住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その4)

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「正行(まさつら)公よ、ようやった!・・ところで、わし等は明日にでも、京の都に帰れるか⁈」
「お公家の皆さま、敵はまだ何十万も居るのです。そんな楽にはいきません。おそらく次は奇襲では、通じぬ軍で来るでしょう。我らはここで今一度、お山に籠って機会待ち、おびき寄せる戦法を・・、」
「何をたわけた事いうか!今を逃して何とする。ここが我らの絶好機会。正行、すぐに出陣し、敵をやっつけ帰還せよ。そして我等を都に戻せ!」
「・・それは無理でございます。」
「何を武士の分際で!‥わし等のいう事逆らうか!」
「・・・・・わかりました。」と正行は伏し目ながらに御所を去る。
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「家来たちよ、聞いてくれ。おそらく我等は死ぬだろう。どうやら幕府は威信を掛けて、数万以上の大軍で、攻めてくること違いない。それに比べて、我らは数千。奇襲で勝てる訳がない。
 帝(みかど)は『死ぬな』と云われたが、それは当然無理な事。今まだ生きている皆の名を、この過去帖に書いておく。これをお寺に奉納し、今生別れとするとした。」
 その後正行、矢じり持ち、辞世を扉に彫りました。
 そして出陣したのです。
 その姿、そっと見つめる[弁内侍(べんないし)]=(正行の恋人か⁈)
 正行慕った初恋なれど、叶わぬ恋と涙を拭いて、去り行く姿に分かれを告げる・・。 つづく

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その3)

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細川・山名連合軍、こうとなってはどこまでも、逃げてゆくしかありません。
 が、がしかし、途中ナニワ(大阪市内)の大橋で、大軍一度に渡ろうと、橋に乗ったが大失敗。
 渡辺(わたなべ)橋は中ほどで、底が抜け落ち崩れます!
 この時季節は冬でした。
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 溺れ震えて泣く武士ら。
 こんな場面を見たならば、敵も味方もありません。
 正行(まさつら)、武士の心意気。父の教えの思いやり。
 正行、戦さをそこで止め、溺れる敵兵助けます。
 そして薬や食べ物を、手渡し静かに送ります。
 幕府の敵兵涙ため、皆手を合わせて帰ります。
 武士の情けに感謝して・・。
 この美談、さらにラストへ橋渡し。ちょこっと、おまけで続きます。 つづく

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その2)

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・・それから10年経ちました。
 今では正行(まさつら)立派な武将。
 奈良の吉野の帝(みかど)のもとへ、今日もご機嫌伺に、馬を走らせ向かいます。
 後醍醐帝はすでに亡く、新・天皇でありました。
 後村上(ごむらかみ)新天皇は言われます。
「正行よ、北の朝廷・幕府軍、この度大軍引き連れて、我等を攻めに来るようじゃ。何とかなるか、正行よ。」
「帝(みかど)、我らは少人数。されどわが父[正成(まさしげ)]の奇襲戦法取り入れば、恐れることはありません。足利(あしかが)軍勢、楠木の飛んで火にいる夏の虫!。帝、しかとごらんあれ!」
「頼むぞ楠木、出陣じゃ!」 
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(正行の故郷、千早赤阪村[建水分神社])
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「やあ、やあ!我こそは楠木正成の嫡男、楠木正行なるぞー!腕に覚えあるものは、我にその腕みせてみよー!正成の子、楠木正行もここにありー!」
 正行雄叫び響きます。
 その声聞いた敵方は「やややぁ、あそこに居るは大将ぞ!一騎でおるぞ、皆の者!」。 
 我や先にと正行を、見つけて大軍追って来た。
「しめたっ!罠にかかったぞ。鬼さんこちら、手のなる方へ!」
 正行、仕掛けのある場所へ、逃げて逃げて、逃げまくるー。
 足利幕府の精鋭部隊、細川・山名の連合軍。
 罠とも知らず大軍が、入れぬ道に突っ込んだ。誘い込まれて突っ込んだ。
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 「げっげっげっっ、しまった罠わなじゃ!林の中から敵が出た。楠木軍に囲まれた!今度は我らが逃げる番。命あっての物種じゃ、京の都へ逃げるのじゃー!」
 形勢逆転、大勝利。
 逃げるは足利幕府軍。
「追え追え、逃がしてなるものか!京の都にゃ、帰しゃせぬ。」
 正行軍は懸命に、敵を追いかけ駆けました。
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(正行激戦地、羽曳野市誉田林古戦場跡)
 つづく

紙芝居:『楠木正行(まさつら)もここにあり!』(その1)

