上何も言わず、去って行きました。
その姿に父親と娘は、頭をいつまでも下げて見送ったと言うことです。
おしまい
次回は『武士と白隠さま』です。つづく