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 昔々の室町時代・・。
 足利尊氏(あしかがたかうじ)、天下を納め、武士の幕府を開いてみたが、平和はまだまだ遠かった。
 それは天下に二人の帝(みかど)。
 朝廷二つの南北朝。
 お互い『私がホントの天皇だ!みんな私の配下におなり。』
 こんな言い合い続けたら、武士や公家ほか庶民まで、これでは日ノ本真っ二つ。
 その時、若武者現れた。「私は何があろうとも、敵が百万居ようとも、後醍醐天皇守ります。南の朝廷守ります。これは父親[正成(まさしげ)]の遺言ですから守ります。」
 そう誓ったは我らが河内(かわち)、楠木党(くすのきとう)の跡取り息子、楠木正行(まさつら)でありました。
 さあてさて、このお話は[小楠公(しょうなんこう)]こと、正行公の意地と忠義と優しさがあふれた武士道ものがたりです。それでは、はじまりはじまりー。
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 話は少しさかのぼり・・。
 湊川(みなとがわ)での戦が終わり、悲しいしらせが舞いこんだ。
 ここは南の河内の屋敷。
 楠木正成(まさしげ)、妻と子は悲しみこらえておりました。
 それは父親正成(まさしげ)の首と戦死の知らせとが、届いたからでありました。
 涙と共に正行は「父上、ご無念お察しします。私も一緒に参ります。」
 短刀抜いて、切腹しようと思ったその瞬間。
 母親それを止めました。
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 「正行よ、ここで死んではいけません。朝廷守る事こそが、お前の父から引き継いだ、大事な大事な約束じゃ。そなたがここで死んだなら、父との約束どうします⁉」
 母は涙を流しつつ、正行公に言いました。
 「・・私が愚かでありました。切腹などはもうしません。
 私はこれから学問し、剣術励んでまいります。父に劣らぬサムライに、私はきっとなりまする。」
 若き棟梁正行の新たな誓いでありました。 つづく
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(正行公を祀る四条畷神社内の母と子の銅像)

紙芝居:『神武東征記』(その6 最終回)

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(奈良県『橿原神宮』)
 そしてイワレビコの命(みこと)は、大和の国『橿原(かしはら)の宮』で、初代天皇『のちの神武(じんむ)天皇』として即位の儀式をされました。
 これが[建国の始まり](紀元前660年?)と云われています。
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 その時、神武天皇は「大きな都を開き、すべての国を一つの家のようにしようではないか!」と宣言されたそうです。
 こののち、神武天皇は(126才・あるいは127才)まで長生きされたそうです。
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 波乱の生涯を送られた伝説の初代のミコト『神武天皇』。
 今もその御一代記は『古事記』や『日本書紀』に語り継がれています。おしまい
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(おまけ[大阪府河南町・寛弘寺古墳])
 ・・少しだけ余談のおまけ話。
 神武天皇の跡継ぎ(二代目天皇)は、次男の[綏靖(すいぜい)]天皇が継がれたといわれています。
 そして長男の[神八井耳命(かむやいみみのみこと)]は、弟の天皇の(なぜか?)サポートに回られました。
 その舌を噛みそうな[神八井耳(かむやいみみ)のミコト]にはたくさんのお子様が居られたそうで、そのお一人のご子孫が[紺口県主(こんく(かんく)あがたぬし)]と云われています。(寛弘寺古墳の主ではないか?とも言われています)
 そう!その[紺口(こんく)県主]が、私のお寺のある地名である河南町[寛弘寺(かんこうじ)]の名前の由来になっているそうです。
 [こんく]、・・[こんくう]・・[かんくう]・・[かんこう]、[かんこうじ]‥・『寛弘寺』、寛弘山観念寺!バンザーイ、バンザーイ! ・・知らんけど。(笑)

紙芝居:『神武東征記』(その5)

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宿敵[ナガスネヒコ]の軍勢は、大軍で強敵でした。
 激戦は続き、どうしても勝つことができないと思ったその時、又もや不思議なことが起きました。
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 今度は空から[金色に輝くトビ]が飛んできて、イワレビコの命(みこと)の弓にとまったのです。
 そして四方を稲妻の光のように照らしました。
 これには敵軍は驚きました。
 そして敵軍皆が降参しました。(※この金色のトビにも様々な説があって、超強力な豪族が味方についてくれたとか⁈・・またナガスネヒコの身内から裏切り者が出たとか?・・諸説はさまざま)
 そしてついにイワレビコの命は、この大和(ヤマトの国)を平定することが出来たのです。
 ちなみに、この九州(日向の国)から大和の国(奈良)までのイワレビコの命(『神武天皇』)の旅の期間は、『古事記』では16年間。又『日本書紀』では6年間掛かったと記録されています。つづく(次回、最終回)
 
 

紙芝居:『神武東征記』(その4)

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兄の死に意気消沈するイワレビコの命(みこと)一行でしたが、船団は兄の遺言通りに大阪から和歌山を回り、熊野(くまの)に到着しました。
 ・・が、ここでも慣れない荒海の嵐に巻き込まれて、船を何艘か破損しました。
 そして、後二人の兄たちが行方不明になってしまいました。(※亡くなったという説と、九州に帰ったという説もある。) 
 イワレビコの命たちは絶望の中、どうにか陸に上がり前進すれど、次から次へと強敵が現れ苦戦しました。(※強敵=巨大な恐ろしいクマや女性ボス率いる豪族たちなど。)
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 へとへとになったイワレビコの命たち。「もはやここまでか・・。」と思ったその時でした。
 不思議な三本足のカラス(八咫烏[ヤタガラス])が現れて、『こちらについて来なさい!』と言うように、空から案内し始めました。(※この三本足のヤタガラスは、三部族のお助け豪族たちであったという説もある。)
 「これは天の助け!」とこうしてイワレビコの命一行は、八咫烏について安全に山道を進むことが出来ました。
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 そして和歌山から奈良(大和の国)の吉野、宇陀へと前進しました。
 又、戦さをしながらですが、味方となる豪族も増えてきました。
 そしていよいよ、兄の命を奪った[ナガスネヒコ]の軍勢と対峙する時が来たのです。つづく
 

紙芝居:『神武東征記』(その3)

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(東大阪市・日下直越道)
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(この坂をイワレビコの命軍は急いで撤退したのか⁈)
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命からがら日下の下船の地まで戻れた一行は、五瀬命(イツセのみこと)の手当てをしました。重傷でした。
 そして五瀬命は、か細い声でイワレビコの命たちに言いました。
「・・我々は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子孫。太陽の子孫だ。太陽が東から昇るのに、我らはその東に向かって兵を進めた。
・・それが誤りだった。
 これよりは船を南(現在の和歌山、三重県)に向けて、大回りして大和(奈良県)へは、東より西へ向けて攻めよ。
 ・・無念ではあるがワシはここで死ぬ。イワレビコの命よ、後は頼んだぞ。」と言って五瀬命は亡くなりました。
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(神武天皇盾津顕彰碑(現在は住宅地の中にポツンと建つ。この日はカラスが鳴いていた。・ここまで撤退し盾で味方の陣を守り、イワレビコの命は雄叫びを挙げたらしい。『太陽に吠えろ』ではなく『太陽の子は吠えろ!』) つづく

紙芝居:『神武東征記』(その2)

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イワレビコの命(みこと)一行は、ナニワ(現・東大阪)の[日下(くさか)]という所で、船団を止めました。
 そしてそこから徒歩で生駒山を越えて、大和の国(現・奈良県)へ向かおうを出発されました。
 その時です!
 突然、山の上から人影が現れて、弓矢で攻撃を仕掛けられました。
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(日下・大激戦の地[神武天皇聖蹟孔舎衙顕彰碑])
 それは大和の国に入らせまいとする地元の豪族『ナガスネヒコ』軍の待ち伏せ攻撃でした。
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 突然の攻撃に、イワレビコの命たちは身を守るのに必死です。
 その時、一本の矢が長男の兄『五瀬命(イツトセのミコト)』の肘(ひじ)に刺さりました。
 「兄上ー!・・皆の者、退却じゃー!船まで戻るのじゃー。」と血まみれの兄を背負い、イワレビコの命等全軍は総退却になったのです。
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(五瀬命碑文・厄山の碑)
※ここで、五瀬命は負傷したのか⁉・・僕はこの場所でさぞや痛かったでしょう。無念だったのでしょうと、手を合わせた。つづく

紙芝居:『神武東征記』(その1)

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昔々の大昔。
 これは『天照大御神』をご先祖に持つと言われる、初代天皇『神武(じんむ)天皇』のお話。
 このお話の主人公[神武]様の正式なお名前は【神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコのみこと)】と言います。
・・がこの紙芝居では[イワレビコ]の命(みこと)とお呼びさせて頂きます。
 このお方は『日向の国(今の宮崎県)』にお生まれになりました。
 四兄弟の末っ子ながら持って生まれた人徳があり、15才でこのミコトは皇太子となられました。
 やがて45才になられたイワレビコの命(みこと)は、皆を集めて重大な会議を開かれました。
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「兄上方、並びに重臣たちよ、我らはこれより用意を整え、東の国を目指して旅立ちたいと思う。
 我が先祖[天照大御神]は、『この国を一つにまとめなさい。そして平和で豊かなお米が実る国にしなさい。』とおっしゃられた。
 ここから東の国は、力の強い豪族たちがお互い争い合っている。
 今こそ我らが行って、一つの国にまとめ上げるのだ。
 皆の者、ついに出陣の時は来たのだ!」と、イワレビコのみことは宣言されたのでした。
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 こうして船団を作り、イワレビコのみこと一行は日向の国を出航。 
 大分、福岡を経て、瀬戸内海を東へ。
 そして順調に浪速(なにわ・今の大阪湾)の海に到着したのでした。・・が、ここからが大変でした。
 この頃の大阪湾は、現在の東大阪市(西半分)までが海になっていました。
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(現在の東大阪市日下(くさか)公園・クジラの骨が貝塚から出たらしく公園にクジラのモニュメントがある)
つづく

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